鶏肉と背筋 ― 『デス・レース』をみて

デス・レース
Death Race
出演:ジェイソン・ステイサム タイリース・ギブソン ジョーン・アレン
監督:ポール・W・S・アンダーソン
制作:アメリカ 二〇〇八年
[京成ローザ10で鑑賞]
ふたり分のなまえをもつ映画作家、
ポール・ウィリアム・スコット・アンダーソン。
期待をうらぎらない男だ。
そもそも、過度に期待をあおる作品をつくらないから、
うらぎりようがない。
アメコミCG大作とか、歴史スペクタクルものとか。
配役も地味。
ジェイソン・ステイサムはいい男だけど、ハリウッドスターじゃないし。
頭つるつるだし。
このイギリス人監督、
自分の手にあまる「大作」はつくりたくないようだ。
ジェイソンを起用したのは、マックイーン、ブロンソン、イーストウッドら、
「真のブルーカラー」の役者が奮闘する七十年代を意識したとか。
もしチャールズ・ブロンソンにケンカをふっかけたら、ぶっとばされるだろう。
ジェイソン・ステイサムにケンカをしかけても同じ。
ジェイソンも、本物のブルーカラーだ。
そんな俳優は、意外にも、あまりいないものなんだよ。
プログラム「ポール・W・S・アンダーソン監督インタビュー」
(取材・文/猿渡由紀)
ちゃらちゃらしたセレブリティはきらいで、
階級意識を配役にもちこむのが、英国流か。
ひとりで脚本をかいた本作は、社会批判ととれる面もあるが、
それは表にあらわれず、アクションの釣瓶うちがつづく。
映画は、説明不足なくらいが丁度よい。
ジェイソン扮する主人公は、妻ごろしの罪をきせられ、
あれよというまに殺人レースに参加させられるが、
家族をうしなうかなしみや、
本職のレーサーだった前歴について、なにもかたられない。
一方かれは、ぶあつい装甲に機関銃や対戦車ミサイルをそなえた、
フォード・マスタングGT車内のボタンに目をとめ、
なににつかわれるのかたずねる。
「これか? 車で一番大事な機能さ」といって、
それでタバコに火をつけるメカニック。
このシガーライターが、あとで武器としてしっかり活躍するのがうれしい。
ひきしまって無駄のない、筋のはこびがきもちよく、
これぞ映画だ、と陶酔にひたる。
粗野な印象もあるジェイソンだが、実はひたすら摂生の毎日。
―撮影中はどんな食事を摂っていたのですか?
ジェイソン:たっぷりのタンパク質と野菜。
それにナッツや果物を少し。
あとほんの少し乳製品も食べる。
パスタ、パン、砂糖はいっさいだめだ。
ジェースもだめだよ。
―そんな食生活は辛いですか?
ジェイソン:とても惨めだ(笑)。
でも役作りのためだからしかたがない。
理由があってやっていることだし、これも仕事の一部。
そうやってひとつのことに集中するのは、いいことでもある。
プログラム「ジェイソン・ステイサム インタビュー」
(取材・文/猿渡由紀)
毎朝五時におきて、トレーニングしてから撮影にはいる。
そして二時間ごと、まったく味つけがない鶏肉をのどにながしこむ。
囚人よりわびしい生活が、上掲の背筋をつくる。
は~、オレのからだがしまらないわけだよな。
でもイギリスのスタジオシステムは、あまり良くないんだ。
とくにアクション映画は事実上存在しないも同然。
だから、仕事があるところに行かないと。
つまり、カリフォルニアさ。
同インタビュー
映画俳優というよりは、でかせぎ労働者にちかい職業意識。
筋肉こそすくないが、それ以上に贅肉が皆無なのが、
レースの舞台となる刑務所の所長を演じるジョーン・アレン。
でも、あまりよい写真がみつからなかった。

未使用の鉛筆ほどのヒールをたからかにならし、
細身に包帯のようにまきつくタイトスカートで、早足であるく。
ピサの斜塔にみならわせたい姿勢のよさ。
かわいげを母の胎内におきわすれたまま、五十二歳になりました。
本作では髪型や化粧がやや下品だが、
何着かのスーツすがたがながめられたから満足。
全世界の女もののスーツが、
ジョーン・アレン専用ユニフォームのレプリカにおもえるほど、よくにあう。
むしろスーツが皮膚。
アイロンいらず。
ジョーン・アレンといえば、「できる女」。
本作でももちろん、まわりの男を奴隷あつかい。
たまらん。
レースで、おきにいりの怪物車両をジェイソンに破壊されて、
"Damn It !!!!!"
ゾクゾク。
ジョーンが上司なら、よろこんで深夜まで残業するのに。
いや、おそろしくて絶対さきにはかえれない。
『ボーン・スプレマシー』『アルティメイタム』での好演で、
出演料はあがっていそうだが、よくでてくれたなあ。
格安の役者をそろえつつ、鍵になる役に大物をよぶ。
これは完璧な一作だ。
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キスとキスのはざま ― 森永みるく『GIRL FRIENDS』第二巻

GIRL FRIENDS 第二巻
[アクション・コミックス コミックハイ!ブランド]
作者:森永みるく
発行:双葉社 二〇〇八年
一巻のおわり、自宅でよいつぶれた「あっこ」に、
こっそりと「まり」がキスをしたあとから、ものがたりは再開。
この巻も、たったひとつのキスでとじられる。
今度は、めざめているあっこに対して。
螺旋階段のように、ふたりのあしどりは輪をえがく。
ゆきさきが屋上なのか地下なのかは、わからないけれど。
数か月まえは、ひとりで服屋や美容室にゆけなかったまりは、
おしゃれなあっことすごす毎日のなか、
光の速度で、わが身の女の子らしい見せかたをまなぶ。
ティーツリーオイル、ボディバター、透明グロス…。
オレには意味不明の装備をそろえた娘たちの生活が、
背景にありのままにうつされ、
まじめなまりの恋心が、くっきりとうきぼりに。
いたいたしいほど。
実直すぎるのが、玉にきずだろうか。
まりは、同性の友人にひかれるおのれにといかけ、
「恋」とはなんなのか、こたえをさがす。
親友…だからかな?
そうだよね
子猫とか子犬とか可愛くて愛しいものに思わずキスしちゃうのって
よくある事だもんね
今まで恋したこともないくせに どうしてこれが恋だって思ったんだろう…
恋? 友達への独占欲?
あわれなこころは、なさけをしらない理性においつめられ、
ふかい淵の底で核融合をおこす。
そして、正解をおしえるのは、
あたまではなく、目。

いつからだっけ
エスカレーターじゃなくて階段を使うようになったのは
少しでも早くホームにつきたくて
いつのまにかそうなってた
いつのまにか
そうか 私…
恋してるんだ―
登校中、秋葉原で下車してまつあっこを、
一秒でもはやくみたくてはしる。
「かの女みたいにかわいくなりたい」からはじまって、
さらにそのさきにたどりついたまり。
どれだけうぶで、経験がすくなくても、
この確信はもううごかない。
まりの内面にふかくしずむ第二巻だが、
普段はさめている同級生のくのちんが、
彼氏ができて豹変し、ノロケまくるため均衡がたもたれる。

うえのコマがくのちん。
コメディの名手でもある森永は、たくみなかたりくちで、
ままならぬ恋のせつなさをきわだたせる。
わたしの恋はひととちがう。
だからこそ、わたしの恋はただしい。
そうやって、ひとは恋愛感情を正当化する。
有名なところではプラトンの『饗宴』、
男たちが葡萄酒をのみながら談論し、
男同士の恋愛を美化する、他愛ない本がある。
知恵のある中年男は、美をもとめて青年を愛し、
美青年は、知恵をもとめて中年男を愛す。
そんなはなし。
中年男に都合がよいように、うすぎたない性欲が潤色される。
本作は、かびのはえた哲学書とは大分おもむきがちがう。
ここでうつくしいものは、うつくしいものをすきになり、
さらにもっとうつくしくなるという、天使の円環をのぼる。
美の世界はそれ自体で完結し、
うつくしからぬものがまぎれる余地はない。
大体において。

ひかりさす花園では、つねに目がスイッチになる。
階段がふたたび象徴的にもちいられる。
ただ、視線はしたむき。
あっこと男が一緒にいるところをみて、
嫉妬というあたらしい感情がそだつ。
男はあっことつまらない関係しかもたないが、
そんな事実にかまわず、まりは自分のこころに忠実にうごく。
二度目のキス。
ふたりの関係が無に帰すことさえ、おそれずに。
みにくい情念もその背にのせてまわる、美のメリーゴーラウンド。
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ホモちゃんのなぞ

通行人にあやしまれたが、
心中わらいころげながらふるい看板を撮影。
ところが、帰宅して「森永ホモ牛乳」をインターネット経由でしらべると、
芋のつるのように続々と情報が。
しらないのはオレだけのようだが、
それ以上に、みな牛乳がだいすきなのだと感じる。
「ビタミン入 森永ホモ牛乳」は昭和二十七年六月に発売。
そして、いまも森永製品の包装でかがやく、
太陽をあしらった笑顔のキャラクターを採用。
その名は「ホモちゃん」。
ええ、「ホモちゃん」が正式名です。

