『竜圏からのグレートエスケープ』 第3章「咬創」
真新しい白のセーラー服に身を包んだジュンが、レコード店の新星堂でアニメのブルーレイを物色していた。九頭竜に咬まれた左腕にはまだガーゼ包帯が巻かれている。帯刀して人目を引くジュンを、他の客たちは遠巻きから眺め、ひそひそと噂を語り合った。
禁衛府次長のサクヤは昨晩、臨時首都の甲府市で会見を開き、黒竜王と九頭竜を討伐したことを発表した。作戦の詳細は明かされなかったが、誰が竜を斃したのか全国民は理解した。日本に現存する霊剣遣いはジュン一人だからだ。異常気象による付随被害に対する不満も存在したが、赫々たる戦果に抗議の声は押し流された。
ジュンは救国の英雄だった。そして、畏怖されていた。
彼女は左腕の包帯を撫でた。体育の授業を見学すればよかったと後悔していた。バスケットボールが好きなのでつい参加してしまった。十二針縫った傷口が開いたかもしれない。
ジュンは現役の女子高生でもある。激務の合間を縫い、週に一度くらい浦安市にある高校へ通っている。四六時中軍人に囲まれていたら、本当の自分を見失いそうだから。
禁衛府は東京ディズニーリゾートを接収し、前線基地として利用していた。広大な敷地と充実した周辺施設は、根拠地に打ってつけだった。竜圏に近いため閉園したTDRを、せっかくなので有効活用した。
ショッピングモールであるイクスピアリの賑わいは、竜の侵攻が始まる前とさほど変わらない。江戸川を越えて竜が千葉県まで侵出することは稀だし、もし現れても基地から禁衛府の精鋭が出動するので、市民は安心して生活できる。
慣れっこになっただけとも言えるが。
ジュンはファンタジー系アニメのパッケージを手にした。竜と戦うのが仕事なのにおかしいが、好みのジャンルだった。剣と魔法の活劇が見たいというより、女の子の衣装がカラフルで可愛かったりするのが、見てて楽しい。
九千人を擁する行政機関の長たるジュンは、国務大臣並みの給料を貰っている。しかも官舎暮らしなので金が貯まりすぎて困るほどだ。贅沢したくはないし、その暇もないが、唯一の例外はアニメグッズだった。声優イベントの優先販売申込券が封入されるとあれば、円盤を買わない訳にゆかない。
店内の大型モニターに、新作アニメの宣伝が流れた。セーラー服の少女が刀を振り回し、竜を相手に奮闘していた。現在NHKで放映されている『ドラゴンスレイヤー暁ジュン』だ。
目立つのが嫌いではないジュンも、さすがに赤面した。テレビ放映も第一話以降見ていない。政府の誇大なプロパガンダの材料にされるのは愉快ではなかった。
ジュンは新星堂から飛び出た。包帯に血が滲んでいた。
耐えがたい痛みに襲われた。腕が引きちぎられるかと思った。コールマンのリュックサックからピルケースを取り出すが、中身は空だった。アンフェタミンでごまかせない。
地中海の港町をコンセプトとする建物をふらついた。鉄製のベンチの手摺につかまった。通行人は禁衛府長官の異変に気づいたが、敬して遠ざけた。触らぬ神に祟りなしという態度だ。
楽天の野球帽をかぶった長身の青年が、目と鼻の先に立っていた。部下である因幡八代だ。
水の入ったナルゲンボトルを差し出し、因幡が言った。
「長官、お疲れさまです。お買い物ですか」
「まあね」
「顔色が優れない様に見えますが」
「あたしは生理が重くてさ」
ジュンは一口飲んで水筒を返した。ベンチに座りたいのを我慢し、背筋を伸ばした。虚勢を張らねば、十八歳の女の身で総司令官は務まらない。
「因幡は」ジュンが言った。「ここで何してんの」
「長官が出てるアニメのブルーレイを買いに来ました」
「あたしは出演してねーよ」
「そういう意味じゃなく」
「あんなもん見んな。作画もストーリーもクソすぎる」
「衛士は皆見てますよ。誇らしいです」
「ゴールデンなのに視聴率十パーセント切るってヤバいだろ。円盤に至っては大爆死だし」
「なんだかんだで詳しいですね」
「うるせーな」
ジュンはため息をついて腰を下ろした。短いスカートから伸びる脚を組み、長身の因幡を見上げて言った。
「お前、あたしを尾けてたろ。全然気づかなかったけど。でも声を掛けてくるタイミングが不自然だ」
「鋭いですね」
「サクヤの命令で監視してんのか」
「何をおっしゃるんですか」
因幡が左隣に座った。整った顔を近づけ、ジュンの目を見ながら言った。
「清原次長は関係ありません。長官を交代で護衛すると、側近の者同士で決めたんです」
「うざっ。いますぐ止めろ」
「では申し上げます。長官は検査入院をなさるべきです」
「休めるもんなら休みてえよ! でも霊剣遣いはあたしだけじゃんか。あたし抜きでどう戦うんだよ!」
因幡は、四歳年下であるジュンのヒステリックな叫びを浴びても、涼しい表情を崩さなかった。
