ベルリンから遠くはなれて ― 山下政三『鷗外森林太郎と脚気紛争』

麦飯

鷗外森林太郎と脚気紛争

著者:山下政三
発行:日本評論社 平成二十年



オレの親の世代の健康診断では、かならず膝頭をたたいて、
「脚気」による神経障害の有無をたしかめたときく。
心臓機能の低下をもたらす重大な疾患で、結核とならぶ国民病とされた。
その後、食生活の改善と、武田薬品工業が発売した「アリナミン」で、
当該栄養分ビタミンB1の摂取が容易になったこともあり、ほぼ根絶。
いまでは、なつかしくきこえる病名だ。
だが、原因が不明だった明治期の衛生当局、
特に兵士を劣悪な環境におかざるをえない軍にとっては、
このおそるべき病の原因究明は急務だった。
陸軍省が森鷗外をドイツに留学させたのは、
現地の舞姫とあそばせるためではなく、軍医として兵食を研究させ、
いづれは脚気を一掃したいという目的があった。
しかしその結果は、みじめな失敗におわる。
失敗どころか、鷗外のドイツじこみの理論が、
脚気の被害を爆発的に拡大する理由のひとつになった。
日清戦争では、兵員の18%におよぶ41431人の脚気患者をだし、
そのうち4064人が死亡。
日露戦争では、25%をこえる25万人以上の患者をだし、
2万7000人以上が死亡。
原因は、陸軍が脚気の予防に定評がある麦飯をきらい、
白米飯の支給にこだわったから。
この惨害に、鷗外は直接的責任をおう。



公平を期すために強調しなくてはならないのは、
当時は「ビタミン」が発見されていなかった、ということ。
消化吸収の結果からみて、米は麦よりはるかに栄養がある。
海軍や現場の軍医は、経験から麦飯が脚気にきくというが、
精密な医学的証明はまったくないではないか!
そんな鷗外の主張は、ビタミン発見以前にあっては、
純理論的な文脈にかぎれば、道理にかなう。
ただ、実践においてなんの役にもたたないだけ。
やはり、ベルリンでの鷗外の真の関心は、
おんなの尻にあったかと疑わざるをえない。
科学とはなにかを、おしえる教師はいなかったのか。
実験や観察をおもんじ、そこからえた事実に適合しないなら、
ときには自分がよってたつ通説さえ、すてなくてはならない。
その作業の蓄積が、科学認識の革命的変化をみちびく。
要するに、経験をおもんばからない手法は、「科学的」とはいえない。
客観的事実を無視する「科学者」とくらべれば、
鷗外が軽蔑する漢方医のほうが、よほどマシだ。
脚気がない西洋で、この疾患の研究がおくれていたことも、
かれを脚気伝染病説に固執させた。
権威によわいひとだから。
鷗外はよき弟子ではあったが、よき科学者、軍医ではなかった。
脚気対策のためにドイツに派遣されたことをかんがえれば、
そう断定してさしつかえないだろう。



著者の山下は「石黒忠悳悪玉説」をとり、鷗外の名誉回復をはかる。
戦時下の衛生に関する総責任をおうのは野戦衛生長官であり、
隷下の軍医部長にすぎない鷗外にとうべきは、部分的な職責のみ。
また、有名な「小倉左遷」は、日清戦争時に長官だった石黒が、
みづからの責任をかぶせようとしたもので、鷗外にとっては不当なものだ。
実によくしらべている本で勉強になるが、
残念ながら、肝心かなめの左遷については証拠不足で、
心理的な憶測の域をでていない。
ただいづれにせよ、鷗外が徹頭徹尾「よき部下」だったのはまちがいない。
勿論、そうでないひともいる。
日清戦争時、鷗外とおなじ第二軍の軍軍医部長だった土岐頼徳は、
司令官に対し麦飯給与を要求するが、
白米至上主義者の石黒と鷗外ににぎりつぶされる。
鷗外より二十歳ほど年かさで、西南戦争の従軍経験もある土岐は激怒し、
上官の石黒あてに、火をふくほど激烈な意見書をたたきつける。

區々タル賤丈夫ノ私見國家ノ大計を誤ラントスル者アレハ
篤ク訓戒ヲ加ヘテ帝國臣民タルノ正道ニ就カシメラレンコトヲ
切望ノ至リニ堪ヘス


貴様らは国家の敵だ、といわんばかり。
上官とケンカしてゆるされる軍隊があるわけもなく、
不遇の晩年をおくるはめに。
それでも、一途に正義をもとめる明治軍人の気骨が、こころをうつ。



鴎外 森林太郎と脚気紛争鴎外 森林太郎と脚気紛争
(2008/11)
山下 政三

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麦飯の写真は、『レシピ気ままにSelfish』から借用。

文学者鷗外の偽善を批判する拙文は、以下を参照のこと。
「どきどき文学裁判! ― 森鷗外『青年』」

「ウィキペディア」の「森鴎外・医学功績と脚気問題から見た再評価」の項は、
本書から都合のよい部分をぬきだして、鷗外を擁護する。
それはまあ、結構なことだ。
だが、「鷗外の留学の目的が脚気対策にあったこと」や、
「土岐頼徳による鷗外への批判」などにふれないのは、公平をかく。
修正をのぞむ次第だ。

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