『殲滅のシンデレラ』 第2章「ネイル」


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 ハチ公前の高架下を抜け、アヤは渋谷一丁目にある東京商工会議所の支部をおとづれる。古い建物で、外壁のタイルは薄汚れている。

 受付で受験票をわたし、簿記一級の合格証書の交付をもとめた。

 待たされるアヤは、アニエスベーの腕時計をみる。

 友人たちは異口同音に、スマホがあれば腕時計はいらないと主張する。理解できない。そんなだから時間を守れないのではないか。

 五分以上過ぎた。ただ書類を発行するだけなのに、遅すぎる。

 フロアの奥に声をかけようとしたとき、受験票をうけとった女が別室からあらわれる。女はカウンターにもどって椅子に座る。

 A4くらいの紙一枚をもっている。あれが合格証書だろうか。

 三十歳前後の女は、立っているアヤを見上げる。やや太りぎみで丸顔だ。アヤと目を合わせない。手が震えている。

 女は合格証書を縦に引き裂く。

 アヤが叫ぶ。「あっ」

 さらに縦に横に破られ、アヤの一年間の努力の結晶は、瞬く間に紙屑となって散った。

「なにするんですか!?」

 手前のデスクに突っ伏し、女が叫ぶ。

「ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」

 アヤはフロアを見回す。このパッとしない丸顔女が単独犯のはずない。

 斜め後ろから、紫のスーツを着た男がちかづく。シャツの色は黒だ。

 羽多野昇一。国会議員であるアヤの父の後援者だ。まだ二十四歳と若い。身長はアヤとほとんど変わらず小柄だが、頬髯をはやした精悍な顔立ち。客観的にみて美男子に分類できる。

 想像するに、自分に惚れている丸顔女を利用し、アヤにイタズラをしかけたのだろう。

 羽多野は、ミュージシャンのプリンスにすこし似ている。アヤは一九八〇年代に活躍したプリンスの世代ではないが、図書館で借りた洋楽名盤ガイドブックで知識を得ていた。入門書で勉強するのが好きなタチなのだ。

