カヅホ『キルミーベイベー』
キルミーベイベー 第一巻
作者:カヅホ
発行:芳文社 平成二十一年
[まんがタイムKRコミックス]
里見英樹(よつばスタジオ)による、買う気にさせる装丁にだまされ、
ふらふらとレジにむかう。
「学校で人を殺してはいけません。」とか、帯のアオリも完璧。
帯をすてるにしのびなく、置き場所にこまる。
これは、「萌え四コマ」に分類される作品かな。
金髪ツインテールのソーニャ、黒髪のやすな。
キュートな女子高生ふたりの、ドタバタ学校生活をえがく。
異色なのは、ロシアむすめ(推定)のソーニャが、プロの殺し屋だってこと。
ひとが背後にたつと、反射的に攻撃するのはお約束。
そういや、映画『ニキータ』の主人公もスラブ系の名を称してたな。
荒唐無稽な設定も、ロシア人ならアリ。
なのかも。
ガラス瓶を、たやすく素手で切断するほどの戦闘力をもつソーニャだが、
動物とオバケが大の苦手。
恐れをしらないやすなに、散々もてあそばれる。
やすなは、おとなしそうな顔のわりに、
暴走気味のボケとツッコミで、殺し屋以上の破壊力。
右の四コマ目、壁にはりつくソーニャがかわいい。
絵柄は愛くるしいが、なかなかどうして活劇もいきがよい。
かぎられたコマのなかで、多彩なアクションをみせる。
授業中に何気なくはじまる、暗殺。
のはずなのだが、ギャグ漫画とはおそろしいもので、
おぞましい殺人が下ネタにひきずりおろされる。
教室は無法地帯に。
四コマ漫画の新趣向なんて、とっくに出つくしたとおもっていたが、
漫画家の想像力に限界はないらしい。
『キルミーベイベー』は、よっつのコマのなかで、
現実ばなれした殺陣と、美少女キャラの萌えを交配させ、
なれしたしんだ日常を転覆する過激作だ。
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マテリアル・ガールから逃れて ― 『ロックンローラ』
ロックンローラ
RocknRolla
出演:ジェラルド・バトラー トム・ウィルキンソン マーク・ストロング
監督:ガイ・リッチー
制作:イギリス 二〇〇八年
[恵比寿ガーデンシネマで鑑賞]
「ロックンローラ」とは、金も、名声も、女も、ヤクも、
すべてを一息につかもうとする人間のこと。
つまり、この映画は「欲望」が主題。
期待させる。
そんなガイ・リッチー監督は、のんびり地中海の島で、
ラジー受賞作にかまけるうち、浦島太郎になっていた。
外国資本が洪水のようにながれこみ、空前の好況にわくロンドン。
あたらしい高層建築がぬりかえる町並や、
なまぐさい煩悩に翻弄されるひとびとをえがく。
という塩梅に、あわてて故郷が舞台の映画をつくったはいいが、
公開時に不動産バブルがはじける、というオチがつきました。
ぬけてるなあ。
カレル・ローデンは、ロマン・アブラモヴィッチそのものの役。
このひと、『ボーン・スプレマシー』でもロシアの石油王を演じてた。
マフィアがこわくないのだろうか。
二度にわたり七百万ユーロをぬすまれるが、
かれにしてみりゃはした金だから、おかまいなし。
それより、お気にいりの絵の行方ばかり心配する。
欲望は、金銭ではかれない?
それは結構だけど、悪役が最後まで余裕綽々なので、もりあがらない。
ジェラルド・バトラーめあてで平日の恵比寿にいったが、
愛すべきチンピラをたくみに演じていた。
ホモネタとか、わらわせる。
こんな連中とパブで飲んだら、たのしいだろうな。
でも、金をはらってみる作品としては、どうだか。
公式サイトのプロダクションノートをよめば、
この映画がこんなにユルい理由がわかる。
六週間でとったから。
演技は即興ばかりで、いつでも一発OK!
つまり、マクドナルド映画だった。
本来はかわいくて気品あるタンディ・ニュートンも、
鶏ガラみたいに貧相で、色気がないのがくやしい。
いくら制作期間がみじかくても、
「クォーターパウンダー」くらいの味はたもってほしい。
肉のうまみがたりないんだな。
マドンナ・ルイーズ・チッコーネ、五十歳。
きたえすぎだ。
血管がゴムホースみたいにうきあがる。
コイツと喧嘩したら、瞬殺されるよ。
信憑性のうすい最近の発言として、もと旦那のリッチーに対する、
私は私みたいな人間と結婚したかったわ。
強くて、血気盛んで、知的で、
意気揚々としている人間が好きなのよ!
というものがある。
無責任な噂にすぎないにしても、
かの女の哲学を端的にあらわしていて、おもしろいね!
マドンナの人生については、草一本のこらないほど語りつくされており、
オレがつけくわえる言葉など、なにもない。
ただいえるのは、本作でいう「ロックンローラ」とは、まさに、
去年「ロックの殿堂」入りをはたした、この「マテリアル・ガール」だってこと。
文字どおり裸一貫からのしあがり、のぞむものすべてを手にいれる。
いらなくなれば、すぐに捨てる。
そして、老いてもなお肉体をいじめ、荒野と化した旅路をすすみつづける。
純粋な、欲望そのもの。
なるほど、映画『ロックンローラ』が失敗作なのも当然だ。
そこにいるべき主演俳優がいないのだから。
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それは言葉より重く ― 平松剛『磯崎新の『都庁』』
磯崎新の『都庁』 戦後日本最大のコンペ
著者:平松剛
発行:文藝春秋 平成二十年
昭和六十年、十一月。
磯崎新は、新庁舎設計協議の説明会のために、
当時は丸の内にあった都庁によびつけられる。
エレベーターで、師匠の丹下健三に鉢あわせ。
当然弟子は挨拶するが、この師は見向きもしない。
意外とマメな磯崎は、誕生日にかならず花をおくっていたほどで、
別に礼を失したのでも、不仲だったのでもない。
つまり丹下は、すでに臨戦態勢をととのえていた。
たわいない世間ばなしでもらしたひとことが、
こちらの計画をさぐる手がかりになるかもしれない。
説明会からの帰りの車中では、早速話をはじめた部下にむかい、
人さし指を口にあててだまらせる。
そして、事務所にもどってから激昂。
車の中でコンペの話をするもんじゃありません!
盗聴マイクが入ってるかもしれません!
車の中では絶対に話しちゃいけません!
すこし偏執狂の気味がなくもないが、ここまでおもいつめるほど、
建築家とは過酷な商売なのだろうか。
丹下健三は古稀をこえてるくせに徹夜も平気で、
疲労困憊の子分どもを朝までつきあわせる。
どこか、バケモノじみている。
これだけなら、「巨匠の建築にかける情熱はすごいね」で、
話がおわるのだが、そう単純にいかない。
指名コンペに参加した九社のなかで、丹下が特に目をひくのは、
かれが丸の内の旧庁舎(昭和三十二年完工)を設計した張本人だから。
ただの事務所ではない。
磯崎が、「日本の一九五〇年代の建築の代表作」とまで称賛する傑作だ。
ル・コルビュジエ流のモダニズムに、王朝風の美意識をとけこませた意匠は、
のちのあらゆる庁舎建築の雛型になる。
新庁舎の完成後に解体されるが、いまだにおしむものが多いらしい。
だからコンペに勝ったところで、
「むかしの丹下さんはよかったのにね」と陰口をたたかれるのは必定。
しかしかれは、みづからの経歴にまったく関心がない。
こわすというなら、またわたしにつくらせなさい!
まるで、積木であそぶ幼児のようだ。
要するに無邪気な建築バカで、あまったるい感傷とは無縁。
その点が、弁舌さわやかなインテリの磯崎と対照的でおもしろい。
「廃墟」だの「見えない都市」だの「闇の空間」だの、
耳目をあつめる合言葉をかんがえるのは得意だが、
結局そこにたっているのは、師匠の都庁だ。
週末、ひさしぶりに「副都心」に足をのばした。
しかしこの界隈、限界まで空が無機質なかたまりにうめつくされ、
都庁にたどりつくまえに息がつまる。
それでも、この庁舎はうつくしい。
ゴシック調の形態のなか、陰影にとむ花崗岩のファサードが、
優美さと気品をあたえている。
階段状の第二本庁舎は、本体の印象をそこなうことなく、
むしろその凛とした縦の軸をひきたてる。
密生する摩天楼にうもれるどころか、老大家の気概が、
副都心にあらたな命をふきこんだ。
竣工時は、建築にくわしいものほど、口ぎたなくののしったけれども。
金満的デザインだとか、ポストモダンにすりよったとか、古くさいとか。
当の敗者である磯崎がその急先鋒で、バブル時代の「粗大ゴミ」と酷評した。
丹下の死の翌日、朝日新聞によせた追悼文も有名。
「新東京都庁舎なんか、伝丹下健三としておいてもらいたい」とかなんとか。
負け惜しみをいうにしても、「伝丹下健三」はひどい。
師匠が晩年の大作にどれほど心血をそそいだか、しらぬわけでもなかろうに。
しかし、建築も人間の肉体とおなじく、永遠の生命をもちはしないが、
磯崎をふくむ評論家の駄弁にくらぶれば、数十倍の寿命をあたえられている。
新庁舎は、いまでは副都心の象徴としてひろく認知され、
この殺伐とした区域に、おおくの観光客をあつめる。
中身は、ただの事務所なのに。
ありとあらゆる面からみて、このたたかいは丹下の勝利のようだ。
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大根万歳! ― 『ディファイアンス』
ディファイアンス
Defiance
出演:ダニエル・クレイグ リーエフ・シュライバー ジェイミー・ベル
監督:エドワード・ズウィック
制作:アメリカ 二〇〇八年
[シネマスクエアとうきゅうで鑑賞]
また例の、「世界はユダヤ人の味方です!」映画かよ。
ガザ地区の市民に対して無差別攻撃をしているのは、どの民族だ。
いまさらドイツ人を批難してる場合か。
という具合に眉をつばでたっぷりとぬらし、突撃隊よろしく、
新宿のシネマスクエア(ゆったりした椅子がよい)にむかった。
しかし、さすがは骨太なユダヤおじさんのズウィック監督。
地に足がグサグサつきささった映画だった!
これは、ユダヤ人共同体とナチスドイツがたたかう「戦争映画」だね。
一九四一年、ベラルーシを占拠したドイツ軍は、
地元警察の手をかりてユダヤ人狩りをはじめる。
ドイツ人の律儀さはあきれるほどで、こんな僻地でもユダヤ人をおっかけたらしい。
この労力を主要な戦線にむければよいものを……。
ダニエル・クレイグは、軍や警察の力がおよばない森のなかに同胞をあつめ、
最大で千二百人の小国家をきずく。
ここまでくれば、国対国の正規戦だ。
だからこの映画は、お涙頂戴の綺麗ごとじゃない。
仲間がふえればまず食料の心配をするし、共同体内部は不平不満ばかりで、
クレイグはきびしい政治的判断をせまられる。
衣装や小道具も、よくしらべていて作りがこまかいから、真にせまる。
鍋とか、ウチのとおなじくらい汚いんだもの。
ダニエル・クレイグは、やはり好きになれない。
前頭骨が発達しすぎて、ひどい奥目。
瞳の色のうつくしさにまいったひとも多いらしいけど、
でもさ、全然表情がよみとれなくない?
面の皮もつっぱった感じで、額にお猿さんみたいな皺がすぐでるし、
わらっても、頬のあたりがひきつっている。
表情のにぶさは、演技者として致命的だとおもうんだけどな。
一方、かれの弟を演ずるリーエフ・シュライバーはすばらしかった。
冒頭から、ふたりのあいだには緊張感がはりつめる。
単に敵をたおす、人命をすくうという主題だけでなく、
家族同士の確執がえがかれる、重厚なものがたりだ。
組織の防衛を優先する兄と、攻撃をこのむ弟は、つねに意見が対立。
『ゴッドファーザー』でいうと、マイケルとソニーの関係だ。
クレイグとちがって「うまい役者」なので、
映画を複雑なあじわいにするのに、だれよりも貢献していた。
とはいえ、役者はうまけりゃいいってもんじゃない。
三番目の兄弟を演じたのが、ジェイミー・ベル。
好演だったが、おもしろい発言をしている。
映画の後半で、かれがクレイグにかわって指揮をとる場面について。
最初の脚本では、あの展開はなかったんだよ。
途中でエドが思いついたんだ。
そこにもまた、ダニエルの寛大さが表れているよね。
見せ場を若手にあげてしまうことを快く思わない主演俳優は、
きっとたくさんいるだろう。
猿渡由紀 『ディファイアンス』プログラム
クレイグさん、顔は少々こわいが、やさしいひとなんですね。
監督も、奥目おとこの人間性をほめたたえる。
ダニエル(・クレイグ)がタフな男で、
他に手本を示すような人柄だったから助かったよ。
もし彼が自分から率先してトレーラーに走って戻るタイプだったら、
他のみんなもそうしていいただろう。
同プログラム
成功した俳優ならではの余裕かもしれないけれど、
それこそ役柄とおなじように、仲間を率先垂範していたようだ。
そこまでかんがえての配役なら、すごいな。
このブログではいつもいっているが、「演技力と人間性は反比例」。
クレイグが大根役者だという印象はかわらないが、
極寒のロケ地で苦労する同僚をはげまし、
映画の完成にみちびくことも、重要なしごとにちがいない。
そんな現場の団結ぶりが、観客にもつたわる名作だ。
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逆流するナリミヤ ― 『ララピポ』
ララピポ
出演:成宮寛貴 中村ゆり 村上知子
監督:宮野雅之
制作:日本 平成二十一年
成宮寛貴、二十六歳。
オレのしるかぎり、この世代でもっとも才能ある演技者だ。
ああ勿論、世界でのはなし。
『ラヴァーズ・キス』では、ひややかな二枚目。
『あずみ』は、孤独な殺し屋。
『NANA』では、二枚目役を松田龍平にゆずり、
お調子ものを演じながら中島美嘉のバンドをもりあげた。
日ごとに変わるその髪形のように、八面六臂、百面相。
まったく、すばらしい役者だ。
本作では風俗店のスカウトマンを演じるということで、
研究のために新宿や渋谷にくりだす。
スカウトマンって、(人の波を)逆流してくるじゃないですか。
だから、あの人がスカウトマンだって思うだけで。
意外とおしゃれだし、普通の人なんですよね。
今回のこの作品では、作品の世界観に合わせて、
ステレオタイプのザ・スカウトマンっていうのを作ろうと思って、
髪型や衣装から作り込んでいきましたね。
観察眼のするどさを感じる。
たしかにひとの流れにさからわないと、女の子を物色できないよね。
