長代ルージュ『イヴとイヴ』
イヴとイヴ
作者:長代ルージュ
発行:一迅社 2018年
レーベル:百合姫コミックス
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「百合×SF」の相性をうらなう試金石となりうる短篇集だ。
たとえば、冒頭の『奇跡の好きを遺したい』で少女たちは、
自分たち以外の人類が絶滅した世界をさまよう。
つくみず『少女終末旅行』など、同工異曲の作品はあるが、
はげしい性愛をえがく点で、本作は一歩ふみこんでいる。
少女たちは堂々と、少女たちを生み、そだててゆく。
ディストピアという名のユートピア。
百合には、頭でっかちな側面がある。
荒唐無稽なテーマをもっともらしく表現する努力は、見方によっては滑稽だ。
タイムマシンや透明人間の話みたいに。
後世の文学史家は、百合をSFの一ジャンルとみなすかもしれない。
『永遠一号二号はイヴとイヴ』。
それぞれウェディングドレスを着たふたりは、これから手術をうける。
自分たちの脳をとりだし、人工衛星に搭載する。
ふたりの愛を永遠のものとするため。
百合の定義についてここでは触れないが、
ジャンル全体の傾向として、「男性性に対する低い評価」をあげられる。
男の肉欲は利己的で醜く、女の愛は純粋に精神的でうつくしい。
それを極限まで追究すると、この「精神的な愛」へゆきつく。
百合の歴史において語り継がれるだろう描写だ。
本短篇集は、「地に足のついた百合」も用意されている。
心と心がぶつかり、きしみ、すれちがうドラマを、全身全霊であじわおう。
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『殲滅のシンデレラ』 第2章「ネイル」
ハチ公前の高架下を抜け、アヤは渋谷一丁目にある東京商工会議所の支部をおとづれる。古い建物で、外壁のタイルは薄汚れている。
受付で受験票をわたし、簿記一級の合格証書の交付をもとめた。
待たされるアヤは、アニエスベーの腕時計をみる。
友人たちは異口同音に、スマホがあれば腕時計はいらないと主張する。理解できない。そんなだから時間を守れないのではないか。
五分以上過ぎた。ただ書類を発行するだけなのに、遅すぎる。
フロアの奥に声をかけようとしたとき、受験票をうけとった女が別室からあらわれる。女はカウンターにもどって椅子に座る。
A4くらいの紙一枚をもっている。あれが合格証書だろうか。
三十歳前後の女は、立っているアヤを見上げる。やや太りぎみで丸顔だ。アヤと目を合わせない。手が震えている。
女は合格証書を縦に引き裂く。
アヤが叫ぶ。「あっ」
さらに縦に横に破られ、アヤの一年間の努力の結晶は、瞬く間に紙屑となって散った。
「なにするんですか!?」
手前のデスクに突っ伏し、女が叫ぶ。
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」
アヤはフロアを見回す。このパッとしない丸顔女が単独犯のはずない。
斜め後ろから、紫のスーツを着た男がちかづく。シャツの色は黒だ。
羽多野昇一。国会議員であるアヤの父の後援者だ。まだ二十四歳と若い。身長はアヤとほとんど変わらず小柄だが、頬髯をはやした精悍な顔立ち。客観的にみて美男子に分類できる。
想像するに、自分に惚れている丸顔女を利用し、アヤにイタズラをしかけたのだろう。
羽多野は、ミュージシャンのプリンスにすこし似ている。アヤは一九八〇年代に活躍したプリンスの世代ではないが、図書館で借りた洋楽名盤ガイドブックで知識を得ていた。入門書で勉強するのが好きなタチなのだ。
腕組みしたアヤが、羽多野に言う。
「あいかわらず悪趣味な服ですね」
「随分な挨拶だな」
「こっちのセリフです。合格証書は羽多野さんがもってるんですか」
「正解」
羽多野はジャケットの内側から、水色の封筒をだす。ジャケットの裏地のペイズリー柄が気持ち悪い。封筒は半分に折られている。
ふざけるな。
なに勝手に折ってんだよ。
アヤは右ストレートをくりだす衝動を、寸前でこらえる。ユウキだったら確実にこの場でノックアウトしていた。
羽多野は、折り曲げた封筒を元に戻す。皺を指でなぞりつつ、アヤの表情をうかがう。
弄んでいる。
羽多野が言う。「メールの返事をまだもらってない。店を予約したのに」
「このあと返信するつもりでした」
「よく言う。いつも速攻で返信するくせに。おそろしく事務的な二三行のメールを」
「結果を教えてくれたのは感謝してます」
「で、合格祝いはどうする?」
「お気持ちはうれしいですが、いきなり今日これからと言うのは……。両親と相談して日程を調整するってことでどうでしょう」
「ははっ。さすがは三代つづく政治家の家系だ。決して言質をとらせずに、人をこきつかう」
アヤは自分の細い腕に爪を立てる。
「私からお願いしたわけじゃありません」
「まあね」
「はやく返してください。大声出しますよ」
「それは困る。三十億円の商談をまとめたばかりだ。水素自動車の開発に携わっててね」
「はやく」
「下水汚泥から水素をとりだす事業を、俺が仕切ってるのさ。有望なビジネスなんだ」
「調子にのるなよ、チンピラ」
アヤは殺気をこめて言った。
その低い声は、静かなフロアでも拡散しない。行き交う人々はふたりに気を留めない。ロビーに置かれたモニターは、全国の天気予報を表示している。
羽多野はパーマをかけた髪を掻き上げる。愉快そうに目を細める。
なんて女だ。
アヤにアプローチしている男はいま、三十億円のキャッシュをもっているのに、これっぽっちも興味をしめさない。
シロウトからクロウトまで、さまざまな女をモノにしてきた羽多野は、ある結論にたどり着いた。
女はカネがすべてだ。
かならずカネに靡くという意味ではない。逆の場合もある。思春期の女はえてして潔癖だし、ときに金銭の匂いに否定的に反応する。
佐倉アヤはちがう。
リアクションが皆無なのだ。眉ひとつ動かない。彼女にとって「三十億」は、単なる数字でしかない。沖縄県の降水確率みたいなものだ。
まさに理想の女だ。
唇を震わせ、アヤが言う。
「こういう茶番で時間をムダにするのは、おたがいのためにならないから、はっきりさせましょう」
「ふむ」
「私は政略結婚の道具にはならない。死んでも」
「大胆な発言だ」
「自分の市場価値はわかってます。私と結婚することが、この国で総理大臣になるための一番の近道なんです。母や祖母がそうだった様に」
「否定できないな」
「絶対私はそうならない。邪魔する人間は、だれであろうと全力で排除する」
「…………」
「おわかりいただけましたか」
「ああ」
アヤは、気圧された羽多野から封筒を奪う。早足で商工会議所を後にする。
残された羽多野は両手をポケットにいれ、深呼吸する。昂奮を鎮めたい。
佐倉アヤ。
なんて賢しらで、なんて愚かなのか。
この俺が政略結婚を狙っている?
