戦国期の領国経営と交通

作者:Jmho

 

 

織田信長の戦争指導で感心するのが、1570年の姉川の戦いだ。

5月24日、信長は3万の兵を率いて京を出立し、越前の朝倉義景領に侵攻。

しかし北近江の浅井長政に裏切られ、あわてて逃げ出す。

琵琶湖をぐるっとまわり、鈴鹿山脈をこえ、命からがら岐阜城へたどりつく。

このとき6月12日。

 

ここからが速い。

再軍備をすませた信長は、7月21日に浅井・朝倉連合軍の征伐にむかう。

大混乱のなかで、どうやって物資を確保したんだろうと思うし、

同盟軍(実質的には家臣?)である徳川氏との連携もみごとだ。

 

むしろ浅井軍の方が補給で苦しんでいる。

積雪で補給線が途絶える朝倉軍も、冬になると越前に帰還する。

なので僕は、織田軍の継戦能力が高い理由を知りたかった。

 

 

 

 

小和田哲男『東海の戦国史』(ミネルヴァ書房)を読んでたら、気になる記述があった。

今川義元の領国経営のスタイルは相当進んでたと言うのだ。

先進的な法を整備し、駿河・遠江・三河の3か国にわたって、

効率よく税と兵を徴募するシステムを構築した。

今川氏と対峙した信長は影響をうけたろう。

 

また今川氏は、宿駅ごとに馬を乗り換える伝馬制度を早くに導入した。

信長の交通インフラ整備も、特筆すべきものがあるらしい。

戦国期は防衛的観点から、狭く曲がりくねったままにすべき道を、

6.5メートルに拡げ、松並木や側溝までつくらせた。

 

そもそも織田弾正忠家は、水上交通で栄えた家だった。

信長の父・信秀は、木曽川と伊勢湾の結節点である津島湊で経済力をつけ、

本家である守護代家を凌駕していった。

 

 

柴裕之『清須会議』(戎光祥出版)

 

 

その木曽川が、織田家に災いをなす。

 

1582年の本能寺の変で、信長と長男信忠が死ぬ。

後継者や領地再分配について話し合うため同年開かれたのが、「清州会議」だ。

明智光秀を斃した羽柴秀吉が、会議をリードする。

山城・丹波・河内東部を手に入れ、ぐんと勢力を拡大。

 

信長の次男・信雄は尾張を、三男・信孝は美濃をあたえられる。

政権中枢から外されたが、織田家ゆかりの地を得て結構満足したらしい。

 

ところが、尾張と美濃のあいだで国境問題が発生。

当時の木曽川は氾濫により、たびたび流路を変えていた。

信雄は伝統的な国境線を、信孝はあたらしい流路による国境線を主張。

自分たちの家が乗っ取られようとしてるのに兄弟ゲンカとは間抜けだが、

あんのじょう対立につけこまれ、織田家は真っ二つに割れて弱体化してゆく。

 

たかが川一本が、歴史をうごかすのがおもしろい。







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