女子であること ― 『なでしこゴール!』

 

なでしこゴール! 女子のためのサッカーの本

 

著者:砂坂美紀 大住良之 後藤健生 江橋よしのり

漫画:神崎裕

発行:講談社 平成二十一年

 

 

 

女の子むけのサッカー教本だが、よくしらべてあるし、

なでしこリーグ登録選手二百二十六名へのアンケートや、

神崎裕の漫画『なでしこシュート!』の番外編などもあり、

かなり内容が充実した一冊だ。

 

 

 

ボクは女の心身についてよく知らないが、彼女たちも、

自分自身に無知であることが多いらしい。

女は九歳から十一歳ごろに身長がのび、よりはやく大人の体になる。

スポーツ少女にとつて障害になるのは、

急に脂肪がつきはじめ、ふくよかな体形にかわること。

男と同じものを食べていても、女性ホルモンは、

筋肉よりも脂肪の合成をうながす。

体のキレが悪くなり、パフォーマンスは低下しがち。

体質の変化を認識できないままだと、練習量をふやしすぎてケガをしたり、

無理なダイエットで栄養不足になるおそれがある。

また、月経は鉄分をうばうので耐久力が落ち、

特に発汗のおほいスポーツ活動では貧血をおこしやすい。

骨格も男女でことなる。

女は骨盤がひろくて大腿骨がみじかく、X脚になりやすい。

関節がやわらかいという特徴も、サッカーでは不利にはたらき、

前十字靱帯などのケガの頻度は男子の数倍にのぼる。

思いどおりのプレーができなくなつた乙女たちは、

それを個人の問題と勘ちがいし、スポーツをあきらめてしまう。

 

 

 

脳のつくりまで、性別のちがいがある。

脳梁がふとい女の脳は、左脳と右脳のつながりがよく、

おほくの情報を同時に処理する能力がたかい。

炊事、掃除、洗濯、買い物、近所づきあい、趣味、仕事などを並列処理する、

母の日常をみていたから、これはボクも納得だ。

栃木で進学校としてしられる県立宇都宮女子高校で、

つねに学年五位以内の成績を維持した安藤梢(FCR2001デュースブルク)、

二十二歳まで、三井住友海上で将来を嘱望される陸上選手だつた、

ジェフ千葉の主将・清水由香などが、本書では実例としてあげられる。

個人的には、プロの歌手としての活動を両立せんと奮闘する、

石田美穂子も名簿につけくわえたい。

宮間あや(ロサンゼルス・ソル)が空手をやつていたのは初耳だが、

両足からフリーキックで得点できる器用さは、空手の蹴りが原点なのかも。

 

 

巻頭におかれた漫画「『なでしこシュート!』梨々ふたたび」では、

日本代表がロンドンオリンピックの決勝で、アメリカと対戦する。

澤穂稀(ワシントン・フリーダム)は似てないけど、雰囲気はでている。

(一度せまいところですれ違つたのでわかるのです)

このひとは、八方ふさがりだつた北京オリンピックのノルウェー戦のまえ、

ミーティングで「試合中くるしくなつたら、わたしの背中をみて!」と、

同僚を鼓舞したそうだ。

そんなオトコマエの発言、ボクには絶対いえないな。

 

 

 

 

 

リーグ所属選手へのアンケート結果だが、十二歳から十三歳への落差がすさまじい。

断崖絶壁だ。

「チビでバカで単純」だつたはずの男子に急に追いこされ、

「女子」という檻に閉じ込められる、残酷な一年。

でもなかには、世間の常識が通じない少女もいる。

 

 

閃光の天使・岩渕真奈が、ウェンブリースタジアムのフィールドにたつ。

「十九歳トリオ」のそろいぶみだ。

しかし、手前のふたりは架空の人物だが、ぶっちーは実在する。

この十六歳は、漫画みたいな活躍をして当然らしい。

人一倍チビな彼女だけど、男子のことはまだ「バカで単純」とおもつてそう。

それどころか、自分が「女子」だと認識しているかさえあやしい。

ぶっちーは、二月六日からはじまる東アジア女子サッカー選手権で、

いよいよフル代表に選出される可能性がたかい。

少女たちのあたらしい時代が、うごきはじめる。





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(2009/11/06)
砂坂 美紀大住 良之

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テーマ : 岩渕真奈
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『検証 秋田「連続」児童殺人事件』

『MSN産経ニュース』

 

検証 秋田「連続」児童殺人事件

 

編著者:北羽新報社編集局報道部

発行:無明舎出版 平成二十一年

 

 

 

平成十八年四月十日午後一時。

秋田県の防災ヘリコプター「なまはげ」にのる救急隊員は、

眼下の藤琴川の中州に、うつぶせの人影をみつけた。

隊員二名がロープ降下し、九歳の少女の水死体を岸にうつす。

彼女にとつて慰めになるかもしれないのは、

その体が濡れているほかは、なにごともない様に奇麗だつたこと。

水色のパーカーやジーンズに破れはなく、スニーカーの紐もかたく結ばれたまま。

だから翌日に発表された、「河原からの転落事故」という能代署の見解は、

経験ゆたかな救急隊員の印象に反していた。

捜査の遅れが最悪の混乱をまねく。

死因を知らぬふりをした母・畠山鈴香は一か月後、

団地の二件隣りにすむ七歳の少年を絞殺する。

初動捜査の怠慢を批判するのは簡単だが、ボクは無理もないとおもう。

だれかが死ぬたび殺人をうたがうほど、警察もヒマではない。

 

 

 

この本は、能代市山本郡で販売される『北羽新報』の連載をまとめたもの。

本社に記者が十一人しかいない小さな新聞であり、

地元の人々とかわらぬまなざしで、事件が記録される。

二人目の死体がみつかつたその日、取材者が人口四千人の町に殺到した。

深夜まで呼び鈴や電話が鳴りつづける。

中継車のエンジンはやまず、玄関をあければカメラがむけられる。

子どもたちは怯え、入院するものも出たという。

そして、団地住民の交流のとぼしさが殺人者をうんだ、

といつた短絡的な報道が、二か月のあいだつづく。

たしかに人を殺すという行為には、下世話な魅力がある。

全国の善男善女は、ひとしきり被害者の悲運をなげき、

加害者の残虐さに激怒し、共同体のありかたについて議論し、

数週間後にはそのすべてを忘れる。

 

 

 

畠山鈴香は、どこにでもいる女だ。

娘をにくんでいた、虐待していた、まして殺意をいだいていた、

などの解釈には、まともな根拠がない。

手をあげたことは一度だけで、しかもそれを後悔していた。

わが子を二回以上叩いた母は、子殺しの可能性を心配すべきなのか?