「ぼく ホモちゃんです どうぞよろしく。」
よろしくといわれてもな。
一人称代名詞が「ぼく」だから、性別も確定。
男がすきなのかは、しらない。
「ホモ牛乳」という名称は、当時の最先端だった製造工程にもとづく。
高圧ポンプで脂肪球をこわし均質化して、
のみやすくするホモジナイズ工程をほどこした牛乳、
すなわち「ホモジナイズド牛乳」の略だ。
一日分の日光浴に相当するビタミンDをふくむ、
「太陽のびん詰」としておおいに宣伝され、世を風靡した。
戦後の拡大する乳製品市場の需要にこたえるため、
大量生産むきの製法がもちいられたわけ。
ホモちゃんは、経済復興と技術革新のまぶしい象徴だ。
しかし、とぶ鳥をもおとすいきおいの森永乳業は、
ホモちゃん誕生の三年後、つまり昭和三十年に、
あまりにおもい罪をおかす。
おそるべき「森永砒素ミルク中毒事件」だ。
「森永ドライミルク」の製造過程でもちいる添加物に、
不純物として砒素がふくまれていたため、
これをのんだ一万三千の乳児が砒素中毒になり、
そのうち死亡者は百三十人以上。
障害をかくす傾向のつよい時代だったので、
中毒者の実数は厚生省の発表をうわまわるとみられる。
きょうも、神経や臓器の中毒症状をやむ患者や、
その家族をおおいにくるしめる事件であり、到底わらいごとではない。
それにしても死者百三十。
わが国最大の企業犯罪のひとつだろう。
むかしとかわらない規模で会社が存続しているのがおどろきだ。
この事件にも、「戦後の復興」や「技術革新」がからむ。
森永乳業は、歩どまりをたかめる第二燐酸ソーダをつかうことで、
粗悪な原乳を有効活用した。
かれらは納入業者に責任をなすりつけようとしたが、
当の業者は、まさか工業用薬品を食品につかうとおもわなかったとか。
育児の意識がかわり、
母乳をあたえることをきらう風潮も、被害をひろげた。
「砒素ミルク事件」は、戦後の負の側面にこい影をおとす。
「食の安全をまもれ」と、えらぶる説教をしたいわけではない。
製造にかかわる専門的なことはわからないし。
なにごとにも、
あかるい面とくらい面があるとかんがえさせられただけ。
むしろ例の事件の教訓をかたよってうけとめたのか、
とにかく菌を殲滅しろとばかりに、
いま日本で流通する牛乳のほとんどは、超高温で殺菌をほどこされる。
低温で処理する牛乳をこのむ欧米とは対照的。
加熱時のこげたにおいが定着する超高温の工程は、
乳本来の味を相当そこなうらしい。
それでも雪印乳業(当時)は平成十二年に、
認定者数一万三千四百二十人の集団食中毒事件をおこすから、
もう、なにがなんだか。
ただひとついえるのは、どんなにひどい災禍をへても、
乳製品の需要はおちなかったこと。
さて、つぎのかいものではどの牛乳にしようかな。

[参考にしたおもなサイト]
『漂流乳業』
膨大な情報量で、しかもおもしろい!
『世論時報』:雪印乳業食中毒事件で分かった「牛乳」の正体
『MyNewsJapan』:バターもできないホモ牛乳、「明治おいしい牛乳」
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テーマ : 政治・経済・時事問題
ジャンル : 政治・経済
「なん だかんだっで」って? ― Perfume『Dream Fighter』

Dream Fighter
Perfumeのシングル曲
作詞・作曲:中田ヤスタカ
制作:徳間ジャパンコミュニケーションズ 二〇〇八年
今月もっともいそがしかった職業は、ウェディングプランナーだそうだ。
結婚式の定番である安室奈美恵の『CAN YOU CELEBRATE?』を、
ほかの曲にかえろともとめる、急な電話の対応におわれたから。
情報源は『きっこのブログ』。
ハレの舞台に、逮捕者がつくった曲はながせないという人情はわかるが、
大事な式だからこそ、司直の動向など相手にせず、
自分たちが本当にすきな音楽をかけたほうがよいとおもうが。
独身男の僻目だろうか。
群集心理にたやすく左右される、流行歌のかなしい運命。
ところで、『CAN YOU CELEBRATE?』という題名は、
意味が不可解なことで有名だ。
本来他動詞である"celebrate"のつかいかたがおかしい。
小室哲哉の乱暴な用語法としては、
ほかに華原朋美の『Hate tell a lie』などがある。
ただしくは"Hate to tell a lie"だろう。
小室自身が十年後に、投資家にウソをついてつかまるからおかしい。
検察がうごいたからいうわけではないが、
流行作家にはどこか詐欺師めいた様相がある。
ことばの規範をやぶっても、自分ならゆるされるという確信。
とりまきがわざわざ指摘することもない。
「小室さん、不定詞の"to"がないと意味が通じませんよ」って。
小室の後継者としてまつりあげられ、
おこぼれをねらう音楽関係者の期待をあつめる中田ヤスタカは、
もちろん、先代とくらべれば淡白な音楽家だ。
でも、『Dream Fighter』での強引なことばづかいはみすごせない。
あ~ちゃんがうたうAメロの歌詞。
ねぇ みんなが 言う「普通」ってさ
なん だかんだっで 実際はたぶん
真ん中じゃなく 理想にちかい
だけど 普通じゃ まだもの足りないの
「なん だかんだっで」の濁点は、歌詞カードのまま。
音源では「なんだかんだで」、または「なんだかんだって」にきこえるが、
そのどちらでもないと明記してある。
徹底して音韻にこだわった結果だ。
「なんだかんだで」では簡潔すぎて間がわるく、
「なんだかんだって」では意味がやや不明瞭。
曲中の一語がもつ語呂の、ほんの数パーセントをととのえるさじ加減で、
「なん だかんだっで」がえらばれた。
そこまでこるのかよ、とあきれつつも感心する。
でもやはり、この曲は応援ソングなのに、
なんだかひとりよがりであぶなっかしい。
殺人的日程をかけぬける毎日のなかで、
こんなガラス細工をたくされた三人娘に同情する。
かしゆか でも歌詞に共感したのは、歌を録り終わった後ですね。
いつもレコーディングの当日に歌詞も曲ももらうので、
まず歌を覚えることが先で、それに集中するから、
落ち着いて歌詞の意味を考えてる余裕がないんですよ。
(インタビューでの発言)
高橋修「新曲『Dream Fighter』を中心に語る、現在と未来」
『ミュージック・マガジン』二〇〇八年十二月号
借金とりにおわれるだれかさんみたいな自転車操業。
Perfumeの歌唱法の特徴といえば、
電話ボックスなみにせまいブースで、椅子にすわってささやく「息声」。
感情をあらわにする熱唱はきらわれ、
日常のままのはなしごえを録音する。
ところがこの曲では、はじめてヤスタカから「つよめで」という指示が。
椅子からずりおちるほどおどろいたにちがいないが、
電池男はそれ以上の世話はしない。
あ~ちゃん でも、その強めにっていうのも、歌を録る寸前に、
「じゃ強めに歌って」、その一言なんですよ。
で、「えっ、じゃこういう感じですか。どのぐらい歌えばいいですか」とか、
いろいろ質問しても、「とりあえず歌ってみて」って言って、
その“とりあえず”を録るんですよ。
で、そこから録り直すこともないんです。
(上記のインタビューより)
ヒットチャート一位をめざす音楽の制作過程とは、到底おもえない。
しあがりはどうなったかって?
かの女たちの最高曲になりました。
「さいこ~ぅを~もとーめてぇー」
「まーんなかじゃなっくー リッソ~にちっか~い~」
はりあげるのっちの声を中心にすえて、
三本の矢のように、すべての音がひとかたまりになって疾走。
つやのあるのっちの声質は、
のどをおおきくひらいても密度をうしなわず、耳にここちよい。
客観的にみればでたらめな流儀なのに、
このひとたちはやすやすと自己最高記録を更新する。
テレビ番組での演技から。
削除されていたらあしからず。
できれば高画質版でみていただきたい。
とにかく、かしゆか。
手足の機能は、スイスの万能ナイフのように多彩で、きれあじするどい。
ひざまであるブーツを中心に、ふわりとした服がうずをまく。
ほほえみをみせるのは二三秒?
あとはひたすらすまし顔。
はじめにたちあがったときに、綺麗にそろう二本の足。
逆回転の映像みたい。
「このままでいれたら」での、
両手マイクでかかと移動する、人形じみた愛くるしさ。
「遙か この先まで」での、するどく地平線をつきさす指さき。
大胆に股をひらく挑発に二度息をのむ。
天女がみたら、嫉妬で狂い死にしそうなうつくしさ。
この娘といま、おなじ都市にすんでいることが信じがたい。
うごきの冷徹さと正確さはきわみに達し、
藝術などという無用の長物をこえ、幾何学の領域をおびやかす。
おそらくかの女は、重大な数学的定理を証明したはずだが、
それをかたる語彙がオレにはない。
日本語や英語の文法ならすこしはわかるのだけれど。
なん だかんだっで。
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役者バカ一代 ― 『トロピック・サンダー』をみて

トロピック・サンダー 史上最低の作戦
Tropic Thunder
出演:ベン・スティラー ロバート・ダウニー・Jr ジャック・ブラック
監督:ベン・スティラー
制作:アメリカ 二〇〇八年
[新宿ピカデリーで鑑賞]
まっくろなロバート・ダウニー・Jr。
五つのオスカー像をえたオーストラリア出身の名優で、
役づくりのために手術をおこなって皮膚をくろくして、
新作の撮影にのぞむ、というアホみたいな役。
ちなみ五度の受賞は、キャサリン・ヘップバーンをこえて歴代最多!
そんな「人物」に本当になりきるから、この役者はおそろしい。
カメラがまわらないところでも、勝手に黒人を代表する発言を、
あやしいなまりでまくしたてる。
ダウニー(ニセ黒人)「まて、それはオレたち黒人に対する侮辱か!?」
ジャクソン(本物黒人)「なにいってんだ、あんたは白人だろ」
ダウニー(ニセ黒人)「ああそうか」
こんなかけあいにわらわされつつも、混乱する。
これって、政治的に「アリ」なのか?

