逆転不能の歴史裁判 ― 『采配のゆくえ』について

采配のゆくえ
対応機種:ニンテンドーDS
発売:コーエー 二〇〇八年
※注意!このエントリはネタバレをふくみます!
「三国無双が四国無双だったらうれない。三国志だからうれる。」
引用もとをたしかめたことはないが、
カプコンにいたころの三上真司の発言らしい。
歴史上の人物の名をのせただけの大味なアクションゲームをみると、
たとえば『バイオハザード』のような、
緻密なゲームをつくる三上はいらついてしまうのでは。
さて、そんなコーエーの新作アドベンチャー『采配のゆくえ』は、
堂々とカプコンの『逆転裁判』シリーズをパクっている。
キャラクターデザインも、レイアウトも、サウンドも、システムも、
そしてなによりプレイ感覚が、あの法廷アドベンチャーそのものだ。
「カプコンがさきに『真・三國無双』をパクったのだから、コーエーはわるくない!」
と擁護するむきもあるようだが、パクリはパクリ。
あたらしいゲームをかんがえる労力をおしんだだけ。
老舗の看板は泥まみれだ。
もともと、むかしの話を材料に商売している会社なので、
ひとの業績を尊重する意識がひくいのだろう。
本作でプレイヤーは、
西軍の指揮官の石田三成として「関ヶ原の戦い」をたたかう。
島津義弘や大谷吉継など、なだたる武将の報告をききながら、
ひろく戦場をみわたしつつ指示をだすのがたのしい。
まあ、ここでも『逆転裁判』の法廷パートの、
「ゆさぶる」と「つきつける」を忠実になぞっているけれど。
ものがたりの軸になるのは以下のふたり。

石田三成の家臣、島左近。
実戦経験がうすい三成をささえる参謀だが、
関ヶ原では前線にたち徳川家康の首をねらう。

越前敦賀城主、大谷吉継。
当初、三成の挙兵には反対していたが、
友人の情熱を意気に感じ、形勢不利な西軍に身を投じる。
かれら名将をあやつりながら、「天下わけ目の決戦」で大逆転!
…と期待するじゃない、普通は。
しにます。
大体史実どおりに。
とはいえ、吉継の奮戦ぶりには感動。
正面の藤堂高虎らの猛攻をおさえつつ、
突如ねがえった小早川秀秋隊一万五千の突撃にも動じない。
わずか二千の兵力で。
業病をわずらったからだを輿にのせ、
ひかりをうばわれた目で内通者をにらむ。
ことごとくが死兵と化した従卒たち。
しかし、あらたに脇坂安治らが豹変し、
四千の兵力に側背をつかれて隊伍は瓦解、吉継は自害してはてる。
ひさしぶりにゲームでほろりとした。
鬼神もかくあるか、という勇戦。
「かれに百万の兵をあたえて、自由に指揮させてみたい」という、
豊臣秀吉の評は伊達ではない。
まあ、三成を正義にもえる熱血漢、家康を術策にたよる卑怯者とえがき、
左近や吉継との関係を中心とした筋だては、
司馬遼太郎の『関ヶ原』の模倣だ。
ゲームでは西軍が最終的に勝利するけれど、
形勢が逆転するきっかけは、つまらないくノ一が、
中立をきめこんだ陣中の吉川広家を暗殺したことによる。
がんばって采配をふるったのに、結局忍者だのみかよ。
そりゃないよ、コーエーさん。

個人的にゲーム中でもっとも印象にのこったのが、
のちの伊勢津藩主、藤堂高虎。
「武士たるもの、七度主君をかえねば武士とはいえぬ」
と放言していたという人物。
戦場でも忍を駆使しながら暗躍する、
冷笑的な策士としてえがかれていて、かっこいい。
他人の土俵をかりたゲームばかりつくるコーエーだが、
血で血をあらうゲーム市場でいきのこるには、
高虎のようなずぶとさが必要だと、おもいこんでいるにちがいない。
![]() | 采配のゆくえ (2008/10/23) Nintendo DS 商品詳細を見る |
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バグだらけのRPG ― Perfume First Tour 『GAME』
Perfume First Tour 『GAME』
発行:徳間ジャパンコミュニケーションズ 二〇〇八年
かの女たちの実質的な最初のアルバムである、
『GAME』をひきさげての最初の全国ツアーは、
アルバムのジャケットとおなじ衣装をきて、
アルバムタイトル曲とともに幕があがる。

ツアーを企画したえらいひとたちの意図はわかるけれど、
やはりPerfumeに黒はにあわない。
攻撃的すぎる色だ。
しかもくらい会場の背景にまぎれて、うごきがみえづらい。
とはいえ、「格ゲーの女子キャラのようでかっちょよい」(なかじマダオ説)、
大本彩乃さんは黒がよくはえる。
うえの写真の服は左がわに袖がなく、
腕や足の露出がおおすぎるのがこまる。
最近の大本さんは綺麗になりすぎて、
しかも凹凸のはっきりした体をしてらっしゃるので、
一体オレはどこをみたらよいのか。
さらに忌憚なくいわせてもらうが、残念ながら、
本作における大本さんのしごとぶりは低調だ。
副音声で本人もかたっているけれど、
このツアーでは靴を何度かえても足にあわず苦労したとか。
いたむ足を気にしながらの演技なので、
ビートをつまさきでけちらすような、
いつものキレのよいうごきがみられない。
芸暦八年のかの女なら、ライブの本番では、
なにひとつおもいどおりにゆかないことは百も承知だろうけど、
みていてしのびない。
本作の『amazon.co.jp』でのレビューをみてみたが、
といっても現時点で百十四件も投稿されているから、
ざっと目をとおしただけだが、
かしゆかが一番印象的という評価がおおいようだ。
のっちとヤスタカ以外のPerfume関係者はオマケ、
とおもっているオレとしてはくやしいところだが、
のっちが災難にまきこまれた以上、みとめざるをえないかな。
『Baby cruising Love』でのはっと息をのむような色っぽさ。
椅子を小道具につかう『Take me Take me』でみせる、
ながい足をくむすがたにもみとれてしまう。
金太郎の腹がけみたいなふたつめの衣装は、
かの女の首、腕、足のほっそりした線を強調している。
さらに、メンバーのおもいいれがある『Puppy love』ではなく、
セクシーだけど地味な『Take me』をえらぶあたりに、
このツアーの方向性がみてとれる。
少女っぽさをポケットにのこしながらも、
ちょっと背のびをしておとなぶる、ハタチのロールプレイ。
年のわりに屈託がなさすぎるのっちと、
年のわりに責任感がつよすぎるあ~ちゃんのとなりで、
周囲のおとなからの期待をもてあそぶような、
かしゆかの小悪魔ぶりがなやましい。
十一曲めの『ポリリズム』が五月四日の最高潮。
本人たちも、熱狂のうずがまく会場の映像をみながら、
「クラブみたいになってる!」
「こんなにもりあがる曲になるとはおもわなかったよね~」
と述懐する。
ドサまわりのなかで、観客の直接の反応をみながら、
自分たちでパフォーマンスをねりあげたのだろう。
音楽の専門家がどれだけ綿密に計画をたてたとしても、
舞台のうえにいるのは三人だけ。
どの曲にどんな反応がくるかなんて、やってみなければわからない。
靴があわないかもしれないし、衣装がうごきの邪魔をするかもしれない。
アンコールの二曲は、「横浜Blitz」六月一日の公演から収録。
まずは超絶技巧の『セラミックガール』。
いつもなら一発でふりつけをおぼえる三人が、七、八時間も苦戦した曲。
ああ、あきらかにのっちのうごきがちがう!
手の指のさきの神経にまで信号がはしる。
おおきな瞳に自信がみちている。
白いブーツのヒールがおれそうないきおいで、ステップをふむ。
つぎの『wonder2』では、
メンバーに内緒で客にサイリウムをくばるというドッキリ企画が。
でも、裏方連中の悪ふざけに、客をまきこむのはどうかともおもう。
それでも、あ~ちゃんとかしゆかは罠にかかり、
突如客席が青白い光でうめつくされたのをみて、
「ひゃあ!」「なにこれぇ…」といいながら号泣。
しかし、大本先生だけは気づきません。
さすがです。
しばらくしてからようやく、ニコニコと笑顔で「ありがと~ぅ!」。
ツアーのトリをかざる感動の場面が台なし。
裏方の人間はなげいたかもしれないけれど、
でもボクは、いつも空気がよめなくて、
感情表現がへたくそなキミがすきなんだ。
発行:徳間ジャパンコミュニケーションズ 二〇〇八年
かの女たちの実質的な最初のアルバムである、
『GAME』をひきさげての最初の全国ツアーは、
アルバムのジャケットとおなじ衣装をきて、
アルバムタイトル曲とともに幕があがる。

