『竜圏からのグレートエスケープ』 第2章「黒竜王」
山手線の高架を潜った先の、副都心と呼ばれた西新宿は、歌舞伎町より無慚に朽ち果てていた。人と竜の、ときに竜同士の争いに巻き込まれ、すべての超高層ビルが倒壊していた。腐蝕し蔦が絡みついた現代建築は、退廃的な美を湛えていた。
ジュンと因幡は、瓦礫に身を寄せて暴風雨を避けながら、荒廃した土地を進んでいった。
まだ竜族との遭遇はない。重傷を負ったジュンにとって、仲間の存在は正直ありがたい。目と耳がもう一組あると、警戒しながらの戦術的移動がしやすい。
ターゲット以外との交戦は絶対避けたかった。
クサナギの使用はあと一回が限度だ。九頭竜を斃すのに霊力を使いすぎた。これ以上はジュンの身心が保たないだけでなく、嵐による付随被害も取り返しのつかない規模になる。
一撃離脱。生き残るにはこれしかない。
数頭のワイバーンが、暗雲を引き裂いて飛び交った。金切り声を地上へ響かせた。ワイバーンはもっとも飛行が速い種族であり、偵察・警戒・連絡などの役割を務める。竜族は電波が通らない竜圏において、複雑な啼声と共有される記憶により、高度な移動情報通信システムを構築していた。
雲翳を見上げながらジュンが言った。
「あと十五分が限度だな。包囲される前に逃げるぞ」
因幡が言った。「赤竜まで来たら厄介ですね」
「黒竜の縄張りのど真ん中だから、それはない。いま襲ってくるとしたら人間の奴隷だろう。注意しろ」
「あの盗賊団が裏切るかもしれませんよ」
前行する因幡の広い背中をジュンは眺めた。盗賊を作戦に引き入れるのに彼は猛反対していた。
「ああ見えてホムラは筋を通すタイプだ。利益も与えてある。心配いらねえよ」
「だといいのですが」
足許に流れる雨水にジュンは指を浸した。コールタールの様に黒ずみ、粘りついた。鼻が曲がりそうな臭気も漂った。
ジュンが囁いた。「近いな」
因幡は無言で頷いた。楽天イーグルスの臙脂色のキャップの下の、端正な顔が引き攣っている。
いまから対峙するのは、大地を支配する黒竜族の長だった。人類はまだ、族長クラスの竜を斃した経験がない。終わってみれば、黒竜王が飲み込んだ膨大な血の量が、また一滴増えるだけの結末に至るかもしれない。
賭博なら、二人はそっちにベットするだろう。
コンクリートの砕片が崩れないよう慎重に、ジュンと因幡は斜面を登った。都庁前の半円形の広場に出た。午後二時なのに空は暗澹としており、視界は不鮮明だった。ナイトビジョンを用意すべきだったとジュンは後悔した。前方に倒れた二百四十三メートルの都庁舎が、広場を占拠していた。
「おかしい」ジュンがつぶやいた。「黒竜王はこの辺りにいるはずなのに」
轟々という音が響いた。
ジュンはぎょっとして飛び跳ねた。三年に及ぶ軍歴で、その音が何を意味するか知っていた。
巨竜の寝息だ。
P90を瞬時にクサナギに持ち替えた。近辺で寝ているであろう黒竜王を探した。
ジュンが叫んだ。「クソッ!」
見誤っていた。広場に横たわっていた物体は、倒壊した都庁舎ではなく、眠っている黒竜王だった。
これほど巨大とは。
三年前、ジュンは黒竜王を間近に見たことがあった。あれからさらに肥大化していた。
ジュンは戦慄した。武者震いだった。
ついに辿り着いたぜ。
お父さんとお母さんの仇の居場所に。
黒竜王の尾の方から、人間の女の声がした。
「待ちなさい! 私たちが相手になるわ」
飛鳥時代みたいな黄色の衣装を着た五人の女が、横坑から現れた。プリーツスカート風の裳を穿き、鉄矛を持っていた。
ジュンは納刀しつつ、舌打ちした。
心配した通りだ。竜から解放されて歓喜すべき立場の人間が、得てして歯向かってきやがる。