最大にして唯一といえる要因は、カネだ。

離婚後の畠山は自己破産し、三年まえから生活保護をうけていた。

プロパンガスの契約も解除した。

父は脳梗塞で入院しており、その看病も彼女には負担となる。

これで絶望しない方がおかしい。

しかし、「貧乏だから娘を殺した」ではつまらないし、だれも満足しない。

なぜ殺したのか?

そうかんがえることは、宝くじの当選者に勝因を聞くのとかわらない。

人間という生き物は、明白な理由もなく同族を殺す。

歴史が證明する事実であり、受け入れなくてはならない。

個人差など微々たるものだ。

 

 

 

三年にわたり検證をつづけた北羽新報の記者たちは、

明言こそしないが、「子殺しはなかつた」という結論にゆきついたらしい。

だから、題名にカギカッコがついている。

午後七時まえ、街燈もなく闇にしづむ大沢橋の下で、

コンクリートの柱が轟轟と音をたてる。

サクラマスをみたいという娘を欄干にすわらせ、畠山はその腰をささえていた。

そして何かのはづみで、百四十三センチの体を八メートル下に突き落とす。

そんな一幕を思いうかべても、明瞭な映像はむすばれない。

なにもかもがおかしい。

だが、物的證拠がほとんどないこの裁判は、

被告人のあやふやな自供にもとづき審理がおこなわれた。

最初の「殺人」は、畠山がでつちあげた物語で、

その原案を検察が脚色し、マスメディアが演出しただけならば。

不謹慎ながら、とんだ茶番といえるだろう。

 

 

 

「殺人事件」は、地震よりも重大な災厄だ。

遺族とその周辺、つまり地域社会を唐突にゆるがした上に、

取材者がイナゴの様にむらがり、人心を荒廃させる。

住民は無力で、ただ救いの手をまつばかり。

命をうばわれた二人がかよつていた藤里小学校は、

報道機関への対応を教員委員会にまかせ、

窓のブラインドは閉めきり、子どもを中庭であそばせた。

イナゴとのあいだに軋轢も生じたが、取材に協力するより、

できるだけ通常どおりに授業をすることを優先した。

積極的に臨床心理士の助言をとりいれつつ、

全生徒の心の波風に、きめこまかく注意をはらつた。

古川弘昭・藤里町教育長はこう語る。

 

子どもにとってありえないことが起きてしまった。

ただ、親や学校、地域の大人たちの子どもを守ろうとする姿から、

子どもたちは自分たちが大人から大切にされているんだと

感じ取ってくれたのではないか。

 

工藤文雄校長はいまも、毎日の下校時に校門にたつている。

 

 

 

少年の命日にあわせた、昨年五月十八日。

畠山鈴香は上告をとりさげ、無期懲役刑が確定した。





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(2009/11)
北羽新報社編集局報道部

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テーマ : 社会問題
ジャンル : ニュース

女は度胸 ― 『アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生』

 

アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生

Annie Leibovitz: Life Through a Lens

 

監督:バーバラ・リーボヴィッツ

制作:アメリカ 二〇〇七年

[DVDで鑑賞]

 

 

 

こまつたな。

毎月恒例の企画「ブログ DE ロードショー」の第六回は、

『陽面着陸計画』のなるはさんが作品選定をつとめられた。

タイトルはなんと、アメリカの写真家についての記録映画。

そんな高尚なもん、徒歩圏内の店にあるわけない!

置いてあるのは、ハリウッド超大作と、テレビドラマ原作の邦画だけ。

前回、東京都羽村市出身のロッカリアさんが、

『チャイナタウン』(一九七四年)をえらんだときは黙殺したけど、

 

東京都羽村市の風景(『そまのほ』から借用)

 

なるはさんには世話になつているので、そうもゆかない。

電車で新宿に遠征し、未入会のツタヤにみかじめ料をおさめ、

やつとこさ虎の子のDVDを入手した。

藝術ドキュメンタリーというジャンルも気にくわない。

コメントが皆無のエントリもざらな不人気ブログにとり、

この企画は、社交辞令コメントを沢山もらえる唯一の機会だ。

「ケンさんは文章がお上手ですね!」

「目のつけどころがスゴい」

「まるで短編小説みたい」

「結婚して!」

などなど。

しかしお題が記録映画では、いつもの自己陶酔的文体で、

いつもの自己満足的文章を書けないのが悲しい。

 

 

 

アニー・リーボヴィッツ、一体何様なんだコイツ、

とぼやきながら、PCに借りものの円盤をねじこんだ。

写真家の早口の第一声が、本作の主題をあかす。

「わたしが一番こたえづらい質問は、

あなたは商業的な写真家なのかどうか、というものね」

つまり自分は、ビジネスと藝術のどちらも追求できる、

イイトコ取りの写真家だと言いたいらしい。

 

 

マリー・アントワネットに扮する、カースティン・ダンスト。

「せつかく着飾つたのに、撮影が十分だけ?」とおかんむり。

リーボヴィッツ先生はニコヤカにとりなすが、その心中では、

「お嬢チャン、そんなにウブではこの業界で生き残れないね」と、

鼻で笑つていただろう。

でもボクは、カースティンの気持ちがわかる。

女優としては、おめかしにかけた時間の分だけ撮られたいし、

写真家は多少いそがしくても、こたえるべきだろう。

プロ同士の礼儀だ。

わかくて奇麗だから、肩を持つのではないですよ。

 

 

 

 

 

奥の地味なメガネ女が、未来の巨匠アニー・リーボヴィッツ。

美術教師になりたくて、アートインスティテュート・サンフランシスコ校に入学するが、

「まづ自分が藝術家にならなければ、教師にはなれない」といわれ、

面倒くさい絵画から、バカでもチョンでもできる写真に転向した。

 

 

レンズとフィルムの藝術形式にのめりこむうち、あることに気づく。

旅先にカメラをたづさえると、撮影という目的がうまれる。

だから写真家になれば、ずつと旅をつづけられる。

カメラが彼女の人生をみちびく。

どこか成り行きまかせの処世術。

リーボヴィッツの作品には、自己陶酔も自己満足も感じないが、

その理由は、彼女の旅の出発点にありそうだ。

 

 

右が、ボディビルダー時代のアーノルド・シュワルツェネッガー。

男くさい現場でも、リーボヴィッツ女史は忍者みたいに融けこみ、

くつろいだ様子を「作品」に焼きつける。

同性愛趣味をもつ女であることが、隠れ蓑になつただけでなく、

藝術家にありがちな、獰猛なエゴがないからできる藝当だろう。

 

 

 

 

 

薔薇をしきつめたベッドによこたわる、ベット・ミドラー。

はじめは嫌がつたが、すべての棘が手で抜かれていることを知り、

「奴隷」の様に、写真家に身をまかせた。

わがままなスターを操縦するのは、シャッターを押すほど簡単ではない。

でも、カメラをかかえた旅人は苦労話をこのまないから、

地獄を見たことは胸に秘め、笑い話ですます。

たとえば、ローリング・ストーンズのツアーに同行取材したとき、

写真家はそのすべてにつきあつた。

朝も、昼も、夜も。

そこまでしなければ、ストーンズは素顔を見せないから。

 

