『ダンジョンシスター』 第1章「祖父の遺産」


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 湯川尋(ひろ)は、荒れ放題の庭の苔むした石畳をわたる。煉瓦造りの建物へちかづく。煙突のあるイギリス風の邸宅だ。祖父が精神病院にはいってから住む者はない。昨年、病院の火災で祖父は他界した。この家は取り壊しが決まっている。

 早足のヒロのあとに、妹の那乃がしたがう。三つちがいの中学二年生で、ダークグレーのハイウエストスカートを穿いている。ショルダーバッグのベルトが、リボンのついたブラウスの隆起を斜めに分断する。

 ヒロは、ジャケットの胸のスリットポケットに右手をいれる。古着屋でナノがみつけたフランス軍の戦闘服だ。

 合鍵をつかみ、ヒロはナノに言う。

「お前は外で待ってた方がいい。古い家だから壊れてるかもしれない」

「外も安全じゃないよ。ジャバウォックの行動が活発化してるってさ」

「例のドラゴンか」

「美少女を片っ端から攫って、自分の巣に閉じこめてるんだって。ただし処女にかぎる」

「最低だな」

「だからいま、若いコはみんな慌てて処女を捨ててるの。東京やばいよ」

 つぶらな目を細めてナノが笑う。

 湯川家の自宅は千葉だが、ナノは名門女子校である紅梅学院に合格したので、御茶ノ水で寮生活をおくっている。兄が三鷹で遺産探しをすると母親から聞き、助太刀を買って出た。

 ヒロはナノの全身をながめる。背丈は百五十センチに満たないが、胸だけすくすく成長している。最近処女を捨てた大勢のなかにナノが含まれるのか気になるが、確かめるのが怖くもあった。

 ナノが言う。「どこ見てんの」

「どこって」

「見るのはタダだから、別にいいけど。この服、胸が強調されるのわかって着てるし。可愛いでしょ」

「うん、まあ」

「もっと褒めてよ。にぃにのためにオシャレしたんだから」

「そのせいで一時間遅刻したけどな」

「ダメだこりゃ」

 ナノは首を横にふる。ヒロは女心がわからないと言うのが口癖だ。事実だから反論できない。

 ヒロは鍵をあけ、ドアノブをまわす。粘膜のこびりついた柔らかい物の感触がした。

 反射的にヒロが叫ぶ。

「うわあっ」

「どうしたの」

「ノブにナメクジが」

「きも。中もこんな調子かな。虫とかネズミとか」

「探索やめるか」

「びびりすぎ」ナノが笑う。「ナノは行くよ。どこかに億単位の遺産があるって話だし」

 ふたりの祖父である湯川茂樹は、経済学を専攻する首都大学東京の教授だった。二〇〇八年に出版した著書『十人のオルガリヒ』は、十二か国語に翻訳されるベストセラーとなった。財産も多少あったはずだが、この三鷹の土地と建物以外、めぼしいものは見つかってない。

 ナノはパンプスを履いたまま家にあがる。アイフォンのライトをつけて懐中電灯がわりにする。ヒロは埃っぽい空気に咳きこみながら、ナノのあとにつづく。

 ふたりが祖父宅をおとづれるのは五年ぶり。一階は居間や応接間やキッチンがある。暖炉が設置されてるが、つかわれるのを見たことはない。薪を準備するのが大変だと祖父がこぼしていた。

 ナノは地下室へつづくドアをあける。

 ヒロが言う。「地下へ行くのか」

「宝物と言ったら地下でしょ」

「でも」

「怖いならそこで待ってて」

 ロングスカートをひるがえし、ナノは階段をおりる。せっかちな性格で、昔からヒロを振り回すことが多い。

 地下は煉瓦壁の倉庫だ。棚にワインがならぶ。高価なのもあるかもしれないが、未成年のふたりでは鑑定できない。

 兄妹は二階へあがる。ナノがあくびする。宝探しに飽きたらしい。ひさしぶりに訪問した祖父宅は記憶より殺風景で、金目の物の匂いがしない。

 祖父母の寝室や、父の子供時代の部屋を漁る。父の卒業アルバムなどに興味をひかれるが、疲れはじめた兄妹は放置する。

 最後に書斎にはいる。大学教授だけあって、書架に古今東西の本がそろう。壁にピカソの『鏡の前の少女』が掛かる。模写だろう。机の上のチェス盤は、白黒の駒が置かれたまま。