 腕組みしたアヤが、羽多野に言う。

「あいかわらず悪趣味な服ですね」

「随分な挨拶だな」

「こっちのセリフです。合格証書は羽多野さんがもってるんですか」

「正解」

 羽多野はジャケットの内側から、水色の封筒をだす。ジャケットの裏地のペイズリー柄が気持ち悪い。封筒は半分に折られている。

 ふざけるな。

 なに勝手に折ってんだよ。

 アヤは右ストレートをくりだす衝動を、寸前でこらえる。ユウキだったら確実にこの場でノックアウトしていた。

 羽多野は、折り曲げた封筒を元に戻す。皺を指でなぞりつつ、アヤの表情をうかがう。

 弄んでいる。

 羽多野が言う。「メールの返事をまだもらってない。店を予約したのに」

「このあと返信するつもりでした」

「よく言う。いつも速攻で返信するくせに。おそろしく事務的な二三行のメールを」

「結果を教えてくれたのは感謝してます」

「で、合格祝いはどうする?」

「お気持ちはうれしいですが、いきなり今日これからと言うのは……。両親と相談して日程を調整するってことでどうでしょう」

「ははっ。さすがは三代つづく政治家の家系だ。決して言質をとらせずに、人をこきつかう」

 アヤは自分の細い腕に爪を立てる。

「私からお願いしたわけじゃありません」

「まあね」

「はやく返してください。大声出しますよ」

「それは困る。三十億円の商談をまとめたばかりだ。水素自動車の開発に携わっててね」

「はやく」

「下水汚泥から水素をとりだす事業を、俺が仕切ってるのさ。有望なビジネスなんだ」

「調子にのるなよ、チンピラ」

 アヤは殺気をこめて言った。

 その低い声は、静かなフロアでも拡散しない。行き交う人々はふたりに気を留めない。ロビーに置かれたモニターは、全国の天気予報を表示している。

 羽多野はパーマをかけた髪を掻き上げる。愉快そうに目を細める。

 なんて女だ。

 アヤにアプローチしている男はいま、三十億円のキャッシュをもっているのに、これっぽっちも興味をしめさない。

 シロウトからクロウトまで、さまざまな女をモノにしてきた羽多野は、ある結論にたどり着いた。

 女はカネがすべてだ。

 かならずカネに靡くという意味ではない。逆の場合もある。思春期の女はえてして潔癖だし、ときに金銭の匂いに否定的に反応する。

 佐倉アヤはちがう。

 リアクションが皆無なのだ。眉ひとつ動かない。彼女にとって「三十億」は、単なる数字でしかない。沖縄県の降水確率みたいなものだ。

 まさに理想の女だ。

 唇を震わせ、アヤが言う。

「こういう茶番で時間をムダにするのは、おたがいのためにならないから、はっきりさせましょう」

「ふむ」

「私は政略結婚の道具にはならない。死んでも」

「大胆な発言だ」

「自分の市場価値はわかってます。私と結婚することが、この国で総理大臣になるための一番の近道なんです。母や祖母がそうだった様に」

「否定できないな」

「絶対私はそうならない。邪魔する人間は、だれであろうと全力で排除する」

「…………」

「おわかりいただけましたか」

「ああ」

 アヤは、気圧された羽多野から封筒を奪う。早足で商工会議所を後にする。

 残された羽多野は両手をポケットにいれ、深呼吸する。昂奮を鎮めたい。

 佐倉アヤ。

 なんて賢しらで、なんて愚かなのか。

 この俺が政略結婚を狙っている?

 バカバカしい。

 俺が永田町に接近するのは、カネと情報のためだ。下水道ビジネスとおなじ。手を出すのは儲かるからであって、下水が好きだからではない。

 総理大臣?

 くだらん。そんな肩書をもとめるのは白痴だけだ。

 俺がアヤに執着するのは、糞尿の洪水のなかに、まばゆい宝石をみつけたからだ。

 男に言い寄られるのは血筋のせいだと、アヤは信じている。おのれの真価に気づいてない。

 籠のなかの鳥は、籠を通してしか、世界をみることができない。

 哀れなアヤ。

 傷ついた小鳥が翼をひろげ、自由に羽ばたいたら、さぞ絵になるだろう。

 そのための鍵は、俺がもっている。




 道玄坂をのぼった松濤の、高い塀にかこまれた邸宅がアヤの家だ。自室は二階にある。

 ベッドの白いシーツは皺ひとつない。まるで新兵訓練キャンプの様だ。壁も机も本棚も真っ白で、兵舎より殺風景かもしれない。本棚には、池澤夏樹が編んだ世界文学全集がそろう。

 財布に忍ばせた鍵で、アヤは机の引き出しをあける。合格証書の封筒をしまう。引き出しにはジェルやブラシやリムーバーなど、ネイル用品がぎっしり詰まっている。独裁的な父の目を盗み、おもに百円ショップでコツコツ買いあつめた。

 ユウキに語った様に、アヤは一円たりとも無許可の支出を許されない。逆に言えば、説明可能なら自由に買い物できる。割引などを利用し、それこそ爪に火をともす思いでやりくりしてきた。ふだん東京地検特捜部とやりあう、父の秘書の調査さえ欺けるのだから、たいした技倆だ。

 アヤは確信している。

 帳簿を操作する能力があれば、世界のどこにいても食いっぱぐれる心配はない。

 自分に合格祝いをしてあげたくなり、アヤはネイル用品を物色する。

 ゴシック風のカッコいいのにしよう。

 制服を着たまま、カラーリングをはじめる。

 黒のカラージェルを塗った上に、ピンセットで十字架の3Dパーツをのせる。クリアジェルをすこしづつ流しこんで固める。まわりをホログラムで飾り、最後にトップジェルで仕上げる。

 うっとりした顔で、アヤは両手をながめる。

 まるで堕天使みたい。

 私にぴったり……なんてね。

 コンコン。

 ノックの音がした。

 アヤが答える。「はい」

 ドアの隙間に母の顔があった。どちらかと言えば美人の部類だが、かなり垂れ目で優しい顔立ち。凛としたアヤとまるで似ていない。

「アヤちゃん」母が言う。「御飯できたわよ。あら、ネイルしてたのね」

「うん。ちょっといいことあって」

「どうしよう。お父さんが急に帰ってきたのよ」

「えっ」

「まあいいわ。どうせ待たせたら怒り出すし。すぐ降りてらっしゃい」




 キッチンと一体のダイニングは、白を基調とした明るい空間だ。食卓に椅子が六つならぶ。アヤには四つ上の兄がいるが、オーストラリアに留学中で、いまは三人住まい。

 兄の留学は、実質的に逃亡だった。佐倉家の男子は東大法学部に行かねばならないというプレッシャーに、兄は負けた。

 母は、父が数日ヨーロッパに出張する予定だったので、料理を手抜きするつもりだった。鯖の煮付けやひじきのサラダなど、ほとんどは宅配の惣菜。ただ、ちゃんとした器によそうのでサマになっている。

