『死と乙女と中野』 第11章「タッキー」

修羅場を二度くぐり抜け疲労困憊のサッサが、カラオケ店JOYSOUNDがある中野通り沿いの八階建てのビルを見上げる。シバがLINEで一緒に歌う仲間を募集していた。
エレベーターで六階の受付へ行き、赤い半袖の制服の女に部屋をとってもらう。いつもひとりで来てアニソンを歌ってるから慣れたもの。
この店の五階は「NERV中野支部」と称する、『新世紀エヴァンゲリオン』をイメージした空間だった。綾波レイを崇拝するエヴァヲタであるシバは、501号室にいる公算が大きい。
ドアを開けると、シンジ・レイ・アスカなどのキャラを壁にあしらった部屋の黒いテーブルに、金髪ショートカットの女が突っ伏している。空のカクテルグラスが置かれる。
「シバ先輩」サッサが言う。「また酔っぱらってるんですか」
肩を押して顔が見える様にすると、シバは白目をむき、口元が吐瀉物で汚れていた。
サッサは背後から右腕をとられ、捩じ上げられる。骨が折れると思った。
青いボーダー柄の長袖Tシャツを着たタッキーが、『残酷な天使のテーゼ』を立って歌っている。歌詞はうろ覚えらしく、ときどきつっかえる。ウエストポーチには、きょうもサプレッサーつきのXDMを入れてるのだろう。
サッサは両手の親指を後ろ手に結束バンドで縛られ、ソファに座る。これでは手拍子も打てない。
「残天とは」サッサが言う。「ずいぶんベタな選曲ですね」
「君には負ける。『魔女の宅急便』が大好きで、黒いワンピースを着るのもその影響だろ」
サッサは下から長身のタッキーを睨む。
魔女宅は、姉と一緒に百回以上見ている大切なアニメだった。ファンであることはマエにすら言ってない。どこで調べたのか。
意識がもどったシバが、頬をテーブルに乗せたまま、か細い声で言う。
「サッサ……逃げろ……」
タッキーは歌をやめ、ウエストポーチから黒いスタンガンを出す。火花が散っている。シバが穿くグレーの短いタイトスカートのなかへ突っこみ、膣に電撃をくわえる。シバは悲鳴をあげ、また失神する。
「やめろ!」サッサは叫ぶ。「ホテルで騒いだのは私が頼んだことだ。先輩を責めるな!」
サッサは昂奮してジタバタすると見せかけ、床に落ちて割れたグラスの破片をつまむ。結束バンドを切りつつ、時間を稼ぐ必要がある。
「マエがもってた」サッサが続ける。「オリジナルのレコーダーはデータが消された。これ以上探し回っても、あんたは何も見つけられない」
「その現状認識は正しい。いまは後始末の段階だ。日本のことわざにあるだろう、鳥がどうの……」
「立つ鳥跡を濁さず」
「そうそう。母の故郷を悪く言いたくないが、失望させられる国だった。国民は愚かで、信念がまったくない」
「そう言うあんたの信念はなんだ」
「三つある。主イエスとアメリカ合衆国と家族」
「ひょっとしてCIAか何かか?」
「お前が五分後に死ぬとわかっていても、その質問には答えられない」
タッキーは冷笑しつつ、トートバッグから注射器を取り出す。暗殺道具だろう。サッサは涙がこぼれるのを堪え、乱れた思考を集中させる。
やはりタッキーは第三のプレイヤーだった。日本政府と柴田医師の、どちらの味方でもない。
「CIAはよほど暇らしい」サッサが言う。「平均寿命のカラクリ程度で、日本政府が動揺するとでも?」
「私も滑稽だと思う。でも実際に動揺しているから、アメリカは介入せざるを得ない。日本政府は無謬の存在でいたいんだろう」
「これで日本を脅迫する気か」
「在庫が増えるだけさ。脅迫の材料はいくらあっても困らない」
「だからって人を殺すのはおかしい」
「日本政府の要望だ。末端の連中を大掃除してくれと。親米であるかぎり、我々は現政権を支持する。汚れ仕事も厭わない。よし、おしゃべりは終わりだ」
タッキーはテーブルに、針金と薬瓶と注射器を整然とならべる。
「サッサ」タッキーが続ける。「私はお前が気にいった。工作員の素質がある」
「お礼を言えばいいのかな」
「これも何かの縁だから、好きな死に方を選ばせてやろう」
「…………」
「レパートリーは水死と絞殺と毒殺だ。毒殺が一番バレにくいから、こちらとしては助かる」
サッサは結束バンドを指でなぞる。小さな切れ目が入ったが、まだ半分も切れてない。
さすがに観念した。たとえ両手が自由でも、敵は近接格闘術の訓練をうけ、銃で武装したスパイだ。万が一にも勝ち目はない。
せめて苦しくない方法で死のう。
「じゃあ毒で」
「遠慮するな。私の得意技で殺してやる」
彫りの深いタッキーの顔が快楽に歪む。暴れるサッサの首に針金をまわし、勢いよく絞める。呼吸困難となったサッサは膝蹴りするが、非力すぎてすこしも効果がない。スタンガンを撃たれたシバは、ソファの隣で横たわったまま。
頸動脈の血流を止められ、サッサの意識は遠のく。自分にのしかかるタッキーが紅潮し、だらしない笑顔をみせる。セックスと殺しは似ているとぼんやり思う。サッサはすぐ気絶し、一分ほどで呼吸も止まった。
タッキーは立ち上がり、完成したばかりの作品をながめる。青白い首筋にくっきり赤い線がうかぶ。賢そうな澄んだ瞳が、むなしく天井を見つめている。最高傑作かもしれない。
最小限のリソースで作戦を成功に導けたのも満足だった。局内での評価は高まるばかり。
「まさに天職だ!」タッキーは叫ぶ。「次の任地の中国でも、すばらしい素材に出会いたい!」
カラオケが終わっていたのに気づき、残酷な天使のテーゼをもう一度流そうとリモコンを探すが、テーブルにない。
タッキーの背後で、サッサが重さ一キロのリモコンを振り上げる。窒息した様に見えたのは偽装だった。
リモコンのフレームが砕け、液晶画面が割れ、基盤が露出するが、サッサは打擲をやめない。防音壁をこえて店中に響き渡るほど絶叫する。
「信念がなくて悪いか! 私は友達も、夢も希望もなんにもない! でもお前なんかに負けるか!」
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佐々木ミノル『中卒労働者から始める高校生活』6巻
中卒労働者から始める高校生活
作者:佐々木ミノル
掲載誌:『コミックヘヴン』(日本文芸社)2012年-
単行本:ニチブンコミックス
いろいろあったあとのクリスマスデート。
莉央の方が積極的で、「帰りたくない」と言い出す。
自宅へつれてったら、真実の妹は不在。
莉央はますます昂まり、恋人を困惑させる。
真実がオクテなのは、漫画・アニメ・ラノベのテンプレにしたがうからでなく、
性的虐待をうけた莉央の気まぐれに反応したら、傷つけてしまうから。
本作は漫画らしい漫画だが、言動に「理由」があって説得性に富む。
真彩は、かわいく天真爛漫な妹キャラ。
これまたテンプレと言ってよいだろう。
生徒会総務に推薦された兄の応援演説をつとめる。
一方で、前巻でえがかれた父との再会が、残響としてただよう。
真実は、きびしい現実世界から妹をまもる防波堤の役をつとめる。
真彩は、そんな兄の気持ちをくんで「無邪気な妹」を演じてる様にもみえる。
光と影がつねに寄り添うのが本作だ。
本巻終盤の22話から、シングルマザーである若葉のエピソードがはじまる。
プリキュアをめぐっての口論がおかしい。
若葉は、いまでこそ主要キャラのなかでもっとも「デキた人間」だが、
普通高校にかよってたころは「空気を読めない女の子」だった。
長めの前髪で精神的未熟さを表現するあたりに、作者の技量がみてとれる。
現在の若葉が、真実や莉央より「オトナ」なのは、
年上だからであり、失恋や育児などを経験してきたから。
この様に『中卒』には「理由」がある。
現実とゆう経糸と、愛情とゆう緯糸を機にかけ、個性的な織物にしあげる。
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『死と乙女と中野』 第10章「マエ」

西銀座のサンリオワールドギンザのエントランスで、キティとマイメロディの立像が客を出迎える。サッサはアイフォンを操作すると見せかけ、人の出入りを観察している。数時間前に三階から飛び降りたときの痛みが肘にのこる。
重度のサンリオマニアであるマエが、きょう開催中の撮影会にあらわれると予測した。キティちゃんとキキララが、彼女の精神を支配している。何度もピューロランドへつきあわされたものだ。サッサは幼いころから、可愛いキャラより恐竜や昆虫の図鑑を好むタイプだったが。
白のニットを着たマエが、キャラクターをあしらった袋をもって出てくる。見知らぬポニーテールの女と談笑しながら歩き、こちらに気づかない。
サッサの呼吸がとまる。マエが装具をつけてない。軽やかな、あきらかに健常者の足取りだ。
そんなバカな。おとといまでびっこを引いていたではないか。
マエのかがやかしい表情をみて、サッサの胸に亀裂が走る。もし彼女に一卵性双生児のきょうだいがいても、あの笑顔は見まちがえ様がない。自分が双子の片割れだからわかる。
ポニーテールの女が、ニコンの一眼レフをネックストラップで提げている。
ああ、やっぱりマエだ。
彼女はカメラ好きの友人を必要とする。可愛い自分を撮ってもらうための。
サッサは電車を乗り継ぎ、ふたりを尾行した。
声は掛けられない。なんと言えばよいのだ。
京王井の頭線の駒場東大前駅で降り、そのままキャンパスへ入る。マエとポニーテールの女は、カフェテリアで十人以上の男女と合流する。
マエが団欒の中心だった。だれもが彼女の一挙手一投足に注目する。だれからも愛されている。当然だろう。外見がよく、明るく、賢く、気の利く、理想の女子大生だった。
サッサは確信する。マエは病気のふりをしながら陰で勉強し、東大医学部に現役合格した。
マエが座る椅子の背後に立ち、サッサが言う。
「お楽しみのところ悪いけど、話があるの」
マエは動揺しない。サッサの尾行に気づいてたのかもしれない。アイスカフェオレのグラスを持ち、サッサをつれて隅のテーブルへうつる。
マエがカウンターを指差して言う。
「注文はあそこで出来るから」
「まったく食欲ない」
「そう。で、なんの用」
「聞きたいことがありすぎる」
「なるべく手短にお願いね」
マエの声がかすかに震える。さすがに平常心ではいられないらしい。
「病気はいつ治ったの」
「治るまで半年かかったから、高二の夏くらい」
「うそ……二年間も演技してたの」
「そうだけど」
「なぜ」
「言ってもしょうがないと思うな」
「私には聞く権利がある」
マエは理由を語った。
プライドが彼女に嘘をつかせた。病気は予想よりはやく完治した。本当に「心因性」だったのかもしれない。しかし教室で数回発作をおこしたせいで、当時の友人は離れていった。疎外されはしないが、敬遠されていた。深く深く傷ついた。
病気が治ったからって、手のひらを返してあのコたちが戻ってくるのは許せなかった。そんな屈辱を味わうくらいなら、体が不自由なふりをする方がマシだった。
「なんで」サッサが言う。「私の前では卒業後も演技をつづけたの」
「決まってるでしょ。サッサちゃんが求めてるからだよ」
「え?」
「私を世話するのが生きがいだったじゃない。ちょうどお姉さんを亡くして不安定な時期だったし」
「そんな風に思ってたの!?」
「私って優しいから、つい人に合わせちゃう。でも、サッサちゃんの死ぬ死ぬ詐欺につきあうのも飽きたかな」
サッサは不思議な気分だった。心は奈落の底へ転落したが、肉体はまだ地上にある。
「親友だと信じてたのに」
「世話してくれたのは感謝してるよ。でも一生友達ではいられないよね」
「どうゆう意味?」
「うーん。サッサちゃんのことは好きだし、傷つけたくないんだけど」
「正直に言って」
「じゃあ言うけど、サッサちゃんはクラスでも下の方の人でしょ。私の居場所はそこじゃない」
サッサは憎くてしかたない。黒のワンピースに大量の涙をこぼす自分が。
マエには無償の愛を捧げたつもりだ。どんな仕打ちをうけても、恨むべき筋合いじゃない。
でも、つらすぎる。
マエはキキララのハンカチを手渡して言う。
「泣かないで。目立ちたくないから」