「禁衛府は池袋・新宿・渋谷などの西部地区を奪還しました。竜族は守勢に回っています。敵が反攻の態勢を整えるには、少なくとも一、二週間を要するでしょう」
「ほんとバカだな。流れが変わった今しかチャンスはない。全戦力を投入して、東西から旧皇居を挟撃する。次の一戦で竜族を滅ぼせなくても、この戦争での勝利は確実になる。そしたらあたしは退役する」
「禁衛府はどうなるんですか」
「サクヤに任せときゃ大丈夫だろ。あいつは生徒会長とか、仕切る仕事が大好きなんだよ。霊剣遣いもナミとか後輩が育ってきてる。あたしは世代交代のことまで考えてんだ」
ジュンは人差し指で自分の頭をつつき、才幹をアピールした。
因幡は小声で唸った。戦略を立案し遂行するジュンの能力は、実績が証明していた。反論の余地がない。
深く頭を下げ、因幡が言った。
「差し出がましい振る舞いでした。御気分を害されたら申し訳ございません」
「別に怒ってねーし。むしろ、いつもありがとう。ワガママなあたしを支えてくれて」
「とんでもないです。軍人の義務を果たしてるだけです」
「義務ね。あたしはちょっとお手洗い行ってくる。そのあとスーパーで食べ物とか買うけど、因幡はどうする?」
「お付き合いします。頭脳はともかく、荷物持ちならお役に立てるので」
ジュンは女子トイレに入った。擦れ違ったOL風の女から遠慮がちに会釈された。他に利用者はいない。
洗面台の鏡に向かった。ひどい顔だった。日焼けした顔面は傷だらけで、髪もボサボサだ。こんな女子高生と出くわしたら、誰だってビビるだろう。
左腕の包帯を外した。軽く触れるだけで、神経を削る様な感覚が走った。経験したことのない痛みだ。
縫合された咬創をおそるおそる観察した。十二針縫われた傷の何箇所かで糸が切れていた。皮膚がかすかに波打ち、黒い物体の先端が傷口から見え隠れした。
何かがいる。あたしの腕の中に。
ジュンはリュックから戦闘用ナイフを取り出した。切先で糸を切り、慎重に刃を傷に差し込んだ。ナイフが刺さると、黒い物体がうねった。ジュンの喉の奥から呻き声が洩れた。意識が飛びかけた。
黒い物体を指でつまみ、洗面器へ落とした。蛆虫などの寄生虫かと思ったが、色はどす黒く、長さは十センチ近い。ナメクジやヒルに似ている。しかし胴体には、未発達ながらも四本の足らしき物が生えていた。
アンフェタミン中毒による妄想であってくれと、ジュンは祈った。一方で洗面器を這う、ヌメヌメした物体には現実味があった。ジュンはこの生物に心当たりがあった。
黒竜の胚だ。卵から孵化する前の状態だ。
ジュンは黒い物体を掴み、個室に入った。奥歯が鳴っていた。手にした物を便器へ投げ込んだ。それは水を嫌がり、水面で跳ねていた。ジュンは涙を流しながら「大」のボタンを押して流そうとした。
ボタンに掛かった手を、背後から大柄な人間が止めた。因幡だった。断りもなく女子トイレに侵入していた。因幡は便器から物体を拾い、空のナルゲンボトルへ入れた。
ジュンが叫んだ。「何しやがる!」
「捨ててはいけません。医務局に持っていって調査しないと」
「冗談じゃねえ!」
「自分に任せてください。信頼できるスタッフに極秘にやらせます。これは長官のお体のためです」
「お願いだ……やめてくれ……あたしがこんな体だと皆に知られたら……」
「命に代えても秘密は守ります」
黒のサテンジャケットを着た因幡にしがみつき、ジュンは号泣した。乱れたジュンの髪を、因幡は不器用に撫でた。思春期を戦争に捧げたこの少女を、初めていじらしく思った。
「あたしは」ジュンが言った。「ひどいことをしてきた。卑怯で残酷なやり方で竜を殺した。人間も大勢死なせた」
「長官が、ではありません。私たちが、です」
「あたしは人間じゃなくなったんだ」
「違います。長官は人類の希望です」
「やっぱダメだ……サクヤに知られたら大事になる……」
「苦しいお立場は承知しています。たまには部下を頼ってください。長官に恩返ししたい人間は沢山いるんです」
ジュンはイクスピアリの一階に降り、スーパーマーケットの成城石井に入った。大泣きしたせいで食欲が湧き、野菜や果物を因幡が持つ買い物カゴへ放り込んだ。
精肉売り場でジュンの目付きは鋭くなった。竜圏にいるみたく集中していた。タレに漬けられて表面に胡麻が乗った黒毛和牛のパックを、目敏く発見した。
ジュンは喉を鳴らした。
あれは絶対おいしいやつだ。
ジュンはパックを取った。隣にいた三十代の女と同時だった。気が逸っていたジュンは、太めの女を思わず睨みつけた。幼い娘を連れた女は身をすくめ、パックを手放した。
食い意地の張ったジュンは、ばつが悪くなり頭を下げた。太めの女にパックを差し出して言った。