バカバカしい。
俺が永田町に接近するのは、カネと情報のためだ。下水道ビジネスとおなじ。手を出すのは儲かるからであって、下水が好きだからではない。
総理大臣?
くだらん。そんな肩書をもとめるのは白痴だけだ。
俺がアヤに執着するのは、糞尿の洪水のなかに、まばゆい宝石をみつけたからだ。
男に言い寄られるのは血筋のせいだと、アヤは信じている。おのれの真価に気づいてない。
籠のなかの鳥は、籠を通してしか、世界をみることができない。
哀れなアヤ。
傷ついた小鳥が翼をひろげ、自由に羽ばたいたら、さぞ絵になるだろう。
そのための鍵は、俺がもっている。
道玄坂をのぼった松濤の、高い塀にかこまれた邸宅がアヤの家だ。自室は二階にある。
ベッドの白いシーツは皺ひとつない。まるで新兵訓練キャンプの様だ。壁も机も本棚も真っ白で、兵舎より殺風景かもしれない。本棚には、池澤夏樹が編んだ世界文学全集がそろう。
財布に忍ばせた鍵で、アヤは机の引き出しをあける。合格証書の封筒をしまう。引き出しにはジェルやブラシやリムーバーなど、ネイル用品がぎっしり詰まっている。独裁的な父の目を盗み、おもに百円ショップでコツコツ買いあつめた。
ユウキに語った様に、アヤは一円たりとも無許可の支出を許されない。逆に言えば、説明可能なら自由に買い物できる。割引などを利用し、それこそ爪に火をともす思いでやりくりしてきた。ふだん東京地検特捜部とやりあう、父の秘書の調査さえ欺けるのだから、たいした技倆だ。
アヤは確信している。
帳簿を操作する能力があれば、世界のどこにいても食いっぱぐれる心配はない。
自分に合格祝いをしてあげたくなり、アヤはネイル用品を物色する。
ゴシック風のカッコいいのにしよう。
制服を着たまま、カラーリングをはじめる。
黒のカラージェルを塗った上に、ピンセットで十字架の3Dパーツをのせる。クリアジェルをすこしづつ流しこんで固める。まわりをホログラムで飾り、最後にトップジェルで仕上げる。
うっとりした顔で、アヤは両手をながめる。
まるで堕天使みたい。
私にぴったり……なんてね。
コンコン。
ノックの音がした。
アヤが答える。「はい」
ドアの隙間に母の顔があった。どちらかと言えば美人の部類だが、かなり垂れ目で優しい顔立ち。凛としたアヤとまるで似ていない。
「アヤちゃん」母が言う。「御飯できたわよ。あら、ネイルしてたのね」
「うん。ちょっといいことあって」
「どうしよう。お父さんが急に帰ってきたのよ」
「えっ」
「まあいいわ。どうせ待たせたら怒り出すし。すぐ降りてらっしゃい」
キッチンと一体のダイニングは、白を基調とした明るい空間だ。食卓に椅子が六つならぶ。アヤには四つ上の兄がいるが、オーストラリアに留学中で、いまは三人住まい。
兄の留学は、実質的に逃亡だった。佐倉家の男子は東大法学部に行かねばならないというプレッシャーに、兄は負けた。
母は、父が数日ヨーロッパに出張する予定だったので、料理を手抜きするつもりだった。鯖の煮付けやひじきのサラダなど、ほとんどは宅配の惣菜。ただ、ちゃんとした器によそうのでサマになっている。
冷蔵庫から適当な食材をみつくろい、緊急措置で八宝菜をつくったのも大きい。女が料理のふりをするだけで、男は満足する。台所に立たない父は、母のサボタージュを見抜けない。
父はビール一杯で酔っぱらい、顔を真っ赤にしている。永田町では不利にはたらく体質だ。そして自分がいかに首相から信頼されてるか、派閥のメンバーがいかに無能か、官僚と野党とマスコミと評論家がいかに腐ってるかをまくしたてる。独演会だ。アヤと母はひたすら相槌をうつ。
取り憑かれた様に父が自慢話をしたがる理由を、アヤと母は知っている。
婿養子だからだ。
父はこの母娘を恐れていた。総理大臣をふたり輩出した家系の血を引く母娘は、まだ防衛大臣でしかない自分を軽蔑していると、信じこんでいた。
母は台所で、デザートの林檎を用意している。いまはアヤひとりが矢面に立つ。
アヤは時計をちらちら見つつ、十分に一回発言する。こちらが黙りっぱなしだと父の機嫌が悪くなるので、食事ごとに三回意見を述べることにしている。三十分で義務を果たしたとみなし、二階の自室へもどるのがルーチンだ。
母が、皮をむいた林檎をテーブルにおく。アヤはフォークで口へはこぶ。脳に染みわたるほど酸味がつよい。しかし、深みのある味だ。
家出の準備を着々とすすめるアヤだが、珍味にありつける点だけは、この家に感謝していた。アヤは食べ物に関心があり、いづれは京都で店をひらきたいとおもっていた。
「おいしい」アヤがつぶやく。「どこのかな」
「羽多野さんが送ってくれたの。さっきお礼の電話したら、アヤさんによろしくと言ってたわ」
「ふうん」
ついさっき商工会議所で羽多野と会ったのを、アヤは話さない。話せるわけがない。
「彼は好青年ね。私みたいなおばさんにも親切だし」
「お母さんがモテるだけでしょ」
「なに言ってるの」
母はうれしそうに笑った。
好青年どころか、羽多野は女子高生を追い回すストーカーなのだが、アヤはあえて訂正しない。
父がヱビスビールの五百ミリリットルの缶を、グラスに傾ける。空だった。ため息をつく。
目の座った顔つきで、父がアヤに尋ねる。
「ところでアヤ。その黒い爪はどうした」
母娘の間のおだやかな空気が凍りつく。
父は続ける。「俺のいないとき、またそうやって爪をいじってたんだな。一式ここに持ってこい」
アヤは無言でいる。
母の掩護を期待していた。ネイルをオフせずに降りてこいと言ったのは母だから。
「大目に見てあげて」母が言う。「いくらマジメなアヤちゃんでも、おしゃれしたい年頃なのよ」