うえの画像は一九二七年、アル・ジョンソン主演の『ジャズ・シンガー』。
かつてのアメリカでは、白人が滑稽な黒人を演じるだしものが、
大衆藝能の定番だった。
うけがよいからやるだけで、別に悪気はないんですよ。
しかし、かの国でもっとも人気のある歌手だったジョンソンは、
いまでは、全国民がはずべき記憶として封印された。
娯楽の世界は残酷だ。
『トロピック・サンダー』も差別を助長する意図はないけれど、
人種的特徴をからかわれたら、だれでもおこるよね。
まあ、波風をたてる映画はつくらないほうが身のためだ。
本作の監督・制作・脚本・主演をつとめた、
つまりやりたい放題をやったベン・スティラーの役は、
ベトナム戦争の映画で復活をはかる落ち目のアクションスター。
まえに知的障害者を演じた感動作を酷評された経験をもつが、
その理由をダウニーが分析する。
一見おもい障害をかかえる役がらのようにみえても、
『レインマン』のダスティン・ホフマンは計算と記憶の天才で、
『フォレスト・ガンプ』のトム・ハンクスは卓球の天才。
だけどおまえは本当のバカを演じたから、オスカーをもらえなかったんだ。
『アイ・アム・サム』でれっきとした障害者になったショーン・ペンも、
受賞できなかったじゃないか。
なるほど、これはふかい洞察。
観客は弱点をもつ人物に共感する。
でも、完全な無能者では満足しない。
わがままなのだ。
スティラーが演じるダグの持ち役である障害者のサムは(ややこしい)、
ものがたりの鍵となる人格だが、
ダウニー風にいえば「やりすぎ」てしまったみたい。
本当かどうかしらないがアメリカでは、
二十二の知的障害者の支援団体から抗議をうけたそうだし、
監督と主演をかねたくせに、ダウニーの怪演にくわれぎみ。
終盤でダウニーはかつらとカラーコンタクトをとって、「素の自分」にもどる。
青いひとみのうつくしさにおどろいた。
中年男の顔にまったく興味はないのだが、
このひとは目をみはるような美貌のもちぬしだ。
なにも黒ぬりまでしなくても、
まっとうな二枚目俳優としていきてゆけるだろうに。
もう四十すぎで、私生活では不摂生(おクスリ)をつづけたひとだけれど、
ぞくりとするような艶がたっぷり。
そして、さっきまでものがたりをひっかきまわした、
オサイラス軍曹の存在は泡ときえる。
人種をこえた危険な綱わたりにつきあわされた観客は興ざめ。
あの胡散くさいけれど、魅力的な黒人男は一体なんだったんだ。
でもまてよ。
たしかロバート・ダウニー・Jrは金髪碧眼ではなかったよな。
じゃあいまスクリーンにうつっているのは、え~と…。
というわけでこの映画は、当代きっての役者バカが、
役を演じることの神髄をみるものにおしえる迷作です。
たぶん。
[推奨サイト]
『陽面着陸計画』
ロバート・ダウニー・Jrについては、いま一番あついブログなのでは。
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銀狐の生態 ― 『フィクサー』再見

フィクサー
Michael Clayton
出演:ジョージ・クルーニー トム・ウィルキンソン ティルダ・スウィントン
監督:トニー・ギルロイ
制作:アメリカ 二〇〇七年
[早稲田松竹で鑑賞]
※注意! この記事はネタバレをふくみます!
『フィクサー』は、ブログをはじめてから出あった最初の傑作で、
熱をこめて感想文を草した記憶がある。
いまよみかえすとしまりのない散漫な文章で、なさけない。
無念をはらそうと七か月ぶりにみたら、不思議なことに、
鏡にうつしたような裏がえしの像が銀幕にうかんだ。
あらわれる人物のほとんどは金もちなのに、だれもが不幸にみえる。
将来の不安におびえ、首すじに匕首をつきつけられたような顔つき。
自分は有能で、いまの地位にふさわしいと信じているが、
明晰であるがゆえに、さきざきの危険を過剰におそれる。
これが初監督作品となるトニー・ギルロイは、
役者同士がはなすときは複数カメラの長まわしでとらえ、
腰をすえてじわじわとおいつめる。
ジョージ・クルーニーはメルセデスS550にのるときに、
二度も三度も首をふって前後をたしかめる。
法律事務所の経営者を演じるシドニー・ポラックは、
部下のジョージが部屋にはいるのを、窓にうつる人影で察する。
ピリピリとはりつめた空気。
そんなポラックも五月になくなり、本作が俳優としての遺作のひとつとなった。
ジョージがホテルの部屋の扉をけやぶるとき、黒い足あとがのこる。
そして中盤での、異様に手ぎわがよい殺し屋のしごとぶりのこわさ。
細部にこだわる演出がえがく、おもくるしい冬のニューヨーク。
本作のジョージは口数がすくない。
しぶい声音がうりの役者だが、だまったほうが格好よさがつたわる。
この映画はサスペンスというより、ハードボイルドだ。
『ゴッドファーザー』的照明、つまり上からのつよい光をあてて、
ジョージの目もとに骸骨のようなかげがあらわれる。
もめごとがつづき睡眠がとれないため隈があり、くらさがきわだつ。
子どもっぽい愛嬌のある目に、いままでにない色気がにおう。
服はつねに黒のスーツ。
まえはかれに感情移入をしてみたが、
この人物、実は相当なワルだ。
弁護士資格をもちながらも、法廷にたたないもみ消し屋で、
高級とりなのに、賭博癖のせいで借金をかかえる。
最後にようやく弁護士らしい善をなしたようにみえるが、
直前にボスから借金をたてかえてもらったのに、
ちゃぶ台をひっくりかえして、自分は逃亡。
その八万ドルも、かりをかえしたのこりをすぐにポーカーでつかう。
なんて身勝手な主人公なのか。
ティルダ・スウィントンは農薬会社の法務の責任者。

ファンデーションがすべりおちそうな肌のきめ。
にごりの一切ない、しずかなひかりをはなつ瞳。
女の身で競争をいきぬいたほこりと、
実務家としての責任感がみちている。
なりゆきでジョージと敵対し、かれをあやめようとしたかの女を、
四月に「理解できない」とかいたが、これも撤回する。
重大な訴訟の担当者として、
会社の損害を一ドルでもへらそうとつとめるのはあたりまえ。
たしかに、ひとをころす罪はおもい。
でも、もしジョージとティルダが自分のなかまだとしたら、
どちらがより信頼できるだろうか。
金にきたない無責任男か、あぶない橋をわたってでも会社をまもる女か。
かの女なりの無垢な正義が胸をゆさぶる。
ジョージの策略にかかり、全身の力をうしなってくずれおちるティルダ。
糸をきられた、あわれなマリオネット。
肩をだいてなぐさめたいとおもうが、
カメラはスタッフロールまで腹黒銀狐をおいつづける。
せつない。
ハードボイルドなエゴイストでなければ、
うすよごれた巷でいきぬくことはできないのか。
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狼の王 ― 鈴木光太郎『オオカミ少女はいなかった』

オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険
著者:鈴木光太郎
発行:新曜社 二〇〇八年
うえの写真は、一九二〇年のインドで保護された少女カマラ。
幼少時に姉のアマラとともにすてられた森で、狼にそだてられたとされる。
かの女たちを養育した牧師のジョセフ・シングの記録によると、
発見されたときに人間らしさはすこしもなく、
四本足であるき、シング夫妻の献身的な世話をうけても、
知的な能力はほとんど発達しなかった。
狼の乳の成分は赤ん坊には消化できないとか、不審な点がおおいが、
いまでも教育や心理学の文献でさかんに言及される。
でも、どうやらうそっぱちらしい。
どんなでたらめも、一旦ひろまれば既成の事実になる。
乳幼児の教育の大切さをうったえる教訓と、
異種族をそだてる慈愛にみちた狼の神秘がないまぜになり、
ことのほか俗な耳によくうけるようだ。
教育関係者は、心理学のおもちゃ箱から好みのものがたりをとりだして、
「いうこときかないとオオカミ少女になっちゃうわよ」と、子どもをおどす。
そして、自分の職業の価値を底あげする。
教育方針に学問的裏づけをえて安心したい、という親の願望もあるだろう。
はなしが事実かどうかは、ここでは重要ではない。
一九五六年のアメリカの映画館で、広告業者のジェイムズ・ヴィカリーは、
映画のなかにポップコーンやコカコーラを宣伝する、
だれも気づかないわずか三千分の一秒の画像をはさんで映写した。
そして、売店でのポップコーンのうりあげが五十七・五%、
コカコーラは十八・一%上昇したと発表。
「サブリミナル広告」のはしり。
アメリカのマスメディアや議会は、
この「実験」にすぐさま反応し、はやくも五十八年に、
サブリミナル刺激を放送しない自主規制をさだめる。
学会に論文や報告のひとつも提出されていない、
学問的に無価値な与太ばなしにすぎないのに。
禁じられることで、サブリミナル広告は神話になった。
でも、論理的にかんがえればおかしな実験だ。
普通の三十秒の広告をみてもめったに商品をかわないのに、
こっそりと閾下にしのばせる信号のほうが、
財布のひもをゆるくする効果があるって?
それは、広告が無意味といっているのとおなじ。
だから、サブリミナル広告の有効性の真偽をたしかめることは、
マスメディアや広告業界にとっておもすぎる試練だ。
そしてかれらは、えせ心理学を無批判にうけいれて、
あたらしい広告手法を闇にほうむった。
実際、認知心理学では、「閾下」の刺激は意識にのぼらないとされる。
要するに、サブリミナル広告は効果がない。
もしくは、あったとしても検証できない。
ただ非専門的な俗流心理研究では、認知心理学における「閾下」と、
フロイトおよび精神分析学の用語である「無意識」は、混同される傾向がある。
ゆえにここでは、閾下の刺激が無意識を通じて、
行動に影響をあたえる、という解釈がなりたつ。
こまったものだなあ。
フロイトの影響下にある精神分析学は、
いわゆる心理学とは別の領域で発展したもの。
しかしかれのもちいた述語は、心理学の専門家であろうとなかろうと、
われわれの言語の核にふかくつきささっている。
無意識、自我、リビドー、抑圧、トラウマ、二律背反、コンプレックスなど。
フロイトから完全に解放された精神で、
人間のこころを説明することはできない。
七十年前にしんだフロイトの理論は、当然あちこちに欠陥がみつかり、
個々においてはとっくにのりこえられている。
それでも、人間の精神のなぞをまるごと解きあかそうとたくらみ、
時代をこえて評価される一定の成果をあげた学者は、ひとりだけ。
それがジークムント・フロイトだ。
きょうも「○○心理学」というあたらしい学科が誕生し、
教授の椅子が新調され、心理学が細分化するなか、
ロンドンにねむるフロイトの勢力は拡大する。
人間のこころに関心をもつものがたつ舞台は、
オイディプス王以上の悲劇かもしれない。
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高みをめざして ― 名波浩の引退表明によせる

