『竜圏からのグレートエスケープ』 第1章「竜に咬まれた少女」
歌舞伎町、かつて不夜城と称された歓楽街は、いまや一望の廃墟だった。ビルの残骸からなるチャコールグレーの丘陵を、とめどなく雨水が流れ落ちた。鉄骨の枝に吹きつける烈風が、ガラスの破片の落葉を舞わせた。
黒い蛇に似た極大の何かが、道路を塞いでいた。竜の九本の首だった。切断されてもなお痙攣していた。
汚泥を掻き分け、セーラー服の少女が巨竜の屍骸の下から這い出た。白い制服は血と泥に染まっていた。竜に咬まれた左腕から夥しく出血していた。
彼女の名は暁ジュン。高校三年生だ。童顔を苦痛に歪めつつ、濁水の中を匍匐した。発達した犬歯のせいで、手負いのネコ科の猛獣みたく見える。腰のベルトに日本刀を帯びていた。
ヒトの何倍もの大きさの黒竜がジュンを見つけ、上空から襲いかかった。ジュンは乗り捨てられたトラックの下へ逃げた。黒竜は爪で引っ掻くが届かない。長い首を突っ込み、車体を軽々とひっくり返した。
黒竜は報復に燃えていた。ボスである九頭竜を、ジュンに斬り殺されたばかりだった。
四年前、東京は竜族によって占領された。
東京湾から竜の大群が、都心部へ上陸した。世界各地で同様の事態が発生し、甚大な被害をもたらした。散発的な戦闘と交渉の月日を経て、人類は武力をもって竜を排除すると決意した。当然の権利の行使だった。人竜戦争のはじまりだ。そして彼らは思い知った。竜という想像上の生物が、想像以上の力を持っていることを。人類は保有する戦力のすべて、具体的に言うと核兵器などを使用した。結果は絶望的だった。
それでもまだ、彼らは諦めてない。
歌舞伎町に横たわる屍骸は、西部戦線で猛威を奮った九頭竜のものだ。ワンサイドゲームばかりのシーズンにおいて、溜飲を下げる得点だった。
ズダダダッと銃声が轟いた。
楽天イーグルスの臙脂色の帽子をかぶった青年が、アサルトライフルのSCARを黒竜に対し発砲した。防水のフリースジャケットを着ており、長身で顔立ちは精悍だ。この二十二歳の因幡八代は、ジュンとコンビを組んで行動していた。
ジュンに食らいつきかけた黒竜が飛び退いた。翼に被弾したので飛行が安定しない。ビルの外壁にぶつかり、そこにしがみついた。
駆けつけた因幡が、ジュンのそばに膝をついた。青褪めたジュンの呼吸や心拍を確かめた。豪雨が降り注ぐ路面に、血溜まりができた。止血を急がねばならない。
ジュンは竜に捧げられた生贄のひとりだった。全面戦争が三年間繰り広げられる一方で、人竜間にはブラックマーケットが存在し、人身売買などの違法取引が横行していた。ジュンは生贄に紛れ込み、竜族の支配地域へ潜入した。セーラー服を着たのは、竜族は人間の処女を好むゆえ高値がつくからだ。
黒竜が外壁から降り立った。牙を剥き出しにして吠えた。因幡はしゃがんだまま縮み上がった。ジュンの救出という使命がなければ、尻尾を巻いて逃げるところだ。
因幡は脛でジュンの左腕を圧迫し、上腕動脈からの出血を抑えた。同時にSCARを連射した。黒竜は七・六二ミリ弾を厭いながらも、接近を止めない。因幡はすばやく弾倉を交換し、ひたすら撃ち続けた。
ギエェーッ!