 

麻薬中毒から更生するため、リハビリ施設にはいるリーボヴィッツ。

薄毛だつたり、彼女は年齢以上に老けて見えるときがあるが、

若いころの不摂生の結果かと勘ぐつてしまう。

醜く老いさらばえ、死神みたいなキース・リチャーズよりはマシだが。

エゴが無いなら無いなりに、藝術家の背には苦悩がのしかかる。

 

 

 

まえにも書いたが、なるはさんは当ブログの最初の読者だ。

いまでも相当暗いが、開始時はもつとひどくて、

世界に対し呪詛をとなえるブログだつたが、

彼女は、あつけらかんと称賛のコメントを寄せてくれた。

社交辞令にはおもえなかつた。

天から光がさした。

むかしの記事を読みかえすと、自分が読者だつたら、

死神が運営する様な、あんな陰気なブログには関りたくない。

女は度胸。

この企画に藝術ドキュメンタリーをえらんだのも大胆だが、

なるはさんは、本作の冒頭しか見てなかつたとか。

小心なボクが、第四回の選定をまかされたときは、

フライングするなと厳命されていたにもかかわらず、

何枚もDVDを見まくつたのに!

リーボヴィッツのこまやかな気配りと、相手の懐にとびこむ肝つ玉は、

なるはさんに通じるものがあり、不思議な感動をおぼえた。

『チャイナタウン』を無視したボクが、総武線で二往復した理由がわかるでせう?

まあ、薔薇のベッドに寝るつもりはないけれど。


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テーマ : art・芸術・美術
ジャンル : 学問・文化・芸術

ウシガエルとデート ― 松井正文『外来生物クライシス』

千鳥ヶ淵のお堀

 

外来生物クライシス 皇居の池もウシガエルだらけ

 

著者:松井正文

発行:小学館 平成二十一年

[小学館101新書]

 

 

 

ある晴れた春の午後。

皇居の西北、桜さきほこる千鳥ヶ淵公園のベンチで、

ボクは当時の恋人と愛をかたりあつていた。

突然、カノジョが悲鳴をあげて飛びあがる。

ボクが不埒なふるまいをしたからではない。

カノジョの体のおかしなところを触れたりしなくもないが、

それは想定の範囲内だから、相手も平然たるものだ。

おびえる視線の先には、二十センチもあろう巨大なウシガエルがいた。

平成八年から五年にわたり、天皇陛下の意向をうけ、

国立科学博物館を中心に、皇居内の生物の調査がおこなわれた。

都区内で絶滅したとされていたベニイトトンボなどの生息が確認されたが、

それ以上に研究者を驚かせたのは、

アメリカ合衆国東部原産のウシガエルの蔓延ぶりだ。

大正七年に、食用のためこの種を日本に導入したのは、

東京帝国大学の渡瀬庄三郎教授。

しかし、不如意な栄養摂取量にたえていた日本の庶民も、

さすがにカエルを食卓にならべたいとは思わなかつた。

ヘビでも魚でも、動くものはなんでも食べるウシガエルは、

養殖場から逸出してから爆発的に繁殖し、各地の固有種をおびやかす。

日本在来のカエルとことなり、メスは水面に数万の卵を放出するので、

水深のあるお堀はうつてつけの住まいになる。

ハカセのおかげで、デートの気分は台無しだ。

 

 

 

平成十七年に施行された「外来生物法」で、

特定外来生物に選定されたオオクチバス(ブラックバス)は、

あわれにも国から敵視され、駆除の対象になつた。

悪いのは、おのれの楽しみしか考えない釣り人なのに!

釣りたい魚がないなら、金魚すくいで我慢すればよい。

琵琶湖では、昭和五十九年からオオクチバスの駆除をおこなつており、

多いころは年間100~150トンも捕獲された。

しかし、この問題はややこしい。

たとえば、金沢市の自然園にあるトンボ保護区の池でも、

繁殖したオオクチバスが、ヤゴなどの水生生物の領分をみだした。

これを駆除したところ、なんとオオクチバスに捕食されていた、

アメリカザリガニがかわりに大発生する。

ひとたび変化した生態系は、一種を駆除したくらいで復元できない。

ちなみに、繁殖力旺盛なアメリカザリガニを輸入したのは、

養殖用のウシガエルの餌にするため。

すべては連鎖している。

また日本の淡水環境は、本国よりザリガニにとつて快適なのだとか。

 

 

 

前述の渡瀬博士は明治四十年、米国帰りに立ちよつたセイロンで、

マングースとコブラの決闘を見物した。

おそろしいコブラの頭にくらいつき、息の根をとめるマングース。

感動した博士の脳裏に、妙案がひらめく。

こいつらに、沖縄のハブを退治させたらどうだろう?

入念に調査をすませた二年後、渡瀬博士はガンジス川の三角州で、

みごと三十二頭のジャワマングースを捕獲した。

三頭は道中に死んだが、のこりの二十九頭が那覇市と渡名喜島にはなたれる。

その後の活躍は御存じのとおり。

雑食性のジャワマングースが、このんで猛毒のハブを捕食するはずがない。

そもそも、昼行性のジャワマングースと夜行性のハブは、活動時間がことなる。

結局、大型の肉食獣や猛禽類がいない沖縄で、

この珍客は食物連鎖の頂点に君臨した。

沖縄島や奄美大島に固有の希少動物を食いちらし、

天然記念物のヤンバルクイナまで危機にさらされる。

いま奄美大島では、「奄美マングースバスターズ」を組織し、

探索犬や罠をつかつて駆除をすすめている。

捕獲したジャワマングースは、炭酸ガスで処分される。

率直にいつてバカな話だが、笑うに笑えず、なんだかせつない。

科学者が、「世界をよくする」という滑稽な使命感にかられると、

「いくらマングースでもハブは怖いだろう」といつた、まともな常識は働かない。

そして世界は混乱し、安心してデートもできなくなる。





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(2009/12/01)
松井 正文

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テーマ : 自然科学
ジャンル : 学問・文化・芸術

『サロゲート』

 

サロゲート

Surrogates

 

出演:ブルース・ウィリス ロザムンド・パイク ラダ・ミッチェル

監督:ジョナサン・モストウ

制作:アメリカ 二〇〇九年

[ユナイテッド・シネマとしまえんで鑑賞]

 

 

 

髪がフサフサのブルース・ウィリスに失笑を禁じえないが、

ここに写るのは「サロゲート」とよばれる身がわりのロボットなので、

理想的な外見なのは当然と、理解してあげたい。

 

 

分身をあやつる本体は、いつも通りのむさくるしさ。

作品世界では、人類の九十八パーセントが普段の生活にサロゲートをもちいる。

もとは軍事用の技術だが、日常使用が許可されたことで、

犯罪、伝染病、人種差別などの社会問題は一掃された。

身がわりを傷つけても、意味がないから。

しかし、そんな平安になつたはずの世界で、

サロゲートと本体を同時に破壊する、連続殺人事件がおきる。

FBI捜査官のウィリスは、ハイテク社会の陰でうごめく謀略に巻きこまれる。

二十年をへて、ハリウッドがようやく『攻殻機動隊』に追いついたと言えるし、

三十年後にあらわれた『ブレードランナー』の続編とも言える。

 

 

 

 

 

この世界では、街ゆく群集もほとんどサロゲートだから、

男はラテン系の美男子で、女はトップモデル風の容姿ばかり。

一瞬しか写らないエキストラにも、目が離せない。

こいつは機械なのか、生身なのか?