ツアーを企画したえらいひとたちの意図はわかるけれど、
やはりPerfumeに黒はにあわない。
攻撃的すぎる色だ。
しかもくらい会場の背景にまぎれて、うごきがみえづらい。
とはいえ、「格ゲーの女子キャラのようでかっちょよい」(なかじマダオ説)、
大本彩乃さんは黒がよくはえる。
うえの写真の服は左がわに袖がなく、
腕や足の露出がおおすぎるのがこまる。
最近の大本さんは綺麗になりすぎて、
しかも凹凸のはっきりした体をしてらっしゃるので、
一体オレはどこをみたらよいのか。
さらに忌憚なくいわせてもらうが、残念ながら、
本作における大本さんのしごとぶりは低調だ。
副音声で本人もかたっているけれど、
このツアーでは靴を何度かえても足にあわず苦労したとか。
いたむ足を気にしながらの演技なので、
ビートをつまさきでけちらすような、
いつものキレのよいうごきがみられない。
芸暦八年のかの女なら、ライブの本番では、
なにひとつおもいどおりにゆかないことは百も承知だろうけど、
みていてしのびない。
本作の『amazon.co.jp』でのレビューをみてみたが、
といっても現時点で百十四件も投稿されているから、
ざっと目をとおしただけだが、
かしゆかが一番印象的という評価がおおいようだ。
のっちとヤスタカ以外のPerfume関係者はオマケ、
とおもっているオレとしてはくやしいところだが、
のっちが災難にまきこまれた以上、みとめざるをえないかな。
『Baby cruising Love』でのはっと息をのむような色っぽさ。
椅子を小道具につかう『Take me Take me』でみせる、
ながい足をくむすがたにもみとれてしまう。
金太郎の腹がけみたいなふたつめの衣装は、
かの女の首、腕、足のほっそりした線を強調している。
さらに、メンバーのおもいいれがある『Puppy love』ではなく、
セクシーだけど地味な『Take me』をえらぶあたりに、
このツアーの方向性がみてとれる。
少女っぽさをポケットにのこしながらも、
ちょっと背のびをしておとなぶる、ハタチのロールプレイ。
年のわりに屈託がなさすぎるのっちと、
年のわりに責任感がつよすぎるあ~ちゃんのとなりで、
周囲のおとなからの期待をもてあそぶような、
かしゆかの小悪魔ぶりがなやましい。
十一曲めの『ポリリズム』が五月四日の最高潮。
本人たちも、熱狂のうずがまく会場の映像をみながら、
「クラブみたいになってる!」
「こんなにもりあがる曲になるとはおもわなかったよね~」
と述懐する。
ドサまわりのなかで、観客の直接の反応をみながら、
自分たちでパフォーマンスをねりあげたのだろう。
音楽の専門家がどれだけ綿密に計画をたてたとしても、
舞台のうえにいるのは三人だけ。
どの曲にどんな反応がくるかなんて、やってみなければわからない。
靴があわないかもしれないし、衣装がうごきの邪魔をするかもしれない。
アンコールの二曲は、「横浜Blitz」六月一日の公演から収録。
まずは超絶技巧の『セラミックガール』。
いつもなら一発でふりつけをおぼえる三人が、七、八時間も苦戦した曲。
ああ、あきらかにのっちのうごきがちがう!
手の指のさきの神経にまで信号がはしる。
おおきな瞳に自信がみちている。
白いブーツのヒールがおれそうないきおいで、ステップをふむ。
つぎの『wonder2』では、
メンバーに内緒で客にサイリウムをくばるというドッキリ企画が。
でも、裏方連中の悪ふざけに、客をまきこむのはどうかともおもう。
それでも、あ~ちゃんとかしゆかは罠にかかり、
突如客席が青白い光でうめつくされたのをみて、
「ひゃあ!」「なにこれぇ…」といいながら号泣。
しかし、大本先生だけは気づきません。
さすがです。
しばらくしてからようやく、ニコニコと笑顔で「ありがと~ぅ!」。
ツアーのトリをかざる感動の場面が台なし。
裏方の人間はなげいたかもしれないけれど、
でもボクは、いつも空気がよめなくて、
感情表現がへたくそなキミがすきなんだ。
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リビングルームの神 ― 『イーグル・アイ』をみて
イーグル・アイ
Eagle Eye
出演者:シャイア・ラブーフ ミシェル・モナハン ビリー・ボブ・ソーントン
監督:D・J・カルーソー
制作:アメリカ 二〇〇八年
[新宿ピカデリーで鑑賞]
※本エントリはネタバレをふくみます!
今日の午後五時半の時点で、
『Yahoo!映画』での評価は「3.32点」とふるわない。
毒にも薬にもならない安物アクションなのかなと、
心配しながらシネコンの十一階にのぼったが、
実はおもいのほか固ゆでにしあげたSF映画だった。
軍事用のコンピュータが自我にめざめ、
「アメリカを防衛する」という任務を断行するため、
命令者であるはずの大統領以下、
政府首脳をみなごろしにしようとはかる。
そして、政権転覆をくわだてたプログラム「アリア」は、
あらゆるデジタル機器を意のままにあやつり、
人間のこころ以外のすべてを完全に支配する。
まあSF業界の定番メニューなのだが、今日的な主題でもある。

本作にも登場する、無人攻撃機MQ-9「リーパー」。
実際にこういう遠隔操作の兵器が運用され、死傷者をだしている。
現代の兵士はロボットを相手にたたかう。
だからSF映画の奔放な想像力を、
子どもじみた誇大妄想とわらうべきではない。
「アリア」がかいた筋がきどおりに運命の日をむかえる、
本作の主人公たち。
機械じかけの現代の神は、技術革新にも熱心で、
PCや携帯電話をつかって人間をうごかす。
映画のなかごろで、高圧線の鉄塔がならぶ荒野の場面がある。
そこからにげだしたイラン人は電流でやきころされる。
そういえば荒野の鉄塔は、ある傑作でも象徴的にもちいられていた。

『セブン』(一九九五年)
あくまで私見だが、キリスト教文化圏にいきるひとびとにとって、
高圧線鉄塔は十字架にみえるのだとおもう。
観客の意識、すくなくとも無意識の底に、
イエス・キリストの受難の記憶がよみがえり、
かれらは寄る辺のない不安へとみちびかれる。
『イーグル・アイ』では、このアメリカの「ゴルゴタの丘」で、
異教徒が無残にころされるのがなにやら意味深だ。

シャイア・ラブーフ、二十二歳。
綺麗な顔だちをしているし、感情表現は繊細。
それでいて台詞まわしがよどみなく、喜劇的な表現もたくみ。
なんでも、地元ロサンゼルスのコーヒーショップで、
スタンダップコメディアンをつとめたのがキャリアのはじまりらしい。
しかしこのシャイア君、どうも華、オーラが感じられない。
スピルバーグのお気にいりで、インタビューではこんな風にかたる。
Q:本作の製作総指揮を務めたスピルバーグとも
何度も一緒にお仕事をなさっていますね。
彼はどんな方ですか?
スティーヴンはファミリー志向でね。
彼のディレクターズ・チェアにはDAD(お父さん)って書いてあるんだ。
愛があるんだよ。
『シネマトゥデイ』
『イーグル・アイ』シャイア・ラブーフ 単独インタビュー
年齢は四十ちかくはなれているが、親子のようでほほえましい。
あまり生まれのことはいいたくないが、かれの母親はユダヤ系で、
「シャイア」という名はヘブライ語で「神のめぐみ」を意味するとか。
ちぢれた髪、ふとい眉、おおきな鼻は、偶然かもしれないが、
みるものに否応なくその出自を連想させる。
スピルバーグはロシア系ユダヤ移民の三代目なので、
抜擢のうらには人種がからんでるのでは、と邪推されたりする。
かれのオーラのなさは、そのあたりに原因がありそう。
ブラッド・ピットのような「アメリカンヒーロー」になるには、
いくつかの条件をみたさなくてはならない。
宗教にふれたせいか、話がおもくなってきた。
映画のほうも、あまりにサスペンスの要素をつめこみすぎで、
一時間をこえたころからあきてくる。
登場人物があやつり人形のように翻弄されるさまはおもしろいのだけど、
優等生のシャイア君は、
度をこして神、または原案をだしたスピルバーグ父さんに忠実すぎるので、
みていてイライラする。
最後まで他人の命令にひたすらしたがうだけ。
すこしは自分の意志を行動でしめしたらどうなんだ。
かれがおのれの演技手法を確立し、
うちなる情熱をスクリーンにぶつける日はいつになるだろう。
巨大な十字架がならぶ荒野で復讐の鬼と化し、
ケヴィン・スペイシーにむかって引き金をひいた先輩をみならってほしい。
本作はいかにも今風の娯楽作品で、
映画館のかたすみでマニアがにやにやするというよりは、
自宅で寝ころがりながらDVDでみるのに最適なつくり。
あきたら冷蔵庫に飲みものをとりにいったり、トイレにいったり。
AV機器が発達したことで、家のなかでの映画鑑賞は一般化し、
製作者もリビングルームのだらけた観客を意識せざるをえない。
「神の摂理への反逆」が主題だった本作は、
結局、リビングという祭壇の調度品のひとつにおさまりそう。
Eagle Eye
出演者:シャイア・ラブーフ ミシェル・モナハン ビリー・ボブ・ソーントン
監督:D・J・カルーソー
制作:アメリカ 二〇〇八年
[新宿ピカデリーで鑑賞]
※本エントリはネタバレをふくみます!
今日の午後五時半の時点で、
『Yahoo!映画』での評価は「3.32点」とふるわない。
毒にも薬にもならない安物アクションなのかなと、
心配しながらシネコンの十一階にのぼったが、
実はおもいのほか固ゆでにしあげたSF映画だった。
軍事用のコンピュータが自我にめざめ、
「アメリカを防衛する」という任務を断行するため、
命令者であるはずの大統領以下、
政府首脳をみなごろしにしようとはかる。
そして、政権転覆をくわだてたプログラム「アリア」は、
あらゆるデジタル機器を意のままにあやつり、
人間のこころ以外のすべてを完全に支配する。
まあSF業界の定番メニューなのだが、今日的な主題でもある。

本作にも登場する、無人攻撃機MQ-9「リーパー」。
実際にこういう遠隔操作の兵器が運用され、死傷者をだしている。
現代の兵士はロボットを相手にたたかう。
だからSF映画の奔放な想像力を、
子どもじみた誇大妄想とわらうべきではない。
「アリア」がかいた筋がきどおりに運命の日をむかえる、
本作の主人公たち。
機械じかけの現代の神は、技術革新にも熱心で、
PCや携帯電話をつかって人間をうごかす。
映画のなかごろで、高圧線の鉄塔がならぶ荒野の場面がある。
そこからにげだしたイラン人は電流でやきころされる。
そういえば荒野の鉄塔は、ある傑作でも象徴的にもちいられていた。

『セブン』(一九九五年)
あくまで私見だが、キリスト教文化圏にいきるひとびとにとって、
高圧線鉄塔は十字架にみえるのだとおもう。
観客の意識、すくなくとも無意識の底に、
イエス・キリストの受難の記憶がよみがえり、
かれらは寄る辺のない不安へとみちびかれる。
『イーグル・アイ』では、このアメリカの「ゴルゴタの丘」で、
異教徒が無残にころされるのがなにやら意味深だ。