オレも一応新宿区民だが、こんなこと考えもしなかった。
女性読者のみなさま、盛り場では逆流するおとこに注意すれば、
邪魔されずに目的地にたどりつけるようです。
本作は、渋谷が舞台の群像劇。
ああ、群像劇!
出演者の数を水増しして、お値打ち感をかもしだす。
だが実際の目的は、役者ひとりあたりの拘束期間をちぢめ、
制作費をおさえることにある。
年々、この安易な形式の映画がふえているのが悲しい。
まあそれは、ともかくとして。
渋谷をあつかう作品では、去年の十二月にでたWiiのゲーム『428』があったが、
オレはまったくたのしめなかった。
そもそも個人的に渋谷が苦手ということもあるけれど、
あのゲームに真実味がないのが、最大の原因。
だって、渋谷にはえる役者がいないんだもの。
しかし成宮の、「ファッションリーダー」の称号は伊達ではなく、
欲望の町の背景にのみこまれることはない。
ナントカ坂をのぼりおりしながら、栄光にむかってかけぬける。
ナリミヤ以外のだれが、この役をつとめられるだろう?
中村ゆりは、地味なデパート店員だったところをスカウトされ、
風俗店やアダルトビデオにうりとばされる。
一見、欲望丸だしのおとこたちに翻弄される転落人生とみせかけつつ、
実際はかれらを手玉にとる様子を上手に演ずる。
華奢で、とても綺麗だった。
とはいえ。
結局のところこの映画も、美男美女のカップルが軸なんだよね。
古典的なボーイ・ミーツ・ガール。
絵空事です。
制作者たちはあの手この手で、映画の内容は真実だとうったえるけれど。
格差社会がどうとか。
でもまあ正直、演出とか脚本とかどうでもかまわない。
オレとしては、映画ならではのファンタジーがすきなんだ。
美男子は美男子として、美女は美女として、銀幕にうつってほしい。
だからこそオレは、「映画俳優・成宮寛貴」に望みをたくす。
テレビはお笑い藝人にでもまかせておいて、もっともっと映画に注力してくれよ!
時代のながれからみれば、逆行なのかもしれないけれど。
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最後のロックンローラー ― ジョン・フルシアンテ『ザ・エンピリアン』
ザ・エンピリアン
The Empyrean
ジョン・フルシアンテ(John Frusciante)のアルバム
制作:アメリカ 二〇〇九年
ロックの英雄であるためには、革新的な音楽をうみだすのは勿論、
言動も劇的でなくてはならない。
レッド・ホット・チリ・ペッパーズのギタリスト、ジョン・フルシアンテは、
その最新版といえるだろうか。
一九九二年の来日時、突如精神に変調をきたし、
二回の公演をのこしたまま、ひとり帰国。
のこした捨てゼリフは、「狂ったとでもいってくれ」。
そのままバンドをはなれ、麻薬に依存する生活に。
愛用のギターまでうってヤクを買ったとか、歯のほとんどをうしなったとか。
しかしかれは、地獄の底でも音楽制作をやめなかった。
大鷹俊一によるライナーノーツからことばをかりる。
その垂れ流される苦悩という血液、
究極的な乱調の中での平穏を激しく求める試みがあったからこそ
今回のアルバムのような美しい世界に到達できたとも言えるはずだ。
おのれの価値観だけを信じる、音楽の殉教者。
ジョン・レノンがそうだったように。
だが、しかし。
今日の音楽は、「データ」という名のケシ粒に変換され、二束三文で流通する。
数メガバイトの「データ」には、塵芥ほどのおもみすらない。
それはシャカシャカとシャッフルされるなか、運がよければ再生されて、
単なる移動中の気ばらしとして消費される。
そんな時代に「ロックンローラーの生きざま」とか、あまりにバカバカしくて。
ジョン単独の新作である『ザ・エンピリアン』は、
九分間延々とギターをつまびく「Before The Beginning」からはじまる。
つづく「Song To The Siren」は、ティム・バックリーの四十年まえの曲の再演。
どちらもうつくしい演奏だが、聞き手に迎合する気がまったくないことを、
そっけなく宣言するアルバム構成だ。
曲名も「God」やら「Heaven」やら、おそろしげ。
三曲目の「Unreachable」から一変、はげしい音圧がのしかかる。
声は加工され、ギターもきいたこともないような、あらあらしい響き。
最近のかれはエロクトロニックミュージックしかきいてなくて、
コンピュータによる音楽に特有な音色の多彩さや、激烈な音場の変化を、
ロックの流儀で再現したらしい。
そして、八曲目の「Central」がアルバムの白眉だ。
ギターとドラムと弦楽四重奏が、ミルフィーユのように分厚くかさなり、
異様な混沌と高揚をもたらす。
千々にみだれる音の洪水のなか、ジョンは遠慮がちな声で、
"You gotta feel your lines"と切々とくりかえす。
「自分のことばを意識しろ」といった意味か。
ジョンが本作でうったえる真意を、一言であらわすことなどできないが、
とおしで五十四分きけば、声とギターからその歌心がいたいほどつたわる。
このアルバムをシャッフルするなんて、ありえない。
人工的な響きの数々をきいて、制作にはコンピュータを駆使したとおもったが、
実はすべてアナログの機材で録音したらしい。
シンセサイザーの音にきこえたのは、
オルガンやエレクトリックピアノにエフェクトをかけたもの。
アナログテープをハサミで切り貼りし、
逆回転などの手作業を通じて、自分だけの音を発掘する。
その労力と、研究熱心さに頭がさがる。
そう、勉強家でなければ、音楽の世界でいきのこることなどできない。
一九九九年にレッチリに復帰してからのジョンは、不始末をすることもなく、
さらに名をあげたバンドの中心として奮闘している。
そして、世界的なバンドの一員であるという重圧をしのぎながら、
経済的必要をみたしたり、人脈をきずいたり。
そのあいまにスタジオにこもって、音楽をふかく探求。
かつての行跡をおもえば、涙ぐましい努力だ。
昼はおかたい会社につとめるサラリーマンが、
自宅でひそかにプロ顔まけの動画をつくり、共有サイトに投稿するようなものか。
規模はちがうけれど。
自由な魂のもちぬしの居場所がますますせばまる昨今だが、
ロックンローラーも、不安定な環境のなかで進化する。
ささくれだった音と、たよりない歌声は、素面できくにはややつらい。
それでも夜ふけに、酒を片手に大音量でながしていると、
いまをいきる人間への応援歌にきこえる瞬間がある。
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異分子の作用 ― オーストラリア戦の松井大輔について
ワールドカップ・アジア最終予選 日本-オーストラリア
結果:0-0
会場:横浜国際総合競技場
[テレビ観戦]
サッカーに関しては、ニューカッスル出身、
ジェレミー・ウォーカー氏の意見をたよりにしている。
なにせ球蹴りあそびの母国のひとだから、
どこかのくにみたいに「世界」「世界」とわめいて、
みっともない島国根性を露呈することもない。
かたり口が安定していて、しゃれがわかるのもよい。
余裕があるのだ。
ただ先週の試合の戦評で、ジェレミーさんが松井大輔を、
手きびしく批判するのに、すこしおどろいた。
え、そんなにわるかったかな?
前半二十一分。
松井は、日本からみて右翼でもたつくムーアに対し、
背後からすべりこんでボールをうばう。
すぐさまゴールまえに突進。
あわてたチッパーフィールドがかろうじて体あたりでとめ、警告をうける。
総合格闘家のように獰猛で、しなやかな身のこなし。
しかしいわれてみれば、目にとまるようなしごとはこの一回だけ。
後半あたまの不用意なパスミスもひびいたか、
はやくも同十二分に大久保とかえられる。
およびじゃないよという次第だが、観客はさりぎわの松井に声援をおくる。
ただ一度ギラリとひらめいた殺気は、それほど鮮烈だった。
ドリブラーという種族は、誤解されがち。
技術をひけらかすことにしか興味がない、自己陶酔者とみなされている。
得点という成果がうまれないと、人格まで否定される。
ジェレミーさんも、意味なく目だつことをきらう、
実用主義的なイングランド人気質ゆえ、苦言を呈したのだろう。
だがドリブルは、そんなに生やさしい道具ではない。
筋骨隆々たる敵とむきあい、それを屈辱的にねじふせる野蛮さ。
うちにひめた攻撃性がなければ、
ドリブルの専門家になることなどできない。
昨年ASサンテティエンヌに移籍した松井大輔は、
出番にめぐまれず苦労をしいられた。
クラブの会長から、「あれは松井の兄弟かいとこなんじゃないか?」、
「うちの選手がリヨンのちかくに住むのはおかしい」などと、
いいがかりをつけられる始末。
勿論、いわれのない侮辱に沈黙する松井ではない。
選手の親であるはずの会長が、そういう発言をしていいんですか。
プレーを批判されるのは構わないけど、
住んでいる場所についてあれこれ言われる筋合いはない!
木村かや子
なんと、会長に直談判。
サッカークラブを経営しているくせに、ドリブラーが、
どれほどほこりたかい生きものなのかしらないとは。
オーストラリアのファーベーク監督は、不安なのか挑発をくりかえし、
日本の報道機関も簡単につられてさわぎをおおきくした。
おとなしいわが代表の面々は総じてしらぬ顔をしたが、
松井だけは牙をむきだしに。
京都時代はあの独裁者にいじめられた。
借りはかえしてやる。
こういう場合はだまっているのが正解なのだが、
人間、激情をそうたやすく制御できるものでもない。
ただ、試合後のファーベーク監督の発言は、
松井にとって意外だったかもしれない。
(日本代表には)驚いていない。
われわれの予想通りだった。
唯一、驚いたことは松井と大久保の交代だ。
はなしの脈絡はわからないが、松井の存在が脅威だったらしい。
客観的にみて、かれの働きはほめられるものではない。
しかし勝負の世界は、すべての条件が「客観的」ではない。
相手のふところにとびこみナイフをつきたてようと、
つけねらう刺客がひとりいるだけで、指揮者の判断はくるう。
要するに毀誉褒貶、みるひとにより評価がまちまちなのが、
松井大輔というおとこのおもしろさだ。
従順なだけがとりえの、働きアリのむれみたいな代表チームにあって、
かれのドリブルだけが意外性をもたらす。
ときに、怠惰なキリギリスとして非難されるにしても。
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箱庭で水あそび ― 『アナザーコード:R 記憶の扉』
アナザーコード:R 記憶の扉
発売:任天堂 平成二十一年
開発:シング
対応機種:Wii
すこし背がのびた十六歳のアシュレイが、しずかな湖畔をあるく。
波の音が、かわいたこころを癒してくれる。
『アナザーコード 2つの記憶』、『ウィッシュルーム 天使の記憶』につづく、
「記憶」シリーズ(勝手に命名)の最新作。
本作は一見地味だが、斬新な映像表現をためしている。
舞台の書割のような風景が、アシュレイのうごきにあわせて複雑にながれ、
湖をわたる、すずやかな風が感じられる。
福岡のにせアメリカ人、鈴木理香によるものがたりも、
あいかわらず上質なあじわいだ。
かの女は、世界でもっとも文才ある副社長かもしれない。
鈴木と、デザイナーの金崎泰輔がうみだす世界の、
えがたい繊細さと存在感は、もっともっと評価されないとおかしい。
前作をあそんだアメリカ人がアシュレイのことを、
「ショッピングモールで、ふとすれちがいそうなおんなの子」とかいて、
メールでおくってきたそうだが、もっともな感想だ。
柴田元幸や村上春樹が訳した、アメリカ現代小説をおもわせる空気がある。
前作ではへそだしのTシャツが印象的だったアシュレイは、
二年がたち、あかいタンクトップにきがえた。
前後に東洋風の花の模様があしらわれ、日米ハーフのかの女によくにあう。
三十男としては、うらわかいおとめに感情をたくしづらくもあるが、
銀髪の主人公が、さらにかわいくなったことは大歓迎。
さびしがりのくせに、口をひらくたびに父とケンカするあたりは、
女流作家ならではの描写かな。
まじめだけど、家のことは放置ぎみで、
どこかぬけている父リチャードの存在が、きいている。
むすめを無理にキャンプ場によびつけたのに、
バーベキュー用の炭をわすれてあきれられる。
その後アシュレイは、父の本棚にバーベキューの本をみつける。
「パパったら、バーベキューのために本を四冊もよんだの!?」
こんな具合に箱庭をうろうろすると、作品の世界にふれた気分になるので、
オレはアドベンチャーゲームがすきなのだ。
鈴木理香は、ひとのこころは水のようなものだと、とらえているようだ。
随所で「水」と「記憶」という主題がむすびつけられる。
一応なぞときのゲームなので、
殺人事件や企業犯罪といったおもい題材もあるが、
あらゆる登場人物を、うたがいの目でみるミステリーではない。
おだやかな日常をこわす波風がたっても、
それは波紋のようにひろがり、いつのまにかもとの水面にもどる。
事件というのはきっと人の欲望から
生まれてくるものだと思うのですが、
それには宮川が言いましたように
「願い事」とでも言うような何か理由があるはずなんです。
なぜその人がそんなことをするに至ったのか、
という原点は欲望という言葉ではなくて、
心のなかにある願い事が叶えられなかったときに
叶えたいと思って、人が本能のまま動くことが事件となり、
人の心の闇になるのではないかと思います。
N.O.M 2007年2月号 No.103
こんな感傷的であまったるい副社長で、経営は問題ないのだろうか。
いづれにせよ、福岡から京都を経由して、
世界におくられる作品群にふれるたび、
わたしたちは多分、きのうよりすこしやさしいきもちになる。
![]() | アナザーコード:R 記憶の扉 (2009/02/05) Nintendo Wii 商品詳細を見る |
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テーマ : Wii(ウィー)総合
ジャンル : ゲーム
銃とウォッカ ― 『フェイクシティ ある男のルール』