サッサは唇を噛んで嗚咽をこらえ、ICレコーダーをリュックから取り出す。
「この録音は一体なんなの」
「それは部分的なコピー。私が持ってるこれがオリジナル」
マエの華奢な右手に、おなじピンクのV-15がある。
「古い機種だからデータは取り出せないはず」
「二台をくっつけて、こっちで再生したのをそっちで録音した」
「誰が何について話してるの」
「さっきから言ってるでしょ。知らない方がいいって。殺されるかもよ」
「全部教えて。私をいたわる気持ちがすこしでもあるなら」
「マゾいなあ。なら自己責任でね」
録音されたのは七年前、当時の厚生労働事務次官が部下にくだした指示が収められている。「平均寿命世界一」の座を守るため、ほかの先進国が統計を発表するのを待ち、それに合わせて数値を修正しろとゆう内容だ。
つまり日本政府は、日本が医療先進国だと宣伝するための捏造、たとえるなら「後出しジャンケン」をおこなっていた。
その具体的證拠を、シバの父親である柴田医師が入手した。理想家肌の彼は政治に関心が強く、もともと資金面で野党を支援しており、自民党および政府から睨まれていた。
政府は柴田医師を失脚させるため、薬害事件に彼を巻きこんだ。たとえば殺されたツバキの妹は金をもらい、ワクチンの副反応を演じていた。
サッサはまばたきを繰り返す。話についてゆけない。
「レコーダーはどこで手に入れたの」
「私のお母さんが看護師なのは言ったっけ」
「聞いてない」
「看護師仲間がお母さんに渡したらしい。柴田先生は敵が多いからね。でも私が治って、うやむやになった」
「なんで隠してたの」
「サッサちゃんってバカ? 私は医者になりたいんだよ。公表して医療界を貶めるわけない」
「けど、人がたくさん死んでる」
「だから怖くなって、サッサちゃんに押しつけた」
サッサはうつむき、眉間を指で押さえる。情報を整理しないと。
平均寿命の話は事実だろう。真面目なマエの作り話にしては突飛すぎる。都知事選に立候補すると噂される柴田医師が、このスキャンダルに首を突っこむのもありえそうだ。
いま政府と柴田医師が、レコーダーの争奪戦をしている。そしてタッキーは、柴田医師に雇われている様だ。殺されたカスミやツバキは、政府側にとって利用価値のある人間だった。
いや、やはりおかしい。
たとえ野心家でも、政府にマークされてる人間が殺し屋を雇うだろうか。逮捕してくれと言う様なものではないか。ツバキが一千万円で敵に転ぶなら、二千万円払えばいいだけだ。柴田医師ならそれができる。
「わからない」サッサがつぶやく。「誰が何のために女の子を殺してるの」
「知らないよ。知りたくもない」
「無責任だね」
「医学生は忙しいの」
マエはオリジナルのV-15をカフェオレのグラスに沈める。データは死んだろう。
キキララのハンカチに染みこんだ涙は乾きはじめ、皺がのこっている。洗濯して返したかったが、おそらくマエに会うことはもうない。
サッサは言う。「ハンカチありがとう」
「どういたしまして」
「きょう聞いた話はショックだった」
「ごめんなさい」
「でも、マエが私にくれた笑顔のすべてが嘘ではなかったと思う」
「…………」
マエは怒った様な素振りでそっぽを向く。良くも悪くも八方美人。隙がなくて、決して誰にも弱みを見せない、世界で一番尊敬できる人。
その認識はすこしも変わらない。
マエも犠牲者なのだ。闘病生活がどれほど孤独で苦しかったか、サッサは隣で見ていた。
「楽しい時間をありがとう」サッサが言う。「すくなくとも私のなかでは、マエはずっと親友のままだよ」
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死と乙女と中野
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はま/相沢沙呼『現代魔女の就職事情』2巻
現代魔女の就職事情
作画:はま
原作:相沢沙呼
掲載誌:『月刊コミック電撃大王』(KADOKAWA)2015年-
単行本:電撃コミックスNEXT
この面構えだけで、読みたくなる。
見習い魔女「玉城禰子(たましろ ねこ)」のドタバタ修行ライフは、それなりに順調。
原作を受け持つのは小説家の相沢沙呼だが、
ストーリーラインは起伏にとぼしく、淡々と日常生活をえがく。
勿論、変身魔法に失敗してリアルフィギュアになるなどの事件はおこるが、
敵対者との軋轢や、ドミノ倒し的に連鎖するプロットはない。
1話完結のスタイルで、町の人々の悩みをひとつづつ解決する物語だ。
作画担当のはまは、繊細かつ流麗な絵柄でキャラを描き分ける。
ケチのつけ様がない。
文学少女風な「文香」の失恋をえがく10話が出色の出来。
引用しないが私服姿も、地味だけど魅力的。
ヴィジュアル面でヒロインと双璧なすのが、神社の娘である「弥生」。
ややギャルっぽい禰子に対し、純和風の高飛車お嬢さま。
弓道着が似合わないわけがない。
実は巫女装束は2巻で初披露!
日本に生まれてよかったと思える端麗なうつくしさ。
親からの期待と自分の夢のあいだの葛藤もえがかれる。
しかし読者は思うのだ。
それはともかくお母さん美人だなと。
表情、ファッション、おもわず撫でたくなるカラダの描写。
僕の知るかぎり、いま一番女の子のかわいさを堪能できる漫画だ。
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中山敦支『ゾンビマリア』
ゾンビマリア
作者:中山敦支
掲載誌:『週刊ヤングジャンプ』(集英社)No.26(通巻No.1778)
[中山敦支に関する記事はこちら]
『ねじまきカギュー』終了後、連載をもってない中山敦支が、
昨年の西尾維新原作『オフサイドを教えて』につづき、読み切りを発表。
樹海行ったらこのマンガのことが頭に浮かんだので帰ってきて描きました。
巻末コメント
作者による森林の描写が個性的なのは、当ブログで再三指摘したので、
本作の舞台が樹海であることに我が意を得た。
ゾンビのマリアは骨が露出した手で、主人公の首吊り自殺を阻止。
死・暴力・森・あっけらかんとした女の子……。
ナカヤマ作品のシンボルがそろっている。
中山敦支は本来、変貌する作家だ。
作品ごとに、いや一作品の執筆中にさえ脱皮をくりかえす。
そのわりに本作のヴィジュアルは「後期カギュー」と大差ない。
成長が止まったのかもしれないし、描き続けないと変われないのかもしれない。
内面的にも、逆説を弄するナカヤマ節を踏襲。
NHK教育テレビ的な朗らかさで死を抱擁し、
自己と世界が存在することそのものへの理解を、広場的に共有する。
世界観は深みを増した。
中山が肯定する生と死は、人間の本質にそなわる暴力性と不可分。
その死は、殺し殺される存在として直面する死だ。
スタティックな諦念でなく、ダイナミックな焦燥が充溢している。
大地の裂け目を、冥々たる闇のなかで飛び越す感覚を、読者に味わわせる。
ラストシーンの主人公は、干からびて樹木の様になっている。
カギュー以降の作者の自画像と解釈できる。
『ねじまきカギュー』の成功は、表現者としての理想だった。
あえて俗な言い方をすれば中山は、ある種の文学/藝術性と、
サブカル的センスをたもちつつ、ポピュラリティを獲得した。
才能と努力の賜物だが、羨むべき幸運児だったのは否定できない。
カギューのあとに何を描いても、そううまくいかないだろう。
重いテーマを打ち出せば頭でっかちと言われ、
流行を取り入れればセンスが古いと言われ、
読者に媚びればカギューの方がよかったと言われるだろう。
あれほどの働き者が2年間沈黙している理由だ。
しかし中山敦支はすくなくとも、そんな自己を冷徹にみつめている。
編集部コメントによると、新作準備中とのこと。
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『死と乙女と中野』 第9章「ホテル」

中野駅から徒歩十分のビジネスホテルクレセントに、サッサはひとりでいる。部屋は三階のツインルームだ。
猫の虐待動画を上げていたツイッターアカウントに、五百万円と引き換えにレコーダーを渡すとのリプライを送ってある。いまのところ反応ないが、おそらく食いつくだろう。
録音をすべて聞いたが、内容は会社かどこかでの平凡な会話で、意味すら理解できなかった。
サッサは窓越しに町並みをながめる。ここはマンションを改装した様な造りのホテルで、周囲は静かな住宅街だ。人通りもほとんどない。
首に傷の残る姉がガラスに映っていた。
「お姉ちゃん」サッサは言う。「来てくれたんだ」
「最近いそがしそうね」
「うん」
「怖くない? 乱暴な人たちと会うんでしょう」
「向こうの方が怖がってると思う」
「成長したわね」
「ありがとう。そこで見守ってて」
ドアがノックされた。サッサは三人の男を部屋へ招き入れる。タンクトップと野球帽は昨日とおなじ顔ぶれだが、アディダスのジャージを着た男がリーダーの代わりにいる。
サッサは尋ねる。「リーダーは?」
「死んだ」タンクトップが答える。「脳までやられたからな。フライドチキンで人を殺すとは、正直大したもんだ」
変なことで褒められ、サッサは頭を掻く。リーダーの罪が死に値するかはわからない。
タンクトップが言う。「身体検査させてもらう」
「ことわる。昨日の今日で、私に触る資格があると思ってるのか」
男たちの表情の緊張が増す。タンクトップは懐中電灯を、野球帽はタクティカルペンを、アディダスは特殊警棒を手にする。
タンクトップが言う。「レコーダーを出せ」
「先に金をみせろ」
「とりあえず百万円は用意できた」
野球帽が尻ポケットから封筒を出す。紙幣は新札と古札が混じっている。
サッサが言う。「交渉決裂だな」
「払わないとは言ってない」
「いますぐ帰れ。お前の目も潰すぞ」
「調子にのるな。友人がどうなってもいいのか」
サッサの心臓に杭が打ちこまれる。
やはりこいつらが拉致したのか。しかしマエが書いた住所が嘘なのはどう説明する? 携帯電話を解約する意味もない。ハッタリだろう。
「うせろ」
「俺達をここに呼んだのは、アレの続きをしてほしいからだろ。俺は友人の方をやるが」
サッサは、タッキーが音を立てず部屋のドアを開けるのを、視野におさめていた。不安げなシバが後に続く。サッサが場所をつたえた。
タッキーがウエストポーチから、サプレッサーを装着した拳銃を出す。ポリマーフレームのスプリングフィールドXDMだ。なめらかな動作で三発撃つ。背を撃たれた三人は順々に倒れる。空薬莢が散らばり、男たちの兇器が転がる。
シバはだらしなく口を開く。目の前の出来事が現実だと認識できてない。
デニムジャケットを着たタッキーは、野球帽とアディダスの頭部を撃ってとどめを刺す。
「待って」サッサが言う。「そのタンクトップはまだ殺さないで。シバ先輩、あれ持ってますか」
シバがつぶやく。「……え?」
「あれです、葉巻を切るやつ」
「お前なんで平然としてるんだよ!?」
実際はタッキーが銃を発砲したことに、サッサは驚愕している。顔に出ないのは生まれつきだ。無表情のせいで損ばかりしてきたが、はじめて役に立った。
肺に損傷を負ったタンクトップは、口から血の泡を吹いている。うつ伏せで這いずるが、徐々に動きはゆるやかになる。
サッサは恰幅のいい男を仰向けにし、ファスナーを引き下ろして萎んだ性器をつかみ、ギロチンカッターに挟む。男は朦朧としながらも、懇願する眼差しでサッサを見上げる。
サッサは躊躇せず切った。男は吐血とともに哀れな悲鳴をあげる。
憫笑を頬に浮かべたタッキーは、中腰の姿勢でXDMを構えてバスルームを調べにゆく。待ち伏せを警戒している。
サッサは赤く染まったギロチンカッターをシバに返す。
「ありがとうございました」
「捨てろよ、気色悪い」
「部屋の外で一一〇番して、騒いでください」
「はあ?」
「いそいで」
サッサはウィンクする。シバは緩慢な動作でドアを開けて退室した。
バスルームから出たタッキーが、タンクトップの頭を撃つ。サプレッサーが銃声のほとんどを吸収し、軽い拍手くらいの音しか聞こえない。窓やベッドの下なども探る。
