愛ゆえに ―― セス・シュルマン『グラハム・ベル空白の12日間の謎』

十三歳のメイベル・ハバード

 

グラハム・ベル空白の12日間の謎 今明かされる電話誕生の秘話

The Telephone Gambit

Chasing Alexander Graham Bell's Secret

 

著者:セス・シュルマン (Seth Shulman)

訳者:吉田三知世

発行:日経BP社 2010年

原書発行:アメリカ 2008年

 

 

 

 

ベルが百年祭万博で展示した電話装置

 

近代科学は宗教だから、固有の神話をもつ。

アイザック・ニュートンが落下する林檎をみて、万有引力の法則を発見したとか。

科学史家によれば、ニュートンの論文にも手紙にも、

果実がおちてきたという話はまつたく含まれない。

本書の主人公アレクサンダー・グラハム・ベルもまた、神話の登場人物だ。

1876年3月10日、ボストンの屋根裏部屋で助手をよぶ。

「ワトソン君、来てくれたまえ。用事があるんだ」

彼の革新的な発明、すなわち「電話」を通じて。

だが、このかがやかしい世界初の通話がウソッパチで、

舞台裏の卑劣な陰謀を隠すためのものだとしたら?

 

 

 

 

 

グレイの假特許と、ベルのノートの図をならべて表示したもの

 

MITディブナー研究所で働いていた著者シュルマンは、

ベルの実験ノートに突飛な図をみつけた。

特許取得をあらそつたイライシャ・グレイの、

假特許出願書にある略図にそつくり。

非公開だつた書類の情報を、不正に入手したとしか思えない。

まさか、人格者として知られるベルが、

見え透いた剽窃を働くなんてありうるのか?

 

ベルの1876年の特許出願書原本

 

左の余白に、「可変抵抗」の概念が書き加えられている。

発明の核心部分が、なぜか片隅に!

歴史はおそろしい。

「王様は裸だ」とおもつて根気よく調べると、芋蔓のごとく證拠が続出する。

ベルには協力者がいた。

弁護士で実業家の、ガーディナー・グリーン・ハバード。

若き科学者ベルのしめした着想をもとに、

広大な通信ネットワークを立ち上げる野心をもつていた。

遺恨をかかえて死んだグレイの覚え書きに、こうある。

 

電話の歴史が、一切の漏れなく完全に記されることは決してないだろう。

その一部は、二、三万ページにも及ぶ宣誓供述書のなかに隠されており、

また別の一部は、頑なに口を閉ざしている数名の人間が、

良心が咎めながらも心の底に封印したままでいる。

その封印とは、幾人かの場合は死であり、

ほかの幾人かの場合は、死よりもなお頑丈な、黄金の留め金である。

 

あらゆる人間を支配するものが、ふたつある。

死と、金だ。

 

 

 

 

1877年夏、新婚旅行直前のベルとメイベル・ハバード

 

さらに愛という封印を、加えることができる。

二十六歳のスコットランド人が、裕福なハバード家を訪問したとき、

そこには十五歳の聡明な美少女、メイベルがいた。

ベルは哀れなほど、彼女に惚れてしまう。

異邦の青年が良家の娘を手にいれるには、

成功、名声、富、そのすべてが絶対に必要だ。

そして勿論、ガーディナー・ハバード、

義理の父になるかもしれぬ男の要求も、拒否できない。

さらに、メイベルは「孝行娘」だつたらしい。

「電話の発明者」であるベルは、1876年のフィラデルフィア百年祭万博に、

自分の発明品を出展することを、なぜか頑なにこばんだ。

ガーディナーが圧力をかけても、首をふらない。

しかし、うつくしき婚約者が突如泣きだし、

「あなたが万博にゆかないなら結婚しない」と脅迫するにいたり、

強情なスコットランド人は、しぶしぶフィラデルフィア行きの汽車にのる。

ああ、グラハム・ベル!

キミもまた、男だつたのだね。

 

 

 

 

1870年代の電信線

 

ではなぜ競争相手のグレイは、みすみす権利と栄誉を譲つたのか?

当時のひとびとは、電話を「科学的なオモチャ」とみなしていた。

早急に解決すべき問題は、電信線を効率的に使うこと。

雨雲の様に空を覆うケーブルを、どうにかして減らさなくては!

要するに、電話の商業的可能性をグレイは見誤つた。

科学の現実は、つねに混沌としている。

携帯電話に生活を乗つ取られる二十一世紀人を、

夢想しえた十九世紀人なんて一人もいない。

電話の発明におけるグレイの役割は、過小評価の最たるものだが、

ベルもグレイも、ドイツのフィリップ・ライスの研究に依存しているし、

バーリナーやエジソンによる送信機の改良も無視できない。

1870年代。

西部ではまだ、ジェシー・ジェイムズが健在だつた時代。

 

 

 

 

1885年ごろのメイベルとアレック・ベル

 

ベルは結婚の贈り物に、真珠をはめこんだ銀の十字架のほかに、

設立したばかりのベル・テレフォン・カンパニーのほとんどの株を、新妻にあたえた。

随分と意味深なことをするものだ。

結婚後のベルは、電話の技術的発展に寄与していない。

「自分の人生は破綻した」とまで、妻にかたつている。

それでも特許を確保するため、法廷での争いをつづけながら、

聴覚障害者の教育に、残りのながい生涯をささげた。

ベルの母エリザは、巨大な補聴器をつけないと音を聞けなかつた。

ピアノの共鳴板に補聴器をおしつける母のため、ベルはよく演奏した。

彼にとつて、電話をめぐる神話など、取るに足らぬ道草だつた。





グラハム・ベル空白の12日間の謎―今明かされる電話誕生の秘話グラハム・ベル空白の12日間の謎―今明かされる電話誕生の秘話
(2010/09/23)
セス・シュルマン

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