フェイクシティ ある男のルール
Street Kings
出演:キアヌ・リーヴス フォレスト・ウィテカー ヒュー・ローリー
監督:デヴィッド・エアー
制作:アメリカ 二〇〇八年
[新宿武蔵野館で鑑賞]
真の酒飲みが愛するのが、ウォッカだときいたことがある。
無味無臭で、純粋に酔うことだけを目的とする酒。
主人公である刑事トム・ラドローは、ウォッカのミニボトルをあおりながら、
ただひとり凶悪犯の潜伏先に突入。
勇敢というよりは、いのちしらずな暴走だ。
犯罪とのたたかいの最前線にあっては、
みづからが純粋な暴力そのものでなくてはならない、
とかたく信じるかのようだ。
少女を監禁しなぶりものにした韓国系の悪党に、
人種差別的な暴言をはき、銃を手にしては無論、躊躇なくころす。
どちらが本当の悪なのか、不安になるほどだ。
ラドローが拳銃の分解清掃に没頭する、冒頭にもしびれた。
ステンレスの外装がしぶくひかる、S&W M4506らしい。
この映画は銃にこだわってますよ、という暗示だ。
ふるくても、入念にみがきあげた大口径の銃に、
おとこは自分の存在証明をたくす。
あつく血をたぎらす警官を演じるので、
十五年まえのキアヌの出世作、『スピード』を連想した。
ロサンゼルス市警の腐敗が主題である本作とは、
筋だてがかなりことなるが。
しかし映画において、ものがたりはある種の不純物だとおもう。
正直、刑事ものがすきな人間なら、
この映画の結末は、みるまえから容易に想像がつくけれど、
だからといって駄作とはおもわない。
そこに、ひとをよわせる成分があればよい。
キアヌ・リーヴスはある意味、ヘタクソな役者だ。
表情がとぼしいし、いつもにたような演技をする。
なのにジャック・トラヴェン、ネオ、コンスタンティン、クラトゥなどは、
到底同一人物にはおもえない。
役柄への接近方法が特殊なのだろう。
役のなかにはいりこみ、内側からその人物像をくいやぶって、
観客の胸ぐらをつかんでひきずりたおすように演じる。
うえの写真の、銃のかまえのうつくしさ!
そこには、トム・ラドロー刑事がいる。
このひとが発散する不思議な説得力の源泉は、
肉体の安定感にあるとおもう。
首まわりが丸太みたいにふとく、
コイツなら少々無理をしても死にはしないと、
おちついて筋をおうことに専念できる。
ぶあつい胸板や、ひくくざらついた声もたくましく、
あらい息づかいがきこえてくるかのよう。
それでいて、端正な顔だちにつよい信念がこもる。
秩序をまもるための警察が不正にそまり、
ラドローは、うしろだてをうしなったまま、
おそろしい権力においつめられる。
この町には、悪党と、それに利用される弱者の、
二種類しかいない。
どちらにつくべきか、えらびようのない二者択一。
われわれがいきる世界も、それににたものだとおもうが、
すぐれた演技者は、そんななまぐさい現実を蒸留し、
一杯の酒としてさしだしてくれる。
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ベルリンから遠くはなれて ― 山下政三『鷗外森林太郎と脚気紛争』