 ナノは埃を払い、木製の椅子に座る。

 口を尖らせてナノが言う。

「億単位の遺産とか言って、ただのボロ屋敷じゃん」

「取り壊す前に見れただけでもよかった」

「印税はどこへ消えたんだろう。おじいちゃんって、やっぱ頭おかしかったのかな」

 祖父の晩年は不幸だった。

 祖父は、二〇〇八年のリーマンショックの引き金となった経済犯罪の主犯として、新興財閥を率いる世界四か国の十人を、名指しで批判した。著書は売れたが、陰謀論者のレッテルを貼られたのは、学者として致命的だった。学界で孤立し、奇行が目立つ様になり、精神病院にはいる羽目となった。

 その主張は奇抜だった。オルガリヒと呼ばれる各国の新興財閥は、新世代の強力なコンピュータで暗号を解読し、大規模な窃盗をおこなっていると糾弾した。手口はロシアで秘密裏に発展した物理学を流用したもので、比喩的に言えば禁断の魔術だと。

 予言者はえてして弾圧される。本物であればあるほど。祖父の警告は的中した。オルガリヒが暗躍した四つの地域、つまりアメリカ・ロシア・日本・中国に数十匹のモンスターが出現する。ゾーンバランスが崩れたのが原因らしい。巨獣たちは都市を破壊し、群衆を殺戮した。

 自論の正しさが證明されたとき、祖父は吹上のサナトリウムにいた。家族との面会すら許されなかった。世間は祖父の存在を忘れていた。

 それどころではなかった。

 ヒロは机の引き出しをあける。万年筆のインクなど、細々した品物しかはいってない。

 ナノが尋ねる。「なに探してんの」

「おじいちゃんのマックブックがほしい」

「そういや持ってたね。でももう古いでしょ」

「iOSのアプリ制作にはマックが必須なんだ」

「へえ。にぃにのゲーム、アイフォンで遊べないから困るんだよね。自分でマック買いなよ」

「そんな金はない」

 ヒロは中学のころから趣味でゲームをつくっている。満を持して去年配信開始したRPG『ダンジョンシスター』は、無料で広告なしとはいえ、八十万ダウンロードを達成するヒットとなった。

 ただし評価は散々だ。大半のユーザーは、ナノが提供したイラストが目当て。「神絵師のNANOさんの絵が見たくてクリアしました。正直苦痛でした」「クソゲーつきの画集」「作者はオッサン? 絶望的にセンスが古い」「時間返せ」など心ないレビューが投稿され、ヒロは傷ついた。