女優は勿論、ラダ・ミッチェルやロザムンド・パイクなど、

人間ばなれした美貌の所有者をそろえる。

ロボット万歳!

この世の映画がすべて、近未来SFだつたらよいのに。

四十年以上の職歴をほこる撮影監督のオリヴァー・ウッドは、

サロゲートを撮るときは、極端に手をくわえ人工的な映像にし、

ウィリスの本体がダイ・ハードに暴れるときは、写実的な手法をつかう。

キャンヴァスに思いのまま絵をかけるのが、近未来ものの魅力だ。

 

 

 

 

 

ウィリスの妻役の、ロザムンド・パイク。

『ダイ・アナザー・デイ』のボンドガールが、さらにうつくしくなつた。

 

マギーの外見は、1950年代のパンナムの

スチュワーデスみたいにしたいって、ずっと頼んでいたの。

デザインのエイプリルと、メイクのエイミーのおかげで、

組み立てられた人形みたいに素晴らしいマギーができあがったわ。

私は、短いスカートとジャケット、

美しいメイクをしたスチュワーデスを見るのが大好きなのよ。

 

プログラムのロザムンド・パイクへのインタビュー記事より

 

いうまでもなく、この姿もサロゲート。

夫が旅行にさそつても、とりつく島もない。

やせおとろえた自分の素顔を、家族にすら見せられない。

そのゆがんだ、美への執着。

最先端のテクノロジーをうみだすのは、白衣をきた男だが、

どの技術が世界にふさわしいか決めるのは、女だろう。

たとえば携帯電話の様に。

『攻殻機動隊』でサイボーグ技術は、追いかけつこや撃ち合いにつかわれた。

本作での使用法は皮肉がきき、よりリアルだ。

終幕で、サロゲートがバタバタたおれるカタルシス。

薪をわる鉈にも似るモストウ監督の剛腕に、

物理的な接触はないのに、息がとまるほど打ちのめされた。


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テーマ : 映画感想
ジャンル : 映画

いけださくら『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』

 

俺の妹がこんなに可愛いわけがない

 

作画:いけださくら

原作:伏見つかさ

キャラクターデザイン:かんざきひろ

掲載誌:『月刊電撃G's magazine』(アスキー・メディアワークス)

二〇〇九三月号~

[単行本は第一巻まで刊行]

 

 

 

十年も昔だろうか。

出歩いているとき、街並みをながめながら、

「荒い作画だなあ」とつぶやいたことがある。

ドキリとした。

あわてて独白を書きかえた。

眼下の風景が現実で、さつきまで読んでいた漫画が虚構だと。

バリバリのオタク現役兵だつたころの話だ。

 

 

 

『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』は、伏見つかさのライトノベルを原作とする漫画。

高校にかよう京介と、その妹の桐乃を軸にまわる物語だ。

 

 

妹・桐乃、中学二年生。

有名ファッション誌の専属モデルをつとめる美貌をもつだけでなく、

陸上部のエースであり、かつ県内屈指の学業成績をほこる。

たわいもないが、ラノベなんて半文盲のオタクの慰みものなので、

現実味のなさについては、御容赦ねがいたい。

偏見?

まあそうだけど、ボクも『スレイヤーズ』から『アンナ・カレーニナ』まで、

ライトノベルやヘビーノベルにすこしは接してきたから、未読でもわかる。

 

 

妹の私物をひろつてあげようとした京介の手を、

すげなく払いのける桐乃。

コサインカーブの様な眉と、さかだつ数本の毛髪に、

傷つきやすいハリネズミの心性がこもる。

だからどうした、とも思うけれど。

ボクが現役のころとくらべ、オタク文化の市場規模は拡大したが、

その中身はかわらない、いやむしろ薄まるばかり。

内向きすぎる。

昔の漫画やアニメの引用に引用をかさね、真水と化した作品を、

けふのオタクは無理しておもしろがつている。

くさつた豆腐を「酢豆腐」とありがたがる若旦那みたいに。

オタク文化は、「9.11」をえがけなかつた。

日本の政権交代にもついてゆけず、

逆に「ネット右翼」となり、右翼団体のパロディを演じる。

そしていつまでたつても、カワイイ妹とどうしたこうした。

それが現実だ。

 

 

 

 

 

桐乃のつめたい態度は故あつてのこと。

実は彼女は、「妹物」のマニアだつた!

ハンドバッグには、18禁のエロゲー『妹と恋しよっ♪』がはいつていたから、

絶対に家族に触れられたくなかつたのだ。

しかし、ついに兄に秘密をうちあける時がおとづれ、

本棚の裏につくつた隠し場所を披露する。

 

 

「妹物」の魅力を、兄に教示する桐乃。

「妹物」がおかしいのか、それとも「妹物」を好きな妹がおかしいのか。

それとも、それとも。

内向きのオタク文化は、とうとう自己言及のパラドックスをおこし、

論理上の矛盾が時空に裂け目をつくる。

もはや「非現実的だ」という批判も意味をなさない。

 

 

お約束のツンデレーション。

「現実に兄のことを好きな妹なんているわけないでしょ?」

うん、そうだね。

でも現実つてなんだつけ?