「お前の管理不行き届きだ」
「ごめんなさい。でもハメは外さないよう、ちゃんと見守ってますから」
「判断するのは俺だ。そんな爪をするのは水商売の女だけだ。お前は娘を娼婦にしたいのか」
憤るアヤは、腋の下にじっとり汗をかく。フォークを父の目に突き刺そうかと思ったが、かわりに言葉で反撃する。
「さすがお父さん。水商売の女にくわしいね」
母が叫ぶ。「アヤちゃん!」
アヤの皮肉は禁句だった。
たがいの交友関係に口出ししないというのが、佐倉夫妻のルールだ。アヤがそのバランスを崩したら、すくなくとも表面的に円満な夫婦仲が、一気に瓦解しかねない。
だれのためにもならない。
アヤは席を立つ。
その瞬間、父がテーブルの上にあった一枚の紙を裏返す。
母は不審そうな顔をする。
アヤだけが青褪める。
それは合格証書のコピーだった。羽多野がファックスしたのだろう。
アヤはおのれの迂闊さを呪う。
なんだかんだで、羽多野は自分の味方だと決めこんでいた。しかし実際は、単なる父の使い走りだった。身辺調査を依頼されてたのかもしれない。
アヤが家出を計画していると、羽多野は父に密告した。
終わりだ。完全に終わった。
なんて卑劣なのか。
生物学的に父親にあたるこの男は。
切札を隠しておいて、ネイルがどうのと些末事で娘を揺すぶるなんて。
もっとも効果的なタイミングで、アヤを打ちのめすために。
そしてアヤを永久に支配しつづけるために。
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神崎かるな/黒神遊夜『武装少女マキャヴェリズム』8巻
武装少女マキャヴェリズム
作画:神崎かるな
原作:黒神遊夜
掲載誌:『月刊少年エース』(KADOKAWA)2014年-
単行本:角川コミックス・エース
第8巻は、インドの武術カラリパヤットの遣い手、千鳥とのバトルがヒートアップ。
改良型魔弾をくらった千鳥が、はげしく嘔吐する。
身も蓋もない描写だ。
作者夫妻は単行本あとがきで、アニメ化・結婚・出産などを無邪気によろこび、
幸せアピールに余念がないが、作品自体は剥き出しの暴力が炸裂している。
千鳥の武器はウルミ。
鞭の様にしなる剣だ。
斬撃の暴風雨のインパクトは、本作において最大級。
指の一本や二本、吹き飛んでもおかしくない。
カラリパヤットにからめて、現代のローコンバットへの言及もあり、
作者の格闘術の造詣の、深みと範囲と体系性には恐れいるばかり。
闘いのあとは、おたのしみが。
ボーイフレンドシャツからのぞく千鳥の細い脚がたまらない。
8巻後半にえがかれるのは、メアリvs聖愛。
西洋剣術のことなる流派同士の激突だ。
詰将棋的でパズル的な駆け引きがみどころ。
本作を熱心にフォローしてない人が当記事を読んでも、そもそもこの漫画は、
誰と誰がなんのため闘う話なのか、さっぱりわからないはず。
ファンである僕ですら、わからないのだから。
しかし、だ。
麗しい女子、比類ない武術の描写、抜きがたい死の匂い。
これらの美点が欠点を覆い隠しており、僕はこれからも本作を追い続けるだろう。
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関口太郎『ゆるさば。』
ゆるさば。
作者:関口太郎
掲載誌:『ヤンマガサード』(講談社)2018年-
単行本:ヤンマガKC
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三姉妹と父の4人家族が、廃墟となった東京で生きるサバイバルもの。
ただし、人類が絶滅した理由は不明。
読者はヒントすらあたえられない。
本作はある種の「異世界転生もの」だと、会話で言及されるのみ。
主人公たちのまわりに、差し迫った脅威はない。
なので無邪気にあそぶ。
これはこれで、たのしい毎日。
F-15などが放置された米軍横田基地。
滑走路からみる空はうつくしく、そしてちょっと陰鬱だ。
長女「ツムギ」はミリタリーに興味津々。
基地でM4カービンを拝借し、狩猟にはげむ。
銃器の描写も丁寧だ。
主人公は、次女で中2の「モモ」。
廃墟の世界に迷いこむ前は、少女漫画みたいな出会いに憧れる乙女だった。
無人の学校へ行き、自分のホルンを演奏する。
片思いしていた吹奏楽部の先輩をおもいだす。
ほかの家族はサバイバル生活にすぐ順応したが、
モモだけは、もとの世界へ戻りたいという願望を強くもつ。
関口太郎は、1989年デビューのベテラン作家。
今風の絵柄を取り入れつつ、かっちりしたヴィジュアルに仕上げている。
ヤンマガといえば、『ドラゴンヘッド』や『彼岸島』など、サバイバルもののメッカ。
本作はあfろ『ゆるキャン△』への、ヤンマガ(サードだけど)からの回答だろうか。
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『殲滅のシンデレラ』 第1章「佐倉アヤ」
黒いサンドバッグが揺れる。
ポニーテールの佐倉アヤが、細かくステップを踏む。ミディアムの髪をシュシュで束ねてある。両手足から打撃をくりだす。
アヤは身長百六十センチで、体つきも華奢だが、歯を食いしばる表情は真剣そのもの。振動をうながす様に打つので、サンドバッグの振れ幅が大きく、人間同士の闘いみたいだ。
三十分ぶっ続けで叩いたアヤは、青いマットにへたりこむ。飛び散った汗が溜まっている。渋谷区道玄坂にある格闘技ジム「デュナミス」では、ほかに十数名が練習している。プロ格闘家である下野寛が運営する、総合格闘技のジムだ。
アヤはウォーターサーバーから水分補給する。そこにジム会長の下野がちかづく。ふたりともTシャツにハーフパンツという恰好だ。