 ヒロはチェス盤に目を落とす。祖父につき合わされたので、駒の動きくらいは理解できる。強いのはクイーンとルーク。のこっている駒は十七個で、終盤戦の様だ。

 d5の白のナイトに注目する。f6へ飛べばチェックになる。g7の黒ポーンは、g1の白ルークでピンされてるので動けない。メイトだ。

 将棋の桂馬とおなじ要領で、白ナイトを動かす。

 カタカタ。

 暗色のマスの上で、駒がひとりでに回転した。こちらへ顔をむける。首をふっている。

 白ナイトの口許から音声が発せられる。

「よく仕掛けを見抜いた」

「えっ」

「俺だ。お前のおじいちゃんだ。元気か、ヒロ」

「おじいちゃんがしゃべってるの」

「電話みたいなものだ。どうだ、チェスの腕はあがったか」

「いや」

「テレビゲームばかりではいかんぞ」

 ナノは椅子から立ちあがり、ヒロの陰に隠れる。顔をしかめ、不審がっている。だれかのイタズラにしては手が込みすぎだ。

 ヒロは意を決し、白ナイトに話しかける。

「さっぱり状況がわからない」

「無理もない。いくつか申し置きがある。それを聞いてから、従うかどうか判断しろ」

「おじいちゃんはまだ生きてるってこと?」

「そっちの日付をおしえてくれ」

 ヒロは左腕のGショックをみる。

「二〇一八年五月六日」

「こちらは二〇一七年。ちょうど一年後の未来にむかって話している」

「信じられない」

「EPRパラドックスの応用だ。猿神があつかうテクノロジーでは、むしろ素朴な部類にはいる」

 猿神は、人間に対し支配的な地位についているクリーチャーだ。二〇一三年以来、ワシントン・モスクワ・東京・北京に総督府をおき、人間と協力して凶悪なモンスターを封じこめ、ゾーンバランスを恢復するための行動を展開している。

 震え声でヒロが言う。

「おじいちゃんは去年の六月に亡くなった。サナトリウムの火災が原因で。遺体もみた」

「サナトリウム? 病院なんて立派なものではない。ここは牢獄だ。連中は俺を尋問しつづけたが、なにも聞き出せないので殺そうとしている」

「助けられないの」

「俺はもう死んだのだろう。どうにもならん。連中が欲しいのはアインシュタインの脳だ。書斎に隠してある。それを……秋葉原の……」

「ノイズがひどくて聞き取れない」

「ダークゾーンの影響だ……猿神がきた……逃げろ……」

「おじいちゃん」

「ゲームは終わりだ……妹を守れ……」

 白ナイトが振動し、倒れる。沈黙した。

 ヒロとナノは顔を見合わせる。ふたりとも引き攣った表情だ。ヒロは書斎を見回す。

 ナノが言う。「もう帰ろう」

 ヒロは、ピカソの『鏡の前の少女』の前に立つ。キュビズムの手法によるシュールレアリスティックな絵画だ。額を揺するが、固定されておりびくともしない。机の引き出しからハサミをとりだす。

 ヒロのジャケットの袖を引き、ナノが言う。

「やめなよ。模写だとしても安いものじゃないよ」

 ヒロがゲーム制作でまなんだのは、リスクとリターンの関係だ。果敢にリスクを負ったプレイヤーには、相応の報酬を用意すべし。

 ハサミを画布へ突き立てる。破いた画布をめくると壁に窪みがあった。ナノから借りたアイフォンで中を照らす。筒型の透明な容器がみえる。ホルマリン処理された灰白色の肉片がはいっている。これがアインシュタインの脳の一部なのか。