 

 

 

身近に趣味を共有できる友人がいない桐乃は、秋葉原のメイド喫茶でひらかれた、

SNS(おそらくmixi)のコミュニティ「オタクっ娘あつまれー」のオフ会に出席する。

 

 

ハンドルネーム「黒猫」、中学三年生。

桐乃いわく、「水銀燈のできそこない」。

しかし、こんな美少女とお知りあいになれるなら、

当ブログも、女子中学生限定のオフ会を開催しようかとおもう。

参加希望者はコメント欄にその旨をお書きください。

 

 

『星くず☆うぃっちメルル』と、『maschera ~堕天した獣の慟哭~』、

どちらがよいアニメなのか、侃侃諤諤の議論がはじまる。

 

 

取るに足らぬことで熱くなり、仲は悪くないのにケンカし、

死ぬほど退屈なのに楽しいふりをする。

そんなふたりの間柄に、強いて言うならば、

当世の空気を感じとることはできる。

でも、そんなオタクのゴタクはどうでもよい。

 

 

薔薇をせおつて登場した、ゴスロリ少女。

伝統工藝の域に達するお約束だ。

その黒髪の色艶。

十字架をあしらうワンピースの襞、フリルの陰影、革靴の光沢。

一本の描線に魂をこめ、自在に風景をかきかえ、

ただでさえ曖昧な、現実と虚構の境目をみだす。

華麗な黒魔法をつかいこなす漫画家というジョブは、

ボクにとつて、時代をこえたヒーローなのだ!





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(2009/10/27)
伏見 つかさ

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ジョン・グレイ『アル・カーイダと西欧』

大西洋横断ケーブルの地図(一八五八年)



アル・カーイダと西欧 打ち砕かれた「西欧的近代化への野望」

Al Qaeda and What it Means to be Modern

 

著者:ジョン・グレイ (John Gray)

訳者:金利光

発行:阪急コミュニケーションズ 二〇〇四年

原書発行:イギリス 二〇〇三年

 

 

 

いまさらと思われるかもしれないが、九月十一日の事件は、

ボクにとつて驚天動地の出来事だつた。

そこで何がおきているか理解できず、ただ狼狽した。

職場のテレビの前につどい、建物がくづれるたび、

スポーツ観戦みたいに喚声をあげる同僚たち。

無理もない。

だがそれは、醜悪な光景だつた。

なにもかもがバカらしくなり、会社をやめたボクは、

いまだに自分の居場所を見つけられない。

満ちたりて生きるには、この世界は混沌としすぎている。

でも本書をよみ、あのとき壊れた心をすこしだけ修復できた。

 

アル・カーイダと西欧の衝突は宗教戦争である。

西欧がイスラム急進主義に対抗して掲げる

普遍的文明という啓蒙思想はキリスト教から生まれ出た。

アル・カーイダの特徴である神権支配と無政府性の

奇妙な合体は西欧過激思想の副産物だ。

両者を争いに駆り立てている信念の本質を、どちらも理解していない。

 

イスラム急進主義者は、世界を中世の暗闇に引きもどそうとする、

などという主張はなんら根拠をもたない。

彼らの師匠は、レーニンやヒトラーなのだから。

権威への信頼を基礎とする中世の社会に、

行動により世界を作り変えるという考えなどない。

それは、近代ヨーロッパに由来する試みだ。

 

 

 

「9.11」は、ただの同士討ちだ。

アメリカ合衆国は、イスラム急進主義のテロリストとおなじく、

世界というカンヴァスに、おのれの思想をえがきたがる。

十九世紀のイギリス、十八世紀のフランス、

十七世紀のスペインやポルトガルもそうだつた。

この惑星のどこでも、そんなガラクタはお呼びでないのに。

たしかに、寛大な移民受けいれ政策や、旺盛な起業意欲など、

アメリカが誇示するお手本に、見習うべき点はある。

しかし、その不平等な経済格差や膨大な刑務所収容人口を、

誰がうらやむだろうか。

やがて彼らは、二十世紀の大半を保護貿易でやりすごしたくせに、

好敵手のソヴィエトが崩壊したのに気をよくし、

「グローバル自由主義市場」を構築する企図にのりだす。

十九世紀後半にはじまる大西洋横断電信ケーブルの施設が、

世界恐慌や二度の大戦を越えてつづいたことを端緒とする、

科学技術のグローバル化も、その企てを後押しした。

バーチャル企業や、国際麻薬カルテルや、アルカーイダと並走して。

アルカーイダは、遠からず消滅するだろう。

米軍とは戦力差がありすぎる。

そしてどこかで、あらたな挑戦者があらわれる。

飽きもせず、世界をかえるために。





アル・カーイダと西欧―打ち砕かれた「西欧的近代化への野望」アル・カーイダと西欧―打ち砕かれた「西欧的近代化への野望」
(2004/06)
ジョン グレイ

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おなじ著者による『わらの犬』は、現代の必読書だとおもつています。

当ブログにおける書評は、以下のリンクを御参照ください。

 

ジョン・グレイ『わらの犬』


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テーマ : 政治・時事問題
ジャンル : 政治・経済

『BANDAGE』

 

BANDAGE

 

出演:赤西仁 北乃きい 伊藤歩

監督:小林武史

制作:日本 平成二十二年

[新宿ピカデリーで鑑賞]

 

 

 

株式会社ジャニーズ事務所にやとわれた男どもに対しては、

50%の敵意と、50%の無関心をもつて接している。

要するにただの嫉妬だが、ローラースケートにのつたゴロツキに、

同級生が熱をあげるのに舌打ちした幼少期以来の習慣だから、

これでも年季がはいつている。

体育会系の厚かましさと、ホストクラブ的な媚びがいりまじる、

ジャニーズ文化のすべてが嫌いだ。

理由はない。

かんがえる必要もない。

ボクの人生そのものが、ジャニタレとの戦いなのだ。

七つの海を支配する、アメリカの軍事力に挑戦しつづける、

アル・カーイダの精神に近いといえる。

本作ではジ社所属タレントが、粗暴なロックミュージシャンに扮する。

セックス、ドラッグ、ロックンロール。

しかし、肝心の歌が例の猫なで声なので、すべてブチコワシだ。

 

 

 

ヨコスカの暴れん坊・北乃きいの役は、

まづは高校生の一観客としてバンドにちかづき、

ジ社所属タレントと惚れた腫れたの騒ぎをおこし、

いつしかマネージャーとしてバンドの管理をまかされ、

その後ひとり立ちして、別の女の歌手を発掘するというもの。

企画の段階では、ロックにささげる青春の光と影が、

本作の主題だつたはずだが、スタッフロールがながれる頃には、

若きマネージャーの成り上り物語に豹変した。

脚本になにが書いてあろうと、最終的に「北乃きいの映画」にする。

あいかわらず理不尽な仕事ぶりだ。

 

 

めづらしくラブシーンもある。

彼女は骨太で恰幅がよく、抱き心地が悪そうという印象しかもてない。

もうすぐ十九歳なのに色気が皆無なのは心配だが、

北乃きいは北乃きいなのだから、しかたない。

どこにも所属しない個性。

 

 

 

夜ふけに、ギタリストの高良健吾が機材をいじりながら、

ノイズのかなたに荒涼たる風景を描きだすさまが痛切だ。

しかし、小林武史にしか撮れない場面ではあるけれど、

音楽で胸のうちを表現したいなら、なぜわざわざ映画をつくるのだろう?