「アヤ、今日もがんばってるね」
紙コップを手にしたアヤが答える。
「ありがとうございます」
「ちょっと話があるんだけど」
「お月謝のことですか」
「あまり言いたくないが……アヤは多いな。振り込みの遅れが」
アヤは紙コップをゴミ箱に捨てる。かしこまって頭を深く下げる。
「すみません。いつも御迷惑おかけして。月曜日までにかならず振り込みます」
サンドバッグを叩くときの鬼気迫る様子はなく、礼儀正しい。
頭を掻きつつ、下野が言う。
「お金の問題じゃないんだ。そもそも君の家なら、ウチの月謝くらい余裕で払えるだろう」
まだ頭を下げているアヤは、上目遣いで下野をみる。目に攻撃的な光が宿る。家庭に言及されたのが嬉しくなかった。
大柄な少女が割り込み、アヤの肩を抱く。高校の同級生でもある、沢城ユウキだ。浅黒い肌に、白のスポーツブラが映える。
ユウキが下野に言う。
「なあ会長。こいつの秘密を教えたげよっか」
「いきなりなんだよ」
「デュナミスに通ってるのを親に隠してるんだ。格闘技なんて野蛮だって反対されるから」
「なるほどね」
「ピアノの先生のところで練習するふりして、月謝の半分を受け取って、それをこっちに払ってるんだって。バカでしょ」
口を尖らせてアヤが言う。
「月謝を免除されてるユウキに言われたくない」
「しょうがないじゃん。ウチは貧乏なんだから」
ユウキはけらけらと笑う。目が細く、さほど美人ではないが、愛嬌のある顔立ちだ。
ユウキの父・沢城彰は、UFCでの優勝経験もある伝説的な格闘家だった。しかし、あまりに激しいファイトスタイルが災いし、七年前に外傷性脳損傷が発覚した。以来、療養生活がつづいている。下野は先輩の沢城に恩を返すため、娘のユウキから月謝を受け取ってない。
下野がアヤに言う。
「事情はわかった。でも親御さんに嘘をつくのはよくない。俺から話そうか?」
隙のない微笑をうかべ、アヤが答える。
「わざわざありがとうございます。でも大丈夫です。自動送金サービスに切り替えるよう、ピアノの先生にお願いするので」
私個人の問題は私ひとりで対処すると、アヤの表情はものがたっていた。
アヤは大股でトレーニングマシンへむかう。オープンフィンガーグローブを外す。
背後からユウキが声をかける。
「アヤ、スパーしよう」
「きょうは体を絞りたいの」
「道具いじってても強くなれないぜ」
「ほっといて」
「怒ってんの?」
「あたりまえでしょ。秘密をバラされたんだから」
「助けてやったんじゃないか。むしろ感謝してもらいたいね。いいからグローブつけろよ」
「強引だなあ」
ふたりの少女は、二メートル離れて向かい合う。ユウキの方が七センチ長身だ。
スポーツブラとショートパンツを着用するユウキは、肌の露出が多い。中性的な容姿のため下品ではないが、それでも目のやりどころに困る。対するアヤはユウキとちがい色白で、細身のわりに女らしい体つき。異性からの視線が煩わしいので、とてもおなじ恰好はできないとアヤはおもう。
軽く飛び跳ねながら、ユウキが言う。
「負けたら帰りにマックで奢りな」
「私は賭けとかしないから」
「ビビってんのか」
「そんなんじゃない。ユウキは階級上だからアンフェアってこと」
「あたしは男子にも勝つけどね」
ユウキは不敵に笑った。
アヤは、自宅で書いている格闘技ノートの内容をおもいだす。スパーリングを嫌がるそぶりを見せたが、実は前からユウキの攻略法を考えていた。
今年三月、ユウキは女子の総合格闘技の大会「アルテミス」において、十八歳以下の部門で優勝した。階級が上なだけでなく、高校生年代のチャンピオンでもある。
でも、勝ち目がないってことはない。
ユウキは私をナメている。お金持ちのお嬢さまの道楽だとおもっている。
強くなりたい気持ちで私は負けてない。
絶対、負けてない。
どちらからともなく、ふたりは動きだす。最適な間合いをさぐる。アヤは身をかがめている。
ユウキは苦笑する。リーチが長く、打撃の強い自分に対し、アヤは露骨にタックルを狙っている。教科書どおりの戦法だ。
闘志を燃やすアヤが、一挙に間合いを詰める。ユウキはジャブとローキックで牽制する。距離をおいての攻防が一分ちかく続く。端正なアヤの顔が、苛立ちで引き攣っている。
口の端を持ち上げ、ユウキが言う。
「優等生すぎるんだよ、アヤは」
言い終わった瞬間、アヤが懐へ飛びこむ。
それはユウキの誘いだった。ユウキはバックステップを踏み、タックルを切る。アヤの後頭部を押し、マットに両手を突かせる。背後に回ってしがみつく。
アヤは亀の様に丸まる。五体を密着させ、関節技や絞め技に対抗する。しかし、するっとユウキの右腕が首に差しこまれる。
裸絞めだ。
ここから逆転はきびしい。
アヤがつぶやく。「大丈夫。ここまで想定内」
育ちのよいアヤは、中学生までバレエを習っていた。柔軟性をいかして体をひねる。コンパクトにたたんだ右肘を、ユウキの腹部へ叩きこむ。スパーリングの決まりごとを破り、全力で打った。
ユウキが身を離す。横隔膜が痙攣し、呼吸がとまっている。
くるしげに喘ぐユウキが言う。
「てめ……やりやがったな……」
練習生はみなトレーニングを中断し、スパーリングを観戦する。ふたりの少女から、ただならぬ気配を感じた。ギャラリーにはプロ選手もいる。
アヤは昂揚する。
はじめてユウキに勝てる。ジムに入った半年前は、手も足も出なかったのに。
努力の勝利だ。アリとキリギリスの寓話のとおりだ。インストラクターに課されたメニューの倍の練習量をこなし、たくさん本を読み、ヤフー知恵袋で質問しまくったおかげだ。
アヤは突進する。潜水艦みたく沈む。