 顔の前に容器をかかげるヒロに、ナノが言う。

「まったく。にぃには夢中になると人の言うこと聞かないんだから。ま、そうゆうところ嫌いじゃないけど」

「こいつをどうすべきか」

「さあ。秋葉原とか言ってたね。あと妹を守れと」

「守るさ」

「どうやって」

「しばらく実家にいろ。千葉ならジャバウォックにも襲われないだろう」

「ナノが処女だと信じてくれるんだ」

「あのなあ」

「にぃにってパパやママより過保護」

「東京は危険だ」

「でもモンスターによる被害は、交通事故よりずっと少ないんだよ」

「お前はすぐ屁理屈を言う」

 ヒロは容器をノースフェイスのリュックサックへ放りこむ。ウイダーインゼリーの袋をだし、マスカット味のゼリー飲料を吸う。

 いたづらっぽい笑みをうかべ、ナノはヒロにしがみつく。自分の胸を、ヒロの左腕に押しつける。肉まんの様にやわらかく、かつ弾力性がある。

「ほんとはナノのプライベートに興味あるでしょ。さっきそうゆう顔してたもん」

「年相応であればいいさ。帰るぞ」

 ヒロは書斎を出て、階段をおりる。

 しがみついたまま、ナノが言う。

「ねえねえ。年相応って、具体的には?」

「んなことは母親にでも聞け」

「中二で経験ありだと早すぎるかな」

「ありなのか」

「たしかめてみる?」

「ぶっ」

 ヒロは一階の廊下に、ゼリーを撒き散らす。それをみてナノは笑い転げ、スカートを埃まみれにする。

「冗談でもそうゆうのはやめろ」

「えーっ。冗談に聞こえるんだ。ナノの言い方がおかしかったかな」

 尻餅をついたナノが、ヒロの目をじっとみつめる。猫の様に黒目がちな瞳が、薄明かりできらめく。

 女心がわからないと批判されるヒロだが、ここは毅然とした態度をとるべきと判断する。思春期の女は情緒不安定になりがちで、ましてナノは格式高い名門校の寮生活でストレスにさらされている。年長の家族がただしく導かねばならない。

