手術刀をもった兵士 ― リチャード・ヴィラー『戦場を駆ける医師』

月森

戦場を駆ける医師 愛、勇気、憐憫
Knife Edge

著者:リチャード・ヴィラー
翻訳者:熊谷千寿
(1999年/原書房)


もし生まれかわったとしたら、なんの職業をえらぼう?
なれるものならサッカー選手になりたい。
ただプロをめざして練習にうちこむ自分の姿は想像できないな。
だったら軍人か医者だ。
どちらも他人の生命をあつかうという責任のおもい仕事であるがゆえに、
興味がひかれる。
片方は他者を殺し、片方は生かすというちがいはあるけれども。
おどろくのは、本書の主人公がその両方の肩書きをもっていることだ。


整形外科医である著者のリチャード・ヴィラーは医学生だったころ、
奨学金をおぎなうためにロンドン大学の士官予備養成組織にくわわる。
軍隊生活が肌にあうのかそこでの訓練にのめりこみ、
ついには特殊部隊のSASの選抜試験に挑戦しみごと合格。
将来が約束されたエリートなのだからその辺で満足すればよいのだが、
予備役である国防義勇軍第21SAS連隊での活動にはあきたらず、
イギリス軍の特殊工作活動の主力である第22SAS連隊に転属し、
軍医官として最強の兵士たちとともに世界をとびまわることになる。
世のなかにはかわった人もいるものだ、としかいいようがない。
オレは特殊部隊がすきで、クリス・ライアンやアンディ・マクナブなど
SASの下士官だった連中が書いた本を山ほど読んできたが、
めったに武器をあつかわない軍医による客観的な記録というのも
また別のおもむきがあってたのしめた。


軍隊に医師が必要なのはいうまでもないが、著者によると、
戦争下で死傷病兵をうむ最大の原因は病気であり、
二番目は味方の弾があたることで、敵の弾にあたることはもっともすくない。
戦争地域にいる兵士の大多数はわれわれの通念以上に安全らしい。
だからこそ、西側諸国の医学界でしられていない世界各地の病気や、
戦場という特殊な環境における問題を研究することが重要になる。
また、SASのような特殊部隊は敵戦線の背後で真価を発揮するのだが、
その際には地元民を味方につける民心獲得工作がかかせない。
かれらが一番よろこぶもの、それは医療だ。
未開生活をおくる民族は、西側の錠剤や注射に信仰にちかい執着をもち、
診療所にながい列をつくる。
SAS隊員はかれらにありもしない適当な病名をつげ、
ビタミン剤を偽薬としてあたえるだけなのだが。
戦場では、銃弾よりも薬の方が有用な武器になりうる。


SASの隊員は各自がふたつ以上の個人技能を取得するように訓練される。
その専門課程は、通信技術、医療技術、爆発物取りあつかい、語学の
四種類にわかれている。
入隊当時に医学生だったヴィラーは、当然のように医療課程をえらぶのだが、
なんとこのコースで不合格になってしまう。
SASの医療訓練はそれほどまでに高度で洗練されているのだ。
これに懲りたヴィラーは通信技術コースにすすんで、
ツー・トン・ツーのモールス信号を勉強することに。
かれはSASの医療を強化するために配属された士官であり、
特殊工作の訓練をうけてはいるが、みずから銃をもってたたかうことはない。
しかし、現代の戦場においてジュネーブ条約の効力は低下する傾向にあり、
まぶしくかがやく赤十字の腕章は兵站線の確認につかわれてしまう。
ボスニア紛争でセルビア側の砲手は、サラエボの陸軍病院の赤十字マークを
照準点につかって砲撃をおこなったそうだ。
医者ですら無条件で敬意をはらってもらえる時代ではない。


著者は高所恐怖症でありながら、仲間にエベレスト登頂にさそわれると、
ことわりきれずに参加することに。
これだけでもすでに何かがおかしいが、おそろしいことに一行は
七千メートル付近で雪崩にまきこまれてしまう。
ひとりが死亡し、装備もおおきな被害をうけたため、
SAS隊員からなるチームは登頂をあきらめた。
雪崩事故から六日後、ヴィラーはようやく妻と電話ではなすことができた。

「ほんとにあきらめるの?」
彼女は信じられないとでもいいたげな口調で訊いた。
「絶好の機会なのに」
SASの夫に望むものは成功だけなのだ。


これくらいの女でないと、SAS隊員の女房はつとまらない。
著者は軍をひいたあとも、医師として第三世界の危険地帯を股にかけている。
オレのような平凡人には想像もできない世界だが、ある種のひとびとは、
胸の奥の博愛精神につきうごかされて冒険のなかでいきてゆく。

NGOは、現地サラエボで働くことができる外科医を
数日のうちに必要としています。
手を貸していただけないでしょうか?
わたしはばかだった。
<安楽椅子の戦士>という役割になじみはじめていたのだが、
体の奥底ではまだ冒険の声が生き残っていた。
どんなに年をとって衰えても、その声が今また聞こえていた。
ところどころ意味がわからず苦労しながら手紙を読んでいくにしたがって、
最初はかすかな火花だったものが炎になるのがわかった。
だれかがやらなければならない。
可能だということをだれかが証明しなければならない。
わたしがやったっていいはずだ。


あまりにもうつくしい一節なので長く引用してしまった。
メスをもった兵士の最大の武器は、その情熱なのだ。
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