鷗外森林太郎と脚気紛争
著者:山下政三
発行:日本評論社 平成二十年
オレの親の世代の健康診断では、かならず膝頭をたたいて、
「脚気」による神経障害の有無をたしかめたときく。
心臓機能の低下をもたらす重大な疾患で、結核とならぶ国民病とされた。
その後、食生活の改善と、武田薬品工業が発売した「アリナミン」で、
当該栄養分ビタミンB1の摂取が容易になったこともあり、ほぼ根絶。
いまでは、なつかしくきこえる病名だ。
だが、原因が不明だった明治期の衛生当局、
特に兵士を劣悪な環境におかざるをえない軍にとっては、
このおそるべき病の原因究明は急務だった。
陸軍省が森鷗外をドイツに留学させたのは、
現地の舞姫とあそばせるためではなく、軍医として兵食を研究させ、
いづれは脚気を一掃したいという目的があった。
しかしその結果は、みじめな失敗におわる。
失敗どころか、鷗外のドイツじこみの理論が、
脚気の被害を爆発的に拡大する理由のひとつになった。
日清戦争では、兵員の18%におよぶ41431人の脚気患者をだし、
そのうち4064人が死亡。
日露戦争では、25%をこえる25万人以上の患者をだし、
2万7000人以上が死亡。
原因は、陸軍が脚気の予防に定評がある麦飯をきらい、
白米飯の支給にこだわったから。
この惨害に、鷗外は直接的責任をおう。
公平を期すために強調しなくてはならないのは、
当時は「ビタミン」が発見されていなかった、ということ。
消化吸収の結果からみて、米は麦よりはるかに栄養がある。
海軍や現場の軍医は、経験から麦飯が脚気にきくというが、
精密な医学的証明はまったくないではないか!
そんな鷗外の主張は、ビタミン発見以前にあっては、
純理論的な文脈にかぎれば、道理にかなう。
ただ、実践においてなんの役にもたたないだけ。
やはり、ベルリンでの鷗外の真の関心は、
おんなの尻にあったかと疑わざるをえない。
科学とはなにかを、おしえる教師はいなかったのか。
実験や観察をおもんじ、そこからえた事実に適合しないなら、
ときには自分がよってたつ通説さえ、すてなくてはならない。
その作業の蓄積が、科学認識の革命的変化をみちびく。
要するに、経験をおもんばからない手法は、「科学的」とはいえない。
客観的事実を無視する「科学者」とくらべれば、
鷗外が軽蔑する漢方医のほうが、よほどマシだ。
脚気がない西洋で、この疾患の研究がおくれていたことも、
かれを脚気伝染病説に固執させた。
権威によわいひとだから。
鷗外はよき弟子ではあったが、よき科学者、軍医ではなかった。
脚気対策のためにドイツに派遣されたことをかんがえれば、
そう断定してさしつかえないだろう。
著者の山下は「石黒忠悳悪玉説」をとり、鷗外の名誉回復をはかる。
戦時下の衛生に関する総責任をおうのは野戦衛生長官であり、
隷下の軍医部長にすぎない鷗外にとうべきは、部分的な職責のみ。
また、有名な「小倉左遷」は、日清戦争時に長官だった石黒が、
みづからの責任をかぶせようとしたもので、鷗外にとっては不当なものだ。
実によくしらべている本で勉強になるが、
残念ながら、肝心かなめの左遷については証拠不足で、
心理的な憶測の域をでていない。
ただいづれにせよ、鷗外が徹頭徹尾「よき部下」だったのはまちがいない。
勿論、そうでないひともいる。
日清戦争時、鷗外とおなじ第二軍の軍軍医部長だった土岐頼徳は、
司令官に対し麦飯給与を要求するが、
白米至上主義者の石黒と鷗外ににぎりつぶされる。
鷗外より二十歳ほど年かさで、西南戦争の従軍経験もある土岐は激怒し、
上官の石黒あてに、火をふくほど激烈な意見書をたたきつける。
區々タル賤丈夫ノ私見國家ノ大計を誤ラントスル者アレハ
篤ク訓戒ヲ加ヘテ帝國臣民タルノ正道ニ就カシメラレンコトヲ
切望ノ至リニ堪ヘス
貴様らは国家の敵だ、といわんばかり。
上官とケンカしてゆるされる軍隊があるわけもなく、
不遇の晩年をおくるはめに。
それでも、一途に正義をもとめる明治軍人の気骨が、こころをうつ。
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麦飯の写真は、『レシピ気ままにSelfish』から借用。
文学者鷗外の偽善を批判する拙文は、以下を参照のこと。
「どきどき文学裁判! ― 森鷗外『青年』」
「ウィキペディア」の「森鴎外・医学功績と脚気問題から見た再評価」の項は、
本書から都合のよい部分をぬきだして、鷗外を擁護する。
それはまあ、結構なことだ。
だが、「鷗外の留学の目的が脚気対策にあったこと」や、
「土岐頼徳による鷗外への批判」などにふれないのは、公平をかく。
修正をのぞむ次第だ。
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密室殺人2.0 ― スティーグ・ラーソン『ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女』