眼球に銃弾を受け、黒竜が飛び去った。
因幡は射撃を止めた。SCARをスリングで提げ、ジュンを瓦礫の陰へ運んだ。止血帯を腕に通し、棒で巻き上げた。因幡は軍事組織である禁衛府の、下士官にあたる衛士長に任じられていた。救命の経験は、するのもされるのも豊富だった。
禁衛府のタスクフォースは今回の秘密作戦で、人身売買に携わる業者にカムフラージュした。そして不意打ちにより九頭竜を斃す大戦果を上げた。付近の残敵も掃討した。竜族は分厚い鱗と霊力で守られるが、使いっぱしりの小竜程度なら、ライフル弾などの通常兵器でも防禦を貫通できる。
運さえ良ければ。
静かに横たわるジュンに、因幡が言った。
「具合はどうですか」
ジュンが言った。「頭がぼんやりする」
「じきに後続部隊が到着します。そうしたら輸液しましょう」
雨は弱まる気配がない。人の手で管理されてない街路は排水機能が働かず、脛が浸かるほど冠水していた。
ジュンは雑居ビル一階のコンビニエンスストアで、看護師資格を持つメディックの治療を受けていた。乳酸リンゲル液の入った輸液バッグが右手の甲に繋がっている。咬創のある左腕はガーゼ包帯が巻かれていた。
ジュンの右腕は、指先まで赤黒く爛れていた。三年前に負った火傷の跡だった。皮膚移植手術を受けることもできたが、ジュンは拒否した。リハビリにかかる時間を、竜族に対する戦闘訓練に当てたかったからだ。
店内は浸水しているので、陳列棚を倒してその上に担架を置き、即席のベッドにした。自分のバックパックを枕にして角度をつけ、ジュンはタスクフォースの仕事ぶりを観察していた。
十八歳の暁ジュンは、禁衛府の長官を務めていた。事務方を含めて九千人を擁する組織の長だ。たしかに若すぎるが、上官がほぼ全員戦死したので抜擢された。もはや人竜戦争において、ジュンに指図できる人間は残っていない。
軍民混成部隊が、路上に停まるトレーラーに荷物を積み込んでいた。禁衛府の衛士は、生贄の少女十数名をコンテナへ誘導した。可憐な少女らは解放されて安堵するより、人と竜の戦闘の凄惨さに怯えていた。盗賊は黒光りする石を、積載量の限界まで載せた。霊力が篭もるこの竜鉱石が、彼らの報酬だ。
衛士と盗賊が口論を始めた。五人の盗賊が持ち場を離れ、ぞろぞろと廃ビルの方へ向かった。因幡たち衛士はSCARを構えて戻るよう命令するが、聞く耳を持たない。
コンテナから、生贄の少女らの甲高い悲鳴が聞こえた。スキンヘッドの盗賊が、卵型の手榴弾を握る右手を持ち上げている。ピンを抜いて起爆できる様にし、少女らを人質に取った。
ジュンは寝ながら親指の爪を噛んだ。
盗賊どもの魂胆は見え透いている。どこかに金目のものを見つけたのだろう。敵地である新宿からは早急に離脱すべきだが、連中は欲を掻いて勝手に行動しだした。
ジュンは救急キットに手を伸ばし、錠剤を頬張った。噛み砕いて飲み込んだ。いわゆる覚醒剤のアンフェタミンだ。激痛と疲労を解消するためには頼らざるを得ない。
輸液バッグのチューブを抜き、寝心地最悪のベッドから水浸しの床へ降りた。履いてるのは学校指定のローファーなので、とっくに黒のソックスまでびしょ濡れだった。傍らに置いていたクサナギを腰の剣帯に差した。この霊剣こそが、竜鉱石を鍛造して仕上げた決戦兵器だ。
あっと驚いたメディックによる制止を黙殺し、ジュンは通りへ出た。激しい風雨に打たれ、前髪が額に貼りついた。
盗賊を追って新宿東宝ビルへ、水溜りをばしゃばしゃと進んだ。元はシネマコンプレックスやホテルが入居する大型施設だった。風俗店の看板を通り過ぎた。壊滅する前の歌舞伎町は、広範な欲望を飲み込むユニークな空間だった。
泥濘に足を取られ、ジュンは手をついた。輸液したとはいえ、踏ん張りが利かない。呼吸も不安定だ。