「そろそろブラコン卒業しろ」

「は? ナノがブラコン?」

「昔からどこにでもついてくるし、甘えすぎだ」

「意味わかんない。じゃあ聞くけど、にぃには女の子にモテる?」

「いや、まったく」

「即答だね。で、ナノは見てのとおり超絶美少女なわけ」

「…………」

「なによ。文句あんの」

「いや」

「にぃにを好きな女子はナノしかいない。一方で、ナノを好きだと言ってくれる男子はいっぱいいる。わかる?」

「否定はしない」

「そんなにぃにみたいな、かわいそうな人のことをシスコンって言うの。はい、證明終了」

 論理が破綻してる気もするが、口が達者なので疑義をさしはさむ隙がない。

 呆然とするヒロの手からウイダーインゼリーを奪い、ナノは勢いよく啜る。

「にぃに、ほんとこれ好きだよねえ。あとカロリーメイト」

「全部飲むなよ」

「毎日食べてよく飽きないね」

「おい、いい加減にしろ」

「触んないで」

「返せ」

「痴漢! だれか助けて!」

 玄関で咳払いがする。

 兄妹がふりむくと、そこに巫女装束の女がいた。長い黒髪を水引で縛っている。取っ組み合う兄妹をみて困惑し、まばたきする。

 巫女装束の女が言う。

「あの、お取り込み中でしたら出直しますが」

 ヒロが答える。「大丈夫です」

「失礼ですが、湯川尋さんでいらっしゃいますか」

「はい」

「お初にお目にかかります。わたくしは神田明神に勤務する巫女の、京枡海里と申します。いまは縁あって、総督府で猿神さまのお手伝いをしております」

「なにか用ですか」

「湯川さまが聖遺物をお持ちと聞いて、不躾ながら参上いたしました」

「セイイブツ?」

「学聖アインシュタインさまの脳のことです。法令にもとづき接収させていただきます」




 ヒロは、アポなしであらわれた巫女を観察する。

 薄化粧をほどこした顔に、おだやかな微笑がうかぶ。年齢は二十歳手前か。

 玄関のドアが開いている。見たところカイリは武装してない。突き飛ばして全力疾走すれば、ナノをつれて逃げられそうだ。

「抵抗ハ得策デハナイ。かいりハ格闘技ヲ一通リ修メテイル」

 耳を通じてではなく、ヒロの神経系に直接、ざらついた男の低い声が響いた。

 ドアの外を見ると、三メートルはあろうかとゆう巨大な猿が、庭を横切って歩いている。平安貴族風の束帯を着て、垂纓冠をかぶっている。

 その顔は異形と言うほかない。瞼と唇と耳朶が、太い糸でぞんざいに縫いつけられている。まさに「見ざる聞かざる言わざる」の動くシンボルだ。

 ナノとカイリが、床に両膝と両手をつく。ふだん生意気なナノが小刻みに震えている。

 この巨猿が何者か、報道のおかげでヒロも識別できる。猿神たちの長であるサトリだ。つまり、いまの世界の実質的な支配者だ。

 千葉で暮らすヒロは、猿神とじかに接触した経験がない。自分もふたりに合わせて平伏すべきか迷う。猿ごときに卑屈すぎるのではないかとも思う。

 ふたたびサトリの声が頭脳に響く。

「虚礼ハ省イテヨイ。ツイデニ立チ寄ッタダケダ」

 サトリは人の心を読めると言われる。ヒロの背筋が寒くなる。「猿ごとき」とゆう敵意も感知された可能性が高い。

 ヒロは庭へ出る。バケモノに恐怖は感じるが、負けず嫌いな性格なのだ。

 念ずるだけで会話は成立しそうだが、習慣は簡単に変えられない。ヒロは声にだしてサトリに言う。

「遺産を接収すると言われました」

「私ガ命令シタ」

「これは祖父の所有物です」

「不満ハアルダロウ。総督府ニ対スル苦情ハ、ソコノかいりヲ通ジテ申シ立テヨ」

「あなたに不満を述べてるんです」

 這いつくばっていたカイリが立ちあがる。微笑が消えている。

「湯川さん」カイリが言う。「言葉を慎んでください」

「いきなり家にきて遺産をよこせと言われたら、だれだって怒るでしょう」

「失礼の段、お詫び申し上げます。緊急事態とは言え、配慮に欠けておりました」

「ですよね」

「非はわたくしにあります。何卒サトリさまに反感など持たれないよう」

「とっくにムカついてます」

「湯川さん。どうか御自重なすってください」

「こうゆう噂があります。サトリはアインシュタインの化身だと。つまり自分の脳を取り戻そうとしてるわけですか」

 重苦しい沈黙が、白のペチュニアが咲き乱れる庭にひろがる。サトリの怒りを恐れ、カイリはまた平伏する。

 サトリが言う。

「少年ヨ。あいんしゅたいんニ興味ガアルカ」

「あの噂はガセですか」

「私ハ肯定モ否定モシナイ。證明シヨウガナイカラナ。語リエヌモノニツイテハ、沈黙シナケレバナラナイ。うぃとげんしゅたいんノ言葉ダ」

「どうやら本当っぽいですね」

「あいんしゅたいんノ業績ノナニヲ知ッテイル」

「舌を出した写真を見たことあります」

「フン、クダラン」

 脳内でサトリの嘆息が反響し、ヒロはおもわず目をつぶる。

 カイリを見下ろし、サトリが言う。

「コノ場ハマカセルガ、支障ナイカ」

「はい。丸くおさめます」

「私ハ忙シイ。アトデ書面デ報告セヨ」

 束帯の裾を引きずりつつ、サトリは祖父宅の敷地から去る。