ちなみに本作は、昨年の北乃きい主演の『ハルフウェイ』につづき、

岩井俊二が製作と脚本をうけもつた。

彼は、あのうつくしすぎる失敗作『リリイ・シュシュのすべて』以来、

もう十年ちかく、まともに撮影の現場に立てていない。

多分カントクは、北乃きいで一本撮りたいのだ。

でもカネなどの事情がゆるさないので、

やむなく映画のシロウトにヨコスカの暴れん坊を託し、

イワイ色にそめたスクリーンでうろつく姿をみて、ニヤニヤする。

そこにあるのは、そこにいないはずの人間の個性。

岩井組の優等生・伊藤歩が、いつもの様に奇麗なのはうれしいが、

それでもやはり、なんだか悲しくなる。


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テーマ : 映画感想
ジャンル : 映画

ジョホールバルから町田へ

 

ワールドカップ・フランス大会 アジア第三代表決定戦

イラン 対 日本

 

結果:2-3 (0-1 2-1 延長戦:0-0 0-1)

得点者

【イラン】後半1分 アジジ 後半14分 ダエイ

【日本】前半39分 中山雅史 後半31分 城彰二 延長後半13分 岡野雅行

会場:ラルキン・スタジアム (マレーシア)

[テレビ観戦]

 

 

 

冷静沈着、「アジアの壁」井原正巳が隊伍をひきいる。

薄笑いをうかべた中田英寿は、副将きどりでその後につづく。

国歌斉唱のときは口をつぐんだまま、よそ見をする。

なんとも小憎らしい二十歳だ。

でもあれから十二年がすぎ、傲岸きわまる彼の態度は、

いまにも途切れそうな緊張の糸をたもつための、

精一杯の強がりだつたと、あきらかになつている。

右端では、甲高い声でうたう盟友のゴンのとなりで、

カズが、手を心臓におき必要以上に胸をそらせ、

へたくそな自分の歌声に陶酔する。

このときエースは絶不調にあえでいたが、苦悩は表に出さない。

列の中ほどの目立たぬあたりに、名波浩と山口素弘がいるが、

実際はフィールド上の指揮官として、攻守の全権をにぎつており、

君が代がひびくなか、その日の作戦計画を練りなおす。

どうかんがえても、役者がそろつている。

いまのチームなんてママゴトだ。

 

 

 

試合開始の三十秒後、中盤で名波がボールをうける。

すぐさま奪い返しにくる敵をきらい、三歩後退した。

安堵するイラン陣営。

この左利きのマエストロに、前を向かせるわけにゆかない。

でも彼らは、名波がボールをもつた刹那、

左サイドバック相馬直樹が自陣に侵入するのを見のがした。

名波の左足が一閃し、イランの守備組織は崩壊する。

相馬があげたクロスは、ディフェンダーの頭にあたり、

魔法の様にゴールにすいこまれた。

判定はオフサイド。

それでも一分たらずで、チーム最大の臼砲が火をふいたわけで、

日本の優位は確定したとおもわれた。

だが、相馬は不意に沈黙する。

なんと残りの117分、二度と急襲をしかけなかつた。

 

 

 

イラン代表を指揮したバウディール・ビエイラ監督のインタビューをよみ、

相馬直樹が当時どれほど敵国を畏怖せしめたか、おもいしつた。

 

私が恐れた選手は、2人いた。相馬と名良橋(晃)だ。

彼らのスピードが、日本の攻撃の原動力になっていた。

特に相馬は、攻撃参加のタイミングが絶妙で、

あのようなタイプの選手はイランにいない。

対策として、マハダビキアを相馬のサイドに、

しかもストライカーのような高い位置に置いたんだ。

 

『週刊サッカーマガジン』(ベースボール・マガジン社)

平成二十一年十二月十五日発売号

バウディール・ビエイラ監督インタビュー

取材:田村修一

(引用の都合上、一部を改変)

 

中田やカズは優秀だが、こわくない。

屈強で老練なイランの選手ならおさえられる。

ただひとつ心許ないのは、あの左サイドバックがつかう魔術だ。

そしてビエイラ監督は、相馬の足を釘づけにするため、

韋駄天マハダヴィキアを最前線に打ちこんだ。

相馬は開始数分で、敵将の胸のうちを看破したろう。

そのうえで彼は、あえて相手の意図に順応した。

結構、コイツを道づれにできるなら、心中してやるさ。

 

 

 

後半にイランは、前線の三人の地力だけで二点をもぎとる。

サッカーでこれほどまで、計略が図に当たるのもめづらしい。

なのに彼らは突如、燃料切れをおこした。

日本とくらべて準備期間が不足していたなど、原因は複数あるが、

単純な数量の比較として、イランの中盤の選手が、

いつもの五人から、三人に減つていたことは大きい。

対して日本は、技量ゆたかな四人。

乳酸のたまつた足では、パスの速度に追いつけない。

潮流は一変し、再逆転というエンディングがおとづれた。

なにもしないことで、フィールドを支配する。

この激戦を思いだすたび、ボクは相馬直樹の、

まげて行動しない勇気、そして冷徹な知性に感嘆する。

ちなみに相馬は、ことしからJFLの町田ゼルビアの指揮をとる。

あの抜け目ない戦略家が、凡庸なチームをつくるとは思えず、

野津田で観戦するのが、いまから楽しみだ。

 

 

 

ジョホールバルでの登録選手は、以下のとおり。

 

[先発出場]

GK 20 川口能活 (ジュビロ磐田)

DF 2  名良橋晃 (引退/S.C.相模原ジュニアユース総監督)

DF 3  相馬直樹 (引退/町田ゼルビア監督)

DF 4  井原正巳 (引退/柏レイソルヘッドコーチ)

DF 17 秋田豊 (引退/京都サンガコーチ)

MF 6  山口素弘 (引退)

MF 8  中田英寿 (引退)

MF 10 名波浩 (引退)

MF 13 北澤豪 (引退)

FW 11 三浦知良 (横浜FC)

FW 32 中山雅史 (コンサドーレ札幌)

 

[途中出場]

FW 18 城彰二 (引退)

FW 30 呂比須ワグナー (引退/パウリスタFCアシスタントコーチ)

FW 14 岡野雅行 (ガイナーレ鳥取)

 

[控え]

GK 25 楢崎正剛 (名古屋グランパス)

DF 5  小村徳男 (引退)

DF 29 中村忠 (引退/東京ヴェルディユースコーチ)

MF 7  本田泰人 (引退)


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テーマ : サッカー日本代表
ジャンル : スポーツ

無粋なり紫式部 ― 大野晋・丸谷才一『光る源氏の物語』

 

光る源氏の物語

 

著者:大野晋 丸谷才一

初版発行:中央公論社 平成元年

[中公文庫版で読了]

 

 

 