「どうやら」タッキーが言う。「武器も脱出口もなさそうだ。どうゆうプランだったんだ?」
「プランと言いますと」
「保険だよ。お前はバカじゃない」
「そんなものありません」
「私が騎兵隊みたいに駆けつけるのを期待してたのか」
「むしろ遅すぎでしょう。飼い犬に首輪をつけるのが」
「ふん」
タッキーはやや下向きにXDMの狙いをさだめる。サッサとの身長差は三十センチちかい。
警報ベルが響いた。「助けて! 銃を持った人が暴れてます!」とゆうシバの叫びがドア越しに聞こえる。
舌打ちしたタッキーが部屋を出る。さっきはマスターキーで解錠したのだろう。サッサはU字ロックをかける。銃で破壊されるとしても時間を稼げるはず。
サッサは三階の窓から顔を出して見回す。つたうことができそうなパイプ類はない。
小柄な体の力をふりしぼり、ベッドのマットレスを持ち上げて地面へ落とす。
背後で鋭い金属音が鳴る。U字ロックが壊されたらしい。
サッサは宙に身を躍らせた。
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鍵空とみやき『ハッピーシュガーライフ』3巻
ハッピーシュガーライフ
作者:鍵空とみやき
掲載誌:『月刊ガンガンJOKER』(スクウェア・エニックス)2015年-
単行本:ガンガンコミックスJOKER
メイドカフェの更衣室でさとうは、後輩のすーちゃんに聞かれる。
「さとうの作り方」を。
すーちゃんのカバンには、さとうとおなじフェイクスイーツが。
ストーキングの兆候だ。
すでにロッカーを漁られるなどの被害をうけいていた。
いつものことだった。
うつくしすぎるがゆえ、愛されすぎる。
さとうは要求に応えきれず、求愛者たちは犯罪的になる。
しかし本作は百合サイコサスペンスだ。
さとうはどんな犯罪者より病んでいる。
求愛者を屈服させるなど、赤子の手をひねるよりたやすい。
征服したあと脅迫し、一件落着。
さとうは退屈する。
日常とゆうステージで演じられる茶番劇に。
作者は3巻でも読者をじらす。
殺人や拉致監禁といった、さとうの「罪」の真相に、
物語は足の爪ひとつ分くらいしか近づかない。
しおの精神も限界に達する。
現代において無垢な少女でありつづけるのは困難だ。
世界はこんなにも汚れてるのだから。
さとうはしおに罪を告白する。
懐柔のためとはいえ、後輩に好意があるふりをした。
決してゆるされない裏切りだった。
この世にはふたつの百合がある。
ほんとうの百合と、嘘の百合だ。
さとうは百合の相対性理論で、古典的ラブコメの世界観を破綻させる。
強引な論理で自分と相手を丸めこむ、好き好き詐欺。
でもふたりきりの楽園は守られたのだから、感動すべきだ。
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『死と乙女と中野』 第8章「レンジローバー」

サッサは胸騒ぎがしてベッドで目を覚ます。蛍光灯がつけっぱなしだ。開いたままのカルティエ=ブレッソンの写真集が、スウェットを着た体を圧し潰している。時刻は午前八時二十六分。彼女にしては早起きな方。
アイフォンでLINEアプリを起動。昨晩マエへ送った「おやすみ」のメッセージに既読がついてない。マメな性格のマエは、普段は二十四時間監視するかの様に返信してくるのに。
ベッドに腰掛け、電話をかける。現在この番号は使用されてないとのアナウンスが流れる。
サッサの背筋に悪寒が走る。敵が動いたのか。のんびり寝てる場合じゃなかった。探偵気取りで先手を打ったつもりでいたが、相手は平気で人を殺すプロフェッショナルなのだ。
「イエ電……マエのイエ電の番号しらべなきゃ」
譫言をつぶやきながら学習机へちかづく。引き出しの中に、キキララをあしらったマエからの年賀状をみつける。
一〇四で聞いたが、番号は登録されてない。アイフォンのマップアプリに雑司が谷の住所を入力する。そこは児童公園だった。
どうゆうことだ。
電話が不通なのは、料金滞納で解約されたなどの原因が考えられる。自分から人に言いづらいだろう。自宅の住所を書き間違うこともありうる。
でも、それらが同時に起こるだろうか。
ほかに連絡手段は思いつかない。マエの自宅を訪問したことはない。共通の知人もいない。サッサはほかに友人がいないし、マエの友人は病気のあと離れていった。
マエとの繋がりはあっけなく断ち切られた。親友と言いながら、私たちの関係はこれほどはかなかったのか。
崇拝的な感情は、依存にすぎなかった。
サッサはワンピースを着て、リュックを背負い、ボサボサ髪のままマンションから駆け出る。
行く宛はない。まさに悪夢だった。見慣れた中野通りの風景が色彩を失っている。地震の様に揺れつづける。
マエのことは心配だ。しかし彼女が私を騙していた可能性もある。もしそうなら、私はなんのため戦うのか。
コインパーキングに茶色のレンジローバーがとまっている。サッサの脳裏を電撃が襲う。GRの再生ボタンを押し、ツバキと一緒にいたリーダーが写る画像をさがす。マエが解離をおこした日に撮ったものを拡大。
リーダーのズボンにぶら下がる鍵に、レンジローバーのロゴが小さく見える。
駐車場に入ったサッサは車内を覗く。ドリンクホルダーに、ピンクのオリンパスV-15が無造作に置かれている。一千万円の価値があるとツバキは言っていたが。
オルファを逆に持ち、金属の爪をサイドガラスへ叩きつける。四度めで粉々に砕けた。
警報が鳴る。ドアを開けてサッサはV-15を取るが、何者かに引き摺り出される。アスファルトに側頭部を打つ。
右目に眼帯をつけたリーダー、タンクトップのマッチョ、白い野球帽の男がサッサを見下ろす。野球帽はアニソンカフェでDJをしていたやつで、ケンタッキーの箱をもっている。
野球帽はサッサの腹を蹴る。サッサが取り落としたV-15を、リーダーはバギーデニムのポケットに入れる。
リモコンキーで警報を止め、リーダーが言う。
「厄介なガキだ。生かしとくとヤバい」
「ヨシさん」野球帽が言う。「殺す前にこいつ俺んち連れてってマワしません?」
「お前趣味悪いな」
「ヨシさんほどじゃないっす」
サッサが物語のヒロインなら、颯爽とヒーローが救出にあらわれる場面だ。だが彼女は孤立している。舌を噛むとゆう選択肢が思い浮かぶ。
いや。こんなクズのために死んでたまるか。私は父や姉とはちがう。
サッサは尻餅をついた体勢でリーダーに右手をのばす。左目を充血させたリーダーは、警戒しながらサッサを引き起こす。
男に凭れ掛かりながら、サッサはささやく。
「はじめてなのに、同時に三人なんて嫌」
大きな黒目がちの瞳で見つめられ、リーダーはサッサの性的魅力にはじめて気づく。リュックを下ろさせ、兇器をもってないか全身をたしかめる。レンジローバーの後部座席へ連れこむ。
「ちょっ」野球帽が叫ぶ。「独り占めはズルいでしょう!」
「うるせえ。お前も後でやらしてやるよ。いまは人が来ないか見てろ」
リーダーは強引にサッサのワンピースを脱がす。白い肌に黄色の下着が映える。タンクトップと野球帽が、前の座席で歓喜の声をあげる。野球帽はフライドチキンを食べながら鑑賞している。
右の腋をリーダーに舐められる。ナメクジで満たされたプールに落ちたとしても、これほど不快じゃないだろう。サッサがもがくと、リーダーはますます昂奮して舌を這わせる。サッサは車内を観察するが、武器になりそうなものはない。
リーダーはもう片方の腋を舐めはじめる。よほど女の腋が好きらしい。
野球帽が食べ散らかしたチキンの骨に、サッサは目を留める。
尖った骨をリーダーの左目に突き刺す。先端が眼底の骨にぶつかって止まったので、拳で殴りつけて押しこむ。手は房水と血にまみれた。
サッサは車外へ出てワンピースを着る。奪ったV-15をリュックに入れる。タンクトップと野球帽は、まだ前部座席で呆気にとられている。
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天道グミ『Bの食卓』
Bの食卓
作者:天道グミ
掲載誌:『少年マガジンエッジ』(講談社)2015年-
単行本:マガジンエッジコミックス
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主人公は「暴食王ベルゼブブ」とその従者。
地獄を支配する悪魔のひとりだ。
単行本13巻をかさねたが掲載誌休刊により終了した前作、
『ヘルズキッチン』と世界観を共有する、スピンオフにちかい新作らしい。
ベルゼブブは愛ゆえに同族を食らう。
本作は「食人」を主題とするダークファンタジーだ。
従者の「ソウ」は、ギロチン台とゆう道具に生命があたえられたもの。
ベルゼブブのため黙々と「料理」をつくりつづける。
5話にあらわれる幼女は「ベリアル」。
こちらも地獄の七大公爵のひとりらしい。
バイクっぽい外見の従者「ナイトライダー」を乗りこなす。
ベリアルはベルゼブブに恋心を抱いており、
高飛車な言動のなかに本心が垣間見える。
てゆうか、わかりやすすぎ。
話は挨拶程度にすませ、ベルゼブブの城を辞去する。
全速力で。
読者の感情をゆすぶる「食人シーン」はともかく、どうってことない場面でも、
作者は見開きページをフルにつかって画力をひけらかす。
実際うまいので嫌味じゃないけど。
1巻において中心人物の葛藤はまったく描かれず、淡々としている。
キャラに萌えつつ、世界観に浸るための「雰囲気マンガ」なのだろう。
壁紙や環境音楽みたいに、心にじわじわ侵入してくる。
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たまいずみ『マコちゃん、さ』
マコちゃん、さ
作者:たまいずみ
掲載メディア:『ITAN』『ITAN WEB COMIC』(講談社)2015年-
単行本:KCx ITAN
痔の治療から物語がはじまる。
主人公は「山室マコ」、26歳。
服飾系の専門学校を出たが就職できず、いまはニート。
病院で知り合ったイケメンの「ただし」と、同病相憐れむで親しくなる。
本作は、ダメ女のダメな恋模様をえがくラブコメ。
美人じゃないし、体型はぽっちゃりだが、意外とモテる。
惚れっぽいからかもしれない。
相手の男たちは、マコちゃんとおなじか、それ以上にダメダメ。
ただしなど、病院でナンパをくりかえすクズだった。
喫茶店でバイトをはじめたら、中学時代の理科の先生と再会。
54歳だが、白髪になった以外は当時と変わらない。
妻と死別したのもマコちゃんにとって好都合。
結局つきあいはじめる。
歳の差や、その他諸々が原因のすれ違いが、上手に描かれている。
本作は、コミティアでの持ち込みがそのまま連載化したもの。
つまり事前に考案されたプロットは存在しない。
現在7話までつづく連載のなかで、作者が自分の内面をのぞきこみ、
「描くべきもの」を手探りするのが感じられる。
それは家族だろう。
たとえば、マコちゃんには理解できないものを希求する、ただしの母。
「家族そのもの」を大切にする家族もいる。
愛をかたるボキャブラリーが豊富な、注目に値する新人だ。
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『死と乙女と中野』 第7章「ツバキ」

「乾杯」
シバはギネスの瓶を、サッサのジンジャーエールのグラスに当てる。
水曜の午後六時、ふたりはアニソンカフェに来た。サッサからの謝罪の電話を受け、シバが誘った。日曜の流血沙汰の事後処理をする必要がある。シバはこの店でDJをすることもある。
空き瓶を振り、シバがおかわりを要求する。
サッサが言う。「先輩はいつも瓶のまま飲むんですね」
「飲食業やれば洗い物の大変さがわかる」
「ところで、こないだはすみませんでした。せっかく紹介してもらったのに」
「もういいよ。編集長も問題あった。いい人なんだけど、たしかにボディタッチ多いよな」
「いえ、私が悪いです。やりすぎました」
「あれだろ、本当はマエちゃんの病気の件でキレたんだろ」
