わからないからこそ城

春日山城絵図

 

 

西股総生『「城取り」の軍事学』(学研パブリッシング)をよんでたら、

昨今の城ブームに苦言を呈していておかしかつた。

「○○城攻めに行ってきました。寒くて大変でしたが、遺構はすばらしかったです。」

お城ファンのブログでこんな記述をみるとイラッとくる。

研究者は、城跡踏査を「城攻め」といわない。

城はあくまで防御施設、守る側の立場で観察するのが習い性だから。

 

一般市民を案内すると、「この城をどう攻めますか?」とよく聞かれる。

答えはきまつている。

「まづ航空隊に連絡し、爆撃してもらいます」

前提条件なしに作戦立案をもとめるなんて、話にならない。

 

 

前進するドイツ軍突撃部隊

 

 

戦国後期の城は、内枡形虎口をもうけるなど、守勢を指向する。

軍編成の変化が影響している。

 

「足軽・雑兵」など非正規雇用兵を大量動員した結果、

「侍」は強襲に特化した、重装の精鋭部隊を構成する。

守備側としては、初日の猛攻をしのがないと陥落するので、縄張りを工夫した。

 

第一次大戦のドイツ軍の「浸透戦術」にちかい。

 

 

 

 

研究者のあいだでは、杉山城など、来歴不詳の「謎の名城」がかたられる。

なぜ街道もない辺鄙なところに、縄張りのすぐれた城があるのか。

当時は重要な道があつたのか、それとも集落や生産拠点か。

 

著者は「なにもなかつた」という説をとる。

要衝でもなんでもない地点でも、城があり守備兵がいる以上、侵攻軍は攻略せざるをえない。

敵に不本意な兵力運用をしいるだけが目的の、側面陣地があつてよい。

 

 

上田城本丸南櫓と東虎口櫓門(撮影:Ans)

 

 

1600年の上田城攻防戦。

関ヶ原の合戦に際し、徳川秀忠は主力をひきい中山道を西行したが、

上田城の真田昌幸に抵抗され、天下分け目の戦いに間にあわなかつた。

 

昌幸は過大評価されている。

決戦がいつどこでおきるかわからない状況で進発した秀忠に、「遅参」の責をおわすのは不当。

秀忠を拘束できたのはわづか三四日、真田軍は緒戦をしのいだにすぎない。

要するにタイミングが、歴史的に重大だつただけ。

 

そこに城の存在意義がある。

流動的な戦局のなかで、固定された軍事施設をめぐる争いは、

たつた一日でも、いや一時間でも、しばしば国家の命運を左右する。

 

家康は主力ぬきで勝利したが、西軍から収公した所領を、

東軍に参じた福島正則ら豊臣系諸将に手厚く分配するはめとなり、

この論功行賞が幕藩体制のありかたまで規定した。

 

城にあこがれる人がおおいわけだ。




「城取り」の軍事学「城取り」の軍事学
(2013/04/30)
西股総生

関連記事

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

最近の記事
記事の分類
検索とタグ

著者

苑田 謙

苑田 謙
漫画の記事が多め。
たまにオリジナル小説。

Twitter
メール送信

名前
アドレス
件名
本文

カレンダー
01 | 2020/02 | 03
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
月別アーカイヴ
02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03