女たちは黒竜王の妻だ。聞かないでも解る。戦前は政府が籤引きで人身御供を差し出したし、戦中はブラックマーケットで多くの女が売られてきた。竜族がいかなる審美眼に基づいて人間の妻を選ぶのかは謎だが、五人とも王の側女にふさわしい器量を備えていた。
ライフルに矛で対抗するデタラメさは、女たちが衣装だけでなく世界観まで古代風に染まった証拠だ。インカ帝国を征服するときのスペイン人の心境を、ジュンは理解した。
文明を信じない敵が、いちばん厄介だと。
おいそれと人間に手は出せない。竜圏は少なくとも名目上、日本の法律が適用される領土だ。無法地帯ではない。下手を打てば、政治的にこっちの首が飛ぶ。
長い黒髪を後ろで束ねた女が言った。
「竜王様への乱暴は許さない」
「ええっと」ジュンが言った。「特殊生物被害者保護法にもとづき、皆さんを竜圏外へ送還します。こちらの因幡衛士長の指示に従い、速やかに退去してください。従わない場合は敵性勢力と見做され……」
「竜王様は重い病に罹ってるの。おそらく寿命なの。お願いだからそっとしておいてあげて」
ジュンは振り返って黒竜王の寝顔を見た。健康かどうか診断できない。ジュンが精通してるのは竜の殺し方だ。
ジュンは怒りを篭めて女を睨んだ。
この女たちの言動は想定内だ。ストックホルム症候群だ。人質が誘拐犯に愛着を示すというあれだ。珍しくもない。
あたしはただ、邪魔されたくないだけだ。
ジュンが因幡に言った。
「こいつらを武装解除して追っ払え。抵抗したら撃っていい。あたしはサクヤが来る前にケリをつける」
因幡が言った。「了解」
サクヤとは、禁衛府次長の清原サクヤのことだ。中学以来の親友としてジュンを補佐するだけでなく、独走しがちな相棒の手綱を締めるお目付役でもあった。
五人の女は、近づく因幡に穂先を向けた。皆へっぴり腰で、アサルトライフルを装備した衛士の敵ではない。
それでも彼女らは、徹底抗戦の意志を示していた。
長髪の女がジュンに言った。
「聞いて。あなたは竜王様の御心を知らないだけなの」
「なめんな」ジュンが言った。「あたしはこのトカゲ野郎をようく知ってる。最低最悪の人食いモンスターだ」
「竜王様は本当は平和を望んでおられる」
「うるせえ、ビッチ。寝言は地底界に帰ってから言え」
「人と竜は解り合える。種族の違いは問題じゃないの」
因幡は固唾を呑んだ。背後にいるジュンが、女を真っ二つにする衝動に駆られるのを気配で察した。人間の殺害は物議を醸す。ジュンの統率力や戦術眼を尊敬しているが、若さゆえの軽率さを感じるときもあった。
あえて因幡はSCARを捨てた。釣られて女の一人が、やあっと無意味な叫びを上げて矛を突いてきた。因幡は右に動いて躱し、女の腕を取って転がした。もう一人に足払いした。ジュンと口論していた長髪の女の側頭部に、拾った矛の柄を叩き込んだ。残る二人は戦意喪失し、矛を放棄した。
鮮やかな手際に感心し、ジュンは鼻を鳴らした。
高校時代まで野球選手だった因幡は、百八十四センチと長身だ。肩を壊して引退する前は、プロから声が掛かるほどの剛速球投手だったらしい。男なので霊力を使えないが、単純に近接格闘の技倆であればジュンを凌いでいた。
ジュンと因幡はアイコンタクトした。
決着をつける時だ。
左手をクサナギの鞘に添え、ひとりでジュンは一歩また一歩と、黒竜王の頭部へ近づいた。心臓が高鳴っていた。
お父さん、お母さん。
見ててね、今からあたしがすることを。
黒竜王の瞼が持ち上がった。濁った目でジュンを見下ろした。
努めて平静な口調で、ジュンが言った。
「よう、久しぶり。あたしを覚えてるかい。それとも人間なんて餌だから、気にも留めないかな」