「すみません。これ、どうぞ」
「そんな」太めの女が言った。「恐れ多いです」
「あたしは一人なんで。家族で食べてください」
「どうかお気遣いなく。暁さんこそお疲れでしょう」
母親は娘の手を引いて去っていった。刀を差した女子高生と関わるなどまっぴらと言わんばかりだった。
戦利品をカゴに投げたジュンに、因幡が言った。
「今の態度は良くないですよ」
「あたしの?」
「そうです。あの女性は怖がってました」
「ちゃんと謝っただろ」
「我々は戦場帰りですから、殺伐とした雰囲気を発散してるんです。市民と接する時は腰を低くしないと」
「へいへい」
ジュンはスナック菓子を漁り始めた。力自慢の因幡でも手でカゴを持つのがきつくなり、カートを使った。
カートを押しながら因幡は嘆息した。
難しいところだ。陰惨な戦争から解放された、ジュンのわずかなプライベートの時間は、自由に過ごさせたい。しかし周囲からの視線は無視できない。付随被害を躊躇しないジュンの戦略を、国民は心から支持してはいない。
高校球児上がりの因幡は、十八歳の少女の立ち居振る舞いにきめ細かく配慮するのに向いてなかった。本来は親友であるサクヤが適任だが、最近は独走しがちなジュンと対立することが多く、さらに都庁跡で顔を切られた件で決定的な亀裂が生じた。
だから、因幡など側近が支えるしかない。
ステーキ肉を持ってきたジュンに、因幡が言った。
「肉屋でも開くつもりですか」
「官舎に帰って自分で焼く。めちゃくちゃ肉食べたい」
「ウチにバーベキューのセットがありますが」
「たしかお姉さんと一軒家に住んでるんだっけ」
「姉夫婦は妊娠してから甲府に引っ越しました。子供がいると竜圏の近くは不安らしくて」
「ふうん。じゃあお邪魔しようかな」
「ナミさんとか訓練生も呼びましょうか。長官を慕ってるから喜びますよ」
「それもいいけど早く食べようぜ」
ジュンは無表情につぶやいた。
内心では胸騒ぎしていた。
つまりこれは因幡と二人きりではないか。
たしかに因幡は、野球と近接格闘しか能がない朴念仁だ。それでも単なる上下関係から、もうちょっとマシな間柄にステップアップする好機となりそうだ。
ジュンはカートを押してレジに並んだ。戦災による人手不足の影響か、長蛇の列ができている。因幡はバーベキュー用の炭を買いに、二階のアウトドアショップへ向かっていた。
さっき肉を取り合った太めの女の背中が、目の前にあるのに気づいた。なんとなく気まずいが、ジュンは黙っていた。たかが和牛のパック一個ごときで国家的英雄に謝罪されては、相手も恐縮するだろう。
カゴの中の、赤みの多い分厚いステーキ肉を見つめた。焼肉のタレも三種類選んであるが、大根おろしと醤油でさっぱり頂くのがいいかもしれないと、舌舐めずりした。
ジュンはぼんやり考えた。
この肉を生で食べたらどんな味がするのかと。
鉄臭い肉汁を想像すると、唾液が口腔に溢れた。呼吸が荒くなった。ほかに何も考えられなくなった。
ジュンはラップに爪を立てた。ステーキ肉を握り、そのまま齧りついた。さすがに固いが、強引に食いちぎった。咀嚼すると、想像以上の滋味が広がった。肉は生で食べるのが一番なのだと解った。
前に並ぶ、ピンクのトレーナーを着た幼女がジュンをじっと見つめていた。母親と手を繋いだ五歳くらいの幼女は、人間が生肉に食らいつく行為を理解できず戸惑っていた。
ジュンは我に返った。腋にじっとり汗をかいていた。コアラのマーチの箱を開け、中身を幼女に数個渡した。人差し指を唇に当て、内緒にしてねとメッセージを送った。幼女はぎこちない笑顔で応えた。
太めの女がやりとりに気づいた。コアラのマーチを頬張る娘と、口許と右手を真っ赤に染めたジュンと、食いちぎられたカゴの中のステーキ肉に、落ち着きなく視線を動かした。
太めの女が言った。「うちの子に何をしたの」
「別に。何も。お菓子をあげただけ」
「私たちに関わらないで」
「大丈夫。全然問題ない」
「まさかこんな所で生肉を食べてたの」
「一瞬おかしくなっただけだって」
「やっぱり。噂通りあなたは頭が……」
激戦の後遺症で神経が過敏になっているジュンは、太めの女が興奮して喚き散らす前兆を感じ取った。反射的に左手がクサナギの朱塗りの鞘へ伸びた。
機先を制され、太めの女は沈黙した。カゴを捨て、娘の手を引いた。行列を突き飛ばして出口へ急いだ。壁にある非常ベルを見つけた。振り向いてジュンを指差し、言葉にならない叫びを上げつつボタンを押した。
警報が鳴った瞬間、買い物客はみな泡を食って逃げ出した。竜の襲来だと勘違いしていた。
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