―右ヒザは、つらかったでしょう。
名波 最後まで誰にも見せなかった部分を、
嫁さん(未来さん)は知っている。
朝起きて、まるで自分の爺ちゃんや婆ちゃんのような動き方で
やっとの思いでベッドから降り、歩こうにも、
ヒザがギシギシしていてうまく体重移動ができないんだ。
だからドスン、ドスン、とものすごい音を立てて歩きながら
ダイニングテーブルに座るまでの光景を毎朝見てきたから、
これ以上続けてとは望めない、と言っていた。
『週刊サッカーマガジン』十二月二日号
増島みどりによるインタビュー記事
はなやかなスポーツの世界の、みにくい現実。
かぎりなく優雅なわざをうみだす肉体にとって、過酷すぎるしうちだ。
それでも遠征さきのホテルでは、朝にベッドのうえでストレッチをおこない、
おなじ部屋の同僚にさえ受難をさとらせなかった。
二〇〇一年からずっと。
なぜそこまで、とつぶやきたくなる。
金?
名誉?
そんなわけがない。
たとえ最新の心理学の理論をかりても、
かれの行動を合理的に説明することはできない。
でもオレはその理由がわかる。
なぜって、ジュビロ磐田や日本代表で名波浩が実現したサッカーから、
この競技がもつうつくしさをまなんだから。
いまでも、美の判定基準のひとつだ。
二〇〇二年九月二十二日、J1セカンドステージ第五節、
ホームでのFC東京戦の一場面とおもわれる。
自陣にかまえる名波にボールがおさまるまえに、
すでに藤田俊哉がセンターサークルにむかって猛進。
右にいる高原直泰から大胆なサイドチェンジのパスが、
たかい位置の服部年宏へ。
そこから三本のパスをつないで、最後は高原がシュート。
磐田の選手は三回以上ボールにふれるのをいさぎよしとせず、
相手はなすすべもなく、魚のむれのようにただよう。
この展開に名波が直接関与したのは、はじめの縦パス一本だけだが、
フィールドには、かれの脳裏とおなじ絵がかかれたはず。
かつての盟友である藤田へのパスの、めざましい速度と、
針のあなをつらぬきとおす正確性。
ボールにこめられた意志にまわりが反応し、攻撃はトップギアにはいる。
殺気をまじえたパス交換のこの華麗さが、日本サッカーの最高到達点。
藝術のよろこびは麻薬だ。
絶望的な苦痛の何倍もの量の快楽が、そこにある。
一度それをしったらやめられない。
名波から後継者に指名されている、遠藤保仁のことばが印象的。
タッチが繊細で、テクニカルで、すごいなあ、なんて試合中に見惚れたり、
一度でいいから、名波さんと一緒に、ボランチをやってみたかった。
どんなに楽しいだろう、相手はどれほど嫌だろうな、と想像するんです。
かなわなかったのが残念で仕方ありません。
同記事から引用
遠藤はAFCチャンピオンズリーグ決勝ですばらしいプレーをみせたばかり。
「なにひとつ不満がない」と引退会見でのべた名波だが、
寝床からうごけない体になるまではしりぬいただけでなく、
こころづよいあとつぎの存在も、その充実感の理由のひとつではないか。
いまは酷使した両足をやすめて、数年後には指導者として、
また鳥肌がたつようなサッカーをみせてほしい。
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週末論の女神 ― ドゥンエン『4』

4
ドゥンエン (Dungen)
制作:スウェーデン 二〇〇八年
日曜日にとりあげたスウェーデン映画『愛おしき隣人』につづいて、
偶然ながら、きょうは同国のロックを。
北欧といえば、古代の神話がいまもいきづく土地。
うそです。
もしスウェーデン人が、
日本のロックを「記紀神話」になぞらえるのをきいたら、
オレもふきだすだろう。
ただ北欧の神話は、ふるくはワーグナーの楽劇や、
トールキンの『指輪物語』などに題材をあたえ、
当世でも日本のサブカルチャー、『ヴァルキリープロファイル』とか、
特にゲームに頻繁に顔をだす国際的な文化だ。
神話に著作権はないから。
まあ、そんな大陸の反対がわのいやしい民が、
ひきあいにだすのももっともということで、神々にゆるしをこう次第。
そして、すこし舌たらずにきこえるスウェーデン語のひびきが、
神秘的な連想に拍車をかける。
ことばは通じないが、決してむずかしい音楽ではない。
よどみのない旋律と、ピアノ、ヴァイオリン、フルートなどをまじえた、
おくゆかしい編曲が耳にやさしい。
中心人物であり、複数の楽器を演奏するグスタヴ・エイステスは、
ヴァイオリニストで音楽教師でもある父の指導をうけ、
古典音楽の素養を身につけたとか。
前作の"To Bitar"はバンド的ないきおいを感じさせたが、
"4"でグスタヴは作曲、演奏ともにピアノをおおきくとりいれ、
より繊細な世界をえがく。
特に最初の三曲は、ゆったりながれる時間がここちよい。
僕が何かを表現するにはスウェーデン語が一番簡単で、
僕にとってスウェーデン語での歌はサウンドでもあり、
全体に加える楽器のようなものなんだ。
歌詞は重要な意味を持っているけど、
別に聞き手にその内容を理解してもらわなくてもいいとも思っている。
インタビューでの発言
『ミュージックマガジン』十一月号、大鷹俊一の記事より
もし、このアルバムの曲が英語でうたわれたら、
夢幻劇の舞台をささえる重要な柱が犠牲になる。
それに我流の音楽だからこそ、国外で注目されているともいえる。
四曲目の"Samtidigt 1"(みじかい時間)では、
レイネ・フィスケのファズギターがほえる。
端正にぬったキャンバスが唐突にやぶかれるのが、ドゥンエンのおもしろさ。
レイネは発想ゆたかで、魅力的なギタリストだとおもう。
もっともこころにのこるのが、六曲目の"Fredag"。
「金曜日」という意味らしい。
ピアノの和音がリズムをきざむなか、
レイネのギターが、スカンディナヴィアの空に薄明の風景をえがく。
おもくるしい平日から解放される安堵と、
孤独で退屈な週末をまえにした憂鬱が交錯する、せつないしらべ。
ところで英語で金曜日のことを"Friday"というが、
この名称は愛と結婚、そして豊穣の女神である「フリッグ」に由来する。
未来を予知する力をもつが、それを決して口にださない。
そして世界のおわりのたたかい(ラグナロク)において、
息子のバルドルと夫のオーディンをうしなう。
なにげない日常語にも、神のいぶきがのこっている。
それにしてもこの神話は、巨人族との全面戦争をおこしたあげく、
神さまも世界も破滅するのだから過激だ。
おさきまっ暗じゃないですか。
たぶんこのくらく悲観的な色調が、世界的な人気の秘密ではないか。
というわけでドゥンエン、
能天気な音楽にあきた人間界のみなさまにおすすめです。
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にがい生活 ― 『愛おしき隣人』をみて