シャイア・ラブーフ、二十二歳。
綺麗な顔だちをしているし、感情表現は繊細。
それでいて台詞まわしがよどみなく、喜劇的な表現もたくみ。
なんでも、地元ロサンゼルスのコーヒーショップで、
スタンダップコメディアンをつとめたのがキャリアのはじまりらしい。
しかしこのシャイア君、どうも華、オーラが感じられない。
スピルバーグのお気にいりで、インタビューではこんな風にかたる。
Q:本作の製作総指揮を務めたスピルバーグとも
何度も一緒にお仕事をなさっていますね。
彼はどんな方ですか?
スティーヴンはファミリー志向でね。
彼のディレクターズ・チェアにはDAD(お父さん)って書いてあるんだ。
愛があるんだよ。
『シネマトゥデイ』
『イーグル・アイ』シャイア・ラブーフ 単独インタビュー
年齢は四十ちかくはなれているが、親子のようでほほえましい。
あまり生まれのことはいいたくないが、かれの母親はユダヤ系で、
「シャイア」という名はヘブライ語で「神のめぐみ」を意味するとか。
ちぢれた髪、ふとい眉、おおきな鼻は、偶然かもしれないが、
みるものに否応なくその出自を連想させる。
スピルバーグはロシア系ユダヤ移民の三代目なので、
抜擢のうらには人種がからんでるのでは、と邪推されたりする。
かれのオーラのなさは、そのあたりに原因がありそう。
ブラッド・ピットのような「アメリカンヒーロー」になるには、
いくつかの条件をみたさなくてはならない。
宗教にふれたせいか、話がおもくなってきた。
映画のほうも、あまりにサスペンスの要素をつめこみすぎで、
一時間をこえたころからあきてくる。
登場人物があやつり人形のように翻弄されるさまはおもしろいのだけど、
優等生のシャイア君は、
度をこして神、または原案をだしたスピルバーグ父さんに忠実すぎるので、
みていてイライラする。
最後まで他人の命令にひたすらしたがうだけ。
すこしは自分の意志を行動でしめしたらどうなんだ。
かれがおのれの演技手法を確立し、
うちなる情熱をスクリーンにぶつける日はいつになるだろう。
巨大な十字架がならぶ荒野で復讐の鬼と化し、
ケヴィン・スペイシーにむかって引き金をひいた先輩をみならってほしい。
本作はいかにも今風の娯楽作品で、
映画館のかたすみでマニアがにやにやするというよりは、
自宅で寝ころがりながらDVDでみるのに最適なつくり。
あきたら冷蔵庫に飲みものをとりにいったり、トイレにいったり。
AV機器が発達したことで、家のなかでの映画鑑賞は一般化し、
製作者もリビングルームのだらけた観客を意識せざるをえない。
「神の摂理への反逆」が主題だった本作は、
結局、リビングという祭壇の調度品のひとつにおさまりそう。
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ヤクザよりこわい稼業 ― 『アメリカの友人』をみて

アメリカの友人
Der Amerikanische Freund
出演者:デニス・ホッパー ブルーノ・ガンツ リザ・クロイツァー
監督:ヴィム・ヴェンダース
制作:西ドイツ・フランス 一九七七年
[早稲田松竹で鑑賞]
一九七三年の『都会のアリス』が実にみずみずしく、
時のへだたりを感じさせない名作だったので、
きょうも隣駅の早稲田松竹に足をのばす。
ところが、『アリス』の四年後に公開された、
パトリシア・ハイスミス原作のサスペンス『アメリカの友人』は、
最初から最後まで退屈で、年をへてすっかりふるびた駄作だった。
ドイツの額縁職人とアメリカのイカサマ画商が、
フランスのマフィアに依頼されて殺人に手をそめるという筋。
相当やすっぽい話にはちがいないが、
上手にとれていれば物語などなんでも大差ない。
どちらかといえば白黒が得意のヴェンダースは、
本作ではあざやかな原色を強調した色彩美をつくりあげようとする。
赤いフォルクスワーゲンがはしり、
ブルーノ・ガンツが青い階段をかけおりる。
撮影監督のロビー・ミュラーの手腕がひかる…といいたいところだが、
オレには幼児がクレヨンでお絵かきしたように稚拙にみえる。
おもいのまますきな色を画用紙に濃くぬりたくって、
ほめてもらえるのは子どもだけ。
これがヴェンダースの代表作のひとつとされているらしいから、
他人の評価はまったくあてにならない。
本作では数おおくの映画監督が、役者として起用されている。
「映像をとる」という行為に自覚的なヴェンダースらしい配役か。
主演のデニス・ホッパーも監督として作品をのこしているし、
ほかにはブラン、レイ、フラー、リリエンタール、シュミットと、
皺だらけで辛気くさい映画屋の顔が行列をなす。
観客を無視した悪ふざけが二時間をこえてつづく。
ヴェンダース自身は、
「マフィアのように生も死も簡単に扱える人間といったら映画監督しかいない」
と、その理由を説明しているらしい。
ヤクザにも映画ずきは大勢いるだろうが、
ヴェンダースはかれらをまえにしておなじことがいえるのか。
なんだって、ヴェンダース先生?
もう一度いってくれませんかね?
映画カントクが「マフィアのように生と死を簡単にあつかえる」?
へえ、カントクさんてのは随分えらい職業なんですねえ。
わたしらは死ぬとか生きるとか、平気な顔でよういえませんわ。
そもそもニコラス・レイとかサミュエル・フラーとか、
本作の出演者の選考方針は、
ゴダール、ヌーヴェルヴァーグ、カイエデュシネマ発祥の、
当時の「作家主義」の教科書を忠実になぞったもの。
いくらなんでも、学校でならった公式にとらわれすぎ。
「三平方の定理」を題材に映画をつくるようなものだ。
制作時のカントクは三十一歳、まだまだ青くさい。
ギブアップ!
かたることがつきてしまった。
ことし三月にブログをはじめて以来、
みた映画はすべて記事にかいているが、これほど苦戦したのははじめて。
『アメリカの友人』、カントクがヒヒョーカにむけてつくったようなこの映画は、
オレのこころにまったく波風をたてなかった。
批判する気もおこさせないようなゲージュツ作品。
まあそういうときこそ、こちらの文章の藝のみせどころ。
話題がなんであろうと大差ない、といったのは自分だし、
もっと修練をつまなければ。
映画批評の本をよむのではなく、あしたも映画館にゆくのです。
あと、『都会のアリス』と『アメリカの友人』の記事をかくにあたって、
"Wim Wenders Unofficial Fansite"というサイトが役にたったので、
ここにしるしておきたい。
みやすいし、解説も如才がない。
カントク中心に映画をみるひとはマジメな性格がおおそう。
こちらは何回映画館にでかけようが、
いきあたりばったりなままのデタラメブログです。
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やりきれないイリュージョン ― 重村智計『金正日の正体』

金正日の正体
[講談社現代新書 1953]
著者:重村智計
発行:講談社 二〇〇八年
北朝鮮の最高指導者・金正日は五年まえに死んでいて、
現在かの国では、影武者の背後で党幹部が暗闘をくりひろげている、
と暴露する本。
小泉首相が二度目にあった人物もニセモノ。
影武者は四人いて、しかもそのうちふたりが女。
ただ、根拠としてあげられているのが、声紋分析や、
「平壌の決定に金正日の指導力が感じられない」といった、
限定的な観測ばかりなので、説得力は十分ではない。
逆に、かれの生存を立証するのもむずかしいが。
著者は、世界の独裁者はみな暗殺をおそれて、
ダブルを利用して延命をはかるというが、本当だろうか。
自分のそっくりさんが身辺をうろついていたら、
鬱陶しくてしようがないとおもうが。
それでも、近隣諸国の関係者のあいだに疑心暗鬼が生じ、
「ある国の情報機関の担当者」は、
影武者の真偽をたしかめる調査を、上層部にとめられたとか。
会談した相手がニセモノだとわかれば、それをセッティングした、
情報と外交の機関の幹部の責任がとわれるから。
担当者のみなさんのご苦労がしのばれます。
金正日がプリンセス・テンコーの熱狂的なファンであることは有名だが、
身分をいつわって何度も日本をおとずれ、
テンコーも出演する赤坂のレストラン・シアター、
「コルドン・ブルー」にかよいつめたそうだ。
はなやかなステージでは、トップレスのダンサーがおどり、
コントやマジックが披露される。
それをながめながら、高級料理に舌鼓をうつ金正日。
この店を気にいったかれは、平壌におなじ舞台をつくらせ、
そこで有名な美女軍団「喜び組」がセクシーにまいおどる。
「コルドンブルー」ではたらいていた振付師・小井戸秀宅の自伝である
『人生は、ショータイム』に、みすごせない記述がある。
小井戸によると、喜び組のダンスは自分の振りつけをまねたものらしい。
ただヘアーメークをみると、みなおなじ顔で個性がなく、
それぞれのダンサーの化粧の工夫がたりないと指摘する。
ふむふむ。
七十年から八十年代にかけて、
北朝鮮の貨客船・万景峰号は自由に日本各地に寄港していた。
しかも当時の入国管理局は、信じがたいことに、
乗客乗員の出入国をとりしまる権限を、朝鮮総連にゆだねていたそうだ。
日本政府おそるべし。
まあ北で売りになる商品など、覚醒剤や工作員くらいのものだが、
わが国からは色っぽいステージの記憶をもちかえれたのだから、
このインチキ貿易も無駄ではなかった。
プリンセス・テンコーの魔力をかりながら、
水と油のようなマルクス主義と儒教を結婚させ、
金正日は半島北部の権力を掌握した。
金日成の息子だからではなく、
この国でもっとも優秀だから後継者にえらばれた、と自称する長男坊は、
支配の正統性のひよわさと、
アメリカの核兵器による脅迫になやまされながら、
絶体絶命の脱出劇を演じている。
それは、後継者としての立場を固め、
指導者として尊敬されるための重要な仕掛けであった。
平壌は、「劇場国家」である。
表通りは、映画のセットのような立派な建て物が並ぶ。
一歩裏通りに入ると、貧しく汚い。
その劇場のセットのような街で、
裏切りや勢力争い劇が、毎日のように展開された。
指導者の振り付け通りに、高官も国民も踊らなければならない。
振付師・金正日がすでにこの世にいなかったとしても、
影法師たちの不気味な舞いはおわりそうにない。
平壌で朝鮮労働党総書記は、
二代目引田天功にこんなたのみごとをしたのでは、と想像する。
テンコーさん、どうかあなたの魔術で、
半島からわたしの国をまるごとけしてくれないか。
わたしはのぞんで独裁者になったわけではない。
ただ、暗殺におびえないですむ、しずかな夜がほしいだけなのだ、と。
![]() | 金正日の正体 (講談社現代新書 1953) (2008/08/19) 重村 智計 商品詳細を見る |
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テーマ : 政治・経済・時事問題
ジャンル : 政治・経済
追憶の回転ドア ― 『都会のアリス』をみて

