小説21 「地下壕」

『わーるど・うぉー!! かれらの最高のとき』


登場人物・あらすじ・用語集


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 武道館前の北の丸公園で、山吹色の着物のヒロヒトが、左手だけで薙刀の練習をする。東條英機が正座して見守る。首相の任を解かれたあと、また彼女の後見人になると申し出た。

 きょうは四月二十九日。ヒロヒトの十五歳の誕生日だ。リニアに乗り長野へ向かった日から、ちょうど五年経つ。小柄な印象の彼女も、身長は百五十センチに近づいた。

 エイダ・ヒトラーから着信があり、【シュトック】を通信モードにして受ける。

「もしもし」

「ヒロ、ひさしぶり。元気か?」

 数分の会話を終え、ヒロヒトは襷を外して帰り支度をする。東條が渡したタオルで汗を拭う。

 東條が尋ねる。「いまからアイゼンを訪問されると聞こえましたが?」

「ええ、総統官邸へお誘いがあったので」

「旧交を温めるのもよいですが、両国とも存亡の危機にある現在……」

 小言は耳に届かない。ヒロヒトは何を着ていくかで頭を悩ます。ふと体をまさぐる。下着だ。下着を買わないと。

「銀座へ買い物に行きます。車を用意して」

「それは無理です。長野まで日帰りなら、このまま直行しませんと」

「乙女には、天下国家より大切なものがあるのです!」




 長野市松代にある官邸で、エイダは旧友を出迎える。直接会うのは三年ぶり。地上の建造物は空爆で破壊された。

 シェパード犬のブロンディがヒロヒトに飛びつき、唾液まみれにする。

 和装の天子が笑う。「やだ、くすぐったい!」

「ヒロは妙に動物に懐かれるな」

「そうなの。なぜなんでしょう?」

「性格かなあ。あと髪をバッサリ切ったんだな。最初ビックリしたけど、似合ってるぞ」

「ありがとう」

「その右腕は……」

 エイダは空になった袖を指差す。

「たはは……」ヒロヒトは苦笑い。「嫁入り前なのにキズモノになっちゃいました。治る見込みはあったんですが、【マリーネ】の治療を優先したかったので」

 エイダはきつく親友を抱きしめる。

「ヒロがどれだけ頑張ったか、あたいが一番わかってる。今日だけでもゆっくり羽根を伸ばしてくれよな」

 出会った頃と変わらない優しさに包まれ、感極まったヒロヒトは夢中でしがみつき、エイダの背中に爪を立てた。




 地下壕でふたりは晩餐をともにする。質素な豆のスープを啜る。占領中のファリーヌから奪ったワインだけ上等だった。

 十九歳になりたてのエイダが聞く。「ヒロはいくつになったんだっけ?」

「十五歳です。人生最高のお誕生日会になりました」

「あっと言う間の五年間だったな」

「ほんとに。ところでマンシュタインさんはいらっしゃらないんですか?」

「兄者とは別れた」

 スプーンを持つ手を止めたヒロヒトの表情が輝く。笑みが満面に広がる。

「わかりやすっ」エイダが吹き出す。「犬みたいなやつだなあ。告白してくれた時から、気持ちは変わってないか? いや、こんなこと聞くのは虫が良すぎるか……」

「もう一度言います。わたしの身も心もあなたのものです」

 給仕が、ヒロヒトのナデシコ土産である緑茶を淹れる。エイダが気に入ったのを覚えていたので持参した。

「おいしい」エイダが言う。「またナデシコにいきたいなあ」

「いつでも大歓迎です」

「お礼をしないとな。なにがいい?」

「なんでもいいですか?」

「ああ」

「キ、キスしてください……」

 エイダはお茶を吹きかける。

「この甘えん坊め。夜はまだ長いんだよ。きょうは泊まれるんだろ?」

「は、はい……ふ、ふつつか者ですが、どうかよろしくお願いします!」

「あはは、なんだそれ。ナデシコの風習?」

 ひとしきり笑ったあと、我慢の限界に達したふたりは口づけを交わす。




 先にシャワーを浴びたヒロヒトは、バスローブ一枚でエイダの寝室のベッドに座る。彼女の匂いが狭い部屋に漂う。心臓は破裂寸前。

 不意にムダ毛を処理すべきだったと気づく。腋は大丈夫だが、下の方はまったく何もしてない。部屋を見回し、ハサミかなにかを探す。

 落ち着け、わたし。取り乱すな。きっとエイダちゃんが優しく導いてくれる。任せればどうにかなる。

 ステレオから『トリスタンとイゾルデ』第一幕への前奏曲が流れる。官能的な響きで精神を蕩けさせる、聴覚の媚薬だ。

 ワーグナー、カフカ、ハイデガー、アインシュタイン、ハイゼンベルク、ゲーデル……みなこの時代のアイゼンが産んだ天才だ。ヒトラー、マンシュタイン、グデーリアンらを加えてもよいだろう。常軌を逸した多産性。たしかにアイゼンの文化は偉大だ。だがそこには異常さがある。

 呑みこまれちゃいけない。

 ヒロヒトは音楽を消し、ハンドバッグに忍ばせた愛用の短刀へ左手をのばす。深呼吸で動悸をおさめる。

 ベッドサイドテーブルにカプセルの入った薬瓶がある。ヒロヒトはその中身が何か悟った。

 エイダちゃんは今夜死ぬつもりだ。わたしと一緒に。




「でさ、あのときのミノタウロスがさ……」

 風呂上がりのエイダがドアを開け、話の続きを言いかけると、寝室はもぬけの殻だった。

 地上の砲撃だけ微かに聞こえる。




 翌三十日。エイダは昼過ぎまでずっと、部下に掘らせた穴を呆然と眺めていた。底にガソリンを張ってある。

 ブロンディの首輪から綱を外す。

「いままでありがとな。これからは自由に生きてくれ」

 避難生活に飽きたシェパードが喜び勇んで駆け出すのを、エイダは微笑しながら目で追う。

 ガソリンに火をつける。彼女の細面の上で影絵が演じられる。

 炎の向こうに、死者たちの顔が浮かぶ。蹴り倒して戦車の下敷きにしたパルチザンもいる。

 崩壊する世界は、人の手に負えない。それでもなお、ヒロは生き抜こうとするんだ。すごいな。

 あたいはもう、傷つくのに耐えられない。

 エイダは穴に一歩踏み出し、HK45の銃口をこめかみにつける。

 銃声のあと、彼女の痩身は灰となるべく転げ落ちた。




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