「気づいてたんですか」
シバが仕事中に自分の会話をくわしく聞いていたのが、サッサには意外だった。若くして有名人となり、調子に乗ってる高慢な女とみなしていた。
「百合は正義」
「あはは、はじめて先輩に共感できました」
「奢るから、なんか酒飲めよ」
「飲んだことなくて。なにがいいですかね」
「無難にカシスソーダにでもしとくか」
混み始めたせいで、店員が二人席のこちらに気づかない。シバは勝手にカウンターへ入り、手早くカクテルをつくってしまう。
この人ちょっとカッコイイかも、とサッサの胸が騒いだ。
サッサは、飲み干した五杯めのグラスをテーブルに置いて言う。
「おかわり」
「奢ると言ったけど、すこしは遠慮しろよ」
「本が売れたからお金持ちでしょ」
「印税が入るまで一年かかる」
「私もお金欲しい。はやく一人暮らししたい!」
「お母さんと二人だっけ」
「そう。あの人は呪われた血が流れてないから、死んでくれそうにない」
シバは眉をひそめて言う。
「飲みすぎじゃね」
「あれはバカな女ですよ。呪われた男に股を開いて、呪われた双子を産んだ」
「悪いのは産ませた男だろ」
「男は本能じゃないですか。精子をばら撒くしか能がない、ただのスプリンクラー」
「いい加減にしろよ。辛い経験をしたのは知ってるけど、自分の親に言うことじゃない」
シバは深く息を吐き、氷の入った自分のグラスにウォッカをそそぐ。朝までコースになりそうだ。
「先輩ん家は?」
「父と二人暮らし。四年前に離婚した」
「お父さんと仲いいですか」
「甘やかされてるね。見ての通り自由放任」
「先輩は経済学部ですよね。医者になれとは言われなかった?」
「全然。でも本心は継いでほしかったろうな。それは今でも負い目だよ。やっぱ医者と結婚しなきゃダメかもとか」
「タッキーさんが聞いたら悲しみますよ」
「人生って思う様にならないな」
野球帽をかぶったDJが、奥井雅美の『輪舞-revolution』をかける。
テーブルを指で叩きながら、シバが言う。
「アガるなあ。DJやりてー」
「ウテナの曲だ」
「知ってんだ。お前ホントは百合好きじゃね?」
「ちがいますよ! 姉がアニオタだったから一緒に見てただけで」
「双子の姉妹でウテナとか、マジ萌える」
「そうゆう目で見るのやめて。迷惑」
「あたし、サッサを好きになってきた」
「はいはい。マエにもそう言ったらしいですね」
「へへっ」
シバは照れ笑いでごまかし、グラスを持ったままDJブースへ乱入して踊る。地元の名士を客は歓呼でむかえる。空気を読んだ店員にコントローラを譲られ、ミキサーをいじり、スクラッチを決め、パッドを連打する。
サッサは、悲観主義に凝り固まった自分がバカらしく思えてくる。世の中にはこんなに自由に生きてる人間もいるのだ。
上機嫌のシバが席に戻って言う。
「で、マエちゃんは百合研入ってくれんの?」
「さあ。今年は受験だし、そもそも桔梗は医学部ありませんからね」
「他大のコも歓迎だよ」
「なんでマエにこだわるんですか」
「LINE交換できたから、あたしはもういいけどさ。でもタッキーが強く推してるんだ。あとレコーダーを気にしてた」
「レコーダー?」
「オリンパスのピンクのやつを、マエちゃんが持ってんだって。知らない?」
「いえ」
「レア物らしい。あたしに聞け聞けってうるさかった。忘れたけど」
「ふーん」
オリンパスV-15はいま、サッサのリュックのポケットにある。ブロードウェイのトイレでマエに借りたあと、返しそびれたまま。
持っているのを隠せと直感が告げた。これを探してる人間がいる。おそらく殺人事件とつながってる。
ドアが開き、マキシスカートを穿いた赤い髪の女がひとりで入って来た。学生会館などで見た記憶がある。暗い店内を見回している。
「あの人」サッサが言う。「百合研ですよね。先輩に用があるんじゃないですか」
「あのコはツバキ。ウチで一番漫画がうまい」
「最近よく見かけます」
「いいコだよ。ツバキ、こっち!」
シバが手を振るのに気づき、ツバキが席へ駆け寄る。緊急の用があるので部室に来てほしいとのタッキーからの伝言をつたえ、またすぐ店を出る。ここは地下なので電波が届かない。
アイフォンによると九時十二分、学生会館の閉館時間が迫っている。
スタジャンを着て帰り支度しながら、シバはサッサに言う。
「もっと話したかったな」
「そうですね」
「さっき一人暮らししたいと言ってたけど、要するに親から独立したいんだろ。だったらルームシェアでもいいよな」
「相手がいません。友達はマエだけなんです」
「あたしと住まないか? まとまった金が入るから、結構いい部屋借りれると思う」
「え……」
ふたりは真顔で見つめ合う。水樹奈々の歌声が大音量で響いている。
「そうやって手当たり次第」サッサが言う。「女の子を口説いてるんでしょ。だいいち、先輩にはタッキーさんがいるじゃないですか」
「あいつプライベートでは、そんなにあたしとつるまないんだ。住所も教えてくれない」
「からかわないでください。私がどんな人間か知ってるくせに」
「知ってるよ。可愛くて、すごくピュアな女の子」
「私は誰とも恋愛したくない! 男だろうが女だろうが」
サッサの叫びが水樹奈々の声を掻き消す。
シバは虚ろな顔で天井を見上げて言う。
「ごめん、強引だった。酔っぱらいの妄言ってことで忘れてくれ」
「別に怒ってないです」
「ならいいけど」
「むしろ、う……うれしかった」
会計をすませてシバが帰ったあと、サッサは男女兼用のトイレに入る。ちいさな洗面台を叩く。
シバが提案したのはあくまでルームシェアであり、同棲じゃない。本心はどうあれ、ことさらに恋愛感情を匂わせてはいない。なのにサッサは、それが性的な誘惑だったかの様に、見苦しい反応をした。恥づかしくてしかたない。
双子の姉が十四歳で頸動脈を切って自殺したとき、自分は絶対に子供をつくらないと誓った。その決意に変わりはない。出産の前段階である恋愛やセックスからも、意識的に距離を置いていた。
でも女同士なら、例外かもしれない。
勢いよく顔を洗う。頭を冷やせ。ちょろすぎるぞ私。むこうの手練手管に翻弄されている。いまは恋愛どころじゃないはず。
トイレのドアが開いた。赤い髪のツバキが中を覗く。サッサは鍵をかけ忘れたのに気づく。
「すみません、すぐ出ます」
「いたよ! 例のチビ」
ツバキが背後に呼びかけると、黄色のポロシャツを着た日焼けした男が現れる。猫を虐待する動画を撮っていた連中のリーダー格だ。
「あんた」ツバキが言う。「レコーダー持ってんだろ。ブロードウェイのトイレで話を聞いた」
「なんのことですか」
「痛い目にあいたくなきゃ、さっさと渡せ」
リーダーがポロシャツをたくし上げると、バギーデニムに突っこんだ重そうな鉈が見える。
「あめあめで」ツバキが続ける。「カッター振り回して暴れたんだってな。でもヨシ君のマチェットにはかなわない。猫が真っ二つだぜ」
ふたりの脅迫者が笑う。「あめあめ」はメイドカフェの略称だ。猫殺しは事実だろう。サッサは抵抗をあきらめる。
ツバキはV-15を耳にあて再生。くぐもった男の声が、サッサにもかすかに聞こえる。ツバキは飛び上がって喜び、リーダーに抱きついて叫ぶ。
「これだ、一千万円!」
「ツバキさんは」サッサが言う。「百合研所属ですよね。男の人と仲良くしていいんですか」
「はあ? バカじゃねえの。百合とかただのファッションだし。みんな男とやりまくってる」
「汚れてる」
「てめえも汚してやるよ。ヨシ君、このブスやっちゃって。動画に撮って口封じしよ」
ズボンにぶら下げた鍵を鳴らし、リーダーが狭いトイレへ踏みこむ。
サッサは染みだらけの床に膝をつく。スプレー式のサンポールをつかみ、リーダーの顔へ噴射。
もがき苦しむ男の脇をすり抜け、夜の街へ飛び出した。
三日後。
宝仙寺斎場でツバキ、本名浅井椿の告別式が営まれる。享年十九。死因は心不全と発表された。
サッサはマエを連れて参列する。マエはフォーマルウェアだが、サッサはいつもの黒ワンピを着ている。普段着が喪服みたいなもの。
斎場の入口に取材陣が殺到している。「またもや百合自殺」と騒がれていた。ワンピースを着たシバが、頬を濡らして取材を受ける。彼女に影響されて少女が命を絶ったとされる事例は、これで四件め。今回は身内から発生したため、サークルの解散を宣言せざるを得なかった。
赤く目を腫らしたシバが、こちらに気づく。一瞬だけ視線を交わす。心中は想像つかない。あの涙は本物だと信じたい。
おとめ山公園の池で発見されたカスミとその母については、無理心中と報道されたあと、なんの情報も出てこない。
だれが少女たちを殺し、隠蔽しているのか。
シバなのか。自殺を肯定する彼女の百合思想は、殺人を揉み消すための隠れ蓑なのか。でも、たかが町医者とその娘が、警察やマスコミを牛耳れるだろうか。
厚労省や製薬会社がバックにいるのか。でも、そんな大組織が女子大生をコマに使うだろうか。
サッサは首を横に振る。迷いすぎるな。そして決めつけるな。あらゆる先入観を排除しろ。ツバキが他殺かどうかも、まだ確定してない。
マエと一緒に式場へ入る。両側にならぶパイプ椅子に遺族らが座る。ツバキの母が夫に抱えられている。支えがないと意識を失うから。
サッサは深く頭を下げ、これからする暴挙に関して前もって謝罪する。
死化粧をほどこされたツバキはうつくしい。棺桶には花や、生前に好きだったCDなどが収められている。
サッサは首周りの花をどける。水平の索溝が残っている。無数の引っかき傷もある。防禦創だ。ツバキは首と紐のあいだに指を突っこもうとしたが、そこに隙間はなかった。
首吊り自殺なら斜めの索溝ができる。八年前、父の遺体にあるのをこの目で見た。第一発見者はサッサだった。
半分気絶していたツバキの母が、取り乱してサッサに飛び掛かる。
「うちの娘になにをするの!」
サッサは手で制止して言う。
「お母さん、仇は私がとります」
サッサがブツブツつぶやきながら、中野坂上駅へ急ぐ。装具をつけてびっこを引くマエは、早足についてゆけない。
「サッサちゃん!」マエが叫ぶ。「もっとゆっくり歩いて」
「ご、ごめん。考えごとしてた」
「さっきから変だよ。そんなにショックなの」
「そうだ、レコーダー。まだ返してなかった」
「すぐじゃなくていいよ」
「あれはどこで手に入れたの。十年くらい前の機種だけど」
「誰かにもらった。お父さんだったかなあ」
フォーマルウェアで大人びて見えるマエが首をかしげる。
「がんばって思い出して」
「うーん」
「大事なことなの」
「そのころの記憶が一番混濁してるから……ごめんなさい」
あまりマエに負担はかけられない。シバとタッキーに直接疑問をぶつけよう。消される危険を冒してでも。
「私にもしものことがあったら……」
「なに?」
「ううん、なんでもない」
サッサはマエの手を取り、地下鉄への階段を下りた。
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アニメ『三者三葉』EDテーマ 『ぐーちょきパレード』
ぐーちょきパレード
アニメ『三者三葉』エンディングテーマ
歌:とりぷる♣ふぃーりんぐ[西川葉子(和久井優) 小田切双葉(金澤まい) 葉山照(今村彩夏)]
作詞:前田甘露
作曲:Motokiyo
編曲:渡部チェル
発行:東宝 2016年
【上の画像クリックでYouTubeへとびます】
タイトルがいい。
2番のサビで「ぐーちょきパーティ」と歌われるが、やはりここは「パレード」だ。
昂ぶるディスコチューンが、脳裏にエレクトリカルな行進をえがく。
前田甘露による歌詞が可愛くて、なおかつ深い。
主要キャラ三名を、じゃんけんのグーチョキパーにたとえる。
ほらグーチョキパレード 三人集まれば
ジャンケンは あいこで 永遠に終わらない
三者三葉は三者三様、つまり個性はさまざま。
出された手はグーチョキパーで、決着つかない。
勝ち負けを争うのが目的じゃない、永遠におわらないパレード。
じゃんけんの本質は百合だった。
1×3の答え
知りたいなら ねぇ ここにおいで!