都会のアリス
Alice in den Städten
出演者:リュディガー・フォーグラー イェラ・ロットレンダー リザ・クロイツァー
監督:ヴィム・ヴェンダース
(一九七三年/西ドイツ/百十分)
[早稲田松竹で鑑賞]
オレは出不精というか、インドア愛好者なので、
みずからすすんで旅行にでかけたことがない。
そんなヒマがあれば本棚のあれこれに目をとおしたいし、
ここにかきたいネタも沢山待機しているから。
そもそも、自分の嗜好に最適化している生活空間をすてて、
みしらぬ土地へでかけるという心理が理解できない。
でも、そんな不健康な趣味には縁がない世人は、
季節がかわるたびに、貴重な時間と財産を観光業者に献上している。
さて、いわゆる「ロードムービー」の古典である、
『イージー・ライダー』が公開されたのは、
輸送や通信の手段が発達し、
「観光旅行」が一般化しはじめた一九六九年。
この映画様式では、オンボロ車での珍道中におこるできごとや、
人々とのであい、道づれとの他愛ないケンカなどをフィルムにおさめる。
正直にいうと、オレの苦手な分野。
映画はスタジオのなかで、手のこんだセットをたてて、
リハーサルを入念におこないながらつくるのが最善のはず。
なのに大抵のロードムービーは、旅先で即興的にカメラをまわし、
あとで気のきいた場面をいい加減につないで完成。
たのしめるのは現場にいた当事者だけ、としかおもえないような、
ホームビデオまがいの作品をこれまで何度かみせられてきた。
一九七三年の『都会のアリス』は、
偶然にであった三十一歳の物書きと九歳の少女が、
アメリカ、オランダ、ドイツをめぐるロード・ムービー。
主演のリュディガー・フォーグラーのやさしい表情が印象にのこる。
もともと旅行記をかく依頼をうけてアメリカを旅していたフォーグラーは、
インスタントカメラで写真をとるばかりで、文章をかくことができない。
ポラロイド、なつかしいひびき。
その場で現像された写真をながめながら、
「なんでオレは見たままをかけないのだろう」となげく主人公に、
映画作家のくるしみ、もどかしさがかさなりあう。
要するに本作は、月なみな旅の記録ではなく、
試行錯誤のなかで真摯につくられた藝術作品だ。
この場所で風景をきりとり、役者に台本をしゃべらせることに、
一体どんな意味があるのか、と自問自答する緊張感がある。
カメラ市場においては、手軽さがうりのデジタルカメラに、
アナログのインスタントカメラは淘汰されたが、
それでも液晶モニターごしの映像は、紙にやいた写真とはまったくちがう。
中盤で、少女アリス役のイェラ・ロットレンダーがカメラをかりて、
フォーグラーをうつすところがある。
やきあがった写真をみるイェラの顔がぼんやりと表面にうつり、
フォーグラーの顔とかさなる。
たとえようもないほどみずみずしく、抒情的な光景なのだが、
あんな不思議な光のぐあいをどうやって撮影したのだろう。
まさにアナログの技術の粋だ。
イェラ・ロットレンダーは、つねに表情ゆたかで愛くるしい。
前作の『緋文字』で仲がよかったふたりを軸にして一本とってしまう、
ヴェンダースの配役の妙技がひかっている。
イェラは上半身はだかで平気で公園をあるきまわるが、
第二次性徴があらわれる直前の女の子らしい、
無邪気さと不機嫌さが同居するさまが愉快だ。
口をひらけば「おなかすいた」といってフォーグラーをこまらせるが、
かれがほかの女に興味をもつと、
ほのかに嫉妬心をみせるおませさんでもある。
ただ、子役の魅力にたよりすぎの部分もあるかな。
子どもや動物がかわいいのはあたりまえで、
それをわざわざ映画館にでかけてたしかめる必要はない、
というのがオレの持論。
主役のふたりがであうのは、空港の回転ドア。
イェラがものすごいいきおいでドアをまわしていて、
数年まえの「六本木ヒルズ森タワー」での事故をおもいだした。
オレも子どものころは回転ドアであそぶのがたのしかったけれど、
いまではこの手のドアの数がへっていそうだし、
もしイェラみたいないたずらっ子があらわれたら、
赤外線センサーで強制停止だ。
つまらない時代だなあ。
最後の列車の場面でフォーグラーは、
ジョン・フォードがなくなったことをつたえる新聞記事をよむ。
一九七三年八月三十一日。
現実世界と連動してことがおこるはこびは、ロードムービーならでは。
本作は、うしなわれゆくアナログな時代精神への愛惜の念がにじみ、
憂鬱な気配もかすかにただよう名作だ。
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サーカスとワラジムシ ― ミシェル・オンフレ『哲学者、怒りに炎上す。』

哲学者、怒りに炎上す。
Traces de feu furieux: la philosophie féroce II
著者:ミシェル・オンフレ
訳者:嶋崎正樹
発行:河出書房新社 二〇〇八年
フランスで大学にはいるには、さきに統一国家試験をうける必要があり、
そこでえられる資格が「バカロレア」とよばれる。
国民の六割以上がこの資格をもっているらしい。
ことばのひびきはあまり頭がよさそうではないが、
実際にどんな問題がでるのか、
『A batons rompus』というサイトでしらべてみた。
どのコースも「哲学」から試験がはじまる。
まずは総合コース「文学系」。
1. 哲学(la philosophie)は諸科学(les sciences)についての
考察(une reflexion)をせずに済ますことができるか?
2. ある芸術作品(une oeuvre d'art)が美しいということを
他人に根拠を示して説得する(convaincre)ことができるか?
こういった問いに対して、四時間かけて論述をおこなう。
「科学系」の設問も楽ではない。
1. 人は何によってある出来事が歴史的であると認識するのか?
2. 人間の自由は労働の必要性によって制限されるか?
ニキビ面のガキの大言壮語をよまされる採点者に、同情してしまう。
それはともかく、この国で平均的な教育をうけた人間なら、
抽象的な哲学の議論を、だれでもこなすことができるという次第。
フランス人が傲岸不遜である理由のひとつだ。
『コルシカ』という雑誌に連載した時評をまとめた、
本書の著者である一九五九年うまれのミシェル・オンフレは、
そんな哲学ずきの国で活動する哲学者。
もともとは高校で哲学をおしえていたとか。
日本でも、「辛口コラムニスト」といった手合いはめずらしくないが、
デカルトをうんだ、栄光あるフランス哲学の俊英となると趣きがちがう。
無遠慮、単刀直入、見さかいなし。
全方位にむかってその難点を糾弾するので、
よんでいて心がやすまるひまがない。
矛先がむけられた対象をあげると、
精神分析医、内務大臣時代のサルコジ、カトリック教徒、
フェミニスト、ユダヤ人、アメリカ政府、消費者運動の活動家、
右の政治家、左の政治家、同業の哲学者、などなど。
あまりにも多方面を批判しているので、
この人の立ち位置がどこにあるのかわからないが、
なぜか通読していて安定した軸を感じる。
伝統あるサーカスできたえられた藝人ならではの、
あやうい綱わたり藝なのだろうか。
ほかにも、ジョイスの『ユリシーズ』は難解で意味不明と白状していて、
個人的にそういう正直な人は信用できる。
普通は頭がわるいとか、無教養とおもわれたくないし、
丸谷才一先生をおこらせたいともおもわないもの。
だれもが敬してとおざけるイスラムにも手きびしい。
イスラムについて、いつもながらの常套句の繰り返しをやめさせるには、
一度もコーランを通読したことのない人には
意見を言わせないようにする必要があると思う。
ひとたびその書を読めば、読者はそれぞれに、女性蔑視、ユダヤ人差別、
不寛容、暴力、好戦的な文言が繰り返されていることを知り、
正しい判断を下すことができるはず。
そうなってはじめて、僕たちは西欧の鼻先に突きつけられた
挑戦に対応できるようになる。
それはつまり、啓蒙を受け継ぐのか、
それとも野蛮な封建時代に戻るのか、という問いだ。
勇気ある発言だ。
そして、世間的な生活にまどわされる人間を「ワラジムシ」とよび、
「哲学的な生」をおくることを提唱する。
「ワラジムシ」は、おなじ種族の発する信号にしたがうだけで満足し、
いきるためにうごき、石のしたのほんの数平方センチの領土を支配し、
メスをしたがえ、交尾し、生殖し、種族をふやしてゆくだけ。
それに対し「ホモ・サピエンス」は、本能をわずかながら減じ、
文化をわずかばかりふやすことを目標に、梯子をいくつかよじのぼる。
さらに「哲学的な生」とは、おおくの場合、
世間から隔絶した別の世界で、きわめて孤独にすごすことを意味する。
綺麗ごとをいっているようにおもうし、
フランス野郎の舌先三寸にはのるものか、と警戒したくもなる。
ただ、俗世間のできごとと同時進行でかかれた本書をよんでいると、
陳腐な造語や専門用語をしきつめた哲学書よりも、
「哲学的な生」についてふかく考えさせられる。
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目ぢからプリンセス ― 『ゲット スマート』をみて