第一等の日本語研究者である大野晋と、

これまた第一等の小説家兼批評家である丸谷才一が、

二年間二十一回にわたり、『源氏物語』をかたりつくした対談。

学問的な正確性をおもんじて原文をよみとき、

藝術的な感性で、この長編の複雑な味をたのしむ。

『源氏』が、大古典として神棚にまつられるのではなく、

いまここにある小説として浮かびあがるさまに、魅了される。

 

 

 

大野の読みかたは琴の音の様に小気味よく、対話のリズムをさだめる。

『紫式部日記』にしるされた伝記的事実を手がかりに、

全五十四帖を一刀両断せんとする気魄に、丸谷は当惑する。

小説家としては、もつとも受け入れがたい態度だから。

紫式部と似た体験をすれば、だれでも『源氏』を書けるのではないし、

それをみとめたら、丸谷自身の作品まで、

実人生の引き写しにすぎないという解釈をゆるすことになる。

 

丸谷 やはり小説は下等な形式なんですね。(笑)

大野 なるほど、そうかもしれないな。

観念だけではつくられていないところがあるんじゃないですか。

丸谷 それから、読者にとって、

何か本質的に告白的に見える形式なんでしょうね。

大野 ああ、それはわかるなあ。

丸谷 だから『ハムレット』を見て、

シェイクスピアはこういうことをしたことがあるのか、

といったようなことは誰も考えないわけです。

 

諧謔でどうにか煙にまく、丸谷センセイ。

「薄雲」の巻。

秋が好きというほか特徴のない秋好中宮は、

大嫌いな「春は曙」の清少納言を攻撃するために、

作者が登場させた人物だという説を、大野は披露する。

十年先輩の人気エッセイストをやつかんだのは無理もないが、

日記だけでなく、千年後まで読みつがれる傑作でも、

生ぐさい嫉妬の炎をもやしたなんて、実に不面目なことだ。

しかし紫式部や藤原定家を、T・S・エリオットやジョイスの同志、

つまりモダニズム文学者ととらえる丸谷は、もつと高尚な弁明をする。

「蛍」では、長雨に退屈した女たちと光源氏が、「物語論」をたたかわせる。

「日本紀なんか、たいしたことはない」とか。

そして、物語のなかで物語を論じるという知的な構成は、

まさに作者がモダニストである證拠なのだと。

丸谷が駆使する批評の技巧は、流麗な笛の音にも似て、

ふたりのアンサンブルは緊張感をはらみつつ、それでいて心地よい。

 

 

 

折口信夫は講演で、「若菜」を読まねば『源氏』を読んだことにならない、

と言つたそうだが、この巻にくると対話も佳境にはいる。

六条院での出来事をわすれられない柏木が、物思いにふける場面。

「いかならむ折に、又さばかりにても、ほのかなる御ありさまをだに見む」

この「ほのか」の語釈に、大野はこだわる。

「かすか」は、「薄くて消えていつてしまいそうなもの」という意味だが、

それに対し「ほのか」という形容動詞は、

「後ろにまだいろんなものがある、その端が見えている」ということ。

それでもまだ、解釈はピタリとはまらない。

 

こんど、どうやらわかったと思うのでここで申しますと、

英語で「want」と言います。「want」は「欠乏」ですね。

「欠乏」であると同時に「欲望」です。

無いから、欠乏しているから欲望するわけです。

(中略)

これと類似しているのが「ほのか」なんです。

「ほのか」も十分じゃない。不足なんです。

不足だからもっと見たいんです。不足で不満なんです。

心ゆくまでいかないということです。

この場合も「どんな折に、またあれぐらいでもいいから、

十分見られなかった御有様をせめて見たいものだ」ということですね。

 

御簾の隙間を通じてたちのぼる、ひとの妻への思い。

ただ一語から、隠された欲望をあばく国語学者の才腕に、

原文をこれほど自在に読みこなせたら楽しかろうと、うらやんだ。

丸谷は、和歌の分析で冴えたところをみせる。

懐妊した正妻の女三の宮が、目の前の源氏につぶやく歌。

 

夕露に袖ぬらせとやひぐらしの鳴くを聞く聞く起きて行くらむ

 

夕露に袖を濡らして泣け

ということかしら

ひぐらしが鳴くのを

聞きながら

起きてゆくなんて

 

妻の胎内にいるのが柏木の子だと、源氏はしらないので、

この夜に彼女を抱いたかどうかは、物語の色合いをさだめる重大な要素だ。

しかし千年後の読者にとつて困つたことに、この作家の美意識は、

実事のあるなしをあからさまに書くことを、おのれに死んでもゆるさない。

わかる人だけ、わかればよい。

 

丸谷 歌のやりとりがあって、この「蜩のはなやかに鳴く」なんて、

言い方は変だけれども、女の人のそういう場合の声の比喩的なもの、

と取れないこともない気がするんです。

このへん、なんだか色っぽいんですよ。

 

女三の宮は閨での自分の嬌声を、ヌケヌケとひぐらしにたとえた。

不義密通の子をやどしているのに。

女とはおそろしきもの、と思わずにいられようか!

和歌がヘタクソで有名な、生まれつきの散文家である紫式部だが、

つづく「柏木」では、薄倖のヒロインがのりうつつた様に、

病床の恋人におくる絶唱を、三十一音に凝縮した。

 

立ちそひて消えやしなまし憂きことを思ひ乱るる煙くらべに

 

あなたのなきがらの燃える

煙に立ち添ふやうにして

消えてしまいたい

悲しい思ひの火が乱れる

二人の煙をくらべて





光る源氏の物語〈上〉 (中公文庫)光る源氏の物語〈上〉 (中公文庫)
(1994/08)
大野 晋丸谷 才一

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テーマ : 読んだ本。
ジャンル : 本・雑誌

FC2、その悲しき性

 

FC2に、ginasoさんが運営する『兎尾珈琲店 画廊』というブログがある。

端正な絵画や写真にそえられた、知的な文章に趣きがある、

アクセスするだけで気分がおちつく様な場所だ。

さて、そのginasoさんは昨年十一月、リトアニアの画家チュルリョーニスの、

『祭壇』という絵画についての記事を投稿された。

絵も紹介記事もすばらしいもので、ほとほと感心したボクは、

おそわるまで画家の名も知らなかつたくせに、

例のごとく、いそいそと賢しらなコメントを書きこんだ。

その一部を引用しよう。

 

チュルリョーニスは30代で亡くなった人なんですね。

「芸術家のピークは40代に訪れる」がボクの持論なのですが、

ラファエロとかスーラとか、30代で世を去った人の作品は、

創造力を刺激する魅力がある様な気がします。

 

ginasoさんの百分の一以下の、鑑賞経験と知識しかないのに、

こんな知つたかぶりをした自分が恥づかしい。

そのうえ、松本竣介をリストに書き忘れている。

しかし問題は、文面にあるのではない。

実はこの附言は、運営会社であるFC2から、

迷惑コメントとして拒絶されたのだ!