 両方の瞼を縫いつけて目が開かないのに、どうやって書類を読む気だろうと、ヒロはおもった。




 ずっと玄関の内側で震えていたナノが、敷居をよろよろと跨いで庭へ出る。

「にぃにはどこまでバカなの?」

「大丈夫か。顔色悪いぞ」

 ヒロは飲みかけのウイダーインゼリーを差し出す。ナノに撥ね退けられる。

「いらないよ。これだからゲーム脳って嫌だ。すぐムキになる」

「すまん」

「あとアインシュタインについて何も知らないって、どうなの。めっちゃプライド傷つけてたじゃん」

「知らないものは知らない」

「理論物理学者。相対性理論を構築した」

「なんだそれ」

「たとえばスマホにはいってるGPSは、相対性理論を応用した仕組みだよ」

「スマホなんて持ってない」

「はあ。ナノがにぃにをちゃんと教育すりゃよかった。こんな世間知らずになっちゃって」

 えへん。咳払いがした。

 カイリが言う。「とても兄妹仲がいいんですね」

「いえ」ヒロが答える。「おそらく逆です」

「まあ、それはともかく。学聖さまの脳の話ですが」

 ヒロは顎に右手を添えてかんがえる。

 交渉相手が若い女ひとりになったのは好都合だ。すくなくともバケモノより与しやすい。

 祖父だと称する白ナイトと話して以来、ヒロの頭で情報が錯綜している。分析する時間が必要だ。最適解をみちびくためのヒントもほしい。

 ヒロが尋ねる。「アインシュタインの脳をなにに使うんですか」

「ゾーンバランスはオセロの様なものです」

「オセロ? 白黒のゲームの?」

「はい。ダークゾーンを転覆するのに聖遺物をもちいます。昨年モスクワでドラゴンが退治されました。つぎは東京の番とサトリさまは考えておいでです」

「それに協力しろと」

「正しき道ではないでしょうか」

「無償で、ですか」

「残念ながら」

「総督府ならまとまった金額を払えるでしょう。たとえば一千万円」

 カイリは微笑を絶やさないが、ほそい眉をかすかに寄せる。切れ長の目に翳りが宿る。

「心中お察しいたします。でも総督府としては、湯川さんだけ特例にはできません」

「断ると言ったら」

「御理解いただけるまで、誠心誠意うったえます」

「僕は猿神が嫌いだ。信用できない」

「そうおっしゃる方はまだ多くおられます。われわれ巫女がお手伝いするのはそのためです」

「はあ」

「浄明正直、われらの清き心を知っていただきます。これが善き道だと信じてもらえる様に」

 カイリは華奢な両手で、ヒロの右腕をつかむ。ひらいたヒロの右手を、純白の小袖の左胸に当てる。

 痩身のカイリは、性的魅力がある方ではない。でも妹のゆたかな胸に触れてもなんとも思わない、むしろ迷惑なのに、はじめて異性の肉体に接触した途端、ヒロの意識は混濁する。ナノが肘で脇腹を小突いてるのはわかるが、放心状態となる。

 紅潮した面持ちで、カイリが尋ねる。

「いかがですか、湯川さん。わたくしの心がつたわっていますか」

 ヒロがつぶやく。「え……えっと」

「にぃに!」ナノが叫ぶ。「門の方をみて!」

 家の前の通りに、暗緑色に塗装された大型車輌が駐まっている。片側に四つのタイヤがあり、車体上面にM2重機関銃をそなえる。アメリカ陸軍のストライカー装輪装甲車だ。総督府が統治するいまの東京では、米露日中の軍隊が展開している。

 後部ハッチがひらき、九名の兵員が降りる。入れ替わりに束帯を着たサトリが乗りこみ、あわただしくストライカーが発進する。

 兵員たちは祖父宅の門をあける。ふぞろいの芝生を踏みしだき、列をなして玄関へ近寄る。みな鎧兜に剣と盾を装備している。顔や手足は肉がなく、骨だけだ。どうみてもアメリカ兵ではない。総督府に雇われた骸骨兵だ。

 ヒロは青褪める。カイリは援軍到着までの時間を稼いでいたのだ。

 ヒロの右手を胸から外し、カイリが言う。

「お許しください。武力に頼るのは本意ではありません。本来巫女は和を尊ぶので」

「色仕掛けなんて卑怯だ」

「湯川さん。いますぐ聖遺物を」

 顔面以外の全身を甲冑で覆った、ひときわ大柄の骸骨兵を、ナノが指差す。

 かちかち歯を鳴らし、ナノがつぶやく。

「あれは治安局長だよ。骸骨将軍って呼ばれてる」

 グロテスクな骸骨兵たちは、人間の変わり果てた姿だ。東京に総督府が置かれたあと、仕事中毒の警察官や自衛官が志願して任に就いている。

 ヒロは背中のリュックサックへ手をのばす。

 チェックメイトだ。投了のタイミングだ。

 ギエェェーッ!

 ヒロとナノとカイリが同時に耳をふさぐ。骸骨兵たちは平然とする。耳がないからだ。動物のけたたましい鳴き声が住宅街に轟いた。ヒロは周囲を顧望するが、あらたな脅威は見当たらない。

 異変は上空でおきていた。黒い飛行物体が旋回している。蛇の様な体、大きな翼、光沢のある鱗。

 忌まわしき黒龍、ジャバウォックの襲来だ。




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苑田 謙

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