ゲット スマート
Get Smart
出演者:スティーヴ・カレル アン・ハサウェイ アラン・アーキン
監督:ピーター・シーガル
(2008年/111分/アメリカ)
[京成ローザ10で鑑賞]
『007』シリーズに代表されるスパイ映画をネタにしたコメディで、
もとは六十年代のテレビドラマだったとか。
とはいえシックスティーズ臭がきつい『オースティン・パワーズ』ではなく、
むしろ、ローワン・アトキンソン主演のイギリスコメディの傑作、
『ジョニー・イングリッシュ』を意識している気がする。
ずっこけスパイの主人公がドタバタを演じつつも、
筋だてはまじめにスパイ映画の王道をゆくところとか。
まあ、オレが『イングリッシュ』を熱愛しているからかもしれない。
この手の映画がすきなのです。
そもそもジェイムズ・ボンドとかいう野郎がすでにインチキくさいのに、
スパイにあこがれる、さえない中年男が世界をすくおうと立ちあがり、
かえって国際社会を大混乱におとしいれるという、
二重三重の喜劇的要素の大盤ぶるまいがお得感をかもしだす。
さらにはアクションあり、ロマンスあり、
しかもどことなくオシャレで、デートムービーむけでもあるし。
生家ちかくのシネコンでひとりでみましたけど。
週に一回の頻度で映画について文章をかいているので、
毎週末は自分の鑑賞数のすくなさにため息をつく。
スティーヴ・カレル、一本もみたことがなかった。
『ブルース・オールマイティ』も、『40歳の童貞男』も。
本作ではやや甲高い声でかんちがいスパイを演じ、
藝達者ぶりをみせている。
でも、動きのひとつひとつをみているだけでわらえる、
ローワン・アトキンソンの至藝には一歩およばないかな。
『スマート』は、国民性のちがいなのか、
パロディがいつのまにか正統派アクションに先祖がえりして、
銃撃戦、ビル爆破、カーチェイス、飛行機、列車…の大サービス。
正直いって、ありがた迷惑。
たまにはちがう店で昼ごはんをたべようと、
まえから気になっていた定食屋にはいったら、
メニューがマクドナルドだった、みたいな。
ただし、ずっこけスパイが物語の途中でふと素の自分にもどり、
女スパイのアン・ハサウェイとの感情の交流がうまれるのは、
アメリカ映画ならではの味かもしれない。
マジメで仕事熱心な男は、それなりに尊重される社会なのです。
性格のわるいイギリス人がつくった『ジョニー・イングリッシュ』なんて、
最初っから最後まで破壊的な笑いにみちていたもの。

アン・ハサウェイ。
すみません、この人の作品もみたことありません。
でも、たしかにかわいいわ。
シャネルとハイヒールではしりまわりながらも、気品があってすずしげ。
汗のにおいがしない。
ハサウェイさんは、十代のときに出演したデビュー作、
『プリティ・プリンセス』で二十一世紀のシンデレラに。
「お姫さまのイメージはいやだわ」なんて贅沢な悩みも、
はやくも二〇〇五年の『ブローバック・マウンテン』で解消。
翌年は、女優のなかの女優、メリル・ストリープを脇にしたがえた、
『プラダを着た悪魔』が一億二千万ドルをこえる大あたり。
で、ことしは『スマート』を成功させ、続編も予定されているとか。
なんなんだ、このめぐまれすぎの経歴は。
百分の一でよいので運をわけてください。
なんにせよ、ハサウェイさんをしらなければ、
二十一世紀の映画はかたれそうにないので、これから研究します。
コメディである本作で、かの女が扮する女スパイは、
ある任務の失敗が原因で、
整形手術でまったく別の顔にされたという変な設定なのだが、
そこに失恋話がからんで、強引にシリアスな演技につなぐ。
「いいのかよこれで」とおもいつつも、
ハリウッド・プリンセスの目力に説得される観客たち。
やっぱりアメリカ映画はおもしろい。
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寿永三年のカナリア ― 井伏鱒二『さざなみ軍記』

さざなみ軍記
著者:井伏鱒二
初出:河出書房 昭和十三年
[新潮文庫版で読了]
先週あたり全国のちびっこは、
赤組と白組にわかれて運動能力と団結力をきそいあっていたはず。
さらに二か月後には「紅白歌合戦」もある。
いわゆる「源平合戦」、治承・寿永の乱は、
日本人のこころにひとつの原型をつくっているようだ。
昭和のはじめに井伏鱒二が九年をついやした労作も、
この乱から題材をひろったもの。
オレは司馬遼太郎の『義経』がすきで、
かれの最高傑作のひとつだとさえおもうが、
『さざなみ軍記』はそれにひけをとらない洗練された歴史物語だ。
井伏と司馬、あまりに資質のちがう作家をくらべるようだが、
なかなかどうして「井伏史観」にも、
読中おもわず膝をうちたくなるような、あかぬけた知性がひかる。
およそ戦には二つだけ路がある。
都へ攻めのぼるか都から討って出るか、
この二つの路以外には兵の往く路はない。
とまあ、こんな具合。
本作は、木曽義仲におわれ都をおちのびた平氏一門のわかい公達が、
西海を転戦するなかで書きつづった日記という体裁をとる。
主人公の名はあかされないが、『花紅葉通信』というサイトによると、
平知盛の長男、従五位上、左馬頭兼武蔵守、知章に取材したようだ。
ちなみに知章はこの乱で、十六歳で戦死。
恐縮ながら今回は引用がおおい。
七月二十七日
昨夜は数人の雑兵が脱走した。
けれども誰も彼等を非難するものはない。
私達は旅の目的地を知らないからである。
今日は七月二十八日であるかもしれない。
私は正確な月日を失念した。
しかし私は、僚友に質問するのを我慢しよう。
相手を悲しませるだけである。
日附というのは、希望を抱いている人にとってだけ必要であろう。
ものうげで、おもわず引きうつさずにいられない文章だ。
軍事の天才が敵をけちらすさまをえがいてイケイケの司馬に対して、
井伏のえがく主人公はどうみても武人失格で、
一族郎党をおいてにげだすことばかりかんがえている。
おさない安徳天皇と三種の神器を奉じてはるか太宰府までにげたものの、
平氏がすがる政治的権威は戦場では通じない。
それどころか、かれらは後白河法皇のさだかならぬ休戦命令をあっさり信じ、
致命的な打撃をこうむった。
諸行無常、盛者必衰のことわり。
ほろびの美学が、リアルな文学世界をかたちづくる。
彼の言葉が終ると同時に、彼と彼の相手は、
馬にまたがったまま格闘をはじめた。
裸馬の騎者は、力量において三郎次よりすぐれていた。
彼は左の手でもって三郎次の肩をつかみ、
右の手でもって三郎次の頭をつかみ、
そして造作なく三郎次の首をねじ切ってしまった。
三郎次の胴体からは四尺ばかりの高さに血潮の噴水がほとばしり、
胴体みずからを赤く染め、土地にも血潮の斑点をしるした。
東国のあらえびすが、自分の郎党を殺戮するのを目にしながら、
他人事のように傍観し、さらには、
それを色あざやかな記述で日記にのこすというおそろしさ。
主人公の家の侍たちを実際に指揮するのは、僧兵あがりの「覚丹」。
学識ゆたかで軍事にも通じ、戦場にあっては勇猛果敢。
ダメ将軍の主人公をけなげに補佐するすがたに安堵するが、
どこかさめた性格のもちぬしで、陣中でもひまをみつけては、
『寿永記』なる戦争記録をかきつづる。
宿所にあてていた民家で、夜があけると一族がゆくえしれずなのをみて、
この現象について覚丹は、
民衆というものが一ばんよく世の動きを感じると言った。
源氏がここに攻めよせて来る前兆だというのである。
と、自分たちの前途を直観する。
つねに権力に翻弄される丸腰の一市民こそが、
その共同体のゆくすえをもっとも敏感にさとる。
井伏鱒二は源平合戦にたくして、
ほろびの道をあゆむ昭和はじめの国家の命運を予言したのだろう。
逆の立場から、昭和なかごろの繁栄をえがいた司馬遼太郎と同様に。
すぐれた作家たちにとって、この乱における群像は、
つきせぬ泉のような価値をもつようだ。
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秋の空におもう ― 第二十九節・千葉-新潟

J1 第二十九節 千葉-新潟
結果:0-0
会場:フクダ電子アリーナ
[現地で観戦]
廃工場を背景にそびえるフクアリのモダンなたたずまいは、
どこかまがい物じみた印象をあたえつつも、
いかにも千葉らしくてオレの目になじむ。
ただ、スタジアムにむかう群れの顔つきが妙ににこやかで、
そのゆるんだ空気に不安をかきたてられる。
たしかに、スコットランド人にひきいられたチームは、
前節の浦和戦では、これ以上もとめたら酷なほどの奮闘だったが、
それはあくまで二週間まえにみた夢の記憶。
まだ二部降格という悪夢はおわっていない。
シャツ一枚ですごせる絶好の天候で、
観客席からのぞく楕円形の秋空がうつくしい。
すこしかすんだ青に、まだらに雲がかかる。
天にむかっていのりたい気もちにもなるが、
そこにいるヤツが一番あてにならないのはわかっているので、やせ我慢。
薄手の上着はトートバッグにいれたまま、主審がならす笛がきこえた。
赤い悪魔を屈伏させた右の深井、左の谷澤は、前節に少々目だちすぎた。
新潟の両サイドバックにきびしく監視され、まえをむくことができない。
前半三分に負傷退場した松尾直人のかわりにはいった、
中野洋司もまったくあわてることなく、
波にのっているはずの深井からドリブル突破の機会をうばう。
チームのねらいが明確だ。
後手にまわった千葉は、両側の空間を逆に利用される。
サイドチェンジのパスがフィールドにあざやかな虹をえがき、
千葉の守備陣はキリキリ舞い。
一年でクラブをすてた「坂本隊長」にははげしいブーイング。
攻撃参加などは論外で、橙色の対面者にかるがるとクロスをあげられる。
まさか罵声におじけづく臆病者ではないだろうが、
影響が皆無とはいえないかもしれない。
勝負の趨勢を左右する縦糸と横糸のからみぐあいは複雑だ。
上位チームを圧倒したつぎの試合に、
伴走者から息をつく間もないほどたたきのめされることもある。
きょうはちょっとした不手際でアウェイ席で観戦したので、
後半は、岡本昌弘が十字掃射をあびるのをまぢかでみるはめに。
オレは正気をたもつだけで精一杯で、試合の内容はあまり記憶にない。
勝ち点一をとれてよかった、という感想しかでてこない。
戦術に関してあえてかたるなら、
工藤、坂本、青木といった面々が攻撃に顔をださないと、
得点機はうまれないとおもう。
でもいまの千葉が、それほどの不確実性をひきうけてまで、
貪欲に勝利をもぎろうと無理をする必要があるのかは疑問だ。
オレとしては攻撃的にいってほしいが、
選手の足がついてこなければ仇となるかもしれない。
前節でようやくわがクラブの今季の戦いかたは完成したが、
それはかれらが、あらたな階層に足をふみいれたことを意味する。
もう格下として見くだされることはないが、
こちらを警戒する相手のための作戦を用意しなくてはならない。
以前よりずっと風とおしがよい、あたらしい部屋での生活に、
ジェフ千葉の選手はとまどいをかくせなかった。
六時をまわり、日もおちた蘇我駅へのかえり道、
バッグから上着をひっぱりだしたオレは、
週ごとに別の難題をつきつけるサッカーの女神に、
ブツブツと呪いのことばをはいた。
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テーマ : ジェフユナイテッド市原・千葉
ジャンル : スポーツ
さよなら二十世紀 ― 田之倉稔『林達夫・回想のイタリア旅行』