竜族は人間の言語を解する。発声はできないが、人間の精神に直接言葉を送り込むことができた。
「覚えているとも」黒竜王が言った。「我々の記憶は失われることがない。そしてその記憶は竜同士で共有される」
「あたしも竜だったら赤点取らずに済むのにな」
「暁ジュン、お前は両親の仇を取りに来たのか」
「たりめえだろ。そのためにあたしは生きてきた。地獄の様な戦場を潜り抜けて」
「どれだけ竜を殺した。どれだけ人間の被害者が出た」
「あたしに説教すんな、トカゲ野郎。命乞いをしたけりゃ聞いてやる。まあその後で瞬殺するけどな」
「哀れな。憎しみに囚われた娘よ」
ジュンはクサナギを鞘走らせた。しかしバチバチと火花が散る音がして、刀は固まった。手許を見ると、鍔のところに電光の鎖が巻きついていた。
霊力によってクサナギが封じられた。誰がやったのかは解っている。その権限を持つ人間は一人しかいない。
暗がりを見回しながらジュンが叫んだ。
「サクヤッ! 霊鎖を解けッ!」
死角から、禁衛府次長の清原サクヤが現れた。澄まし顔で刀の間合いに立っていた。抜けない以上斬られる恐れはない。
迷彩戦闘服を着たサクヤは、ジュンの中学時代の同級生だ。人目を引く容貌の持ち主だった。美少女というだけでなく、生まれつき唇と頬が真っ赤だった。あまりに唇が赤く、まるで生肉に食らいついた後みたいに見えるので、コンシーラーでごまかさねばならないくらいだ。
憮然と腕組みして、サクヤがジュンに言った。
「あなたはひどい人ね。私に前線の指揮を任せおいて、自分は秘密作戦をこっそり実行してたなんて」
「なぜ邪魔する。あと一太刀で黒竜王を葬れるんだ」
「作戦中止命令が出たからよ。首相直々の」
「ふざけんな!」
「ふざけてるのはあなたでしょ。霊剣の使用は一日一回までと決められてるのに、もう四回も使った」
「九頭竜を斃せたんだから価値ある勝利だ」
「犠牲が大きすぎる。霊力バランスが崩れたことによる異常気象で、関東地方のほとんどのダムが決壊した。どれほど被害が生じたのか見当もつかない。実質的に敗北よ」
「国民は理解してくれる」
「あらそう。弁明は軍法会議でするといいわ」
サクヤの真っ赤な唇が歪んだ。ナンバーツーである彼女には、長官を告発する法的権利がある。
ジュンは剣帯に差していた、鉈の様な戦闘用ナイフを振るった。サクヤは目を丸くして、自分の左頬を触った。華奢な指がべっとりと血で濡れていた。
「信じられない」サクヤが言った。「自分が何をしたのか解ってるの」
「霊鎖を解け。三度めは言わない」
「あなたは親友の顔を切ったのよ」
「それがどうした」
「狂ってる。あなたの辛い経験は知ってるわ。でも禁衛府を率いる責任の方が重いでしょう」
ジュンは苦しげに俯いた。明るく快闊な性格だが、ときおり陰鬱な表情を見せることがあった。醜い火傷が残る己の右腕を見つめていた。
ぼそぼそとジュンがつぶやいた。
「三年前、あたしは京王プラザホテルのレストランにいた。両親の結婚記念日を祝っていた。黒竜王が現れて新宿を壊滅させた。お母さんはあたしを庇って死んだ」
「家族を失ったのはあなただけじゃないわ」
「着飾ってキレイにお化粧したお母さんは、黒焦げになった。翌朝救助されるまで、あたしは瓦礫の下で一晩中、お母さんの焼け爛れた肉の臭いを嗅いでいた。一分一秒だってあの日を忘れたことはない」
「…………」
「たとえ世界が滅んでも、あたしは黒竜王を斬る」
闇の中でジュンの瞳が燃えていた。サクヤはこの幼馴染が、実は竜より恐ろしいモンスターだったのではないかと、考えを改めていた。本能的な恐怖に震えながら。
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