米長邦雄『われ敗れたり』
撮影:薈田純一
われ敗れたり コンピュータ棋戦のすべてを語る
著者:米長邦雄
発行:中央公論新社 2012年
永世棋聖にして、将棋連盟会長でもある米長邦雄が、
ことし一月の、ソフトウェア「ボンクラーズ」との戦いをしるした書。
「人間対コンピュータ」問題は、つまらないとおもう。
ボクはコンピュータが、唯一の友で恋人で家族である様な、人間だから。
かれらとは仲よくしたい。
文字どおり人を喰つた名のボンクラーズは、一秒に千八百万手よむ。
江戸時代から最新型まで、あらゆる戦型を解する。
米長の将棋なぞ、当人すら忘れたのに。
相矢倉戦で繊細に懸け引き、相振り飛車で機敏にうごき、横歩取りではげしく変化。
できないことはない。
著者は全盛期の自分の棋譜をしらべた。
そうやって勉強をはじめてみて感じたことは、
「なるほどなあ、この米長ってのはいい将棋を指すな」ということでした。
強い。そしてかっこいい将棋を指すんですね。
「え! ここで角を捨てる。こんな手があるのか」と驚かされる。
われながらおかしな話ですが、
この人に会ってサインしてもらいたいな、と思ったものです。
なんというナルシシズム!
あまりに人間的な。
2006年、対局料一千万円でコンピュータとの対戦の話がもちあがつたとき、
著者は連盟会長として、まづ佐藤康光棋聖(当時)に打診した。
「かたく、お断りします」と佐藤。
「まあ、そういうな。負けても恥ぢやない。所詮遊びやで。
機械相手に数時間遊びで指すだけで、一千万以上の収入になるんやで」
「米長先生、そこに正座してください」
血相をかえた佐藤がいう。
「……プロが将棋を指すのに、「遊び」ということがありますか。
先生はそんな気持ちで将棋を指していたのですか」
緻密な棋風の佐藤だが、気性は猛々しい。
しかし、ボスに正座をもとめ説教するなんて、異様な業界だ。
羽生善治にも、コンピュータ将棋について意見をたづねる。
「そうですね、もしどうしても戦わなければならないとすれば、
人間相手のすべての棋戦を缺場します。
そして一年かけコンピュータを研究し、対策をたてます」
この明瞭さ!
そうこうして、引退した旧名人が、「電王戦」に馳せ参じた。
米長がもつとも衰えを感じたのは、正座できなくなつたこと。
かつては朝九時から深夜零時まで平気だつた。
ただ当時も法事だと、十五分で痺れをきらす。
真剣勝負では、脳内物質かなにかが作用するらしい。
対局がちかづいたある日、妻に自分は勝てるかどうかきく。
「あなたは勝てません」と断言される。
全盛期のあなたと今のあなたには、決定的な違いがあるんです。
あなたはいま、若い愛人がいないはずです。
それでは勝負に勝てません。
勝負師の女房の包容力に感服……と言いたいところだが、
こちとら将棋音痴でも、本に関してはアマチュア有段者、
著者の手筋はある程度よめる。
つまり「若い愛人」の挿話は、2手△6二玉とおなじ。
奇手悪手にみせかけ、有利におもわせ、そのうちに優勢をかためる。
第一回電王戦は、113手で永世棋聖がやぶれた。
敗着は88手目。
その原因は昼休みの椿事にあつたと、敗者はのべる。
対局室をでた瞬間に女性記者に写真をとられる。
事前にもうしわたしたルールに違反して。
永世棋聖は、笑つてゆるせなかつた。
無心、平常心を、うしなつていた。
怒ったら、そのことが勝負に悪影響を与えるであろうことは
わかっていたのですが、それでも怒ってしまった。
これは私の精神的な弱さにほかならず、
また、敗着はそこにあったと思うのです。
われ敗れたり。
心のよわさゆえ。
言いかえれば、心を鍛えなおせば勝てる。
年がいくつだろうと、勝負師の言動は、油断も隙もならない。
米長は本書に、再戦希望の旨をしるす。
序盤にボンクラーズは美濃囲いを完成させるも、攻めの駒は、
飛車がおなじところを行つたり来たりで、手を浪費した。
コンピュータはリスクを嫌うし、対戦者である人間がそう仕向けた。
カウンターパンチをねらいジッと手待ちする様子をみて、
米長は大山康晴と指している気分になつた。
たしかにコンピュータの進化はめざましいが、なんのことはない、
墓場から十五世名人が蘇つただけかもしれない。
![]() | われ敗れたり―コンピュータ棋戦のすべてを語る (2012/02) 米長 邦雄 商品詳細を見る |
- 関連記事