「1×3の答え」はきっと3より大きいけど、すぐにはおしえない。
きょうもあしたもあさっても、一緒にあそんで答えをみつけよう。
『ぐーちょきパレード』には劇要素がある。
イントロと間奏部分で、西川家の元メイド薗部篠(CV:桃河りか)が登場。
ラジオDJが曲紹介をする要領でにぎやかすだけでなく、
ジャケットではクラブDJ風にターンテーブルをあやつる。
逆にアニメ本篇も、双葉や薗部さんの特徴ある声をアクセントにして、
それ自体が、音響監督・土屋雅紀が精巧に練り上げた音響作品として魅力的。
映画で言うなら、ジャン=リュック・ゴダールに肉薄。
OP
OPでもEDでも、拳を突き上げる双葉が印象にのこる。
反復により無邪気さを極限まで強調。
『三者三葉』は、アニメのヌーヴェルヴァーグの先頭を走っている。
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『幻影異聞録#FE PREMIUM LIVE ~エンタキングダム~』
幻影異聞録#FE PREMIUM LIVE ~エンタキングダム~
出演:木村良平 水瀬いのり 南條愛乃 小野友樹 小清水亜美など
主催:キョードー東京
企画制作:avex music creative/avex live creative
会場:中野サンプラザ
開催日:2016年5月15日
このイベントは、フリートーク・朗読・ライブの三部構成だが、
目玉は言うまでもなく豪華声優陣によるライブパート。
先頭を切るのはゲームとおなじく、黒乃霧亜役の南條愛乃。
黒い衣装がクールだった。
疾走感あふれる『Reincarnation』で一気に会場を沸騰させる。
つづいて織部つばさ役の水瀬いのりが登場。
衣装はノースリーブの水色ワンピ。
キラキラまぶしいアイドルポップで、ホール全体を多幸感で満たす。
曲数は3曲と一番多く、ヒロインらしいヒロインを演じきる。
朗読パートは、チキ役の最年少・諸星すみれの可憐さにスポットライトをあてる。
『幻影異聞録#FE』は女子が輝いているゲームで、
男性キャラはどちらかと言えばサポート役。
木村良平や小野友樹といった男性声優は、
そんな立場を把握した上で、会場に火をつけて煽る。
観客は男性声優目当てなのか、意外と女性客が多かった。
いかにもゲームは未プレイっぽい、熱心な南條愛乃ファンも見受けられた。
でも、僕が見たのは夜公演なのもあるけれど、ホールの一体感に驚いた。
みな思う存分たのしんでいた。
ハイライトは、ナンジョルノといのすけのデュエット曲『Give me!!』。
クールな霧亜はもっと可愛く、キュートなつばさはもっとカッコよく。
現在ブレイク中の勢いのまま、先輩へぶつかってゆく水瀬いのり。
それを受け止め、ビシッと息を合わせる南條愛乃。
ゲームとリアルが交錯する。
声優に興味ある者なら悶絶必至の瞬間だった。
演技力・歌唱力・ルックス・トークスキル……。
#FEは、水瀬いのりとゆうパフォーマーの潜在力を底の底まで引き出す。
しかもゲームのリリースが、本人の歌手としてのキャリアとぴったり重なり、
このイベントもヒロイックな物語の一部である様な錯覚にとらわれる。
幸運で、幸福な作品だ。
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- 水瀬いのり『Milky Star』 ドラマCD『√HAPPY+SUGAR=IDOL』主題歌 (2015/09/18)
- 佐倉アディクション 『矢作・佐倉のちょっとお時間よろしいですか』第129回 (2015/03/20)
『死と乙女と中野』 第6章「編集長」

サッサはマエと一緒に、中野ブロードウェイ一階の女子トイレにいる。アイフォンに保存した作品をスワイプする。迅雷社の編集者に見せるため、自家製の写真集をコンビニで三冊プリントしたが、ほかにも自信作を用意しておきたい。バッテリー残量が減って警告が表示される。
鏡ごしにマエが言う。
「笑顔で、あかるくね」
「うん」
「媚びないのがサッサちゃんの良さだけど、ときには人に合わせることも大事」
「わかってる。私も次のステップへ進みたい。マエみたいに」
「ほら笑顔。表情硬いよ」
サッサは鏡にむかい微笑する。どちらかと言えば整った顔立ちだが、笑うとバランス崩壊する。
「どうしてこんなに笑顔ブスなんだろ」
「そんなことないって」
「マエの笑顔は天使だけど、私のは化け物」
「もう、しっかりしてよ」
マエは声高に笑う。高校卒業して進路は分かれたが、あの頃となにも変わらない。親友がいればなにも怖くない。
「ところでいまレコーダー持ってる?」
「うん」
「会話を録音したいんだけど、アイフォンのバッテリー切れそうなんだ」
「古いので良ければどうぞ」
サッサとマエは自動ドアを通り、メイドカフェ「あめーじんぐ・あめじすと」へ入る。
スカート丈の短いメイド服を着た、金髪ショートカットの女に迎えられる。
「お帰りなさいませ、お嬢さま!」
メイドに扮したシバがウィンクする。この店を代表する売れっ子として活動するなかで、著書を出版するなどのチャンスをつかんだ。
紫の壁紙が貼られたフロアの四人用テーブル席に、スーツを着た四十歳前後の男がいる。薄毛なのか丸刈りにしている。サッサたちは待ち合わせの十五分前についたが、すでにウィスキーを飲んで出来上がっている。
サッサは全力を尽くし、不気味な半笑いを浮かべる。
男は現在、迅雷社の月刊漫画誌『コミック姫百合』の編集長をつとめる。この店の常連客であり、人気を見込んでシバを新書編集部へ紹介した。酔ってはいるが一応プロであり、それなりに真剣に写真に目を通す。
編集長はB5サイズの写真集から目を上げて言う。
「いいんじゃない。センスあると思う」
サッサが答える。「ありがとうございます」
「激しい情熱をもたず、あるがままの現実を受けいれる感じ。ゆとり世代の世界観なのかな」
「はあ、なるほど」
世代で一括りにする論法は愚かだが、サッサは気にしない。自分が何世代だろうが構わない。死後もすぐには消滅しない作品を、形にして遺したいだけ。
編集長はサッサの腕を触りながら言う。
「ごめんごめん。ゆとり世代は二〇〇三年生まれまでだったね。決めつけはよくない」
謝罪を口実にしたボディタッチ。これで五回め。
サッサは目を伏せて答える。
「いえ、大丈夫です」
「被写体には許可取ってるの?」
「路上スナップだから無理です」
「それはマズイなあ。もし出版するなら肖像権はクリアしないと」
「でも肖像権には財産権と人格権があって……」
「まあ法律的にはね。ただウチはビジネスでやってるわけだし」
「人物以外の写真もいっぱいあります」
サッサがアイフォンを渡したとき、手を数秒握られる。サッサは気を紛らわせようとアイスコーヒーを飲みこむ。
眼中に入れなきゃいい。この薄汚い中年男それ自体は、私の人生において無意味だ。こいつが持っている権限と人脈だけに価値がある。
隣に来るよう編集長に手招きされ、サッサは向かい側の席へ移った。
マエが視線を送る。
我慢して。あとで愚痴を聞いてあげるから。
表情だけでメッセージがつたわる奇跡に、サッサは胸が熱くなる。
テーブルに置かれた編集長のアイフォンに目を留め、サッサが言う。
「編集長のアイフォンケース可愛いですね。ポムポムプリンお好きなんですか」
「僕はサンリオ男子なんだ」
編集長は鞄からポケット式ファイルを取り出し、見せびらかす。いい年してサンリオグッズのコレクターだった。若い女を口説くときに有用なのかもしれない。
ファイルからキティちゃんが描かれた紙を出して続ける。
「この広告は僕がつくった」
サッサの血が凍る。それは被害者の会で配られた、紅花病ワクチンを勧める広告だった。
早く、早くしまってくれ。マエにそんな物を見せたくない。
サッサが言う。「どれも可愛いですね。ありがとうございます」
「君は中学生だっけ? 受けた方がいいよ」
「考えておきます」
「副反応の噂とか信じてないだろうね。あんなのデマだから」
「あとでネットで調べてみます」
「そう。自分で調べて、自分の頭で考えなきゃ。くだらないデマに影響されたら、日本はますますワクチン後進国になる」
サッサは上目遣いで恐る恐るマエを見る。やさしい笑顔を絶やしてない。心が引き裂かれているのは、サッサにしかわからない。
何がデマだ。ふざけるな。お前がいったい何を知ってるのか。マエが経験した地獄の何を。マエがそれを乗り越えるため払った犠牲の何を。
それでもマエは、私の夢の実現を手助けしようと笑顔でいてくれる。本当に人間じゃなくて、天使なのではないか。
編集長は、ZARAで買った黒のワンピースの裾からのぞく、静脈の浮き出たサッサの腿に触る。白い肌が好きなのだろう、さっきからチラチラ観察していた。そしてサッサの性格から来る無表情が、黙認を意味すると解釈したらしい。
サッサは左手で、毛の生えた編集長の手をテーブルに乗せる。
マエ、応援してくれたのにごめん。
オルファを垂直に手の甲へ突き立てる。編集長の胴体は椅子から落ちるが、手はテーブルに釘づけされている。立ち上がったサッサは両手でさらに深く抉る。三十七キロの体重でテーブルまで貫く。
のたうつ編集長は絶叫してる様に見えるが、声はサッサの耳へ届かない。聴覚が麻痺している。給仕していたシバが背後から組みつく。ほかの男性客もサッサを引き離そうとする。誰かの指が口に入った。思い切り噛む。
オルファがこれ以上刺さらないので、一気に引き切る。丸刈りの中年男は木の床で転げ回る。泣き喚きながら。
喜べ。天使を汚して、まだ命があることを。
サッサはオルファをウィスキーのグラスに突っこみ、黒刃についた血を洗う。
自分を中学生に間違えた男を見下ろし、サッサは言う。
「そんなにセックスしたいなら、母親とやってろ」
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サーティワン
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はっとりみつる/西尾維新『少女不十分』
少女不十分
作画:はっとりみつる
原作:西尾維新
掲載誌:『ヤングマガジン』(講談社)2015年-
単行本:ヤンマガKC
[ためし読みはこちら]
『ウミショー』『さんかれあ』につづく、はっとりみつるの新作は、
西尾維新が2011年に発表した同名小説のコミカライズ。
中山敦支もそうだが、いわゆる代表作を描き終えて消耗した作家に対し、
西尾は涸れかけた創作意欲を刺激する存在であるらしい。
漫画版『少女不十分』は交通事故からはじまる。
20歳の主人公の目の前で、トラックが女子小学生を轢殺。