愛おしき隣人
Du Levande
出演者:ジェシカ・ランバーグ エリック・ベックマン エリザベート・ヘランダー
監督:ロイ・アンダーソン
制作:スウェーデン、ドイツ、フランス、デンマーク、ノルウェー 二〇〇七年
[早稲田松竹で鑑賞]
はたち前後のオレは、映画はゲージュツだと信じていた。
銀幕にうつる影を神のことばとおもい、必死に目でおった。
アート志向というか、ちょっとした文学青年だったんです。
地下鉄をのりつぎながら一日三軒、映画館をハシゴするのも余裕だった。
いまではかんがえられない。
高田馬場の「早稲田松竹」は、千三百円で映画が二本みれるけれど、
いつも六百五十円分で力つき、そそくさと家路につく。
きにいらない映画なら、半分もみおわらないで席をたつことも。
スウェーデンでつくられたこの『愛おしき隣人』でも、そうなりかけた。
とりあえず三十分我慢したが、あいかわらず筋だてはまるでなく、
不気味な白ぬりの、名もわからぬ人物がぶつぶつと愚痴をつぶやくだけ。
作品の調子はかわりそうにないと確信した。
つぎの場面になったらかえろうとこころにきめて、
しばらくするうちに九十四分がすぎた。
あれ?
ゆったりしたリズムに身をまかせているうちに時間の感覚がくるい、
拷問のように感じられた空気が快楽にかわる。
カンヌ国際広告祭で八度もグランプリを獲得したアンダーソン監督は、
CFの世界ではしらぬもののない大物らしい。
べつに広告屋をあなどるつもりはないが、たしかに本作は、
三十秒のCFを百八十八本連続でみせられるようなつらさがある。
セット、役者のつらがまえ、構図、音楽、どれもセンスがよいが、
作品をつらぬくものがたりが存在しないので、
みるものの興味もながつづきしない。
各国の企業からせしめた金でつくったスタジオでの、
わがまま放題のわるふざけ。
これは北欧版のフェリーニだね。
ただし、豊満な美女と、オリーブ油がかおる料理と、
ワインと、ニーノ・ロータの音楽がないフェリーニ。
妙に禁欲的だから、つまらない。
ただ、なんとか最後までみおわった感想としては、
ここには人生の知恵がかくされているのかな、と。
家具と女は北欧産が一番うつくしいというけれど、
この映画では、しょぼくれた男女が「だれからも愛されない」と、
人生のつらさをなげいてばかり。
でも多分、かれらはさびしいふりをしている。
いまの自分は不幸だと宣言しておけば、これ以上つらくなることはない。
欲望の量がほどほどならば、些細なことでも満足できる。
作中で、豆かなにかを鍋でぐつぐつ煮ているだけの料理をみて、
女が「まあ、なんておいしそうなごちそうなの」とよろこぶ場面がある。
美食にこだわる日本人には理解できないけれど、
ちょっとうらやましかったりもする。
むかしは、場内にあかりがともるまで席にすわっていたオレだが、
いまではスタッフロールがはじまった瞬間に脱走する。
おかげできょうは傘をわすれかけた。
あくせくと欲ばりな日常をおくっていると、おもわぬ憂き目にあうのだ。
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CAは指名できない ― 『ハッピーフライト』をみて

ハッピーフライト
出演:綾瀬はるか 田辺誠一 時任三郎
監督:矢口史靖
制作:日本 二〇〇八年
[新宿ピカデリーで鑑賞]
安手の「お笑い」が容認される風潮にめげず、
つくりこんだ喜劇をおくりつづける矢口史靖の奮闘は、
大監督にまつりあげられた今日においても、
やはり賞賛にあたいする。
空港ものと旅客機パニックものをまぜあわせた『ハッピーフライト』は、
入場料金と交通費にひきあう作品だ。
ただオレは、前作の『スウィングガールズ』を偏愛しているので、
変顔でスウィングする上野樹里がいないのがさびしい。
全日空の制服をきた上野を想像するだけで、どきどきするのに。
妊娠していた時期とかさなったからか、
矢口作品のミューズである西田尚美のすがたもない。
無事に女児をうんだということでめでたいが、
まあ配役というのは実にむずかしい。
本作の女主人公として変顔を披露するのは、
東宝作品への出演はよっつめになる綾瀬はるか。
新鮮味は感じないな。
出演者はみな厳正なオーディションをへてえらんだというが、
そんな宣伝文句を信じるほど、オレもうぶではない。
ドジだけどにくめない客室乗務員をそつなく演じているけど、
制服をかしてくれる全日空の監視の目がひかるなか、
矢口ヒロインの暴走にも、制限速度が課せられたようだ。
故障や台風にまきこまれて、右往左往する乗務員たち。
でも航空会社が、自社の旅客機が墜落する結末をゆるすはずがない。
観客はハッピーエンディングを確信しているから、空気がゆるい。
たったひとつの出演作で映画史に名をのこした芹沢砂織は、
『裸足のピクニック』の最後で泉谷しげるに強姦されるのだが、
えらくなったカントクはもう無茶はできない立場。
コメディとシリアスのあいだをゆらゆらとゆれて、
飛行機の映画のわりには、いきおいが不足ぎみ。
田畑智子は、空港内の業務をこなすグランドスタッフをつとめる。

すきなんだよねえ。
京都のしにせの料亭の娘だからなのかどうか、
つねに姿勢がうつくしく、挙措動作に品がある。
五十年代の日本映画にでてもおかしくないくらい。
日本女性の鑑として、人間国宝に指定したい。
機転がきいてしごとの処理がはやいけれど、
ほれた男にはとことんつくしそうな色っぽさもただよう。
嫁にしたい芸能人ナンバーワンだ。(当社しらべ)
本作では唯一の、恋につながりそうな逸話にもからむ。
―その菜採役に田畑さんがまたぴったりでした。
「彼女のチャキチャキした感じが好きで、
菜採役を誰にしようかというときにまず田畑さんと会うことになりました。
(後略)」
プログラム監督インタビュー
オレも映画監督になっていれば、
このみの女優をすきなときによびだせたのにな。
ファニーフェイスのかの女は、矢口カントクとの相性も抜群で、
羽田をかけまわるすがたにわらわされつつも、ときめいた。
主役をまかされていたら、もっと素敵な映画になっただろうに。
せめて、飛行機にはのせてあげたかったな。
ちなみに、本作のプログラムは装丁がこっていて、おすすめ。
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たおやめ輪姦学校 ― 三国ハヂメ『極上ドロップス』

極上ドロップス
[百合姫コミックス]
作者:三国ハヂメ
発行:一迅社 二〇〇八年
全寮制の鵬女子学園に転入した、主人公の前園小毬は、
てちがいで寮のあき部屋がなくなったことをしる。
かわりにアパートの一室を手配されるが、
かの女はある事情でひとりぐらしができない。
わかい身空で宿なしになりかける小毬だが、
優等生がすむ第三寮、通称「はらいそ館」に、
おない年の姫宮雪緒の「下僕」になるという条件をのんで、
なんとかねぐらを確保。
ちなみにうえの画像の短髪が小毬で、ながい黒髪が雪緒。
ものがたりがはじまって十一頁、
とんとん拍子で使用人の境遇におちた、
小毬の薄幸のヒロインぶりが愉快だ。
このあと早速あられもないすがたになり、くちびるまでうばわれる。
女子校で生活した経験がないのでよくわからないが、
入学後の数日で、何人もの相手から、
性的な陵辱をうける悲運はめったにないだろうと想像する。
小鞠は、はらいそ館の先輩たちからも強引にからだをもとめられ、
嫉妬した雪緒のとりまきには集団でいじめられ、
制服をぬがされて裏庭に放置される。
花園でいきてゆくのも楽ではないことがわかるが、
それはともかく、災難をものともせずつっぱしる主人公に、
歴戦のラリードライバーのようなたくましさを感じる。
美少女だらけのバトルロイヤルがくりひろげられる本作だが、
一番のみどころは、まわりからは「姫」とよばれ、
学内でしらぬものはない有名人、雪緒の容色だ。
背は小鞠より頭ひとつたかく、百七十センチメートルちかくあるだろうか。
華奢な胴部に、すらりとしなやかな手足が映える。
ものうげな瞳の色はふかく、無表情のなかに、
かすかにとがる口もとが愛らしい。
そしてなによりも、まっすぐな黒髪の塗りに作者の執念がこもる。

アッサムがなんなのかしらないけど、のせてみた。
ゴッサムかアッガイならすこしはわかるのだが。
弁当を家族のだれがつくっているのかきかれて、
「料理は料理人がつくるのよ」。
まるでマンガの登場人物みたいに、きりりと個性がきわだつ。
おきゃんな寮長の藤家先輩、なぞめいた双子の真夜と美夜など、
わきの少女たちもそれぞれなやましい。
もう二十ウン年マンガをよんでいるけれど、
乱調ぎみのリズム、さきのよめない展開にどきどきさせられる。
三国ハヂメ、一体なにものなんだ。
「ひとりぐらしができない」という個人的な都合のせいで、
余計な苦労をするはめになった小毬だが、のちにこの伏線がからんで、
ふたりの主人公のこころはするどく交錯する。
小鞠は、五歳のときに母親をなくし、
しかも、父親のしごとで転校がおおかったため、
実は高校入学を機に念願のひとりぐらしをはじめていた。
そうしたら不幸にもアパートに強盗がおしいり、
かの女の存在はきづかれなかったが、
男は電気もつけずに、翌朝に警察がふみこむまでいすわった。
息をころして、みじろぎもしないで、じっと夜あけをまつ小鞠。
この日からひとりで夜をすごせなくなる。
笑顔のしたからふとあらわれる、一生ものの傷あと。
だったら父親と生活をつづければよいとおもうが、
ただ単に「大事にされる」だけでは満足できず、
「愛されたい」とねがうのが女の子の習性。
真の愛をもとめて、ツンツン姫にむかってアクセルをふみこむ。

うつむき加減に紅潮する雪緒の、花もはじらうような可憐さといったら!
本作がどこまでつづくのかわからないが、
不具合も衝突ものりこえて、
悪路をかけぬけるふたりを熱烈に応援したい。
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最後の権力 ― アンジェラ・デイヴィス『監獄ビジネス』