林達夫・回想のイタリア旅行
著者:田之倉稔
発行:イタリア書房 2008年
諸外国語に通じ、美術史、文学、哲学など西洋の学問をひろくおさめ、
日本の最良の知識人のひとりといわれる林達夫。
一八九六年にうまれ、一九八四年に死去。
二十世紀というかわった時代を、学問という側面からいきぬいた生涯。
本書は、七十四歳になってはじめてヨーロッパをおとずれた、
林の運転手役をつとめた著者による旅の記録。
西洋人より西洋文化に通暁していた人なのに、その最晩年にいたるまで、
かの地をふんだ経験がなかったというからおもしろい。
学問とは、ある種の遠距離恋愛のようなもので、
とおくはなれていたほうが情熱的にうちこめるのかもしれない。
書物のなかで神々しくかがやくヨーロッパは過去のものとなり、
ありきたりの観光地になるにいたって、
その文化的オーラもうしなわれたのだろうか。
無類の愛書家であるはずの林も、この旅では本屋めぐりを封印し、
一観光客として名所めぐりをたのしんだとか。
しかしこの旅行記には、ときにさびしげな碩学の横顔がしるされている。
かれはイタリアをめぐりながら、
ある時代のおわりをつげる鐘の音をきいていたのではないか。
それでもさすがは八宗兼学の大先生、物見遊山のなかでも、
独自の奥ゆかしい美意識を発揮する。
ローマではほとんど客のいないエトルリア美術館のドアをおし、
無名の作品のフォルムを玩味する。
そこでの話は注目にあたいする。
しきりに自分には骨董趣味はないことを強調していた。
むしろそうした趣味のもつ通俗性や気どりをきらっていた。
骨董趣味のある人には意外と悪人が多いというようなことを言っており、
例えば川端康成がそうでしたよ、などと実名まであげてくれた。
「小林秀雄はどうですか」とたずねられると、それには直接こたえず、
小林に百科事典の項目の執筆を依頼したら、
フランスの百科事典をそのままひきうつした原稿をおくってきた、
なんていかにもかれらしい逸話をかたる。
そんな会話からも、たのしげな道中だったことがわかる。
この旅には林夫人も同行していたのだが、
大学者の威光も、その連れあいには通用しない。
レオナルドの『聖アンナ母子像』をまえにした林は、
「世界=人類史を、『宇宙生成史』の気のとおくなるような
コンテクストに組みいれずにはいられないレオナルドが云々」とか、
自著でひろげた大風呂敷のただしさを確認してご満悦。
ところが夫人は、みたままの印象を率直にかたる。
これが「もつ」、「胎盤」なんですか。
ちっともそう見えないわ。
普通の石ころと同じじゃない。
学者って考えすぎだから、あまり当てにしない方がいいわよ、みなさん。
一行五人は気まずい雰囲気に。
さらに、ローマで待ちあわせをすっぽかした夫人に対して、
無言で怒りをあらわす林の態度もおそろしい。
このときかの女は、ホテルの窓からとびおりて死のうとおもったとか。
感情むきだしでいてこそ、観光旅行。
二十世紀後半に世界は駆け足で収縮し、
あこがれのイタリア・ルネサンスの傑作も、
やすっぽい喜劇の小道具のひとつと化してしまう。
そしていま、そういう世界にわたしたちはいきている。
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堀池巧、アイスホッケー、バルセロナ ― ウズベキスタン戦をみて

ワールドカップ・アジア最終予選 日本-ウズベキスタン
結果:1-1 (前半:1-1 後半:0-0)
得点者:
[日本]玉田圭司(前半40分)
[ウズベキスタン]シャツキフ(前半28分)
会場:埼玉スタジアム2002
[テレビ観戦]
きのうのテレ朝も、カクザワ・マツキ・エチゴの最凶トリオがそろいぶみ。
きくにたえない駄弁で日本代表の人気凋落に貢献していた。
ただ、ウズベキスタンが先制点をうばう予想外の展開のおかげで、
意気消沈したカクザワの口数がすこしへった気がする。
中央アジアの強国に感謝したくなった。
しかしいつもおもうが、サッカー中継でよく登場する、
いわゆる「ピッチサイドレポーター」ほど無益なものはない。
ましてや、国際Aマッチ五十八試合出場で二得点、
歴代最高の右サイドバックである堀池巧が、
最凶トリオの使いっぱしりをつとめるのを見るのはつらい。
オレの価値体系にもとづいていわせてもらうなら、
一九九三年のドーハでたたかった二十二人全員に対しては、
最大限の敬意がはらわれるべきだ。
テレビ朝日の仕打ちは、サッカーという競技への侮辱だ。
ちなみにマツキはAマッチ十二試合出場で得点なし。
堀池が露骨に格下あつかいされるいわれはない。
エチゴのブラジル時代の経歴はよくわからない。
十八歳でコリンチャンスと契約したといわれるが、
具体的な出場記録は不明だし、二十三歳で一度引退したのだから、
目ざましい活躍ではなかったろう。
日本では選手としてたった二年しか活動していない。
そのわりには随分とえらそうだ。
とにかく、かぎりなく優雅な守備の名匠だった堀池に、
肩肘はって余裕がないテレ朝はにあわない。
遠藤保仁の試合後の発言。
(前半にミスが多かった理由は)単純に技術的なミス。
ピッチが濡れていてパスがすごく速くなっていたので。
スポーツナビ・ウズベキスタン戦後選手コメント
わが代表チームは、芝をみじかく刈り、水をまいてボールをすべらせ、
円滑なパスサッカーで中央アジアの大男を翻弄しようとたくらんだ。
バルセロナみたいでカッコいいね。
しかし、それは練習場のなかだけで通じる策略で、
実際にすべったのは青いサムライ自身だった。
ツルツルと足をすべらせてはウズベク人にふっとばされる、
下手くそなアイスホッケーの試合をみせられるはめに。
まあ、アイスホッケー選手は氷のうえでも簡単にはころばないけれど。
世界中のほとんどのサッカーチームとおなじで、
現在の日本代表の理想像も『FCバルセロナ』にあるとおもわれる。
「何シーズンのバルサ」ではなく、象徴的な意味での「バルサ」。
うつくしく、攻撃的で、しかもつよいサッカー。
「サッカーはエンターテイメントだ」という哲学をもつ大木武コーチが、
日本代表をカタルーニャの崇高にみちびくのではないかと、
かつてはオレもすこし期待したものだ。
まあバルセロナは無理でも、「ヴァンフォーレ甲府」くらいならば。
しかし現実はきびしく、
岡田武史のサッカーは「コンサドーレ札幌」の水準にある。
甲府は大木がさったあとも3トップの布陣をしいているが、
岡田は、監督再任直後の練習試合でためしたくらいで、
公式戦で一度も「4-3-3システム」を採用していない。
前がかりの攻撃的布陣がきらいなのだろう。
オレが「札幌サッカー」とよぶ所以だ。
左ウイングに位置するバレーや茂原岳人を起点に、
ショートパスの洪水がピッチの四分の一をあらいながす、
狂気じみた「甲府サッカー」からはかぎりなくとおい。
それでも、ラインぎわでボールをもつとかがやく、
松井大輔が起用されたときだけ平衡は改善するが、
昨日は残念ながら出場停止処分中。
右の中村俊輔と左の香川真司が、
ノロノロと横パスを交換しながら九十分がすぎてゆく。
攻撃の工夫はせいぜい試合まえの水まきくらいで、しかも逆効果だった。
松井が華麗に敵をぬきさってからあげたクロスを、
ファーサイドの巻誠一郎がおりかえし、
つめていた小川佳純がボレーできめる、
なんていう場面をいつか見てみたいなあ。
岡田がベンチにいるあいだは、かなうことのない夢だが。
そういえば巻はベンチに席さえあたえられなかった。
アイスホッケー経験者のかれは、
すべる芝のうえでこそ活躍できただろうに。
前半二十八分の失点は、闘莉王のクリアミスが原因のひとつ。
最近はかれのケガの話題ばかりでうんざりしてしまう。
いまだに左サイドバックが人材難であることにも。
負傷の長友のかわりにでたのは阿部勇樹。
そもそも長友だって左の専門家ではない。
ケガ人に無理をさせた挙句、守備陣の弱体化をまねいていた。
悪循環だ。
たしかに、あたらしい選手の発掘・育成と、
メンバー固定による組織構築を両立することはむずかしい。
でも岡田さん、なぜあなたはそんなに余裕がないのか?
最終予選「グループ1」の日本は、J1のコンサドーレ札幌とはちがう。
世界で一番無能な監督にひきいられていたとしても、
この組みあわせなら七割以上の確率でワールドカップに出場できるだろう。
いずれにせよなんらかのリスクはついてまわるのだから、
未来に夢をたくすような選択をしなくてはならない。
もちろんそれは、わかい選手を起用しろという意味ではない。
たとえば内田篤人は、
「近視眼」の指揮官のお眼鏡にはかなっているようだが、
青いユニフォームと、八咫烏と、
日の丸をうけつぐだけの力量のもちぬしだろうか。
闘莉王のミスでセンターバックふたりが釣りだされ、
内田は警戒すべきシャツキフを見すごして、先制点をゆるす。
年齢はいいわけにならない。
ふたつの年代別の世界大会と東アジア選手権、
さらにはJ1と天皇杯の優勝を経験した選手なら、
無得点の前半二十八分に、どんな守備をするべきか理解しているはず。
温厚そうな堀池が、目のまえの内田に「もっとしぼれ」とおこるのも当然。
これが「コンサドーレ日本」のサッカーなのか。
ながながと悪口をかいてしまったが、
別に最終予選の前途を悲観しているわけではない。
おそらく二位で突破できるだろう。
それでもサッカー協会は、
イビチャ・オシムの復帰にむけて地ならしをすすめなくてはいけない。
いま、すぐにだ。
札幌とバルセロナをむすぶ直線上に、
甲府が存在しないことがあきらかになったのだから。
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わがままジュリエット ― ハルミチヒロ『恋をするのが仕事です。』