(表紙は日本語版上巻のほうがよいね)
ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女
Män som hatar kvinnor
著者:スティーグ・ラーソン
訳者:ヘレンハルメ美穂 岩澤雅利
発行:早川書房 平成二十年
密室殺人ならぬ、密島殺人か。
スウェーデンにうまれたこの探偵小説の主たる筋は、
三十六年まえにボスニア湾の孤島ヘーデビーでおきた、
少女失踪事件の真相を調査するというもの。
しかけが大がかりだ。
登場人物をはじめ、ものがたりの背景も野心的。
主人公ミカエルに捜査の依頼をするのが、
かつてスウェーデンを代表する企業群をひきいていた、
八十二歳のヘンリック・ヴァンゲル。
ヴァンゲル家が支配する島での変事に、
この家の陰鬱な歴史がからみあう。
第二次世界大戦において中立の立場をえらんだスウェーデンは、
ナチス・ドイツともきわどい関係をたもっていた。
よむものを、ヨーロッパの闇がつつむ。
小説にでてくる大金もちは、えてして胡散くさく、現実味がないものだが、
依頼主である富豪のヘンリックは、おいても頭脳明晰で皮肉屋で、
有能な経営者らしいずぶとさを感じる。
「……私は、ヴァンゲル家のほとんどの人間を嫌っている。
連中はほとんど、泥棒と守銭奴とごろつきと役立たずの寄せ集めだ。
グループを率いた三十五年のあいだ、
私は親戚連中とのどうしようもない争いに巻き込まれどおしだった。
私の最大の敵はライバル企業でも国でもなく、彼らだった」
ややこしい感情をぶちまける老人に、下世話な興味がひかれる。
作者のラーソンは、政治雑誌の編集長をつとめていたからか、
政治や経済をかたるときも、筆のうごきはにぶらない。
政治ずきの作家であるからして、
ミカエルの捜査を支援する女主人公の造形にも、政治的主張がこめられる。
からだ中に刺青をほどこした二十四歳のリスベットは、
警備会社と契約してはたらく調査員。
国内随一と自称するハッキングの才能をもつが、
実は、裁判所から精神病患者とみなされていて、
天涯孤独の身ということもあり、
後見人の許可なしでは、金銭などに関する自由をみとめられていない。
そんな逆境につけこんだ悪徳弁護士に、ひどい目にあわされる。
ただかの女は、他人に対しきわめて攻撃的で、
自分がいためつけられたときでも、警察などには一切たよらず、
おのれの手で復讐をはたす。
先鋭的なフェミニズム理論が、結晶化したような人物だ。
そのしごとぶりもはげしい。
企業の買収にさきだっての調査では、対象を徹底的にあらいだし、
その人物が小児性愛者だとする報告書をさしだす。
依頼人をこまらせただけでなく、刑事事件にまで発展。
まあとにかく、格好よいのだ。
しかし、なんでもリスベットのハッキングでカタをつける筋だては、
都合がよすぎるかなあ。
コンピュータを魔法の箱としてえがくので、若干反則ぎみ。
ストックホルムより北にあるヘーデビー島を寒波がおそい、
一月は気温がマイナス三十七度までさがる。
水道管はこおり、窓の内側を氷の結晶がおおう。
昼間でさえ、かまどでいくら火をたいてもあたたまらない。
東京でも毎日こごえながらくらしているから、
そんな極寒を体験するのは死んでも御免だが、
小説なら、ひごろ縁のない北欧の風土や文化をたのしめる。
個人的に探偵小説は、犯人さがしが億劫なのでよまないが、
本書には魅了された。
よほどの傑作なのだろう。
主人公たちは大づめで、ある実業家の大規模な不正をあばき、
株式市場を混乱させる。
そのとき、テレビのインタビューできる大見得。
「スウェーデン経済が破綻しつつあるというのはナンセンスです」
「スウェーデン経済とスウェーデンの株式市場とを混同してはいけません。
スウェーデン経済とは、
この国で日々生産されている商品とサービスの総量です。
それはエリクソンの携帯電話であり、ボルボの自動車であり、
スカン社の鶏肉であり、キルナとシェーヴデを結ぶ交通です。
これこそがスウェーデン経済であって、
その活力は一週間前から何も変わっていません」
やはりこの作家、度量がおおきい。
小説家としての初作品である三部作をかいたあと、
第一部である本書の発売をみることなく、心筋梗塞で他界。
そんな舞台裏の事情が、神格化に拍車をかけ、
世界的な評判をもたらしたようだ。
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テーマ : 推理小説・ミステリー
ジャンル : 本・雑誌
父をたづねて三千里 ― 『イントゥ・ザ・ワイルド』