監獄ビジネス グローバリズムと産獄複合体
Are Prisons Obsolete?
著者:アンジェラ・デイヴィス
翻訳者:上杉忍
発行:岩波書店 二〇〇八年
この本をかいたデイヴィスは、
一九七〇年代には国際的にしられた活動家だったらしい。

当時の著者の勇姿。
その後も少数者の立場から、
社会科学者として研究や政治活動をおこない、
一貫して戦闘的でありつづけている。
ただ、ながい闘争の日々をへて、
かれら、かの女らの要求は正当だとみとめられ、
オレのしるかぎり、すくなくとも建前では、
人種や性にもとづく差別は影をひそめたようにおもえる。
しかし、かの女の拳がおろされることはない。
つぎなる標的は「監獄」。
本書は、社会的不正義の源泉となる監獄制度の廃止をうったえる。
要するに、「犯罪者を牢屋にいれるな」という主張。
不勉強なので、こんな論争があることさえしらなかった。
アメリカの司法制度の闇はふかい。
現在、全世界で合計九百万人が刑務所や留置所、
少年院、移民収容施設に収容されているが、
合衆国には、そのうちの二百万人以上がいる。
おどろくべき密度だ。
貧困にくるしむ有色人種が地域社会からつれだされ、
極端に劣悪な環境にさらされ、
出所後も政治における発言権を半永久的にうばわれる。
社会の不平等を、監獄という制度がささえている。
監獄人口の膨張がはじまったのは八十年代、いわゆるレーガン時代。
やはりこの男がかかわるのか。
「社会を犯罪からまもる」ことを目的とし、
監獄建設と大量収監がかつてないいきおいではじまる。
監獄の建設とその運営は、建設業から食品、
保険医療設備にいたる巨額の資本を鉄格子のまえにあつめ、
著者たちはこれを「産獄複合体」とよぶ。
たとえばカリフォルニア州は、過去二十年間で監獄の天下となり、
三十三の州立監獄をかかえるにいたる。
研究者によれば、監獄建設ブームがはじまったころには、
公的な統計でも犯罪発生件数はへりはじめていた。
あせる司法・立法機関は空室をうめるため努力し、
麻薬取りしまりを厳格にするなど、おおくの「犯罪」をつくりあげた。
人種差別とたたかい、実際に成果をあげてきたデイヴィスなら、
社会運動に不可能などないと確信できるかもしれないが、
本当に社会から監獄をなくすことができるのだろうか。
もちろん著者も、現行の収監制度にとってかわるような、
単一の対案を構想するわけではない。
人種差別主義、男性支配、同性愛嫌悪、階級的偏見といった、
ひとつひとつの問題にたちむかう一連の対案をくりだすなかで、
社会の様相を根本からかえるべき、とといている。
たとえば、かの女は「麻薬使用の非犯罪化」を、
戦略の重要な構成要素と位置づける。
こういった個々の課題は国によって処方箋がことなるだろうが、
オレとしては、全体として著者の主張に説得力を感じた。
司法制度のおさむい事情は日本もおなじ、もしくはそれ以上であり、
たとえば刑事裁判における起訴有罪率は九十九・九%だという。
わが政府は事実上、無謬にして無敵というわけだ。
地球規模で国家というものが希薄化し、かろんじられる昨今だが、
国が最後まで手ばなさなかった権力、
いまや唯一にして最大の武器、それが司法制度だ。
わたしたちはもっとおそれ、
そして、挑戦しなければならない。
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超現実ライフスタイル ― スタン・ラウリセンス『贋作王ダリ』

贋作王ダリ
Dali & I: The Surreal Story
著者:スタン・ラウリセンス
翻訳者:楡井浩一
発行:アスペクト 二〇〇八年
サルバトール・ダリをあつかうディーラーだった著者が、
美術市場におけるダリの全作品のうち、なんと四分の三が贋作であり、
しかも画家本人が、にせものづくりに加担していたと暴露する本。
よんでいて、あいた口がふさがるひまがなかった。
強欲なダリと、その何倍も強欲な妻ガラは、
想像力の泉がかれた画家が、
たかまる需要にこたえられないことに業をにやし、
イシドロ・ベアという助手をやとう。
秘密の作業部屋でベアがかきあげたカンバスに、
ダリの署名をそえたら「ダリ」のできあがり。
六十年代にはいると巨匠はまったく助手に依存し、
『最後の晩餐』や『クリストファー・コロンブスのアメリカ発見』などの、
代表的な作品群もベアがひとりで完成させたらしい。
七十年代には替え玉は四人にふえ、
それぞれ画風もバラバラというありさまだったが、
チーム・ダリは、「セニョール・ダリの創作意欲は旺盛なので、
あたらしい画風を模索しているのだ」とうそぶいて批判をかわす。
ついには何百万枚の白い紙にサインをするだけで大金をせしめ、
あとからだれかが勝手にダリ風の絵をかきくわえるように。
晩年はパーキンソン病の進行で署名ができなくなったので、
自分のなまえすら助手にかかせた。
著者のラウリセンスは、贋作を販売した罪で服役したそうだが、
ダリの暴慢に翻弄された被害者だともいえる。
このひとの売り文句が愉快だ。
英国の投資関係誌の計算によると、
サルバトール・ダリの作品は一九七〇年から七五年のあいだ、
年平均二十五・九十四パーセントの値上がりをしています。
これはまだ序の口で、ダリが死ねば価格は急騰するでしょう。
こんな調子。
ところが、シュルレアリスムの巨匠の生命力はしぶとく、
一九八九年、八十五歳までいきのびるけれど。
かれの顧客のおおくは不透明な所得をかかえていて、
その財布を綺麗にあらいながしてくれる投資さきと、
自分に箔をつけられるかざりものを必要としていた。
ダリはその目的にぴったりかなったというわけ。
この時代に、きたない金が美術の世界に大量にながれこみ、
かつて藝術がもっていたなにかが藻屑ときえた。
現代を、藝術家としていきるほど不幸なことはない。
はでなパフォーマンスが得意なダリだったが、
陰では自分は月並みな画家にすぎないとこぼしていた。
フェルメールやベラスケスのような本物の巨匠にくらべれば、
わたしはまったくのできそこないだ。
そして美術界をショービジネスとみなし、
おのれの欲望をみたすための手段として利用する。
結局のところ、逆に利用されただけにもおもえるけれど。
他人が期待する「ダリ」の像をけなげに演じ、
「にせもの」のまま、ながい生涯をおえる。

ダリの風貌といえば、ぎょろ目と、立派にはねあがる口ひげだが、
あのひげもつくりものだったとか。
つねにひげを銀の箱にいれてもちはこび、
衆人の面前でちょきんときる大芝居で喝采をあびた。
ジョージ・ハリスンがだまされて、つけひげを五千ドルでかったという話も。
頭頂からつまさきまで、にせもの。
もちろん、この本の内容がどこまで真実なのかもわからない。
それでもダリが、狂気の世界でいきていたのはたしかなようだ。
かれの人生そのものがパフォーマンスアートだったのかもしれないが、
だとすればそれは随分とみじめな悲劇だ。
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きれいなきれいごと ― 『レッドクリフ Part I』をみて

レッドクリフ Part I
赤壁
出演者:梁朝偉(トニー・レオン) 金城武 張豊毅(チャン・フォンイー)
監督:呉宇森(ジョン・ウー)
制作:中国 香港 日本 韓国 台湾 二〇〇八年
ふりそそぐ血しぶきの雨。
ジョン・ウー監督のお家藝であるスローモーションのなかで、
男たちが剣や槍をもってまいおどる。
まるで京劇だ。
戦場の陰惨さはすべて地中にうずめられ、
みにくい暴力が、ウーの美意識を通じて詩に昇華する。
筋だてもおもいきりがよい。
宮廷を牛耳る曹操の野望をはばむべく、
皇室の血をひく劉備が、民の平安をまもるためにたちあがる。
はずかしいくらいの勧善懲悪。
それがよい。
ハリウッドでのみのりのうすい十年をへて、
祖国にかえったウーは本来の流儀をとりもどしたようだ。
役者たちが諸葛亮や関羽みたいな大物を、
おおまじめに演じるのをみているだけでふきそうになるが、
でも、その野暮ったさがうつくしい。
金城武が諸葛孔明になるなんて不安で一杯だったのに、
すずしげなたちふるまいに感嘆した。
劉備が民衆をまもるためにたたかった、なんてお笑いぐさだろう。
所詮かれは、高島俊男風にいえば「大盗賊」、
すなわち浮浪集団の頭領にすぎず、
たまたま同姓というだけで、漢皇室の後裔である証拠などなにもない。
六度にわたり主君をかえ、支那の各地を転戦しながら、
一族郎党の衣食をもとめて流浪する愚連隊だった。
それでも映画では、仁徳にみちた英君とされている。
呉と蜀の軍師、トニー・レオンが演じる周瑜と金城武の諸葛亮が、
琴の合奏でたがいのこころをはかりながら、
曹操に抗する軍事同盟をむすぶ一幕がおもしろい。
国家の命運を左右する外交問題を、音楽で判断するなよ。
歴史上のあらゆるできごとが紋切り型、綺麗ごとしてえがかれるが、
それがかえって新鮮にみえる。
男が、男とともに、男のためにたたかい、
そして死んでゆくのがジョン・ウーの映画。
その一方で、世界ののこり半分の構成要素である女は、
いつもより女らしくスクリーンにうつる。
『ペイチェック 消された記憶』ではユマ・サーマンを、
あの美人だけど馬みたいに大柄な女優を、
かわいらしい女の子としてとっていたのに驚愕させられた。
本作では、周瑜の妻として林志玲(リン・ツーリン)。