まさかと思いつつ、「ラファエロ」を「ラファエ ロ」に書きかえたところ、

あつさり受理され、知つたかコメントが『兎尾珈琲店 画廊』に表示された。

だれよりも優美な作品をのこした、泉下のラファエロ・サンティが、

おのれの名が猥褻な語句として排除されたと知つたら、

どれほど驚き、あきれはてるだろう!

 

 

 

これはFC2ブロガー以外は御存じないはずのことだが、

FC2ブログの管理ページの右上には、「左右468×天地60」サイズの広告が表示される。

たとえば、こんな風に。

 

 

「電子貸本Renta!」がわれらFC2ブロガーに、電子書籍を売りこむ。

勝手に縛つてろと思うが、まあこれくらいなら、

左のお嬢さんもかわいげだし、許容範囲におさまつている。

 

 

「しめつけた」と言つたら、うるさいらしい。

勝手にしめつけてろと思うが、かなり不快だ。

 

 

城戸崎さんがしてくれないなら、勝手に攻めてろと思うが、

管理画面をひらくたび、ホモマンガの宣伝をみせられ、

管理人は毎日吐き気をもよおしている。

 

 

またまたホモマンガ。

イイカゲンにしろ、FC2!

あんたらの広告媒体資料には、FC2とは、

「ユーザーを第一に考えた充実の無料ウェブサービス」であり、

広告のデザインに関しても、「弊社が不適当と判断した画像」は、

掲載を拒否すると明記されている。

なるほど。

つまりユーザーを嘔吐させるのが、あんたらの方針なのか?

 

 

 

われらの限りある時間をついやした文章を、タダで手にいれ商売する、

FC2本社の登記上の所在地は、米国ネヴァダ州ラスヴェガスにある。

日本向けのサービスしか提供しないのに。

ウェブサービスの企業が、吹けば飛びそうな紙の上の存在なのは、

税制面をかんがえれば、合理的な処置だろう。

ただ、平成十六年にはじまつたFC2ブログが躍進した理由が、

本社が米国にあることで国内法の適用をまぬがれ、

「なんでもあり」の無法地帯になつたからだとしたら?

法の網をすり抜けてはじめて、言論の自由が保證される。

興味ぶかくもあり、バカバカしくもある。

ヘキサゴンのバカタレントの力をかりて成功した、

アメーバブログとおなじくらいバカバカしい。

是非もない。

今日において、ものを書いたり読んだりする行為は、

否応なく喜劇的であるほかないのだ。

そして、エロ業者と結託して成長したミイラとりは、

いつの間にかミイラに変貌し、心ある管理人たちをなやませる。

え、ボクですか?

正直どうでもよいかな。

不快感が限度をこえたら、アメーバブログに移るだけだもの。

ブログの師匠、『バーチャルコンソールクエスト』のなかじマダオ氏がいるし、

それよりなにより、北乃きいのオフィシャルブログもあるのだから!


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天使の初夢 ― 全日本女子サッカー選手権・決勝

『SANSPO.COM』(撮影:大橋純人)

 

全日本女子サッカー選手権大会 決勝

浦和レッズレディース 対 日テレ・ベレーザ

 

結果:0-2 (0-0 0-2)

得点者:後半4分 大野忍 後半32分 澤穂希

会場:国立競技場

[日本サッカー協会公式サイトの配信映像で観戦]

 

 

 

モネの風景画みたいだな。

インターネットを通じ、父のPCでみる国立競技場のフィールドは、

ベレーザの緑のユニフォームが芝の上でにじみ、朦朧としている。

印象派の絵画は、コンピュータ時代の視覚を先取りしたのか。

いづれにせよ、見づらい。

なにかと騒がしい、両親(特に父)や弟一家(特に二歳の甥)など無視し、

国立のスタンドで元旦をむかえる選択肢が、最善手だつた。

お節料理もいらない。

一年三百六十五日、カレーでよい。

後半アタマの大野忍による先取点の3分後、

ひときわ小柄な控え選手がサイドラインぎわに立つ。

どれだけ解像度が荒くても、見まがえ様がない。

閃光の天使、岩渕真奈。

カゼで準決勝を欠場した影響で、ベンチを温めていたらしい。

はじめて遠地から観戦したが、いつもより彼女を凝視してしまう。

そのスピード。

サイズがあわない袖口にかくれた両手。

蹴違えるたび天をあおぐ癖はなおしてほしいが、

視線の先に、自分の故郷があるなら仕方ないか。

なんてね。

 

 

 

本日の持ち場は右サイドハーフ。

富士通のしけたマシンの前で、ボクは舌打ちする。

わかつてねえな。

案の定、点をもとめて前のめりの赤女どもにすり潰された。

能力は関係ない。

これがサッカーの摂理だ。

それにしても、ニューイヤーコンサートの指揮者は、

ヤセッポチのチビスケになんの楽譜をわたしたのか?

「ディフェンダー・岩渕真奈」なんて、とんだ三文オペラだ。

長方形の枠にはつた網をゆらすため、地に舞いおりた使者なのに。

力が質量に比例することすら知らない指導者は、

コーチングより先に、古典物理学をまなんでくれ!

実は十六歳の岩渕真奈に、のこされた時間はそう多くない。

来年の女子ワールドカップ・ドイツ大会の陣容にまぎれこむには、

いま得点という果実を、ひとつでも多く捥ぎ取らねばならない。

同僚の、大野や永里姉妹よりも。

相手の、安藤や北本よりも。

だからぶっちーは、学校の宿題は手つかずのまま、

病み上がりの身で初朝のフィールドを駆けた。

 

 

 

後半32分、閃光がほとばしる。

右側面でぶっちーが無造作にあげたクロスに、澤穂希があわせた。

2点差。

このとき雌雄は決し、結局浦和は2本のショットしか許されなかつた。

後半のベレーザの侵撃は、ほとんどが右から。

澤がいる左ではなく。

つまり岩渕真奈が試合を終わらせたと、ボクはおもう。

崇拝者の僻目だろうか。

そもそも印象主義の動画では、だれがボールを蹴つたかさえおぼつかない。

すべてが、むなしい白昼夢かもしれない。

冒頭の写真で、右端にすわるのがボクの守護天使。

優勝をことほぐVサインのつもりが、指先しか袖から出ないのが愛くるしい。

彼女の視線は、水平なままであつてほしい。

天をあおぐのは、世界一のストライカーになつてからでよい。

遠大な夢が、1dpiでもあざやかな解像度で具現化するさまを見届けたい。

そして、PCの電源をおとしたボクは、お節をたべに食卓にむかつた。


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テーマ : 岩渕真奈
ジャンル : スポーツ

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苑田 謙

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