背中に提げていたサブマシンガンのP90を持った。トリガーの下のセレクターをフルオートに合わせた。貫通力の高い特殊な弾薬を、拳銃のファイブセブンと共用できる優れた銃だ。ただしジュンが選んだのはアニメの影響だが。
動かないエスカレーターを歩いて上り、シネコンの内部へ入った。異臭が鼻腔を刺激した。ロビーには一面、竜の卵が並んでいた。孵化して卵殻を破った子竜もいる。深いエメラルド色の鱗を持つ緑竜だ。ロビーは産卵と孵化のための施設として使われていた。絨毯敷きの床を覆う粘液が、ローファーの底にこびりついた。
ロビーには盗賊が七人いた。大きな卵を両脇に抱え、持ち出そうとしていた。ブラックマーケットで売り捌くつもりだ。よちよち歩きの子竜が同胞を救おうと咬みつくが、盗賊に蹴り飛ばされた。泡を吹いて気絶した。
紫のタンクトップを着た女盗賊のホムラが、略奪を仕切っていた。この盗賊団では古株で、額に傷跡があった。
「ホムラ」ジュンが言った。「卵と子供には手を出すな」
「これはめっけもんだよ。緑竜の卵は竜鉱石より高く売れる。たまらなく美味なのさ。あんた食べたことあるかい?」
「聞いてるのか。あたしは卵を盗むのを許可してない。時間的にも限界だ」
ホムラはジュンに詰め寄った。豊満な胸を誇示するかの様に反り返った。
「いいや、聞こえないね。ウチらは盗賊だ。お宝を見つけたのに放置なんて、できるもんか」
「まだ生まれてすらない竜に罪はない」
「おやおや。ドラゴンスレイヤー様の御意見とは思えないね。竜は竜だろう。成長すれば人間を襲うんだ」
「緑竜はおとなしい種族だ。こちらから仕掛けないかぎり害はない」
ホムラは首を横に振った。竜退治のエキスパートと議論する愚を悟った。卵を抱えたまま、包帯を巻いたジュンの肩にわざとぶつかり、ロビーから出ようとした。
カシャッ。
ジュンはP90のコッキングハンドルを引いた。無言でホムラの脊髄に照準を合わせた。
ひゅうと短く口笛を吹き、ホムラが振り返って言った。
「ウチを撃とうってのかい。竜圏の外にいる仲間が黙ってないよ。禁衛府が盗賊と組んでると知れたら、世間は大騒ぎだね」
「卵を元に戻せ」
「もともとあんたは恨まれてるんだ。霊力を使いすぎるせいで洪水が起きて、市民が何万人と死んでいる。竜に殺された人数より多いじゃないか」
ジュンは銃口を下げた。首を回してボキボキと鳴らした。
「竜鉱石をやる」
「なんだい」
「折半する約束だったが、全部くれてやるよ」
破顔一笑したホムラは、八歳年下のジュンの肩を抱いた。
「さすがは長官閣下! 話がわかるねえ」
「うるせーな」
「他の軍人連中と違って、あんたのそういう融通の利くところ、ウチは好きさね」
ホムラはふくよかな胸を押しつけ、ジュンの頬にキスした。
シネコンから出ると、トレーラーの荷積み作業は終わっていた。天候はさらに悪化し、大型台風が直撃した様な暴風雨となっていた。交通標識のポールにつかまらないと、ジュンは立つのもままならない。
野球帽をかぶった因幡が敬礼し、ジュンに言った。
「帰投の準備は完了です。手榴弾を使った不逞の輩も処理しました」
「え、殺したの?」
「穏便に話をつけました」
「ふうん」
ジュンはコンテナを一瞥した。スキンヘッドの盗賊が中で座っていた。腫れ上がった顔は、原型を留めてなかった。
「長官は」因幡が言った。「計画通り、単独で黒竜王の討伐に向かうのですか」
「ヤツとは知らない仲じゃないんでね。ここまで来て挨拶せずに帰るのは不義理ってもんだろ」
「自分もお供します」
「却下だ。何度も言わせんな」
突風が吹き、標識のポールが根本から折れた。因幡が突進し、ふらつくジュンを押し倒した。
ドーンッ!