 冷蔵庫から適当な食材をみつくろい、緊急措置で八宝菜をつくったのも大きい。女が料理のふりをするだけで、男は満足する。台所に立たない父は、母のサボタージュを見抜けない。

 父はビール一杯で酔っぱらい、顔を真っ赤にしている。永田町では不利にはたらく体質だ。そして自分がいかに首相から信頼されてるか、派閥のメンバーがいかに無能か、官僚と野党とマスコミと評論家がいかに腐ってるかをまくしたてる。独演会だ。アヤと母はひたすら相槌をうつ。

 取り憑かれた様に父が自慢話をしたがる理由を、アヤと母は知っている。

 婿養子だからだ。

 父はこの母娘を恐れていた。総理大臣をふたり輩出した家系の血を引く母娘は、まだ防衛大臣でしかない自分を軽蔑していると、信じこんでいた。

 母は台所で、デザートの林檎を用意している。いまはアヤひとりが矢面に立つ。

 アヤは時計をちらちら見つつ、十分に一回発言する。こちらが黙りっぱなしだと父の機嫌が悪くなるので、食事ごとに三回意見を述べることにしている。三十分で義務を果たしたとみなし、二階の自室へもどるのがルーチンだ。

 母が、皮をむいた林檎をテーブルにおく。アヤはフォークで口へはこぶ。脳に染みわたるほど酸味がつよい。しかし、深みのある味だ。

 家出の準備を着々とすすめるアヤだが、珍味にありつける点だけは、この家に感謝していた。アヤは食べ物に関心があり、いづれは京都で店をひらきたいとおもっていた。

「おいしい」アヤがつぶやく。「どこのかな」

「羽多野さんが送ってくれたの。さっきお礼の電話したら、アヤさんによろしくと言ってたわ」

「ふうん」

 ついさっき商工会議所で羽多野と会ったのを、アヤは話さない。話せるわけがない。

「彼は好青年ね。私みたいなおばさんにも親切だし」

「お母さんがモテるだけでしょ」

「なに言ってるの」

 母はうれしそうに笑った。

 好青年どころか、羽多野は女子高生を追い回すストーカーなのだが、アヤはあえて訂正しない。

 父がヱビスビールの五百ミリリットルの缶を、グラスに傾ける。空だった。ため息をつく。

 目の座った顔つきで、父がアヤに尋ねる。

「ところでアヤ。その黒い爪はどうした」

 母娘の間のおだやかな空気が凍りつく。

 父は続ける。「俺のいないとき、またそうやって爪をいじってたんだな。一式ここに持ってこい」

 アヤは無言でいる。

 母の掩護を期待していた。ネイルをオフせずに降りてこいと言ったのは母だから。

「大目に見てあげて」母が言う。「いくらマジメなアヤちゃんでも、おしゃれしたい年頃なのよ」

「お前の管理不行き届きだ」

「ごめんなさい。でもハメは外さないよう、ちゃんと見守ってますから」

「判断するのは俺だ。そんな爪をするのは水商売の女だけだ。お前は娘を娼婦にしたいのか」

 憤るアヤは、腋の下にじっとり汗をかく。フォークを父の目に突き刺そうかと思ったが、かわりに言葉で反撃する。

「さすがお父さん。水商売の女にくわしいね」

 母が叫ぶ。「アヤちゃん!」

 アヤの皮肉は禁句だった。

 たがいの交友関係に口出ししないというのが、佐倉夫妻のルールだ。アヤがそのバランスを崩したら、すくなくとも表面的に円満な夫婦仲が、一気に瓦解しかねない。

 だれのためにもならない。

 アヤは席を立つ。

 その瞬間、父がテーブルの上にあった一枚の紙を裏返す。

 母は不審そうな顔をする。

 アヤだけが青褪める。

 それは合格証書のコピーだった。羽多野がファックスしたのだろう。

 アヤはおのれの迂闊さを呪う。

 なんだかんだで、羽多野は自分の味方だと決めこんでいた。しかし実際は、単なる父の使い走りだった。身辺調査を依頼されてたのかもしれない。

 アヤが家出を計画していると、羽多野は父に密告した。

 終わりだ。完全に終わった。

 なんて卑劣なのか。

 生物学的に父親にあたるこの男は。

 切札を隠しておいて、ネイルがどうのと些末事で娘を揺すぶるなんて。

 もっとも効果的なタイミングで、アヤを打ちのめすために。

 そしてアヤを永久に支配しつづけるために。




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苑田 謙

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