ユウキが飛び上がる。両足を伸ばし、するどいキックで迎撃する。
アヤは内心で笑う。
総合でドロップキックって。
デタラメだ。プロレス好きのユウキらしいけど。
アヤはなんなく躱す。
だが、それはキックではなかった。
ユウキは両脚でアヤの頭を挟む。そのまま宙返りする。走るアヤの勢いをいかし、脳天からマットへ突き刺す。
プロレスの華麗なる大技、フランケンシュタイナーだ。
ユウキは、仰向けのアヤに馬乗りになる。顔面を打つ。脳震盪をおこしたアヤは抵抗できない。そばで見守っていた下野が滑りこみ、割って入ってスパーリングを止める。
TKOだ。
ユウキが感情を爆発させる。中邑真輔のマネをして叫ぶ。
「イヤァオッ!」
ギャラリーは拍手喝采でこたえる。ユウキは全員とハイタッチする。
横たわるアヤは、上半身を起こす。ぼうっとした頭で下野に尋ねる。
「いまのプロレス技ですよね?」
「そうだな」
「なら私の反則勝ちじゃ」
「ド派手なプロレス技だからって、総合のルールで反則にはならない」
「でも」
「あいつの即興性がすごいんだ。アヤもがんばってるけど、見習えばもっと強くなるよ」
無言でアヤは立ち上がる。自分がみっともない負け惜しみを言ってるのに気づいた。唇を噛む。わななく口許を見られたくない。
シャワー室に入り、すさまじい音を立ててドアを閉めた。
土曜五時前の渋谷センター街。通りは歩行が困難なほどごった返す。
練習を終えたアヤとユウキが、会話しながら歩いている。ふたりとも渋谷生まれで、駅の東側にある紅梅学院高等部に通っている。この街の雑踏は空気みたいなものだ。まったく苦にしない。
午前中に学校があったふたりは、制服の紺のスカートを穿いている。アヤは半袖のブラウスに、グレーのベストをかさねる。ユウキはブラウス一枚で、ボタンを二つ開ける。
十数分前まで取っ組み合ってたのに、アヤとユウキはなごやかに談笑する。外見も性格も生い立ちも異なるが、不思議とウマが合うのだった。
右手に鞄をもって、ユウキが伸びをする。缶バッジやら、くまのプーさんのマスコットやらで、ごてごて飾り立てられている。一方、アヤの鞄は買ったときのまま。
「あー」ユウキが言う。「修学旅行たのしみだな」
「うん。私京都大好きだから」
「めっちゃ気合い入れてスケジュール組んでたよな。あれ全部回れるのかよ」
「せっかくなら、いろいろ行きたいじゃない。ネットですてきなおとうふのお店をみつけたの」
「豆腐ねえ」
「きっと気にいるわよ。荷造りはした?」
ありえないという風に、ユウキは目を見開く。
「まだに決まってんじゃん」
「やっぱり。前日の夜に荷造りするタイプね」
「普通だろ」
「足りないものが見つかって慌てる姿が目に浮かぶわ。女の子は荷物が多いから、それじゃダメよ」
「あたしは化粧とかしないし」
「やれやれ。手伝ってあげようか?」
「わお。持つべきものは友か」
「家が近いんだから、お安い御用よ」
「アヤんちは松濤の豪邸だけどな」
街の喧騒に混じり、アヤとユウキを呼ぶ声が背後からとどく。振り返ると、デュナミスの練習生三人がいた。みな二十歳前後の男だ。
パーカーのフードをかぶった男が言う。
「いまから俺らカラオケ行くんだけど、アヤちゃんたちも行かない?」
デュナミスの会員で女子高生はふたりだけ。器量のよいアヤは、特に目をつけられていた。さも偶然をよそおって声をかけてきたが、誘うタイミングを男三人で狙っていたのだろう。
まぶしい笑顔で、アヤが答える。
「私たち、明日から京都で修学旅行なんです」
「そうなんだ」
「でもふたりとも、まったく荷造りしてなくて。家に帰って大急ぎでやらないといけないんです。よかったら、また別の機会に誘ってくださいね」
「オッケー。いい旅を」
「ありがとうございます!」
筋骨隆々の男たちは、来た道を引き返してゆく。
にやにや笑いながら、ユウキが言う。
「よく咄嗟に大嘘つけるよ」
「嘘も方便。こういうのは、相手の顔を立てるに越したことはないの」
「お前って、ほんと作り笑顔上手だよな。本性知ってるあたしでも騙されそうになる」
「まあね」
「自覚あるんだ」
「だって、よく鏡で練習するから」
「なんで」
「鏡をみると、そこに寂しそうな女がいるじゃない。だから私はほほ笑みかけて、楽しませてあげるの」
「なにそれ。きもい」
マクドナルドの前で、ユウキが立ち止まる。
「じゃあ、奢ってもらおうか」
「はぁ?」
「負けたら奢る約束だろ」
「私は賭けをしないと言ったでしょ」
「聞いてねえし」
「勝手に思いこんだユウキが悪い」
「ざけんな。後からそういうこと言うのやめろ」
ユウキは腰に両手をあて、仁王立ちする。通行人の邪魔になるのも一切構わない。
ユウキが続ける。「奢れ」
「いやだ」
「来週はあたしが奢ってやるから、とにかく今日は奢れ。百円でいい」
アヤは紺のスカートの脇で、すばやく右手の親指と人差指を動かす。
それに目を留めたユウキが尋ねる。
「なんだよ、その変な指の動き」
「これ? 暗算するときの癖。昔そろばん習ってたから」
「また出たよ、お嬢さまエピソード」
「ごめん。奢るのは無理」
「百円くらい持ってるだろ!」
「お金の使い道を毎週、父の経理担当の秘書に報告しないといけないの。説明できない支出が一円でもあったら、あとで父に尋問される」
「ずいぶん過保護だな」
「佐倉家の跡取りの境遇は、こんなに悲惨なの」
「娘思いのいいお父さんじゃないか」
「冗談やめて。あれはサイコパスよ」
ユウキは、アヤの肩を思い切り小突く。
「いまの取り消せ」
「なに」
「自分の親に言うことか。取り消せ」
「そんなのユウキに関係ない」