凄まじい騒音がし、地面が揺れた。
路上に黒い物体が出現していた。怪獣映画のゴジラの頭部だ。東宝ビル八階に飾られていたオブジェが落下した。もしあそこにいたらと思うと、ジュンの背筋は寒くなった。
覆いかぶさる因幡の顔を見上げ、ジュンが言った。
「ありがとう」
「長官には何度も助けていただきました。これくらいお安い御用です」
至近距離で囁かれ、ジュンは紅潮した。ほころぶ口許を手で隠した。まるでプリンセスに仕えるナイトではないか。
息がかかるほど近くで、因幡が言った。
「長官、お願いします。お供させてください」
「いいから帰還しろ。これは命令だ。黒竜王と刺し違えるのは、あくまであたし個人のミッションだ。巻き込みたくない」
「その命令には従えません」
「頑固だな。霊剣遣いならともかく、お前なんかいても役に立たない。死体が二つになるだけだ」
「そんなことはさせません。長官は自分がお護りします」
雷光が因幡の顔を照らした。落ち着き払った表情は、決意の固さを感じさせた。
人竜戦争において今のところ最大の会戦である「スカイツリーの戦い」で、ジュンは因幡の命を救った。それ以来彼は忠節を尽くしていた。
情熱的に口説かれ、ジュンの心は動いた。そもそも因幡を直属の部下に選んだのは、訓練の成績が良かったからだが、顔写真がイケメンだったのが大きい。
ガシャンと、ガラスの割れる音が響いた。盗賊たちがコンテナ内部で宴会を始めていた。なにせ飲み屋の多い地区なので美酒には困らない。スキンヘッドの男が生贄の少女にちょっかいを出し、怖がらせていた。
立ち上がって大きく息を吐き、ジュンが言った。
「やっぱり因幡が帰投を指揮しろ」
「しかし」
「衛士が三人だけでは盗賊を抑えられない。女の子に被害を出したくないんだ。頼むよ」
「わかりました。長官もどうか無理をなさらずに」
「大丈夫。そう簡単にあたしは死なない」
因幡は足早にトレーラーへ向かった。
にやにやと笑みを浮かべ、ホムラが背後から近づいた。ウィスキーの瓶をラッパ飲みしていた。
ジュンの耳許で、ホムラが言った。
「ハンサムな男じゃないか。あんたのいい人かい」
ジュンが言った。「そんなんじゃねーよ」
血相を変えて振り返り、因幡が叫んだ。
「そこの盗賊! 我ら軍人を侮辱するか!」
「なんだよ。おっかないね」
「貴様らなどには解らぬだろうが、自分は断じて、よこしまな思いで長官に仕えているのではない!」
吹き出すのを堪えながら、ホムラがジュンに囁いた。
「あんたも苦労が多いねえ」
「ほっとけ」
「あれじゃあ脈はないな。ウチがもらっても構わないかい」
「アラサー女が何言ってんだ」
「二十六歳はアラサーじゃないさ」
「四捨五入したら三十だろ」
「正しくは『二十代半ば』って言うんだよ。それはともかく長官閣下、御武運を!」
おどけて敬礼し、ホムラはコンテナへ乗り込んだ。因幡の隣に座り、ウィスキーのマッカランを勧めた。因幡は不機嫌そうに瓶をあおった。
ホムラは自分の髪や上半身をタオルで拭いた。いくらか乾いた髪をカチューシャで止めた。額に走る傷が露わになっていた。前髪で隠せるのに、気にならない様子だ。
聞いた話では、ホムラは風俗店で働いていたとき、頭のおかしい客に傷をつけられたらしい。それから盗賊稼業に転向したと言うが、本当かどうかは解らない。とにかく自由奔放に生きる女だった。下品な冗談で荒くれ者たちを笑わせ、すぐに輪の中心となっていた。
ジュンの胸の奥がきりきりと疼いた。我慢できなくなって叫んだ。
「因幡、ついて来い!」
「はッ」
因幡はSCARを持ち、コンテナから飛び降りた。目を輝かせ、ゴジラ像のそばに立つジュンに駆け寄った。
過積載ぎみのトレーラーが発進した。コンテナの扉が閉まるとき、ホムラがウィンクするのが見えた。
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