恋をするのが仕事です。
作者:ハルミチヒロ
掲載誌:竹書房『ビタマン』(2007年6月号~)
一巻表紙でほほえむヒロイン「沢村みのり」の、
さわやかなたたずまいにひかれて読みはじめたが、
なぜかそれ以来心にひっかかっている作品。
『ビタマン』はコンビニのアダルトコーナーによくおかれている雑誌で、
本作でも毎話律儀にセックスの場面がえがかれているけれど、
雑誌にも単行本にも「成年向け」のマークはついていない。
つまり正統派とエロのあいだのグレーゾーンで、
こうるさい検閲者の目をぬすみながらの商売だ。
わるくいえばどっちつかず。
男性読者の性欲処理への奉仕を義務づけられながら、
地下で暗躍するエロマンガ家たちのように、
過激な実験をためすこともできない。
でもそんな生ぬるい現場だからこそ、
類型にあてはまらない新風がふくこともあるのでは。
『恋をするのが仕事です。』の第一話は、同棲中の亮とみのりが、
新入社員として初出社するところからはじまる。
この設定は掟やぶりだ。
物語がはじまる時点で、すでにながい同居生活を経験しており、
これ以上たがいの恋愛感情がたかまる隙がないのだから。
のちに亮を誘惑する同僚があらわれ、
トライアングルができそうになるのだが、
まじめかつ鈍感な主人公は結局恋人ひとすじ。
物語はふたりの会社生活を中心にすすんでゆく。
のほほんとしているのに腹黒い「笑里先輩」、
新入社員組で一番の美人なのに無鉄砲な「相馬さん」など、
同僚たちもみな個性的で、会社コメディとしても中身がこい。

ヒロインの「沢村みのり」
こちらも性格はまじめで仕事熱心。
二巻の後半では、亮にちょっとした嘘をつかれてケンカになるが、
いうべきことを相手につたえたあとは、必要以上にキレることもなく、
関係修復を優先するような分別のもちぬし。
ボクたちのとなりにいてもおかしくないような、かしこくて常識的な女の子。
姿かたちがよすぎるという点に目をつぶれば、だけど。
それとなく流行をとりいれた衣装もはなやかで、
女流作家(おそらく)ならではの現実味があってたのしめる。
あまりにクセがなさすぎて、地味ともいえるけれど。
「萌え」とよばれたりする、ある種の文化のそばに位置する本作だが、
その内容を真摯によみくらべれば、
いわゆるオタク文化と正反対の方向をめざしていることがわかる。
アニメ・マンガ・ゲームなどにおける「萌え」は、
大抵のばあい男性がいだく、比較的よわい立場におかれる、
低年齢の女(おおくは少女)に対する性的衝動をよりどころにしている。
要するに、「女をオモチャにしたい」という感情。
しかし、いうまでもなくわがヒロイン・みのりは、
主人公がおもいどおりにあしらえる人間ではない。
過去と未来を、そして日常生活の瑣末なあれこれを共有する相手。
別にフェミニストを気どってるわけじゃないですよ。
特異な「萌え文化」に、
創作者、または鑑賞者として参加する女はたくさんいるし、
それを否定するつもりもない。
ただ、オレはありきたりのファンタジーがきらいなのだ。
自分はどちらかといえば助平なほうだとおもうが、
だからといって三百六十五日二十四時間、
性欲を優先させて生きているわけじゃない。
現実に他人をオモチャにすることなどできないし、
かりにできたとしても、それは時間と金と労力のムダで、
オモチャ屋がつくったオモチャを買ったほうがマシだとおもう。
そういう意味で本作の亮とみのりが、
「玩具」企業につとめているのが皮肉に感じられておもしろい。
「萌え」という名のセックスの楽園ではなく、
現実世界に足をつけたなかよしカップルの関係は、
職業上の都合で危機をむかえる。
実はふたりがそれぞれ職をえた会社は、
かつて企業スパイの問題をおこした宿敵で、
社員同士の交際は全面禁止、バレたらクビというきびしさ。
さらには亮が、
はからずもみのりの会社の情報を同僚にもらしたせいで、
いうにいえない袋小路にはまってしまう。
反目する組織の抗争によってひきさかれる、わかい恋人たち。
これは現代の『ロミオとジュリエット』だ。
モンタギュー家のロミオとキャピュレット家のジュリエットは、
家族の反対をふりきってひそかに結婚式をあげる。
ふたりの愛が両家の抗争をおわらせることをねがって。
まあ『恋をするのが仕事です。』が、シェイクスピアの名作のように、
主役ふたりのいたましい自殺で幕をとじることはないだろうが、
今後どんな展開をみせるのか興味ぶかい。
なんにせよ、エリザベス朝時代の観客と同様に、
マンガの読者の要求もワガママきわまりない。
それでも、エロや美少女といった毎月のノルマをそつなくこなしながら、
紋切り型からはずれたさわやかな物語を、さりげなく提示するハルミに、
好調なラブコメ作家ならではのしたたかさを感じる。
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やっぱり強敵 ― 『わが教え子、ヒトラー』をみて

わが教え子、ヒトラー
Mein Führer - Die wirklich wahrste Wahrheit über Adolf Hitler
出演者:ウルリッヒ・ミューエ ヘルゲ・シュナイダー シルベスター・グロート
監督:ダニー・レビ
(2007年/ドイツ/95分)
アドルフ・ヒトラーがすきだ。
そのダメなところが。
徒手空拳のまま政治運動にとびこみ、
生きいそぐように政敵からあらゆる権力をうばいとり、
みずからの能力をこえる諸問題に手をだした挙げ句、
すべてを台なしにしてしまう生きかた。
一方で、ひとりの人間に到底背負いきれないほどの責任をおしつけ、
ほろびの道をあゆんだ社会についても興味がある。
ヒトラーとナチス・ドイツは、例としては少々特殊すぎるけれど、
人間についてかんがえるためのわかりやすい標本だとおもう。
そして、人間そのものを研究する専門家である、
役者たちもオレの意見に共感してくれるのではないだろうか。
たとえば『ヒトラー ~最期の12日間~』でのブルーノ・ガンツは
名演だったとおもうが、それよりも、
得がたい研究材料をあたえられて役者冥利につきるとばかりに、
陶然と演じるガンツのすがたが見ものだった。
本作のヘルゲ・シュナイダーはまた別の流儀で独裁者にきりこむが、
これまたうらやましくなるくらい楽しげな仕事ぶり。
一九四四年、東西からの攻勢をうけて戦線崩壊寸前のドイツにあって、
宣伝大臣のゲッベルスは、
国民を鼓舞するためのパレードと演説をくわだてる。
だが病気がちになり、戦局不利で自信をうしなったヒトラーは、
とても群集の前にたてる状態ではない。
そこでゲッベルスは総統の自尊心を刺激する目的で、
わざわざ強制収容所からユダヤ人の演劇教授をひきずりだし、
力づよい演説のしかたを指導させる。
大胆な舞台設定にちがいないが、
教授役のウルリッヒ・ミューエの繊細な演技のおかげで嘘くささは感じない。
破滅が刻々とちかづく日々のなか、
右往左往するナチス・ドイツ高官のふるまいがわらいをさそう。
毒気と苦味がたっぷりの上質な喜劇だ。
ただ、ゲッベルスとヒムラーが共謀してヒトラー暗殺計画をねる、
なんて展開は悪ノリだと感じたし、
当時における「ドイツの良心」とみなされがちな、
軍需大臣シュペーアにはやっぱりあまいな、とおもったりした。
本作の「シュナイダー・ヒトラー」は、
世界の運命をになう悲壮感がただよう「ガンツ・ヒトラー」とくらべて、
滑稽味がつよくきわだっている。
でも演技手法の土台は、ガンツがきずいたものではないだろうか。
敗戦の全責任をとわれる立場を自覚しており、
側近に対してもつい弱音をはくが、
対話者の発言に非をみとめるやいなや憤激し、
ダミ声の悪罵が早口であふれだす。
かれの弁舌の能力がおとろえることはついになかったらしく、
誇りたかきドイツ軍人も、プロパガンダの天才も、
総統の怒りに接するとかりてきた猫のようにかしこまる。
そして史実上のヒトラーは、最後までドイツの敗北をみとめることなく、
地下壕でエーファ・ブラウンと結婚式をあげた翌日にふたりで自殺。
べつにヒトラーを賛美するつもりもないが、かれがいまだに人気があるのは、
穏当にいいかえるなら取り沙汰されるのは、
「まけなかった」からじゃないかな。
刑死したムッソリーニや東条英機とくらべれば、
その死にざまが水際だってみえるのはたしか。
膨大な数の人間に迷惑をかけたくせに、
やけあっさりと自分の人生にケリをつけた独裁者。
「ヒトラーとは一体なにものだったのか」という問いに対する解答は、
後世にたくされている。
もう半世紀かかっても一致しそうにないほど、
雑多な意見があるとおもうけれど。
特に世界各地のユダヤ人団体は、
だれかがヒトラーに言明するたびに過剰反応をしめす。
国際的な名優であるブルーノ・ガンツでさえ、
「ヒトラーを人間らしく演じすぎた」という不可解な理由で批判されたとか。
バカじゃないだろうか。
人間味皆無のただの怪物が、
十年そこらで最高権力者にのぼりつめるなんてありえないだろうに。
本作でヒトラーの相手役をつとめたミューエはよい仕事をしたが、
おしくも去年、五十四歳で急逝してしまった。
いろいろな面で、アドルフ・ヒトラーは手ごわい敵にちがいない。
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解像度72dpiのリアリズム ― IKa『P.S.すりーさん』