アヤとユウキは、敵意を剥き出しにする。スパーリングのときより深刻だ。
ユウキの父は、長年療養生活をおくっている。恵まれた環境を与えられてるにもかかわらず、家族を侮辱するアヤの言動を、ユウキは許せない。
かたや、アヤにとって父との関係は、親友にも踏みこまれたくない心の領域だった。
一触即発の空気が、マクドナルド前の歩道をオクタゴンに変える。睨み合うふたりを、ざわめく観衆が囲む。男同士ならともかく、女子高生のケンカはちょっとした見ものだ。
制服警官が近寄り、ユウキの肩を叩く。
「君たち、なにをしてるんだ」
警官が少女からの反撃を予測しなかったのは、無理もない。でもユウキは、格闘技の高校生チャンピオンだった。そして、すこぶる不機嫌だった。
ユウキは警官の右腕をつかみ、腰投げで背中からアスファルトへ落とす。
尻餅をついた警官は呆然とする。無線で応援を呼ぶ。数十秒で三人到着する。
ブルルルッ。
アヤのブラウスのポケットで、アイフォンが振動した。
届いたメールをみて、アヤは飛び上がる。
「きゃあっ!」
ユウキが尋ねる。「どうした」
「受かったの! 日商簿記の一級に!」
「ああ、言ってたね。そんなに難しい試験なわけ」
「高二で合格はめったにないわ。ああもう、本当にうれしい。これで自立できる!」
「おめでとさん」
アヤは高校を中退し、独立する計画を立てていた。アルバイトで食いつなぐのではなく、正社員として就職するため資格取得をめざした。勿論、両親に反対されるのは確実。なので大好きな京都で職をさがし、決まり次第、家出するつもりだった。検定合格は、夢の実現にちかづく大きな一歩だ。
無邪気にはしゃぐアヤを、ユウキは冷ややかに見つめる。つきあいは二年になるが、これほど感情を露わにするアヤを見るのは初めて。
親を裏切って家出するのが、そんなにうれしいのか。それに京都へ引っ越したら、あたしと会えなくなるじゃないか。喜びすぎだろ。
なんなの、こいつ。
ユウキがつぶやく。
「あたしカラオケ行くわ。連中と合流する」
「荷造りは?」
「徹夜でやる」
「旅行の前日くらい、ちゃんと寝なさいよ」
「新幹線で寝れるでしょ」
「まったく。ユウキはしょうがないなあ。じゃ、また明日。夜遊びはほどほどにね」
「うぃっす」
別々の方向へ去ってゆく、奔放なふたりの後ろ姿をみて、警官たちは首を横にふる。
そして肝に銘じる。
さわらぬ神に祟りなし。この街の女子高生に、安易に接触してはいけない。
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山本崇一朗『くノ一ツバキの胸の内』
くノ一ツバキの胸の内
作者:山本崇一朗
掲載誌:『ゲッサン』(小学館)2018年-
単行本:ゲッサン少年サンデーコミックススペシャル
[ためし読みはこちら]
『からかい上手の高木さん』で知られる山本崇一朗による、女忍者もの。
女の子のかわいさに定評ある作家だし、くノ一は存在そのものがエロい。
これは最高のマッチングだろう。
主人公の「ツバキ」は、ふだん山中で訓練を積んでいる。
ゆえに男というものを見たことがない。
脳内で妄想がふくらみ、異性に接触しようとおかしな行動をとる。
本作のウリはキャラデザだ。
くノ一の衣装はなぜか、大抵ヘソ出し。
つるぺた美少女の肢体をたっぷり鑑賞できる。
各話、個性的なくノ一が登場する。
デザインや表情のつけ方が、どれもこれも完璧にかわいい。
一方で、ストーリーはスカスカ。
いくらでも話を盛れる題材なのに。
織田信長の暗殺を命じられるとか、忍者同士の抗争で親が殺されたとか。
「異性への憧れ」というテーマも、けっきょく接触は描かれないのでほぼ無意味。
おそらく、「くノ一を描きたい」という衝動のみで成立する作品だろう。
作者のイラストレーター的なセンスが爆発している。
百数十ページ分の美少女イラストを掲載した画集と考えればお得だ。
ツバキのおでこや腰回りの魅力は、そうそうお目にかかるものではない。
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マウンテンプクイチ『球詠』4巻
球詠
作者:マウンテンプクイチ
掲載誌:『まんがタイムきららフォワード』(芳文社)2016年-
単行本:まんがタイムKRコミックス
4巻前半で、謎めいた影森高校との試合が決着する。
非力で気弱で、しかも初心者だった息吹が、打撃に投球に大活躍。
その成長ぶりが感慨ぶかい。
3回戦の相手は、全国レベルの強豪「梁幽館高校」。
団体競技をえがく漫画は、勝ち進むほどキャラデザの負担が重くなる。
でも、たとえば梁幽館のリードオフガールである「陽秋月」は、
メカクレでかわいく、作者の描き分けの在庫はまだ潤沢らしい。
俊足の二塁手「白井さん」もいい。
名参謀・芳乃の知識と勝負勘が、本作の醍醐味。
しかし小細工の通じない難敵に、バントの指示をだすのにも迷いをみせる。
1回裏、芳乃はきびしい判断をせまられる。
そして2死2塁で4番「中田奈緒」との勝負をさけ、敬遠策を命じる。
エースで50本塁打の中田のプレーをみにきた観客は怒る。
女子高生に、大観衆からのヤジはきつい。
息吹など震え上がってしまう。
一方で、おかしな理屈で反論する、希の熱い野球バカっぷりがいい。
いちいち福岡ローカルネタをしこんだり、セリフが全体的におもしろい。
敬遠は卑怯か、それともルールにのっとった正当なプレーか。
それを高校球児にやらせるのは正しいのか。
古典的な議論である。
本作があたらしいのは、議論の対象が女子高生である点。
つまり、勝負のために勝負から逃げるJKは、かわいいのか?