綺麗だったなあ。
身長百七十四センチメートルの三十三歳だけど。
さらにアジア最大の眼球をもつ女優、趙薇(ヴィッキー・チャオ)は、
孫権の妹で、男まさりに戦場でたたかう尚香を演じる。

はっきりいってコスチュームプレイむきの顔ではないが、
役柄にはあっていたとおもう。
二部作というけちな興行、そのくせ上映時間がながい、
クロースアップの多用で画面が中年男の顔ばかり、
などの難点もいろいろあったが、さすがは百戦錬磨の映画作家、
たくみに伏線をちりばめて後編への期待をもたせる。
ちなみにしたの本は、諸葛孔明や関雲長のような英雄を、
ぼろくそにこきおろしておもしろい。
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とたけけの帝国 ― 『Touch! Generations サウンドトラック』をきいて

☆あおいかぜの村~通信☆
Touch! Generations サウンドトラック
発行:任天堂 二〇〇八年 (非売品)
もし、戸高一生という作曲家が任天堂にいなかったらと想像すると、
こころのなかを秋風がふきぬけてゆく。
ソニーやマイクロソフトといった巨大企業の挑戦をうけた任天堂は、
世紀がかわるころに、戦術の変更を余儀なくされた。
かぎられた資産を、「ユーザー層拡大」という目標に集中的に投入。
そのときにおおきな役割をになうのがサウンド制作者たち。
ゲームの構成要素は、映像、音、入力機器のみっつにおおきくわけられる。
なかでも音楽は、つくるのに人手がかからない。
優秀な作曲家が数人いればそれでよく、そこが任天堂のつよみだ。
音楽における比較優位が、京都の老舗を世界市場での勝利にみちびいた、
という説をここで表明する。
うたがうのなら、あなたもクラブニンテンドーの会員特典として、
『Touch! Generations サウンドトラック』を手にいれてみてはどうだろう。
戸高のほかにも、峰岸透、永田権太、若井淑といった看板コンポーザーを、
一見小規模なプロジェクトにおしみなく投じていることがわかる。
とたけけこと戸高一生がWiiのためにかいた曲は、
テレビの背景音楽を意識したものがおおい。
『Wii Sports』のタイトル曲は、スポーツ番組のオープニング。
『Wii ショッピングチャンネル』は通販番組かな。
この曲をきくと異様に購買意欲を刺激される。
弦楽器をあしらった『似顔絵チャンネル』の不思議なひびきもたのしい。
戸高はWii本体発売にむけてたくさんしごとをしたが、
どれもが印象的な曲となっている。
かれは本当に器用なひとで、どんな様式の音楽を依頼されても、
それらしい旋律をつくり、さらりと編曲をほどこす。
いまの任天堂のおしゃれで、ひとをそらさないたたずまいは、
そのすくなからぬ部分を戸高の才能におっている。
ほかにきになったのは二〇〇四年入社の須戸敏之。

『しゃべる!DSお料理ナビ』と『DS美文字トレーニング』の曲がえらばれている。
どちらも、流麗なメロディとこぎみよい装飾音がとけあった、すばらしい曲。
そして、あの『Wii Fit』に音楽を提供したのは峰岸透。
『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』をうけもった、この会社のエース格だ。
このCDでは生演奏も披露しているが、このひとはドラマーでもある。
軽快なリズムでもりあがる、『フープダンス』や『踏み台ダンス』は名曲。
しかし『ゼルダ』の作曲者が参加しているなんて、
なんて豪華な体重計なんだろう!
ハイラルをすくう英雄のように、ボクたちは皮膚のしたの脂肪とたたかう。
二十四曲目は、『nintendogs』のテーマ曲を社員が演奏する。
峰岸透の安定したドラムと永田権太の元気なベースのうえで、
郷原繁利のアルトサックスがのびやかにうなる。
うまいな、ホントにこいつらサラリーマンかよ。
作曲者の若井淑のかろやかなフルートが、サックスとからみあう。
はれた日の公園で、愛犬をつれてたのしい散歩。
中盤でとたけけ皇帝が、得意のヴィブラフォンで乱入。
急激な転調、ジャズ、やみにつつまれる公園。
郷原と若井は遠慮していきをひそめる。
それでも峰岸のリズムはゆるぎなく、
演奏を通じて部内の主導権をあらそうような緊張感がはしる。
会社員として御用ききにかまける毎日をおくっていても、
そこは音楽をなりわいにするもの、
藝術家としての傲慢な性根がときに首をもたげる。
如才ない職人である戸高が、
ひきだしにかくしていた創造性を十分に発揮したのが、
いわずとしれた『おいでよ どうぶつの森』のテーマ曲。
アコースティックギターがつまびかれるなか、
やさしいアコーディオンのひびきがゆるやかにかさねあわされ、
すぎさった季節の記憶がまぶたのうらによみがえる。
何度きいても涙腺がゆるむ。
音楽がもつ力のおおきさを痛感せずにいられない。
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きえたマトリョーシカ ― 『ゴーストワールド』をみて

ゴーストワールド
Ghost World
出演者:ソーラ・バーチ スカーレット・ヨハンソン スティーヴ・ブシェミ
監督:テリー・ツワイゴフ
制作:アメリカ・イギリス・ドイツ 二〇〇一年
[早稲田松竹で鑑賞]
女のひとの体型を云々するのは野暮としりつつも、
ちいさな頭に、安定感のゆたかな下半身をぶらさげた、
わかき日のソーラ・バーチをみていたら、
入れ子構造のロシアのマトリョーシカ人形をおもいだした。

ちいさい人形が、おおきなほうにぴたりとおさまる。
ボーリングのピンにもにてる。
まんなかでわけたおかっぱの黒髪が、
つややかな額の半円をきわだてる。
顔の部品が下半分にぎゅっとひしめいて、
おちょぼ口と子豚のような鼻があいくるしい。
このひとくせある青春映画で、
ソーラは世間になじめない女の子を演じていて、
神経質にくるくるかわる表情をながめているだけでたのしく、
二時間があっというまにすぎてゆく。
あのころ、「ソーラ・バーチがかわいい!」とまわりに宣伝して、
うざがられたのをおもいだす。
この映画のソーラは、まさにきせかえ人形。
場面ごとに、色とりどりの服にきがえるのでめまぐるしい。
髪を緑にそめてパンクファッションに身をかためたら、
その日のうちに黒髪にもどす。
ソーラはなにをきてもよくにあうから、
衣装の担当者がはりきりすぎたのも理解できる。
急に金髪にしてまわりをおどろかせたりする、
情緒不安定な女の子って、ボクらのまわりにもいるよね。
服装とは、自我をまもるための鎧でもあり、
かの女たちはころころと見た目をかえながら、
自分に擬態をほどこし、世間という密林に身をかくそうとする。
本作と同時期に公開された『ダンジョン&ドラゴン』や『穴』も、
作品への評価はともかく、ソーラの演技は印象的だったのだが、
それ以降、出演作がわが国の映画館にかかることはない。
ボクも新顔の女優にかまけているうちに、ソーラの存在をわすれていた。
マトリョーシカの外がわをひとつずつはずしていったら、
中身がきえてしまったかのように。
いまをときめくスカーレット・ヨハンソンは、ソーラの親友の役。
このひと、まったくかわってない。
調子はずれのかすれ声、ふてぶてしく眉間にしわをよせ、
ぽってりしたくちびるはいつも半びらき。
わるくいえばなにも成長していないのだが、
十代のままの素の自分をさらけだしながら、
ハリウッドでいきのこっているのだから立派ともいえる。
多分、余計なことはなにもかんがえないまま、
この業界にやすやすと適応したのだろう。
あれもこれも、女子のいきる道。
どっちがただしいかなんて、わからないよね。
青春映画が他人事におもえる年になったボクだけど、
現在青春まっただなかのあなたがみれば、
人生のことがもっとわからなくなるような傑作だと保證しよう。
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イーサンのオートウォーク ― 『その土曜日、7時58分』をみて

その土曜日、7時58分
Before the Devil Knows You're Dead
出演者:フィリップ・シーモア・ホフマン イーサン・ホーク マリサ・トメイ
監督:シドニー・ルメット
制作:アメリカ 二〇〇七年
[恵比寿ガーデンシネマで鑑賞]
※注意!このエントリはネタバレをふくみます!
山手線恵比寿駅で下車し、うごく歩道にのる。
子どものころからこのオートウォークがすきで、
いまだにちょっとわくわくする。
のっているときの近未来的な浮遊感がたまらない。
ガーデンプレイスに到着。