イントゥ・ザ・ワイルド
Into the Wild
出演:エミール・ハーシュ ウィリアム・ハート クリステン・スチュワート
監督:ショーン・ペン
制作:アメリカ 二〇〇七年
[早稲田松竹で鑑賞]
まえにもかいたけれど、いわゆる「ロードムービー」が、
ひとつの様式として支持されたときから、
映画の堕落がはじまったとかんがている。
つくりこんだ舞台装置のまえで役者同士が火花をちらす、
演劇的な映画が、オレはすきなのだ。
旅さきでカッコイイ風景をみつけたら、
そこで役者にカッコイイせりふをつぶやかせ、
カッコイイ音楽をのせたあと、編集者につないでもらう。
そんな藝のない旅日記にかぎって、
ゲージュツをきどりたがるから、こまったものだ。
いつも自己陶酔癖が鼻につく、おくれてきたヒッピー、
ショーン・ペンが監督した本作も、
旅映画のみじかくて不毛な伝統に属する。
ただ、主人公の行く手が、
「道」のないアラスカの荒野なのが興味ぶかい。
背景が不毛すぎるので、かえってゆたかな詩情が喚起される。
フランス出身のエリック・ゴーティエによる撮影もうつくしい。
実話にもとづく本作の主人公のアレックスは、
大学を優秀な成績で卒業したあと、
家族との連絡すらたって、放浪をはじめる。
要するに、適応力のないお坊ちゃんの、
身勝手な旅日記にすぎないのだが、かれの念頭に、
つねに父の影がちらつくのが、注目にあたいする。
原作は未読だが、ここには、
ショーン・ペンの解釈がつよくあらわれているとおもう。
人里はなれて、きびしい自然にただひとり翻弄され、
孤独をかみしめるたび、傲慢な父へのにくしみがわきおこる。
この親父は、どうもひどいおとこらしく、
正妻との婚姻関係を解消しないまま、あたらしい家庭をきずき、
アレックスと妹は、法的には私生児であることをしらないままそだつ。
そして子どもがみるまえでの、妻への暴力。
だからかれの失踪は、現実逃避というより、明白な復讐だ。
手にしたのは自由ではなく、のがれられない宿命。
六十年代にまにあわなかったヒッピーは、
どこにゆこうが、楽天的に自由を謳歌することなどできない。
アレックスは旅の途中で、トレーラーぐらしの集団にまぎれこむ。
綺麗なむすめともいい仲に。