答えは勿論、かわいい。
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『殲滅のシンデレラ』 序章「ホワイトハウスのアリス」
アリスは足をすべらせ、どすんと尻餅をつきました。床にかけられたワックスが、まだ乾いてないのに気づきませんでした。あいたたとつぶやきながら、サックスブルーのエプロンドレスごしに、自分のお尻を撫でました。
「廊下をこんなにピカピカにしなくてもいいのに。でも床の市松模様はすてきね。チェス盤みたい」
まだ七歳のアリスにとってチェスは難しいですが、ルールを知ってるのが自慢でした。三つ年上のお姉さんに勝ったこともあるのです。
波打つ金髪を揺らし、アリスは振り返りました。背後には大きな鏡がありました。この鏡を抜けて、自宅から見知らぬ建物へやってきたのです。
廊下の先から、ドタバタと足音が響きました。チョッキを着た白ウサギが走っていました。懐中時計をだし、時刻を何度も確かめていました。
白ウサギが言いました。「時間がない! 時間がない! 大統領を待たせるわけにいかないぞ。でもホワイトハウスは迷路みたいだ!」
物知りなアリスは、ホワイトハウスという建物の名前を知っていました。イギリスで言うなら、女王陛下のいらっしゃるバッキンガム宮殿の様なところです。きっと有名人がいるし、おいしい食べ物にもありつけそうです。アリスはわくわくしました。
窓の外は夜更けでした。オックスフォードにある自宅では、ついさっき目覚めたばかりで、まぶしい朝日が差し込んでいたのですが。
「これは時差って現象ね。イギリスは五時間はやく時が流れてるの。きっとアメリカの時計は、ぜんまいが緩いんだわ」
アリスは白ウサギを追い、開いているドアを抜けて部屋へ入りました。
そこは楕円形の大きな部屋で、机とソファが並んでいました。ハンプティ・ダンプティ、もとい卵みたいな形で、めづらしい部屋だとアリスは思いました。向かい合わせのソファのあいだに置かれたテーブルは、食べ物などが散らばっていました。この家には、散らかしてはダメと怒るお母さんがいないのねと、アリスは羨ましくなりました。
ソファでは短い金髪の男性が、ウィスキーグラスを傾けていました。ピンクのTシャツにジーンズと、へんちくりんな服装です。まるでウェールズの炭鉱夫みたいと、アリスは思いました。アリスはお母さんに言われて毎朝仕方なく、ふわふわの髪を苦労して櫛で梳かしていました。あんな恰好で人前に出られるなんて信じられません。
アリスは声をかけました。
「つかぬことをお尋ねしますが」
男性が答えました。「なにか」
「チョッキを着て懐中時計をもった、白いウサギを見ませんでしたか」
「リンカーンはここでウサギを飼っていた。でも懐中時計をもったウサギではなかったろう」
「いつも時間を気にしている、変わったウサギなんです」
「人間みたいなウサギだ」
「いいえ。時間を気にする人間は、大人だけです」
「たしかに」
アリスは時間が好きではありません。お父さんやお母さんがせっかく楽しいお話を聞かせてくれるのに、時間になると寝なさいと言うからです。
アリスはまだ自己紹介してないのに気づきました。良家の子女が、こんな無作法ではいけません。スカートの裾をもちあげ、挨拶しました。
「私はアリスです」
「自己紹介の必要はない」
「あなたは大統領のウォーレン・ワイズさんね」
「知ってもらえて光栄だ。なにか飲み物はいるかな。コーヒーとか」
「紅茶がいいわ」
「うーん、ないな。子供が飲める様なものは」
「ならお水で結構です」
アリスはがっかりしました。南国の果物のジュースとか、めづらしい飲み物を期待していました。でも、不思議な旅でひどい目にあうのは慣れっこなので、我慢することにしました。
アリスは大統領の向かいのソファに座りました。テーブルにはなにかのゲームのボードが広げられ、コマやダイスが転がっていました。見たことのないゲームです。
興味津々のアリスに、大統領が言いました。
「これはモノポリーという不動産のゲームだ。勤務後によく部下と遊ぶんだ」
「私、ゲームが大好きなの」
「やってみるかい」
「本当に!? うれしい!」
「すこし難しいから、トランプとかでもいいが」
「トランプはちょっと嫌な思い出があるから、ぜひこのモノポリーで遊びたいわ」
まづ八種類のコマのなかから一つ選びます。アリスは真っ先に猫のコマを選びました。ダイナという可愛い猫を飼っているからです。大統領はアイロンを選びました。
アリスが言いました。「とっても地味なコマね」
「目立たないコマの方が、優位にゲームを進められる。アイゼンハワーもアイロンがお気にいりだった」
「何代か前の大統領かしら」
「そうだ。軍人でもある。アメリカが生んだもっとも偉大な人物のひとりだ。最後から二番めの」
「最後のひとりはあなたと言いたそうね」
「いや、レディー・ガガさ」
つまらない冗談を言った大統領は、自分で笑いました。アリスはきょとんとしています。レディー・ガガという歌手をよく知らなかったのです。
待ちきれなくなったアリスは、二つのダイスを握りしめました。ダイスを振るのを手で制し、大統領が言いました。
「せっかくだから賭けをしよう」
「いいわね。もし私が勝ったら?」
「特別なチケットを発行する。アメリカのすべてのレストランで、予約なしで無料で食事ができる」
「すてき! あなたが勝ったら?」
「メッセンジャーになってもらいたい。絶対誰にも知られずに届けたい伝言がある」
「どこへ行くの」
「日本だ。東洋にあるイギリスの様な島国だ」
アリスは内心でほくそ笑みました。勝利のボーナスが魅力的なだけでなく、負けても悪くありません。黄金の国、日本。サムライやニンジャが活躍し、うつくしいゲイシャがいる国。前から行きたくて仕方なかったのです。
アリスは喜び勇んでダイスを振りました。
ゲームは一時間ちかく続きました。
大統領が乱暴にダイスを振りました。アイロン型のコマが、ダークブルーのボードウォークに止まりました。大統領はアリスに二千ドル支払わないといけません。現金が不足しているので、自分の資産を売却する必要があります。
アリスが上機嫌で言いました。
「オレンジの土地を五百ドルで買うわ」
「容赦ないな」
「不良債権ビジネスはおいしいって、バフィットさんがおっしゃってたもの」
「バフィット? ひょっとして投資家のバーナード・バフィットのことか?」
「ええ」
「クソッ。あのジジイも【おかしなお茶会】のメンバーなのか。なにがオマハの賢人だ。インサイダー取引の罪で逮捕してやる」
「そんなこと言うものじゃないわ。とても優しくて、すてきな方よ」
アリスは大統領をたしなめつつ、ホテルの建設を進めてゆきました。盤上はアリスの建造物だらけです。すでに大統領は借金漬けなので、おそらく次の手番で完全に破産するでしょう。
大統領はボードを勢いよくひっくり返しました。コマや建物が床に散らばりました。驚いたアリスは「きゃっ」と叫びました。子供にゲームで負けたのが悔しくて、大人が癇癪をおこすなんて、はじめて見ました。
大統領は本当の大人ではないのかもしれません。アリスが考える政治家は、たとえばディズレーリさんの様なお爺さんのイメージです。まだ七歳のアリスが言うのもおかしいですが、三十四歳のワイズさんは若すぎる気がしました。
アリスが言いました。
「アメリカでは、ゲームが終わるとボードをひっくり返す決まりなのかしら」
「どうでもいい。俺の負けだ。もう帰ってくれ」