一緒にいた髪の長い少女は、すんでのところで死を免れる。
そのとき彼女はゲームボーイで遊んでいた。
変わり果てた友人を抱きかかえて慟哭。
しかし主人公は見ていた。
少女が駆け寄る前に、プレイデータをセーブするのを。
僕は西尾維新についての知識がゼロにちかいが、
物語のこの異形ぶりは、さすがは人気作家だと唸らされた。
最初の企画書にも、
「トーン処理を抑え、白黒と罫線をメインにし、コントラスト高めで
主線が白飛びするような、実写風の画面作り」と書いていました。
はっとりみつるへのインタビュー
極端なハイコントラストにより、明暗の両方でプリーツが潰れている。
そうゆう作画のコンセプトを活かした衣装デザインとも言える。
刃物で脅され、主人公は少女の自宅へ「拉致」される。
そこは趣味のよい豪邸だった。
本作でスクリーントーンは少女の唇にしか使われない。
奇妙な錯覚だが、こまかい縦線でザラザラした空の方がリアルにみえる。
漫画史のなかで洗練をきわめたトーンワークは、
ある意味、白黒表現のために捏造された嘘なのだ。
女子小学生が男子大学生を監禁する、ツッコんだら負けのストーリー。
荒唐無稽だが、作画において鋭くリアリティをえぐりだす。
つまりこれこそが漫画だ。
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『死と乙女と中野』 第5章「タッキー」

迷彩柄のショートパンツを穿いたタッキーが、ボードへむけてダーツを投げる。二十のトリプルに刺さり、六十点を獲得。
はじめてダーツバーに来たサッサが脇で眺めている。自分もためしてみたが、ダーツが的まで届かず、横や後ろへ飛んでゆくので止められた。
サッサが呟く。「奇麗なフォームだなあ」
「ありがとう」
「ダーツで人って殺せますかね」
「中心の高さは百七十三センチで、私の身長とほぼ同じだ。私を狙う気なら練習するといい」
「そうゆうのじゃなくて、護身目的で」
「護身具なら櫛が最適だ。いま持ってるか?」
「まあ一応」
サッサはリュックの中の小物入れから、折りたたみ式のヘアブラシを出す。タッキーはそれを広げて握る。
「櫛には鋭い歯がついている。そして持ちやすい」
「たしかに」
「これで眼球を擦れば、一時的に無力化できる」
タッキーがヘアブラシをサッサの顔にちかづける。
サッサは目を輝かせて言う。
「いいかも! タッキーさんはしゃべり方が独特ですよね。男みたい」
「高校までアメリカに住んでたからね。日本語が不自然だったら指摘してくれ」
「むしろ似合ってますよ。日本に来たのはなんでですか」
「父の仕事の関係さ。空軍士官なんだ」
「パイロット?」
「いや。いまは三沢にいる」
サッサはヘアブラシを返される。身長差が三十センチちかくあり、視線がちょうどタッキーの胸に位置する。Vネックの紫のTシャツから見える谷間へ、手を突っこみたくなる欲望にサッサは耐えていた。
八席並ぶカウンターに、シバとマエが座っている。シバは瓶のハートランドを、マエはシャーリーテンプルを飲んでいる。すでにふたりは打ち解け、マエは屈託なく笑い、シバはその腕や腰をなれなれしく触る。
サッサの心が疼く。つい最近シバの悪口を言ってたと思えぬ、マエの八方美人ぶりに苛立つ。嫉妬だけで思うのではない。マエは知る由もないが、昨晩の殺人事件にシバが関与している確率はゼロじゃない。父を守るとゆう動機がある。
仏頂面でサッサが椅子に座る。
シバが言う。「楽しんでる?」
「床にたくさん穴を開けました」
「壁じゃなくて床かよ。それはそうと、マエちゃんを連れて来てくれてありがとう。噂の百倍可愛いな!」
マエが言う。「そんなことないですよお」
「マエは」サッサが言う。「一緒に原宿とか行くと必ずスカウトされますから」
「だろうね」
「私が追い払うんですけど、それが大変で」
「仲いいな。さっきからマエちゃんも熱く愛を語ってたよ。病気を克服できたのはサッサのおかげって」
サッサは己の独占欲を恥じ、うつむく。ダーツをしている間も、マエが離れて行かないか心配で仕方なかったが、親友はつねに自分のことを大切に思ってくれていた。もっと信じないと。
「私もマエを愛してます」
「わお、百合宣言きたあ!」
「変な意味じゃなくて」
「いや、これが百合なんだ。女子同士だからこそ理解しあえる、満ち足りた感覚。わかるだろ?」
「でも恋愛感情じゃない。絶対」
「いいね、いいね。その頑なさがまさに百合」
サッサは溜息をつく。シバはもともとお調子者だし、酔いが回ってさらに言動が浮かれている。
「可愛い子がいたらなんでも百合なんでしょ」
「まあね」
「先輩なら男にもモテるでしょうに」
「何人か付き合ったよ。でもいまは百合を極めたいんだ。花の命は短いから」
「二十二歳になったら先輩も自殺するんですか」
「下り坂の人生、生きてて楽しいと思う?」
シバはハートランドの瓶をあおる。タッキーと無言で見つめ合いながら。
ダーツスペースからこちらを観察していた三人組の男に、サッサたちは囲まれる。マエは男なら誰でも仲良くなりたくなる娘だし、シバとタッキーは垢抜けた女子大生だ。陰気なチビがひとりいるにしても、ナンパされない方がおかしい。
黄色のタンクトップを着た胸板の厚い男が、世慣れた風情のシバに話しかける。二十代前半に見えるが大学生ではなさそう。シバは歓迎するでもなく拒絶するでもない、当り障りない応対をする。マエは微笑しながら相槌打つ。タッキーはジントニックのグラスを傾ける。
サッサは吐き気をおぼえていた。男の筋肉が何より嫌いだった。リュックから取り出したオルファのカッターをカウンターの下で握り、心を落ち着かせる。
タンクトップ男が、サッサの肩に手をかけて言う。
「ワンピの君も可愛いね。レベル高っ」
「さわんな」
「え?」
「いますぐ手を離せ。殺すぞ」
「なにこのコ、おもしろいんだけど」
チキチキチキ……。
オルファの刃のスライド音がかすかに鳴る。シバとマエが顔を見合わせる。本当に刺しかねない。マエは首を横に振り、サッサの腕に手を添える。
「顔色悪いぞ」シバが言う。「ちょっと外の空気吸ってきたら」
サッサは軽いめまいを感じながら階段を下り、中野通りへ出る。行き交う人の流れがスローモーションに見える。
自分は「あっち側」の人間じゃないと痛感していた。マエは容姿だけでなく、医学部を狙えるほど頭脳も優秀。シバは裕福な家に生まれ、本人にも才覚がある。ふたりとも上流階級の一員として生涯をすごすだろう。
対する自分は、せいぜい写真集を出したいくらいで、プロの写真家になるとか大それた願望はもってない。専門的な勉強もしてない。バイトの面接すら通らない無価値な人間だ。
病が癒えたら、マエはきっと「あっち側」へ行く。そしてその方が幸せだ。
お姉ちゃん、あなたの言うことは正しい。私には呪われた血しかない。
サッサはGRの革のストラップに右手を通し、電源ボタンを押す。こめかみの辺りが熱くなり、雑念が吹き飛ぶ。このロクでもない世界を存分に切り取ってやる。
中野区の人口密度は一平方キロメートルあたり約二万人。豊島区に次いで、二十三区で二番目に高い。土曜の午後五時の中野通りは、前に進むだけでも一苦労する。ゴスロリ少女、腰の曲がった老婆、母に手を引かれる幼女、恋人たち……盲滅法にフレームに収める。
バスの停留所に人集りが出来ている。標識柱の上に猫が三匹乗っており、通行人が物珍しさに足を止めて写真を撮る。
ポロシャツを着た日焼けした肌の男が、スマートフォンでの撮影を終え、猫をぞんざいに紙袋に入れる。ぽかんとする人々を後に残して移動。今度は街路樹の枝に猫を放り上げる。
中野近辺で撮った猫の動画を、SNSで拡散する輩がいたのをサッサは思い出す。川へ投げこんだり酒を飲ませたり、虐待にちかい内容ばかり。
止めなきゃいけない。
盗撮で小遣い稼ぎしてたのと矛盾するが、サッサは義憤にかられる。しかし男には二名の取り巻きがいて、面と向かって説得するのは気が引ける。柄の悪い連中は、なぜいつも群れをなして行動するのか。
GRはズーム機能がない。サッサはGRを顎で支えて安定させ、ポロシャツ男が猫を投げる姿をすれ違いざま接写する。
パーカーのフードをかぶった取り巻きのひとりが、背後からサッサに叫ぶ。
「お前いま写真撮ったろ!」
逃げるべきか。しかし駆けっこでは男にかなわない。追いつかれたとき立場が悪くなる。
サッサは向き直って言う。
「それがなにか」
「カメラよこせ」
「いやだ」
「盗撮しておいてふざけんなよ」
「犯罪だと言うなら警察へ行こう。私の写真は藝術だ。表現の自由だ」
「なめてんのかチビ」
サッサは髪を引っぱられ、軽々と歩道に転がされる。ストラップが右手から抜け、GRを落としてしまう。液晶画面に傷がつかないか心配に。
パーカー男はサッカーボールの様に、サッサの腹を勢いよく蹴り上げるが、空振りする。
いつの間に現れたタッキーが、男のフードを引いてバランスを崩したせいだ。タッキーはうずくまるサッサに手を差し伸べる。
パーカー男が、タッキーの長い黒髪をつかむ。女を痛めつけるときの常套手段なのだろう。タッキーはその動きに合わせて頭を下げ、よろける相手の右腕を取り、ガードレールへ顔面から衝突させる。男は昏倒した。
タッキーが、男たちの中で年長らしきポロシャツ男に言う。
「飼い犬には首輪をつけておけ」
バギーデニムに鍵をぶら下げたポロシャツ男は、何も言わず他のふたりを連れて去る。以前からタッキーを知っている様だ。
サッサはガードレールに腰掛け、GRの汚れを払う。あたらしい傷はない。パーカー男の鼻血が乾いて路面にこびりついている。
「無鉄砲すぎる」タッキーが言う。「君はダーツが的に届かないくらい非力なのに」
「タッキーさんは格闘技やってたんですね。技を教えてくださいよ」
「自制心のない人間に武器は貸せない」
「けちんぼ」
「画像も消しておけ。トラブルの元だ」
「消すかどうかは写り具合で判断します」
「シバも強情だが、君は輪をかけて酷い。日本の女は皆そうなのか」
「褒めてもらえて嬉しいです」
中野の空は青みが深まってゆく。もうすぐ日没で、マジックアワーがやってくる。優美で艶のある写真が撮り放題だ。
サッサはGRを手に、また歩きはじめた。
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マウンテンプクイチ『ぷくゆり』
ぷくゆり
作者:マウンテンプクイチ
発行:一迅社 2016年
レーベル:百合姫コミックス
[ためし読みはこちら]
学校をサボり、海岸にたたずむ女子高生の「美優」。
作者は福岡県在住らしいから博多湾だろうか。
逆説的だが海の描写をみると、どこの土地かつたわる場合が多い。
偶然、サボりの常習犯である同級生の「絵理」と出会う。
