『名人』と『ディフェンス』

百手まで

 

川端康成の『名人』は、本因坊秀哉名人の引退碁に取材した小説。

 

六十五の老齢で勝負碁を打つ名人など、前にはなかっただろう。

しかし、今後は打たない名人など、存在をゆるされないだろう。

いろいろの意味で、秀哉名人は新旧の時代の境に立った人のようだ。

旧時代の名人というものの精神的尊崇を受けるとともに、

新時代の名人というものの物質的な功利も得た。

そして偶像を礼拝する心と破壊する心とが織りまざっている日に、

古い型の偶像の名残として立って、名人は最後の碁に臨んだのであった。

 

(新潮文庫版から引用)

 

さすがは大家の文章、作中から任意に抜きとつても、それが最良の要約になる。

「罐詰め」にされた温泉宿で、心臓病にあえぐ老名人と対峙するのが、

二十九歳の大竹七段(実名は木谷實)。

勝てば病気につけこんだと思われるし、敗ければなおみじめだ。

盤上は、肉体も感情もなく、ただ石があるのみ。

棋士なら百も承知とはいえ、悲壮劇の登場人物に、

ひたすら攻防に専念しろと要求するのは無理がある。

 

はじめ名人の石は、指先からこぼれ落ちるようだったのに、

打ち進むにつれて力がはいり、石の音も高くなった。

 

石をつかむのがやつとの老人がならす、痛烈な打音。

箱根の宿でその日の対局がおわると、勝負ごとを偏愛する名人は、

寝る間をおしんで将棋や麻雀やビリヤードをたのしみ、周囲をあきれさせた。

麻雀やビリヤードでも長考するのが、いかにも碁打ちらしい。

 

 

 

 

ナボコフがつくつたチェス・プロブレム

 

ロシア出身のウラジーミル・ナボコフは、

1899年うまれ、つまり川端と同い年の作家だ。

西暦に一を足せば当時の年齢がわかるので、ありがたい。

彼には『ディフェンス』という、チェスの天才を主人公とする小説がある。

 

並木道は日差しで斑になり、その斑点が、

目を細めて見ると、明と暗の枡目に見えてくる。

庭のベンチの下には、格子模様の強烈な影がへばりついている。

テラスの四隅にある、石の台座に乗った壷は、

ビショップのように対角線で互いに睨み合っている。

 

(翻訳:若島正)

 

諧謔にとむ比喩の多用がナボコフの文体の持ち味で、

世界がチェス盤に変容する過程をたのしめる。

作品全体では、さほど成功してないけれど。

訳者は後記で、ルージン夫人が幼いころによんだ物語が、

実はルージンの父が書いたものであるなどの仕掛けが、

チェスの「コンビネーション」だというが、ボクにはサッパリわからない。

古今東西の物語作者があやつる伏線と、なにがちがうのか。

すこし意地わるく結論づけると、『ディフェンス』におけるチェスは、

小説を智的によそおうための小細工だ。

ビリヤードのキューをしごく秀哉名人からただよう、人間臭さが欠けている。

 

 

 

 

百一手より 二百三十七手終り

 

そもそも囲碁やチェスなどという、高度に智的で抽象的な盤上競技を、

俗つぽい藝術形式である小説にえがくことは可能なのか?

引退碁の観戦記者をつとめた川端康成は、ある一手をうつことで実現した。

「時間」を、主題にする。

長考をこのむ名人は、持ち時間を長めに設定。

 

この法外な四十時間という条件を、名人の側から出したのだとすると、

名人みずから重荷を背負ったわけだった。

つまり、名人が病苦を我慢しながら、相手の長考を辛抱する羽目になったのだ。

大竹七段の三十四時間に余る消費時間が、それを示している。

 

新旧の時代の境にたつ秀哉名人の心身を、時間がさいなむ。

その酷薄さ。

史上はじめて、昭和十三年のこの対局では、

不公平が中断時に生じない様に、「封じ手」がもちいられた。

中原の戦いのさなかの黒百二十一、わかい大竹七段の封じ手は、

感情表現のにぶい名人すら怒らせ、人々にうたがわれた。

新ルールを悪用し、時間を稼いでつぎの手を調べたのではないかと。

そして名人は白百三十の敗着をうち、半年にわたる長期戦は、

急転直下をへた三日後、黒五目勝で終局。

それから一年、第二十一世本因坊秀哉名人は、熱海の旅館で死んだ。

 

 

 

この小説で語り手は、碁をたしなむアメリカ人に話かけられ、

汽車のなかで磁石をつかう碁盤をはさみ一石相手をする。

だが異民族の碁は張り合いがなく、異様だつた。

「碁の気合い」がない。

色はどす黒く、舌に苦みをのこす「時間」をえがいた、作家の感性はするどい。

西洋人は「時間」を理解できない、と言い立てるつもりはない。

マルセル・プルーストの様に、それを主題に大長篇をかいた人もいる。

「チェスの宇宙では時間は無慈悲なのだ」というあつさりした記述が、

ナボコフの『ディフェンス』にもある。

おそらく川端康成が、鋭敏すぎるだけだろう。





名人 (新潮文庫)名人 (新潮文庫)
(1962/09)
川端 康成

商品詳細を見る

関連記事

テーマ : 文学・小説
ジャンル : 小説・文学

最近の記事
記事の分類
検索とタグ

著者

苑田 謙

苑田 謙
漫画の記事が多め。
たまにオリジナル小説。

Twitter
メール送信

名前
アドレス
件名
本文

カレンダー
12 | 2011/01 | 02
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
月別アーカイヴ
01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03