きのう手にいれたニンテンドーDSiで、写真をとり加工した。
もちろんビールをのみにきたのではなく、映画が目的。
ここからさらにあるかなければ。
こんな僻地にある劇場のくせに、結構よい作品をかけるから腹がたつ。
場内が飲食禁止なのも納得できない。
オレは缶コーヒーなしでは映像に集中できないたちだが、
というかカフェインの力をかりても意識は散漫なのだが、
コーヒーくらいでまわりの客に迷惑はかからない。
それでも、いわゆる「ミニシアター系」は大抵この禁則があるけれど、
おそらく掃除の手間をはぶくのが理由なのだろう。
二時間のまずくわずでじっとしていろ、
と強制することが不自然だとおもわないのか。
むしろ場所柄をいかして、売り子を場内にまわらせて、
ヱビスビールを格安で販売してもらいたい。
しかしミニシアターの従業員はスカした手合いがおおく、
「ゲージュツをみせてやってんだよ」という態度が鼻につく。
あんたらは切符をきるのがしごとで、
そのあとはこっちの勝手にさせてくれ。
たかが映画なんだから、まわりの邪魔にならない範囲で、
すきなようにたのしまなくては。
なんと御年八十四、シドニー・ルメット監督の八年ぶりの新作は、
ポップコーンをつまみながら気軽にたのしむ風情ではない。
姿勢をただして、しかめっ面でスクリーンにむかうことを要求する。
藝達者なフィリップ・シーモア・ホフマンを主役にすえ、
アメリカの中流家庭の退廃をねばりづよくえがきだす。
「これがオレの遺言だ!」といわんばかりのすごみに気おされる。
しらふではつらいなあ。
二時間ホフマンの演技につきあうのも苦行だ。
愛嬌のない奥目でうすわらいをうかべ、しゃくれた顎、髪はうすい。
例によって腹はぽんぽこりんで、
ピンクとオレンジの中間みたいな色のシャツに、
パズルみたいな変な柄のネクタイをあわせ、
不快とまではいわないが、まあ視覚的にたのしい役者ではない。
このひと、声質もよくないとおもう。
ハスキーななかに、ザラザラと耳を刺激する攻撃的なひびきがあって、
ききぐるしく感じることがある。
一方、ホフマンの妻役で、ぬぎっぷりがすばらしいマリサ・トメイが、
うつくしいからだと、あだっぽいしぐさで眼福をあたえてくれる。

四十三歳とはおもえぬかわいさで、ホフマンにはもったいないのだが、
オヤジごのみの女優という印象が。
どれだけ体あたりの演技でも、観客の想定の範囲からはずれることはなく、
結局ホフマンにくわれていた。
イーサン・ホークがホフマンの弟を演じる。

だれかさんとちがって細身で、さっぱりと清潔感がただよう。
とても兄弟にみえないふたりだが、なんと実年齢の差はわずかに四歳。
こんな三十七歳になりたいよ。
それはともかくイーサン、やはりよい役者だ。
本作では、別居中の娘にまで「ダメ男」といわれるまけ犬だが、
まもってあげないとこわれてしまいそうな、
庇護心をくすぐるよわさがにじみでている。
顔だちに、少年ぽさをのこしているからだろうか。
最初はおさだまりの犯罪映画とおもわせる本作だが、
ものがたりは次第に収束し、家族同士の葛藤を濃密にえがく。
ルメット監督は冥土のみやげに、普遍的な主題に挑戦したかったのか。
宝石店強盗に手をそめた兄弟のうち、
役たたずの弟イーサンより、頭がきれる兄ホフマンのほうが、
はげしいいきおいでこころがこわれてゆく。
オレは長男だから。
オレは弟とくらべて、みた目がよくないから。
子どものころのコンプレックスが自我の表面にふきだし、
無意味な殺人をかさねて自滅する。
さすがのオレも、名演と評価せざるをえない。
声が耳ざわりとかいてしまったが、
それも、前半で成功した会計士としてのおごりたかぶりをみせて、
終盤の転落をきわだたせようという目論見だったようだ。
ところが、ベテラン監督ににらまれながら、主役としての重圧とたかかい、
壮絶な演技をみせるホフマンをよそに、
作中のイーサンは大金をかかえてあっさり逃亡。
甲斐性なしだけどなぜか応援したくなるし、さわやかな後味をのこす。
飄々として、地のままの芝居にみえるが、
アクのつよい共演者にくわれることもない。
かれがいなかったら、ひたすらおもい映画になっていただろうな。
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ウォトカとオサマ・ビン・ラディン ― クリス・ライアン『反撃のレスキュー・ミッション』

反撃のレスキュー・ミッション
Strike Back
著者:クリス・ライアン
訳者;伏見威蕃
発行:早川書房 二〇〇八年
『ノルウェイの森』の永沢をきどるわけではないが、
オレは存命中の作家がかいた小説はほとんどよまない。
なにもないところから架空の世界をつくりだす、
小説家の藝をあおぎみる気もちはあるけれど、
なにせ世知がらい当世の風潮。
よむほうも、かくほうも、
ウソをたのしむこころの余裕をもちづらい。
そんなオレの読書傾向の、かずすくない例外がクリス・ライアンで、
新刊も結構熱心においかけている。
かれの作品の主人公は、イギリス陸軍の特殊部隊SASに所属する、
もしくはかつてしていた男ばかり。
自身もおなじ連隊の一員としてはたらいた、
十年間の経験を反芻するような作家活動だ。
作品のなかでかれらはたたかい、ときに敵をころすのだが、
それはウソであって、ウソでない。
引き金にかけた指に力をこめ、ポーターは連射を放った。
横でマイクとキースも発砲した。
必殺の銃弾が煉瓦や漆喰を吹っ飛ばし、大きな破片が飛び散った。
たったひとりの敵の胸に、じゅうぶんすぎるほどの弾丸が命中し、
男はうしろの壁に激突した。
十数ヶ所の傷口から血がほとばしり、
みじめったらしく生にしがみついていた末期の数秒のあいだ、
男はあわれっぽいうめき声を発した。
肖像画家のように淡々と、ライアンは死をえがく。
最近、うれっ子になってしまった伏見威蕃の訳文もよい。
うえの引用は、本作の主人公であるジョン・ポーターが、
十七年まえのレバノンでの人質救出作戦で交戦する様子。
妻から妊娠のしらせをきいたばかりのポーターは、
血も涙もないヒズボラの少年兵になさけをかけてしまい、
それが原因として任務失敗の責任をとらされる。
三人の隊員が死亡し、
それはフォークランド紛争以降の最大の損耗であり、
だれもかれを擁護しなかった。
失意の兵士は職をうしない、生活は破綻、浮浪者の境涯におちぶれる。
こころに傷をおった男でなくては冒険小説の主役はつとまらないが、
それにしても宿なしとはおもいきった設定だ。
どう取材したのかしらないが、意外とよくかけている。
ただ単にみじめで、絶望をかかえているだけでなく、
道ばたで女からつけられた難癖に自尊心のかけらを刺激され、
「きいたふうなことはぬかすな」と、怒りをあらわにするなまなましさ。
のぞんで浮浪者になる人間はいない。
どんな男だって、こころの底にゆずれない矜持をかくしている。
二十年ちかい月日がたち、
レバノンでヒズボラがあらたな誘拐事件をおこす。
今度の標的はイギリスの女のテレビ記者。
そして、犯行声明をのべる動画にでてくる男が、
かつて自分が命をすくった少年であることをテレビでしり、
宿なしのポーターはSIS(情報局秘密情報部)に接触し、
騒動に一枚かむ可能性をさぐる。
かれは長年の路上生活で、からだもこころも病みおとろえているが、
マスメディアを巧妙に利用するヒズボラの重圧におされ、
SIS長官は二十五万ポンドでポーターを交渉人としてやとうことに。
「実質的に現代のイスラム過激主義の産みの親」であるヒズボラの、
鉱山の地下ふかくにつくられた隠れ家に、
たったひとりでのりこむという自殺任務。
ただ、ライアンも年齢相応にかれてきたのか、
本作に、はげしい撃ちあいはそれほどおおくない。
では銃にたよれなくなった男は、なにでたたかうのか。
ひとつは酒。
アルコール中毒のポーターは、当然SIS職員から酒をとめられるが、
それに対して、歴史上のどの司令官も兵隊を戦場におくりこむまえに、
酒と煙草をじゅうぶんにあたえたと反論する。
信仰や愛国心で勇気をふるいおこす人間もいるが、
オレは酒でそれをやる。
また、アルコールは頭のはたらきをわるくするのではなく、
むしろものごとを明晰にかんがえるようにさせると、
「純粋な酒」ウォトカをながしこみながら確信する。
あとは知恵と直感。
まあきりがないので、これは引用をとどめよう。
イスラエルとの国境にちかい、
軍事衝突で荒廃したレバノンの風景も説得力をもってえがかれる。
作者自身が、湾岸戦争時に極寒の砂漠地帯で苦労しただけのことはある。
兵士とは、異文化交流の重要なにない手だ。
ヒズボラの幹部ハッサドは、ポーターにイスラムの死生観をかたる。
オサマ・ビン・ラディンが、これについて説得力のある演説をしている。
われわれふたつの文明のちがいは、
あんたたちが生を祝すのに対し、われわれが死を祝すことにある。
われわれにとっては、死はみっともないことではないし、
死に恐怖もいだかない。
おそらくオサマはまちがっている。
死を祝すのはイスラムの専売特許ではない。
ポーターは人質の処刑が予定される日をむかえ、武装した四十人に対し、
たったひとりで丸腰のまま、敵地で行動をおこす。
氷のようなさむけが背骨をおりていった。
死ぬことは何度となく考えた―兵士はすべて考える―だが、
この四十八時間ほど、死が間近いと思ったことはなかった。
手をのばせば届くくらい近いように思えた。
死を抱きしめろ、と自分に命じた。
怖れを見せるな。
死をさばくには、それしか方法がない。
われらの主人公の運命は実際によんでたしかめていただくとして、
『暗殺工作員ウォッチマン』(The Watchman)のほどの傑作ではないが、
本作は、ライアンらしいにがい世界観を堪能できるものがたりだ。
「死」の横顔を、まるでふるい友人のようにさりげなく描写できる小説家は、
世界中をさがしても何人もいないだろう。
現代文学にうといオレでも、それくらいはしっている。
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