ウィンストン・チャーチルと言葉

1895年、軍服姿で

 

 

ハロー校でまなんだチャーチルは劣等生で、

古典語はさっぱりだったが、英語の執筆や辯論だけは熟達した。

英語のことばを愛してもいた。

 

 

チャーチルの母、ジェニー

 

 

陸軍の将校になってすぐ、戦場にでようと画策しだす。

美貌でしられる母の力をかりて。

有名になるには戦争の記事をかき、新聞社へ売らねばならない。

「ペンは剣より強し」とゆうが、チャーチルにとってはどちらも武器だった。

 

 

1941年、ステン短機関銃をかまえる

 

 

1933年にヒトラーが政権をにぎったとき、ヨーロッパの指導者層は、

かれを現実ばなれした山師で、じき転落する男と楽観視した。

チャーチルは数すくない『わが闘争』の読者だったので、敵の意図を察知していた。

 

民間人に60万の死者をだしたドイツへの爆撃は、人道的に批判される。

その是非はともかく、チャーチルが後押しした空爆作戦の影響により、

東部戦線でドイツ軍が制空権をうしなった事実は、過小評価されがち。

 

 

1940年、空襲警報をうけヘルメットをかぶる

 

 

1908年に商務大臣となったチャーチルは、労働環境の改善に尽力した。

熱烈な反共主義者だからこそ、革命をさけるため改革する。

 

チャーチルの宗教は憲法で、議会が教会だった。

憲法の精神と文言を心から信じ、議会の決定に対し忠実にふるまう。

「独裁的権力者」だったが、「独裁者」でなかった。

命令をかならず文書でおこなうのも、つねに口頭で命令したヒトラーと好対照。

 

 

1945年、ヤルタ会談の三巨頭

 

 

1945年7月の総選挙で保守党はボロ負けし、日本の降伏をみぬままチャーチルは首相の座をおわれる。

議会政治のおそろしさであるが、むしろ幸運だったかもしれない。

たしかにかれの時代はおわっていた。

インドはイギリスの庇護が必要とおもっていたが、経済大国として擡頭する。

熱心なシオニストだったが、ユダヤ人テロリストの残虐行為に心をいためた。

 

 

1941年、廃墟となったコヴェントリー大聖堂で

 

 

「永遠に残るのはことばだけだ」とチャーチルはかたっている。

退陣後とりかかった大著『第二次世界大戦』は記録的ベストセラーとなり、

1953年にノーベル文学賞を授与された。

はげしく矛盾しつつも、首尾一貫した人生だった。







【参考文献】

ポール・ジョンソン『チャーチル 不屈のリーダーシップ』(日経BP社)



チャーチル 不屈のリーダーシップチャーチル 不屈のリーダーシップ
(2013/04/25)
ポール・ジョンソン

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苑田 謙

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