ギター一本で味のあるうたをきかせる、クリステン・スチュワート。
やせっぽちで目鼻だちがするどく、ニワトリみたいにかわいい。
トレーラーのなかでこんな子にさそわれたら、
ヒッピー万歳てな調子で相手するのが当然だが、
アレックスはなにもしない。
なのに、別の場所でであう皮職人の老人には、
理想の父親像をみいだして、犬のようになつく。
父のいる家をでて、まぼろしの父をたづねる旅路。
その無目的な目的意識に、かなしくなる。
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にくまれっ子世にはばかる ― 『ハイスクールミュージカル ザ・ムービー』

ハイスクールミュージカル ザ・ムービー
High School Musical 3: Senior Year
出演:ザック・エフロン ヴァネッサ・ハジェンズ アシュレイ・ティスデイル
監督:ケニー・オルテガ
制作:アメリカ 二〇〇八年
[新宿ピカデリーで鑑賞]
チュッパチャプスの包み紙みたいに、キラキラしてる!
みるほうがはづかしくなるほど、まぶしい。
百十三分につめこまれた十二曲は、どれも趣向がこらされ、
ノリノリだったり、せつなかったり。
歌も、おどりも、衣装も、セットも、文句のつけようがなく、
理屈ぬきでたのしめた。
「最高のミュージカル映画をつくるんだ!」という情熱が、
最新の上映システムからビンビンひびく。
その名のとおり、アルバカーキの高校が舞台のミュージカルで、
ものがたりは単純、というか特筆すべき事件はなにもおこらない。
でも逆にそれがとうといというか、
すぎゆく青春のひとコマ、その刹那をとらえている。
主役のトロイに扮する、ザック・エフロンが秀逸。
顔だけでなく声もあまく、その歌声はすこしほろにがい。
ありきたりのデニムにコンバースのスニーカー、
VネックのしろいTシャツも地味だけど、よくにあっていた。
いまどきの、アクセをじゃらじゃらさせる見かけではなく、
素朴な五十年代風のいでたちが、さわやかだ。
本作では、バスケか、歌か、恋人か、卒業後の進路でなやむ。
まあ、病気やら貧困やら暴力やら、
世界にははるかに深刻な問題が山づみなのだが、
美男子は得なのか、なぜか応援したくなる。
でも恋人のガブリエラは、優等生すぎてすきになれなかったなあ。
おなじく身のふりかたでまよいくるしむけれど、
「時がとまればいいのに」とか、
「さよならをいいたくないから、もうあいたくない」とか、
わけのわからないことを口ばしり、トロイをこまらせる。
とはいえ、わがままむすめを上手にあしらわないと、
たのしい高校生活はおくれません。
テレビシリーズは未見だが、要するにこの連作は、
お邪魔虫というか、にくまれ役のシャーペイが、
おいしいところを全部もってゆく話らしい。

ピンクがだいすきで、学校のロッカーは自分だけピンク!
病的なまでに目だちたがり、すべてが自己中心。
ただの女子高生なのに、なぜかパリス・ヒルトン風のセレブをきどる、
マンガっぽいふるまいがおかしい。
アメリカでは高校卒業時に、
きかざってダンスをする「プロム」という行事をひらく。
一生のおもいでになるらしいが、
さそう相手のいない人間にとっては悪夢でしかなく、
つくづく日本うまれでよかったとおもう。
他人をけおとすことばかりに必死なシャーペイは、
いくら可愛くても、当然だれからもプロムにさそわれない。
でもそんな、いじらしいほど自意識過剰で、
むくわれないところが、共感をあつめる理由だろうか。
青春時代って、ミュージカルの主役みたいにゆかず、
いつも滑稽なものだったよね?
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こんにちは二十一世紀 ― 『メタルスレイダーグローリー』

メタルスレイダーグローリー
発売:ハル研究所 平成十九年
対応機種:Wii(バーチャルコンソール)
[原作はファミリーコンピュータ対応、平成三年発売]
※注意! この記事は、ものがたりの核心にふれています。
おだやかな波の音がひびく冒頭から、
ゆるやかに二〇六二年の地球圏にひきこまれる。
☆よしみるが四年二か月をついやした作品で、
かれの脳裏にうかぶ絵を、理想的な水準で再現。
アニメの世界を、自由にゆききする気分をあじわえる。
登場人物は、目にゴミがはいったようにはげしくまたたき、
小鳥みたいに口をパクつかせる。
用意された表情がゆたかなので、
いろいろな反応をひきだそうとためしたくなる。

てまえの青い髪のむすめが、主人公・忠の女ともだちであるエリナ。
自分の妹のあずさを「みる」というコマンドを二度えらぶと、
ほのかに嫉妬して、からかうような視線をなげる。

入浴後のエリナ。
いわゆるサービスカットだが、
直後に悲惨な事件がおこるので、なおさら印象にのこる。
かぎられた色数のドットなのに、いろっぽい。
かしこくて勝気で、それでいて心やさしいヒロインが素敵だが、
なによりも、起伏のはげしいものがたりに圧倒される。
忠がかった作業用ロボットは、実は戦闘用で、
八年まえに鎮圧された反乱で使用されていた。
さらに宇宙空間をさまよいながら、とぼしい情報をあつめると、
その「グローリー」という名のロボットの操縦士は、
死んだ忠の父だったことが判明。
ああなるほど、父の遺志をついで若者が戦争にまきこまれる、
ロボットものの王道なのね、と予測したあなたは、
おどろくべき変転を目のあたりにして、心臓がとまるかもしれない。

忠の妹のあずさが、展開の鍵。
わざらしいほど兄にあまえる、いまでいうところの萌えキャラで、
最初は言動にイライラするが、
終盤、その性格をつくったかなしい事情があきらかになる。
つぶらなひとみの少女たちにだまされるが、
本作は、非情なハードSF的世界観と、
痛切な家族愛がとけあう、ゲーム史上最高傑作のひとつだ。
バスタオルすがたのエリナに鼻のしたをのばし、
『機動戦士ガンダム』の亜種を期待するプレイヤーのまえに、
唐突に『エイリアン』(アメリカ映画・一九七九年)の悪夢が挿入される。

