中央線フロンティア ― 井伏鱒二『荻窪風土記』

中央線

荻窪風土記

著者:井伏鱒二
初出:昭和五十七年 新潮社
[新潮文庫版で読了]


井伏鱒二が荻窪に引越してきたのは、昭和二年の初夏。

その頃、文学青年たちの間では、電車で渋谷に便利なところとか、
または新宿や池袋の郊外などに引越して行くことが流行のようになっていた。
新宿郊外の中央沿線方面には三流作家が移り、
世田谷方面には左翼作家が移り、大森方面には流行作家が移って行く。
関東大震災がきっかけで、東京も広くなっていると思うようになった。


早稲田通りぞい、新宿区と中野区の境界のボロ屋にすむ
三流ブロガーのオレは、ある種のしたしみをおぼえずにいられない。
大地震が町なみを破壊し、金融恐慌の嵐がふきあれる昭和初期の東京は、
文士にとってすみやすい場所だったのかどうか知らないが、
なんにせよどこかに住処をもとめねばならない。
さらに荒廃した都市の瓦礫のしたから、
左翼運動の芽がいきおいよく伸びてゆく。
うわついた流行の尻をおうほど器用でもなく、
政治にのめりこむほど青くさくもない井伏は、
「オレが左翼になってもよいのか」と兄をおどして金をかり、
しずかな郊外に家をたてて住みつくことに。


文学青年も左翼でなければどうにもうだつが上がらぬ時節を、
どうにかやりすごすうちに、わが国は見とおしの暗い戦争にむかって舵をきる。
人気の劇作家だった弟子の伊馬鵜平も検閲になやまされるのだが、
なぜか母親が検閲官と何度も面会して交渉する逸話がほほえましい。
しかし世の潮流がはげしくとどろくなか、
井伏ひとりだけが超然としているのが不気味だ。
昭和十六年。

いつ戦争になるのかと、びくびくさせられる日が続いていた。
私は将棋と釣に凝るようになって、まじめに原稿を書くようなことはなくなった。
釣場へ行って糸を垂らすと、不思議に原稿のことが気にならなくなる。
釣の師匠の佐藤垢石が「童心宿竿頭」という美辞麗句を教えてくれた。


なにせ「三流作家」だからお上に楯つくなどかんがえもしなかったろうが、
戦時中にもっとも創作の熱がたかまった太宰治とは随分と対照的だ。


大学にはいりたての津島修治、すなわちのちの太宰治は、
井伏にだした手紙に返事をもらえなかったことに怒り、
かさねて「会ってくれなければ死んでやる」と書いてきたそうだ。
本書には太宰との釣りの思い出なども書いてあるが、
全体的に歯切れがわるくおもしろくない。
お洒落な太宰のジャワ更紗の下着の話は、
かれの見栄っぱりで意固地な性格がつたわるけれど。
井伏は早世した弟子に対して、
三十年以上も罪悪感をかかえていたのだろうか。
中央沿線というフロンティアで山椒魚のように川底にひそみ、
のらりくらりときびしい時代を最後までいきぬいて、
戦後の出版文化の隆盛のなかで名声をほしいままにする。
太宰の死についても、中島健蔵がかれから宿借りをしていれば、
「少なくとも自棄っぱちの女に水中に引きずり込まれるようなことはなかったろう」
などと、どこか他人行儀の口ぶりがむなしくひびく。
釣り糸をたらしながら、戦後の井伏は水面の下になにをみていたのか。


荻窪風土記 (新潮文庫)荻窪風土記 (新潮文庫)
(1987/04)
井伏 鱒二

商品詳細を見る
関連記事

テーマ : 読んだ本。
ジャンル : 本・雑誌

最近の記事
記事の分類
検索とタグ

著者

苑田 謙

苑田 謙
漫画の記事が多め。
たまにオリジナル小説。

Twitter
メール送信

名前
アドレス
件名
本文

カレンダー
08 | 2020/09 | 10
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 - - -
月別アーカイヴ
04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03