「なぜ百合を描くのか」とゆう問いに対する、缶乃と仲谷鳰の回答
缶乃:私は表情を描くのが好きで、
感極まった表情を描くなら女の子の方が楽しいからです。
しかも女の子が二人いたら、二倍でラッキーみたいな(笑)。
仲谷:可愛い子と可愛い子が、可愛い事をしてたほうが可愛いじゃんって。
女の子はかわいい。
女の子同士なら二倍かわいい。
それが百合の存在理由だ。
かわいさを増幅するため、作家は女の子を描き分ける。
「体育座りと股開き」とか。
ガラケーも、個性を強調する小道具として利いている。
胸のリボンの有無、ソックスの色、ポケットにいれた左手……。
こまかな差異が百合の宇宙を構成する。
たとえば絵理のぞんざいなカバンの持ち方。
勉強嫌いだから中身はスカスカだろうと想像がふくらむ。
美優は禁止されているピアスに気づく。
学校のトイレで、ピアッサーで耳たぶに穴をあけるエロティックな場面。
やわらかな肉が貫かれた瞬間、ふたつの世界観が溶け合う。
ふたりが仲良くなったせいでクラスに波風が立つ。
「うっとおしい」と思われる。
絵理を排除しようとする同級生の外見は、主人公側と入れ替わっても違和感ない。
少女たちは、似ているからこそ反撥しあう。
絵理だけが生徒指導室へ呼び出される。
担任の教師は、美優がピアスをあけたことまで把握していた。
言及はないが告げ口があったのだろう。
政治力をつかい周到に「敵」を追いこんでゆく、「女同士」のいやらしさ。
こちらは別の短篇。
イタズラを避けるため、下駄箱はつかわずシューズケースを持ち歩く。
ここでも小道具が、それぞれの個性と、思春期女子らしさを際立たす。
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『死と乙女と中野』 第4章「おとめ山公園」

なかのZEROの小ホールの客席で、サッサが薄目を開けて座っている。半分眠っている。隣のマエは真剣な表情で講演を聞く。服は花柄のブラウスにタイトスカート。
ふたりは「紅花病ワクチン被害者の会」の集会に参加していた。無理にマエを誘ったサッサだが、医者や辯護士の長話に眠気をもよおした。
紅花病は、子宮の機能不全をもたらす病気だ。慢性的な不正出血をともなうため、そう俗称される。発見が遅れれば子宮摘出手術が必要となる重病だ。
性交渉により感染するため、未経験の中1から高1の女子に対し、ワクチン接種が広くおこなわれた。言うなれば、処女が大人になるための薬だ。異例のスピード承認がなされるなど、厚生労働省が積極的に推進した。ところが全国で、接種後に全身の痛みを訴える事例が頻発し、安全性や法的責任をめぐり激しい議論が生じている。
マエが肘でサッサの脇を小突き、ハンカチを手渡す。耳に口を寄せてささやく。
「いびき、聞こえてるよ」
「ふぇっ!? ね、寝てないよ」
「これでよだれ拭いて」
「……ありがと。マエはマジメだね。高校のときも授業中に寝てるの見たことない」
「私は逆に、いつでもどこでも寝れるサッサちゃんがうらやましい」
マエはトートバッグのなかに、ピンクのICレコーダーをいれて録音している。病気による記憶力低下を補ってるわけだが、罹患する前も授業で使っていた。性格なのだ。
サッサは入場前に配られた書類に目を通す。資料として、キティちゃんがワクチンを勧める広告が添えられていた。迅雷社が協賛者として名を連ねている。医療界は可愛いキャラクターで少女たちを唆し、その人生を破壊した。
四百人ほど収容されたホールを見渡す。百人近くがワクチンの被害者だ。犠牲の大きさと理不尽さに胸が潰れる。この乙女らに、いったいなんの罪があるのか。
学生会館で見かけた赤い髪の女が、斜め前の座席にいる。妹か誰かの付き添いらしい。
ふたりは中野駅前のガストに場所をうつした。向かいの席に座る、集会で知り合った母娘と話している。娘の名はカスミと言い、眼鏡をかけチェックのシャツを着ている。十六歳だ。
「私とマエは」サッサが言う。「高校の同級生で、病気になる前後に仲良くなったんです。だからこうして付き添うのも当然とゆうか」
母親は片眉を上げ、疑いの眼差しを返す。家族でないのに世話を焼く動機を理解できないらしい。
「サッサちゃんは」マエが言う。「すごく優しいんです。一人っ子の私にとってはお姉ちゃんみたいな存在で。いやお母さんかな」
マエはほほえみつつ、テーブルの下でサッサの手を握る。好きでやってることなのに、こんなに感謝してもらえるなんて。サッサの頬は溶けそうなほど熱くなる。
会話に加わってなかったカスミが尋ねる。
「マエちゃんとサッサちゃんは友達同士?」
「うん、親友なの」マエが答える。
「じゃあこの人は、私の友達かな」
「この人」と呼ばれた母親は傷ついた素振りを見せないが、唇がかすかに震える。カスミは母の記憶を失っているだけ。悪いのはワクチンをつくった製薬会社と、推奨した厚労省と、投与した医者だ。勿論、同意書にサインした自分も同罪だと、被害者の親たちは我が身を責めている。
カスミはテーブルで小学生用の教材をひらき、漢字の練習をはじめる。母親はペンの握り方から教える。
母親は拳を握りしめ、マエに言う。
「利里ちゃんは自分で集団訴訟に参加できるよね。だいぶ具合良くなったし」
「ううん……どうなんでしょう」
「おかしいでしょ。どの病院に行っても『心因性』と決めつけられる。そんな訳ないじゃない。勉強が得意だったこの子が突然、漢字すら書けなくなったのよ」
「お気持ちは痛いほどわかります」
「娘が恢復すればそれでいい、せめてこれ以上悪化しなければいいとゆう思いだけで、これまで頑張ってきた。でももう限界。誰かが責任取らなきゃいけない。特に柴田先生は許せない」
「私は予備校に通うので精一杯で……」
「あなたのお母さんはどうしたの。最近さっぱり顔出さないじゃない」
険しい口調に気圧されるマエを見かね、サッサが言う。
「マエは全快してないんです。こないだも公園で解離がおきて……」
母親が叫ぶ。「部外者は口を出さないで!」
大声に驚いたカスミがペンを落とす。椅子に倒れて横たわり、痙攣している。母親はカスミに覆いかぶさる。全体重で押さえつけねばならないほど不随意運動は激しい。
異常を察して飛んで来たウェイターに、サッサは平静を装って言う。
「大丈夫です。よくある発作なので」
カスミが嗚咽まじりに頭痛を訴える。熱した鉄の棒で脳を掻き回される様だと。
席を立ち、カスミの背をさするマエの頬に、涙が光っていた。
午後七時半。下落合のおとめ山公園へ通じる坂を上るサッサの目に、複数のパトカーと救急車の警光灯の光が飛びこむ。
駅前のバス停で別れたマエから電話があった。公園にいるので来てほしいと、カスミと母親がメールしてきたが、自分は行けそうにない。でも気になるので調べてくれたら嬉しいと頼まれた。
事態は想像以上に深刻らしい。
サッサは入口をふさぐ警官に、高めに声色を変えて言う。
「警察の人に呼ばれました。ママとお姉ちゃんが大変なことになってるって」
授業中の居眠りにならぶサッサの得意技である、小学生のフリだ。日本人は子供に甘いため、大抵の場所で自由に出入りできる。
おとめ山公園は、森林が息苦しいほど密生する、都心にある秘境だ。木陰ごしに見える、闇に揺れる懐中電灯の光を頼りに池へ近づく。湧水で出来た池に入った警官が、腹を下にして浮かぶ女を岸へ運んでいる。茶色のタートルネックに見覚えがある。カスミの母親だ。奥の水面で漂うチェックのシャツの女は、カスミ本人の様だ。
サッサは自分の呼吸が乱れているのに気づく。池から遠ざかって斜面を上り、回り道してさっきと反対側の出口へむかう。さすがに殺人容疑者に仕立てられはしないだろうが、用心が必要だ。
看病に疲れた母親による無理心中ではない。自殺か事故なら、肺に大量の水が入って体は沈む。ふたりとも浮かんでいたのは他殺だからだ。自殺の情報を漁っているサッサは瞬時に悟った。
状況から見てこれは計画的殺人だが、素人でも見抜ける痕跡が残ってるのが腑に落ちない。隠蔽工作中に発見されたか、それとも警察をたやすく操れるほどの有力者による犯行か。
しかし、だれが、なぜ。
たとえば集団訴訟を妨碍するため、ワクチンを打ったシバの父親が口封じをしたとか?
ありえない。ハイリスクすぎる。医者が患者を謀殺するなんて正気の沙汰じゃない。サッサは両手で頬を叩き、安っぽい陰謀説を頭から締め出す。
目白通りに出たサッサは、下落合駅へ足を速める。アイフォンでマエに電話する。今見たことは黙ってるつもりだ。心配させたくない。
金髪の女とすれ違ったとき、シバを思い出す。自分とマエをサークルに誘った彼女の、本当の目的はなんだろう。なにを知ってるのだろう。
剥き出しの暴力が、サッサとマエの周囲で蠢いている。わかっている事実はそれだけ。サッサは百合研に入るようマエを説得すると心を決める。ほかに真相へ近づく手段がない。
マエ、はやく電話に出て。あなたのことは命に代えても守る。
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樋口陽一/小林節『「憲法改正」の真実』
『甲鉄城のカバネリ』(テレビアニメ/2016年)
「憲法改正」の真実
著者:樋口陽一 小林節
発行:集英社 2016年
レーベル:集英社新書
[特設サイトはこちら]
2009年の衆議院選挙で、自由民主党は弱体化した。
勉強熱心な叩き上げの議員が落選し、世襲議員ばかりが残った。
舛添要一などは見切りをつけて離党した。
自民党の法務族は世襲議員が多い。
憲法なんて利権が絡まないから、強い地盤をもつ連中の趣味でやっている。
三世四世議員は、旧体制の支配層の子孫だ。
たとえば安倍晋三の祖父・岸信介は、ファシズム期の文官の最高責任者。
ゆえに彼らはファシズム期の10年を憧憬し、戦後を否定する。
私怨にもとづいてるから本気だ。
日本国憲法への憎悪が、彼らのアイデンティティなのだ。
学校教育では明治憲法を批判し、日本国憲法を賞讃する。
しかしその評価はバランスを缺いていると、樋口陽一はのべる。
明治憲法は、19世紀後半の基準でみれば立派だった。
「ビリケンさん」にまつわるトリビア(p37)、「神聖」とゆう文言の意味(p59)、
民衆の憲法運動(p75)、伊藤博文の議論(p83)などの例を挙げ、
上から下まで一丸となり近代国家建設にとりくんだ努力を、本書はおしえる。
つまりファシズム期の10年が異常なだけ。
憲法テロリストは法と道徳を区別できないので、
改憲草案で「家族を尊重せよ」などと謳い上げる。
これでは一人暮らしや離婚の自由がなくなる。
すくなくとも憲法で保證されなくなる。
なにしろ草案では「個人」の概念が消滅してるのだ!
