ドン・ウィンズロウ『犬の力』

『La Caja Resonante de Sandro Cohen』から借用

 

犬の力

The Power of the Dog

 

著者:ドン・ウィンズロウ (Don Winslow)

訳者:東江一紀

発行:角川書店 二〇〇九年

原書発行:アメリカ 二〇〇五年

[角川文庫]

 

 

 

メキシコとアメリカをおもな舞台とし、

三十年におよぶ麻薬戦争にたづさわる男たちをえがく、

この雄大で凄絶なエピックに、心にしみる通奏低音をひびかせるのが、

サンディエゴの「白い家(ホワイトハウス)」という娼館ではたらくノーラという女。

片田舎のあばずれだつた十六歳のときにスカウトされ、

シェイクスピアの戯曲を暗誦させられるなど、

女主人から高級娼婦としての訓練をほどこされる。

 

さらに、新聞の読みかた。

「ファッション面を読むんじゃないのよ。芸術面でもない。

高級娼婦はまず最初にスポーツ面、次に経済面、

余裕があったら社会面をよむの」

 

十八歳になつたノーラの初見世のとき、「白い家」の女主人は彼女を、

アイルランド系の寡黙な殺し屋ショーン・カランとひきあわせる。

なぜか惹かれあう二人。

しかしそこに、イタリア系の下品なマフィアの「大桃」ジミーが、

「取りかえつこしよう」と割りこみ、ノーラをさらつてしまう。

ボロ布の様に、うすぎたない性欲の処理につかわれるノーラ。

やるせない。

このたわいない挿話が、千ページをこえる長編の音調をさだめる。

 

 

 

無数の人物が登場し死んでゆく、本作の主人公といえるのが、

アメリカの麻薬取締局(DEA)の捜査官であるアート・ケラー。

過剰な暴力が二分冊からこぼれおちる小説だが、

彼のまつさらな正義感に、ごくまれに安堵の胸をなでおろす。

無論その「正義」とは、相対的な意味の「正義」にすぎないが。

たとえば、DEAの指揮による「コンドル作戦」で、

メキシコはシナロア州の罌粟畑が焼き払われるが、

麻薬戦争の趨勢には露ほども影響しない。

むしろそれは逆効果で、栽培や精製だのといつた農民じみた骨折りより、

はるかに価値のある商品にメキシコ人たちは気づく。

国境。

 

土地は焼かれ、作物は毒され、人は追い散らされても、国境は残る。

国境はどこへも行かない。

国境の一インチこちらでは数セントの値打ちしかない品物が、

向こうへ一インチ移動しただけで数千倍の価値を持つ。

 

アートはDEAにはいる前に、CIAの分析官としてベトナム戦争に参加したが、

著者は麻薬戦争をしつこいほど、かのインドシナの戦いと類比する。

この『犬の力』は、アメリカ・メキシコ国境から裏書きすることで、

ベトナム以降のアメリカ現代史をあぶりだす、野心的なくわだてだ。

 

メキシコ人たちは、気兼ねなく死のことを話題にする。

“死”には、多くの呼び名がある。

“気まぐれ婦人”、“痩せっぽ”、“老骨”、

あるいは単純素朴な死(ラ・ムエルテ)……。

死は遠くに置いて眺めるものではない。

死者と疎遠になるべからず。

死者の日(エル・ディア・ロス・ムエルトス)になると、生者は死者を訪ねる。

 

復讐の復讐の復讐。

飽き飽きするほどの、何度目か数えきれないほどの。

それはややグロテスクな、アメリカ合衆国の肖像画だ。

国境においてのみ、国家はその素顔をみせる。

 

 

 

本作のテーゼは明確で、誤解の余地はない。

「人はみづから憎むところのものになる」。

だれもが、つまり大統領も麻薬王も高級娼婦も、

生きのこるために悪に手をそめ、くらい淵に転げ落ちてゆく。

あんな風にだけはなりたくないと思つていた人間に、

三十年後の自分がなつている。

その濁流は塞きとどめようがない。

だからこそ、二十二口径の拳銃を愛する一匹狼、

ショーン・カランの生き様があざやかだ。

友人の命をすくうためにおこなつた、はじめての殺人。

幕切れでの、知りすぎた女ノーラをつれた逃避行。

向こう見ずな激情が、読者の肺腑をつらぬく。

あと一度だけ、引用するのを許していただきたい。

バイクにのるカランが、現金強奪のためにBMWをおそう場面。

 

二発の二二口径の弾丸が、

ピンボールの球よろしく運転手の脳みその中を跳ね回る。

だから、カランは二二口径を愛用する。

頭蓋骨を貫くほどの威力はないが、

出口を求める弾丸が盤上をやみくもに駆け巡り、

すべてのランプを点灯させ、それから残らず消灯させる。

ゲームオーバー。

ボーナス・プレイはなし。

BMWは一気に三百六十度回転して、道路から飛び出す。

 

それはあまりにやるせない、一九九六年のピンボール。





犬の力 上 (角川文庫)犬の力 上 (角川文庫)
(2009/08/25)
ドン・ウィンズロウ

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