「さすがに失礼だわ。私は七歳だけど、ちゃんとしたレディでもあるのよ」
「だまれ、ビッチ」
アリスは仰天しました。もし自分が口にしたら、夕食を抜きにされてもおかしくない単語です。お国柄の違いでしょうか。でも、うつむいて頭を抱える大統領を観察すると、目許が光っているのが見えました。
「ワイズさん、泣いてるの?」
「うるさい」
「ごめんなさい。あなたにとって大事な賭けだったのね。私、ゲームに夢中になりすぎたみたい」
「負けは負けだ」
「わかったわ。楽しいゲームを教えてくれたお礼に、メッセージを伝えてあげる」
大統領の目が輝きました。猫のダイナがイタズラをするとアリスは叱りますが、その後かわいそうになって、餌をあげて撫でてやります。そのときの表情に似ていました。やっぱり子供みたいな大人だなあと、アリスは思いました。
大統領はハーバード大学に通っていたころ、ガールフレンドにふられた腹いせに、「フレンドリー」いうSNSを立ち上げたと言われます。すぐムキになる性格なのでしょう。でもそのおかげで、今ではバフィットさんなどと並び、世界有数の大金持ちとなりました。ちなみに大統領が好んで着るTシャツのピンクは、サイトのイメージカラーです。
もちろんアリスは、インターネットのことはよくわかりません。せっかく人からお手紙をもらうなら、手書きの方がうれしいと思うのですが。
大統領が言いました。
「羽多野というモグラが東京にいる。今から言う内容を伝えてほしい」
「名前のついたモグラさんがいるなんて!」
「いや、内部協力者を意味するスパイ用語だ」
「なあんだ、つまらない。ええと、ミスター・ハタノ……紙とペンを貸してもらえるかしら」
「メモをとるなど論外だ。ロシアや中国に見られたら第三次世界大戦が勃発する。暗記してくれ」
アリスは不安になってきました。とても賢いアリスですが、お勉強は苦手です。ドジスン先生が個人的に算数を教えてくれますが、アリスが楽しいお話をせがむので授業は進みません。
「がんばるわ」
「じゃあ行くぞ。『レッドクリフ作戦の発動を通達する。行動計画に変更なし。JST六月五日二四〇〇時、USSアラバマから発射されたSLBMが、京都市中心部に着弾する。各自奮励し、任務を全うせよ』。以上だ」
「もう! そんなの覚えられないわ!」
「なら『行動計画に変更なし』だけで構わない」
「最初からそう言ってくれればいいのに。ところでSLBMってなんの略語かしら」
「潜水艦発射弾道ミサイルだ。核弾頭を積んだ戦略兵器だよ」
アリスはため息をつきました。
アリスは楽しいお話とゲームと猫が好きな、いたって普通の女の子です。でも不思議な旅をするたび、訪れた国がしっちゃかめっちゃかになってしまうのです。
アリスはつぶやきました。
「今回の冒険も、大変なことになりそうだわ」
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山崎零『恋せよキモノ乙女』2巻
恋せよキモノ乙女
作者:山崎零
掲載誌:『月刊コミック@バンチ』(新潮社)2017年-
単行本:バンチコミックス
なんと言っても本作の見どころは、主人公「もも」の和服の着こなし。
毎話贅沢に見開きをつかい、読者の目をたのしませる。
第10話は、谷崎潤一郎『細雪』に出てくる芦屋のお嬢さま風。
関西が舞台である本作にぴったりのテーマだ。
扉絵はどれもあでやか。
ももが出かける名所を背景に、趣向を凝らした装いを披露する。
彦根にある民家風のハンバーグ屋さんには、ウール素材のチェックの着物。
バレンタインのチョコを買いに京都へ。
験をかつぎたくて矢絣模様を着る。
ベレー帽やマフラーの合わせ方もすてきだ。
想い人である「椎名」とまだ結ばれないが、ふたりでデートしてるので脈はある。
車内でのエピソードはなんかリアルで、作者の実体験ぽい。
かわいい純情キモノ娘に惚れられてるのに、椎名は他人行儀なまま。
しかし、ただ単に女心がわからない鈍感野郎とゆうわけでなく、
つらい失恋を経験し、異性に対し消極的になっていると明かされる。
本作はヴィジュアルだけでなく、恋愛ものとしても読みごたえあり。
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森野萌『花野井くんと恋の病』
花野井くんと恋の病
作者:森野萌
掲載誌:『デザート』(講談社)2018年-
単行本:KCデザート
[ためし読みはこちら]
「日生(ひなせ)ほたる」は、高校1年の女の子。
ルックスは地味で、だれかを好きになった経験はなく、
そもそも恋愛が何なのかもわからないほどオクテだが、
校内一のイケメン「花野井くん」に見初められ、強引にせまられる。
ほたるが何度ことわっても花野井はあきらめないので、
ふたりはとりあえず「お試し期間」として付き合いはじめる。
いわゆる「彼女」とは、いったい何をする役割を担うのか理解不能なため、
今後の方針をさだめる会議をおこなったり。
恋愛対象になりえない人に、ムダな期待をもたせたままでいたら申し訳ない。
ほたるは自分が花野井を好きなのか確かめるため、キスしてくれとオファーする。
あまりにマジメすぎ、かえって男を翻弄する小悪魔になるのがおかしい。
太めの眉毛など、造形も魅力的だ。
花野井が雪の夜、なくなったほたるのヘアピンをひとりでさがす。
不器用カップルが右往左往する本作は、コメディ要素の多い作品だが、
たがいを思いやる気持ちがストーリーをうごかす、少女漫画らしい見せ場もある。
余命半年とか借金1億円とか、物語上のギミックは特にない。
けれどもほたるの恋愛未満の恋を応援したくなる。
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ギャル転生 ~異世界生活マジだるい~
作者:佐々木マサヒト
配信サイト:『ヤングエースUP』(KADOKAWA)2017年-
単行本:角川コミックス・エース
[ためし読みはこちら]
ギャルのJK3人組が、渋谷の街を歩いてたら交通事故にあい、
そのまま異世界で転生するとゆうストーリー。
作中で「飽和状態なジャンル」なんてメタ発言もあるが、
「だるい」が口癖のギャルが主人公である点で異色だ。
作風はコメディ調。
生活のためクエストをこなす3人は、第5話でスライム退治にいどむ。
おもわぬ美肌効果を発見して大喜び。
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パンケーキが好きすぎて異世界に順応できず、病んでしまったり。
中学時代の同級生「木之下」とエンカウント。
取り柄がまるでなく目立たない存在だったが、
こちらの世界では「ヴァイス」と名乗り、英雄となっている。
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最強の剣士「バレンシア」もパーティにくわわり、活躍する。
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妙にメンタルが弱いところがかわいい。
本作はギャグ漫画である一方で、世界観は緻密に構築されており、
作者のゆたかな素養をうかがわせる。
ひとことで言えば、ギャル系コメディと、異世界転生ものの融合。
心愛がスキル「ついったー」を炸裂させるときの爽快感を、あじわってほしい。
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