「伝統」や「和」といったタワゴトは、明治憲法に出てこない。
似たものを探すなら、ナチスに従属したフランスのヴィシー政権だ。
大日本帝国は滅亡したが、上の方はほとんど入れ替わってない。
安倍晋三がその證明である。
学校教育で立憲主義を教えないのも、ファシズム期の名残りだ。
ではなぜ、財界などから憲法テロへの批判がおきないのか。
小林:新自由主義によって人々が分断され、
安定した社会基盤が壊されていくなかで、
スローガンとしては愛国だの、家族だの、
美しい国土だのを謳いあげて、社会の綻びを隠そうということですね。
憲法テロリストは無知だが、無知を装ってる側面もある。
全身全霊で叩き潰さねば日本は終わりだ。
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テーマ : 政治・経済・時事問題
ジャンル : 政治・経済
信濃川日出雄『山と食欲と私』
山と食欲と私
作者:信濃川日出雄
掲載サイト:『くらげバンチ』(新潮社)2015年-
単行本:バンチコミックス
[『少年よギターを抱け』の記事はこちら]
タイトルは「単独登山女子」の方がよかったかも。
主人公である27歳OLの「日々野鮎美」は、
チャラい「山ガール」と呼ばれるのが嫌でそう自称している。
たしかに本作はグルメ漫画の側面があり、
「おいしそう♪」みたいな感想もネットで散見されるから、
食い意地のはった読者を釣るとゆう商業的意図は理解できるが。
信濃川日出雄はユニークな漫画家だ。
この人色んなもん描くのんなー。
(略)
しかもみんな共通して濃ゆいんですわ。
サダマタイ氏のレビュー
「少年~」はバンドものでしたが、ギター同様に登山もお好きな
作者ご自身の趣味が旺盛にフィードバックされており、
登山家からすると結構あるあるネタなのかな?と思わせるリアリティ。
KM/YM氏のレビュー
軽薄短小な時代の趨勢(=とりあえず女出しとけ)に合わせつつも、
バンドの話は『けいおん!』にならないし、登山の話は『ヤマノススメ』にならない。
つまり「漫画らしい漫画」を描く。
ジャンル論になるが、「登山もの」は退屈で当然とおもう。
他人の山登りを見ても意味はない。
すくなくともサッカーや野球などとは別次元にあるスポーツだ。
「グルメもの」についても、僕は「第二のポルノ」とみなしている。
しかし不思議な錯覚により、「山で食事する女の子」は魅力的。
おそらく「自助努力」が、読者の心に響くのだろう。
急坂でみづから編み出した「ジグちょこ歩き」を、街中で応用したり。
経験をフィードバックしてゆく姿勢が、キャラクターをいきいきと浮かび上がらせる。
おばちゃんの自虐ネタへのリアクションに困る場面も、
単なる「登山あるある」と言うより、「女子あるある」として楽しめる。
食べごたえがあり、漫画欲を満たしてくれる漫画だ。
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仲谷鳰『やがて君になる』2巻
やがて君になる
作者:仲谷鳰
掲載誌:『月刊コミック電撃大王』(KADOKAWA)2015年-
単行本:電撃コミックスNEXT
七海先輩にキスをもとめられた侑が、まぶしげに目を細める。
侑にとって恋は、直視するには刺激がつよすぎて。
思春期女子の瑞々しさで、肉欲の生臭さを浄化した物語群が、百合漫画だ。
とはいえ百合が市民権を得るなかで、この図式は陳腐化しており、
2016年現在、「女の子同士だからピュア」とゆうトリックは通じない。
そんな時代精神に、『やが君』は「百合を否定する百合」として対峙する。
女の子同士だって、汚いものは汚い。
だからこそ惹かれる。
ふたりのキスは、おなじく生徒会の槙に目撃されていた。
あっけらかんとした態度で、どうゆう関係なのか問い質す。
3人の女きょうだいに囲まれて育った槇は、女心の観察者だった。
恋バナが最高の娯楽とおもっていた。
善悪のレベルをこえた、「劇場型犯罪としての百合」が上演される。
『攻殻機動隊』でたとえるなら「笑い男事件」みたいなもの。
カバー下の「生徒会室図解」。
ここまで綿密な設定をもとめられる漫画家は大変な稼業だが、
おそらく作者は舞台をかんがえるのが好きなのだろう。
缶乃:仲谷さんの漫画、ほんとに絵が上手いなって思うんですが、
これアシスタントは使われてます?
仲谷:いえ、一人で描いてます。
缶乃:背景も含めて、これ全部一人で描いてるんですか? すごい……。
(略)
仲谷:自分の仕事は全部自分でコントロールしたいって、
どうしても思ってしまって。
仕事で漫画を描いていくにはあまり良いことでは
ないんだろうと自覚してるんですけど。
『アキバBlog』での仲谷鳰と缶乃の対談
僕は1巻の記事で制服のデザインについて言及したが、
やはり仲谷鳰の武器は人物描写ではないとゆう印象を、本巻でもおぼえた。
描き分けが比較的うまくないし、キャラはどちらかと言えば無表情。
置き石づたいに川を渡る10話の名場面の様に、
舞台装置やカメラワークを駆使したドラマづくりで、観客の心をつかむ。
上掲の対談では、「空白恐怖症」的に背景を塗りこめる缶乃に対し、
余白をたくみに配して構図を練る仲谷、とゆう個性が明確にされた。
少女漫画的で主観的な心象風景と、三次元的で客観的なリアリズムの融合。
仲谷鳰は、百合漫画の枠組みにおさまらない、漫画表現のパイオニアだ。
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『死と乙女と中野』 第3章「双子の姉」

サッサは桔梗学園大学の学生会館のロビーを抜け、エレベーターに入る。閉じるボタンを連打するが、男二人が続いて来た。密室に男と一緒に閉じこめられ、サッサは窒息する。ドアを開けて外へ転がり出る。
百合漫画研究会のある三階まで階段を上る。廊下で談笑する暇そうな女たちが、サッサの外見を値踏みする。キノコの様な赤い髪の女が、腕を組んで観察している。サッサは誰とも目を合わさず、早足で百合研の部室にたどりつく。
ノックしたが返事がないのでドアを開ける。本棚やポスターが壁を占領する部屋の奥のソファに、人影がみえる。全裸のタッキーの股に、デニムシャツを着たシバが顔を突っこんでいる。
「えーと」サッサが言う。「お取り込み中でしたら帰りますが」
シバが答える。「ようこそ百合研へ」
サッサはパイプ椅子に座り、サークルが発行する同人誌を読んでいる。漫画にくわしくないが、玉石混淆におもえる。プロ並みの作品もあれば、人に見せる水準でないものもある。
「おふたりの作品は?」
「あたしは」シバが答える。「評論を書いてる。タッキーは編集作業。どう? ウチらの本」
「どうって言われても。まあ、出てくるのが女の子ばっかりだなとは思いました」
「男がいた方がいい?」
「それはないです。男嫌いだし。私恋愛に興味ないんです。するのも、見るのも」
「かわいいのに勿体ない」
「恋愛って要するにセックスでしょう。ベタベタと粘膜を交換するだけの話じゃないですか。まったく無意味だし、つまらない」
「ドライすぎる人生観だけど、個性的だ。それを表現してみたら」
「漫画なんて描けません」
「カメラが好きならグラビアがいいかな。タッキーのヌードとか」
タッキーがソファで微笑する。よほど体型に自信があるのか全裸のまま。
サッサは言われる前から、光の向きやホワイトバランスを計算していた。斜光を活かして、凹凸の大きいシルエットを強調したい。
首を横に振る。シバたちの術中にはまっている。賭け金の高額さをかんがえれば、もっと慎重になるべきだ。
シバは木箱から葉巻を取り出し、ギロチンカッターで切る。マッチで火をつけ、椅子にゆったりと凭れながら煙を吐く。シバは不思議な色気の持ち主で、浮世離れした金髪ショートカットなのもあり、葉巻が絵にならなくもない。
サッサが言う。「葉巻吸う女の人って珍しいですね」
「シガーバーにいけば結構いるよ。吸ってみる?」
好奇心に負け、サッサは一口煙をふくむ。熱くて苦かったが、むせるのは我慢した。
灰皿においた葉巻を返して言う。
「おもしろい味でした」
「喫煙者だっけ」
「嫌いです。父がヘビースモーカーだったので」
「『だった』?」
「ええ、過去形です」
視線を感じたサッサが壁にかかる小さな鏡を見ると、そこによく知る人物がいた。紫のワンピースを着て、首に傷跡がある。
双子の姉である夢美がサッサに言う。
「元気そうで安心した」
「お姉ちゃん、なにしに来たの」
「いま困ってるでしょ。妹を助けるのは姉の役目」
「私を置き去りにしておいて、よく言う」
「まだ怒ってるのね。そう頑固では幸せになれないわ。親友を失い、夢も叶わない」
「お姉ちゃんに説教する資格があると思うの」
「あきらめなさい。私達は呪われた姉妹なのだから。不相応な願望は捨てなさい」
「うるさい」
「すべてを失っても、あなたには私がいる」
「だまれ!」
サッサは黒いリュックからオルファのカッターを取り、壁際の姉にむかって走る。黒刃を紫のワンピースに突き立てる。服全体が赤黒く染まるまで刺しつづける。
「あんたなんか姉じゃない! 負け犬のくせに偉そうな顔をするな!」
サッサは自分がベッドに横たわっているのに気づいた。一人用の白い病室で、シバとタッキーが傍らに立っている。窓の外に中野ブロードウェイが見える。
「ここは」サッサが言う。「柴田総合病院ですね。シバ先輩のお父さんがやってる」
「そう」
軽く身をよじるだけで痛みが走る。いつの間に着せられた緑のパジャマのボタンを外すと、胴体の上から下まで包帯が巻かれ、血が滲んでいる。
「私やっちゃいましたか」
「突然で止められなかった」
「すみません、御迷惑おかけしました。信じてもらえるかわかりませんが、事情を話します」
佐々家に生まれた人間はみな呪われた血、つまり自殺の遺伝子をもっている。医学的に證明されたものではないが、その九割が二十歳までに命を絶っているのは事実だ。父は首を吊り、姉はカッターで頸動脈を切った。
シバが頭を掻きながら言う。
「迷信じゃないの。あたし医者の娘だけど、そんな話聞いたことない」
「私も迷信と思ってますよ。たまに自信なくなるけど」
ショートパンツを穿いたタッキーが、子供用のスウェットの上下をベッドサイドの棚に置く。
「これが着替えだ。ファッショナブルとは言い難いが。動けそうか?」
「ええ。持ち物はどこです?」
タッキーはシバに目配せする。カッターを返すべきか迷っているのだろう。
「しばらく」シバが言う。「ウチに入院してもいいよ。お安くしとく」
「結構です。荷物返してください」
柴田総合病院は、マエにワクチンを射った病院だった。これ以上世話になりたくない。
「でも目の前であんなもの見せられたら」
「カッターがなくても自殺はできます。いつでも、どこでも。気にしてたら身が持ちません」
「自殺者が年間三万人って言うよな」
「お風呂で溺れて死ぬ人は年間一万人らしいです。多いのか、少ないのか」
シバは肩をすくめる。タッキーが部屋の外から持ってきたリュックを受け取り、サッサはカメラやアイフォンやカッターを確かめる。紺のスウェットに着替えながら言う。
「ところでシバ先輩、あの話まだ生きてます?」
「あの話?」
「迅雷社の編集者を紹介してくれるって」
「連絡はしたよ。結構乗り気だった」
「マエを百合研に誘うのは難航中ですが、責任もって説得します。そちらもよろしくお願いします」
「メンタル強いな。自殺未遂直後なのに」
「私の取り柄はこれだけですから」
リュックを背負ってサッサはほほえんだ。
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