おそわれる、あずさ。
八年まえの「反乱」とは、当時の政府がながした虚報で、
本当は異星生物の襲来だった。
忠の父は、エイリアンとのたたかいで命をおとしたのだ。
擬態の能力をもつ異星生物は人間になりすまし、
戦乱のあと、中央政府に浸透する。
だれひとり信用できない、あまりに過酷な宇宙。
最後の決戦で忠は、一緒にたたかうといいはるエリナをさとす。
もしものことがあったら、妹をたくせるのはキミだけなんだ。
屈折したヒーローになれた二十一世紀のオレは、
そのまっすぐな男らしさに感動する。
われわれの宇宙開発はたいして進歩せず、
前世紀のSF作家を失望させる結果になった。
人間の精神に関しては、どうだろう。

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薔薇と巨人 ― ガルブレイス『ゆたかな社会』

ゆたかな社会 決定版
The Affluent Society, New Edition
著者:ジョン・ケネス・ガルブレイス
訳者:鈴木哲太郎
発行:岩波書店 二〇〇六年 (原著:一九五八年)
「経済学」ということばをきくと憂鬱になるのは、
オレだけではないだろうが、ゆえあってのことらしい。
その遺伝子にくみこまれた、絶望の因子。
封建的・重商主義的社会の制約と保護のもと、
ながく貧困だった世界を解放するために、
リカードやマルサスは、「富をふやせ」という処方箋をかく。
競争と、市場の過酷さ、そして、そこからみちびかれる不平等は黙認。
「大衆が貧困であるのは当然で、それをすくうことはできない」という、
いまも根づよくのこる確信をしつらえた。
さらにアメリカ人に特有の思想として、生物学の通俗的解釈がある。
金もちが金もちであるのは、自然淘汰の結果だ。
したがって、優秀な性質を遺伝されたかれらのむすこも、
同様に恩恵にあずかる資格がある。
逆に貧困は不適者の淘汰であり、貧民救済は自然法則に反する。
他人の犠牲にもとづく富があたえる罪悪感を根絶。
著者は、ジョン・D・ロックフェラーの日曜学校での発言をひく。
大企業の発達は適者生存にほかならない。
……美しく香り高いアメリカン・ビューティ種のバラが作られて、
みる人の喝采を博するのは、
そのまわりにできた若芽を犠牲にしてはじめてできることなのだ。
引用のたくみさと意地のわるさに、おもわずうなる。
「経済学の巨人」と称されたガルブレイスは、
身の丈が二メートルをこしていたそうで、
その著作も規格外のおおきさをもつ。
主流派のそれぞれの学説を、一足でふみつぶしながら論をすすめる。
現代は、物資が豊富になった。
たしかに世界に栄養不良はのこっているが、
アメリカでは、食糧不足より過食で死ぬひとのほうがおおい。
ほとんどの婦人や一部のおとこにとって衣服は、
もはや身体の露出をふせぐためのものではない。
それにもかかわらず、「生産」は依然として、
文明の進歩と質の基準のまま。
消費者の欲望が生産を必要とすると経済学者はいうが、
その欲望は生産者の宣伝により、
作為的にかきたてられたにすぎない。
つまり、大部分の財貨の重要性または効用はゼロだ。
すでに十分すぎるほど不穏な内容だが、
ガルブレイスの主著である本書は、
くわえて、教育などの公共的サービスの地位回復をはかる。
実業家というものは、国家に対し懐疑的で、
国防は例外として、役にたつ市場を提供しなかったり、
研究・開発の補助にならないような、国家の活動をみとめない。
事業が富をつくり、個人が観念と発明をつくるようには、
政府はなにもつくりだせないから。
このような実業界の正統的思想を、著者は、
「教育は非生産的で、学校の机の製造は生産的だとされている」
といって揶揄する。
さらには、経済が要求する制度としての「労働」を除去することを、
社会の中心的な目標にすえる。
この結論には正直いっておどろく。
それでも自分、または自分の子どもが、
きびしい肉体労働や退屈などからまぬがれ、
自身の思想を一日のしごとに適用する機会をあたえられることを、
だれしものぞむだろうといわれれば、否定はできない。
オレは、まじめに本をよむとき付箋をはるが、
かぞえると本書には、いつもの数倍の紙片がある。
目からウロコが十五枚もおちたらしい。
巨人の代表作をよみとくには、
ゴリアテにいどむダビデのような気迫が必要なのだ。
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自己主張するメラニン色素 ― 堀北真希写真集 『S』
撮影:ND CHOW
発行:マガジンハウス 平成二十年
携帯電話に興味はなく、邪魔な道具だとおもうが、
そとでドコモのポスターをみるたび、むなさわぎが。
堀北真希が綺麗だから。
珠玉のようなうつくしさが、とびぬけている。
短髪で、少年のおもかげをもつむすめには、あらがえない。
色気づいて髪をのばしはじめると、あきるけれど。
結局広告会社の誘惑にまけ、こづかいをはたく。
かったのは勿論、携帯じゃなくて写真集。

このひと、鼻のさきにほくろがあるんだね。
最大の発見かな。
わがくにがほこる、「アイドル写真集」文化の精髄たる本書も、
例のチンドン屋スタイルが威風をふかす。

金髪のかつらをかぶり、素肌にしろいジャケット。

婚礼の衣装をまとい、十字路でおどる。
ただひとつの被写体でぶあつい写真集をつくるため、
骨おりながら、変化をつける写真家の苦労は理解できる。
でも、わらえるよね。
なにをやりたいのか、ひたすら不審におもう。
堀北は、年のわりにおちついた文章をかくひとで、
本書のあとがきから、素直な心境がつたわる。
私はどちらかというと、周囲のリクエストに応えようとするタイプで、
「自分がどうしたい」ということより、
「相手はこうしてほしいんだな、こんな私が望まれているんだな」
ということを先に感じ取って、
カメラの前で表現しようとするところがありました。
「アイドル」という職業の本質を、端的にあらわす。
他者の願望を一瞬でつかむ直感がなければ、
六年もこのしごとをつづけられない。
でも今回は不思議なことに、仕事で撮られているという意識がほとんどなく、
自分のやりたいことを素直に表現できた気がします。
えー、本当かな。
純白のドレスでおどるのが、あなたのやりたいことなの?
印象にのこった写真は、たとえばこれとか。

ジャニーズ事務所所属のタレントみたい。
タンクトップは胸のふくらみをかくさないが、それよりも、
胸の谷間のうえにあるほくろに目がひきよせられる。
この画像からでも、みえるだろうか。
メラニン色素までが、おんならしさを拒否する。

一番かわいいとおもうのが、これ。
鯉のぼりのような意匠のキャミソールと、網タイツのくみあわせがはなやか。
ただ、せっかくおんなの子らしい服をきたのに、
明暗がきついせいか、表情がにぶい。
とどのつまり、堀北さんにはわるいけれど、
本書でかの女が表現したかったことは、オレにはつたわらない。
個人的に、堀北真希のしごとですきなのは、
『レイトン教授と不思議な町』というゲームで演じた、「ルーク少年」のこえ。
正義感がつよく、レイトン教授を助手としてささえながら、
けなげに事件解決のために奮闘する。
アイドルが発する少年性の信号なんて、数年できえうせるけれど、
かの女にかぎっては、また別の道ゆきがあるのかもしれない。
![]() | S 堀北真希・写真集 (2008/10/10) ND CHOW:撮影 商品詳細を見る |
所有するスキャナよりおおきい版形の写真集なので、
引用した写真の周囲をきりとったことを、ことわっておきます。
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