『P.S.すりーさん』
(GAME SIDE BOOKS)
作者:IKa(IKaのマホ釣りNo.1)
発行:マイクロマガジン社 2008年
かつて任天堂の社長だった山内溥は、
「娯楽の世界には天国と地獄しかない」とかたったとか。
この人はダンディというか、カッコいいセリフをはきたがる傾向があるから、
割りびいて聞きつつも、この業界の本質をつく見解だとはおもう。
単なるあそびを供給するためのおもちゃ箱に、
最先端の部品をつめこんで、洋の東西に頒布させることの困難さ。
そんなあやういバクチに参加する面々は、
世界最大級の家電会社と、世界最大級の金もち会社と、
ビデオゲームの代名詞となっているゲーム会社。
だれもが敵にまわしたくないような企業同士が、
血反吐をはきながら、たがいの市場占有率をけずりあう地獄。
世界中のリビングルームを、自社のマシンが征服するという天国を夢みて。
『P.S.すりーさん』は、
もともと作者のブログに掲載されていた四コママンガに、
書きおろしの作品をくわえて編んだ本。
ブログにのせていた分は、
Windows付属ソフトの「ペイント」でサラサラとかかれたため、
元データの解像度が72dpiと非常にあらく、
はじめてこの本をひらいたとき、
ひろく流通する書籍として成立しているのか疑問におもったほど。
自分のすきな数々のゲーム機を、
これまた大すきな美少女アイドルに見たてて、
ゲーム業界でおきた日々のできごとをネタに、
おもしろおかしい四コマに仕立てあげる。
それが一冊の本にまとまると、
波乱万丈の物語がうねりをあげるのがおもしろい。
ギザギザの描線も、よみすすめるうちに慣れてきて、
ブログを同時進行でたのしんでいたときの感興がよみがえる。
リアルタイムでえがきだされるゲーム市場の興亡は、
大方のゲームよりおもしろいかもしれない。
二〇〇七年三月に発売された『巌駄無無双』は、
売上苦戦中のアイドル「すりーさん」のために、
ヒットメーカーの「こーえーさん」と「ばんなむさん」が手をくんでつくった新曲。
IKaさんも当然この珍作をネタにするが、話はこれでおわらない。
同年十二月に、マイペースな「はこまるさん」にこの曲をとられ、
しまいには妹おもいの「つーさん」にまでたらい回し。
はこまるさんのステージをつらそうに見つめる、すりーさんの表情がせつない。
頭脳明晰なすりーさんは、売り上げにすこしでも貢献しようと、
自身の営業方針の改善策を理路整然と、レポートにまとめたりする。
ところがその直後に大事件が。
もともとすりーさんが歌う予定だった超人気曲『もんはん』が、
ライバルの「うぃーさん」にうばわれてしまう!
あわてふためく事務所にすりーさんはノコノコとあらわれて、
自分がかいた資料を見てもらおうとする。
よかれとおもってやったすりーさんに対し、
「分かったような口を利くな!! 金のことは我々に任せておけばいいんだ!!」と、
気が立っている社員が机をたたきながら怒鳴る。
茫然自失のすりーさん。
ここが本書最大の見せ場かな。
生き馬の目をぬくようなアイドル市場を制したのは、
老舗事務所の「でぃーえすちゃん」と「うぃーさん」。
このふたりも可愛いしオレはすきなんだけど、
どこか優等生で、ギャグマンガの登場人物らしい滑稽さはとぼしいかな。
むしろ作者が思いいれたっぷりにえがくのは、
すでにアイドルプロデュースの第一線から身をひいた「せがさん」。
「なんでですかっ あたしはまだやれます あたしはまだやれますっ」と、
すがりつきながら泣きさけぶ「どりきゃすさん」を見殺しにした、
二〇〇一年三月のせがさんの非情な決断。
豪放磊落なせがさんでも、脳裏からあの悪夢がきえることはないようだ。
そして、こじんまりとしたライブハウスで活動をつづける
どりきゃすさんの姿にほっとする。
そう、『P.S.すりーさん』の背景には、
ゲーム市場のバカげたから騒ぎに翻弄されるゲーマーの憂鬱がかくされている。
勤め人でもあるIKaさんが、かぎられた時間をやりくりしながらかいた本作には、
軽薄な宣伝合戦の洪水におしながされて消えそうななにかを、
形にのこそうという熱いおもいがつまっていて、
そこにオレたちゲーマーは感動させられる。
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はてしない戦場 ― ジョシュア・キー『イラク 米軍脱走兵、真実の告発』

イラク 米軍脱走兵、真実の告発
The Deserter's Tale
The Story of an Ordinary Soldier Who Walked Away from the War in Iraq
著者:ジョシュア・キー ローレンス・ヒル
訳者:井手真也
発行:共同出版 2008年
オクラホマ州、ガスリー。
著者の幼少期の逸話をよんでいると、
アメリカ南部の荒廃した風景がうかびあがる。
母親の所有するトレーラーにつぎつぎとやってくる三人の継父は、
みな例外なくアルコール依存症で、家族に暴力をふるう。
著者のかわいがっていた犬までころす。
女も子どもも、だれもが銃をもっていて、
ほんのはずみで自分の頭をふきとばして死んでしまう。
男は大抵ひどい人種差別主義者で、
黒人やアジア人をまえにするとぶつぶつと呪いのことばをはく。
そして、いつかまた北部と南部のあいだに戦争がおきて、
世界はすこしだけマシになるだろうと、真顔でかたりあう。
文なしで医療保険もなく、歯の治療もできない人間が、
それを提供してくれる軍隊にひかれるのは自然のなりゆきだ。
軍務をつとめあげたあと、溶接工としての正式な教育をうければ、
アリ地獄のような経済的苦境からぬけだせるはず。
陸軍は、そんな貧乏人のよわみ、
さらにわかさゆえの無知ににつけこもうとする。
著者であるキーは、入隊しても戦闘義務をおいたくなかったので、
「非戦闘配備対象基地」なるものにおもむくことを前提に、
2002年4月、陸軍と契約をむすんだ。
そしてかれは、パットン大将がひきいたことで有名な、
第三装甲騎兵連隊に属する第四十三戦闘工兵中隊に配属される。
「非戦闘配備」なんていうものはもちろん軍の勧誘者のウソッパチで、
イラク戦争開戦から三週間後、中隊は戦場へとぶ。
あり体にいえば軍、さらには政府にだまされたわけだが、
一旦契約した以上それにさからうことはできない。
イラクでは中部のラマディ、ファルージャなどの「戦場」におくりこまれる。
周知のとおり、戦争らしい会戦などおこりはしない。
空爆によって破壊された市街地を、狙撃や手榴弾におびえながら、
徒歩の一列縦隊でパトロールする。
駐屯地は毎晩のように迫撃砲で攻撃される。
敵兵がいるとおぼしき場所に見当をつけて家宅捜索をおこなうが、
家全体を解体するいきおいでさがしても、痕跡はなにもない。
ただオクラホマのガスリーとおなじで、
イラクのほとんどの住居にはカラシニコフ銃や手榴弾があった。
はじめのうちは片っぱしから押収していたが、
きりがないので一家族あたりカラシニコフ一挺は所持をゆるされることに。
バカげた話だ。
悪夢のような毎日のなかで、兵の士気はみるみると低下し、
市民に対して暴力や略奪をはたらくようになる。
ついには、戦闘員ですらないイラク市民の死体の頭部をボールがわりに、
わらいながらサッカーに興じるアメリカ兵のすがたをみて、
著者の国家への忠誠心は霧のようにきえうせてしまう。
休暇をあたえられて、一時的に帰国した著者は後遺症にくるしみだす。
酒におぼれ、つねにだれかに襲撃されるのではないかとおびえ、
買いものにでかけることすらできない状態に。
ふたたび戦場にもどるか、それとも牢獄にいれられるか。
とうとうかれは、妻と子どもをつれて逃亡することをえらぶ。
それは、かれなりの正義にもとづく決断らしい。
1945年から1946年にかけて、ナチスドイツの戦争犯罪人たちが
ニュルンベルク裁判で裁かれたとき、ひとつの重要な原則が確立された。
それは、人道的選択が可能であった場合には、
上官の命令に従っただけだという主張によって、
個人が国際法に対する責任を免れることはできない、というものだ。
だからぼくには、自分がしたことに対して責任がある。
上官の命令や軍法よりも、良心のほうがおもい。
だから、軍にもどりイラクで罪のない市民をころすことより、
困難ではあっても逃亡者としていきのびようとする。
現在はカナダにおちのび、難民認定をまっているそうだ。
この生き方がただしいかどうか、だれも判決をくだすことはできないだろう。
ただこの聞き書きの書物をよんでいると、
周囲のものごとに対するキー元上等兵のするどい観察眼が感じられ、
優秀な兵士だったことがわかる。
だからこそ、自分のなかの良心の声を信じ、
祖国をすててまで、孤独なたたかいをつづけられるのにちがいない。
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テーマ : 政治・経済・時事問題
ジャンル : 政治・経済
かなしき修学旅行 ― 井上章一『日本に古代はあったのか』

日本に古代はあったのか
(角川選書)
著者:井上章一
発行:角川学芸出版 2008年
だれがきめたのかはしらないが、
オレの中学、高校の修学旅行はおさだまりの奈良・京都。
にきび面の旅人たちと、
古ぼけた建築や薄気味わるい仏像のくみあわせ。
あうわけがない。
龍安寺の超モダンな石庭はあざやかだったが、
全国各地の中高生でごったがえす境内はさながら動物園で、
ながめをたのしむ余裕もなくイライラさせられた。
千葉から京都くんだりまでつれられて、
なんでこんなスクラップを見なければならないのか。
津田左右吉は奈良時代の仏像のことを、
「異国の物」、「人間界を離れた怪物」といったそうだが、
まさにそのとおり。
感覚的にうけいれることができない異物だし、
どうやっても親しみをおぼえようがない。
あんなものを「偉大な国宝」、「日本文化の根源」と宣伝したところで、
少年少女に対しては説得力がとぼしすぎる。
本書は「古代-中世-近世-近代」という、
西洋の時代区分を無批判に日本史にもちこんだ学会を批判し、
中世を起点として歴史をかきなおそうという興味ぶかい提案。
著者の国際日本文化研究センターの同僚である
ドイツ出身のリュッターマン氏も、
日本史の時代区分に疑問を感じているとか。
日本人の研究者は、
日本にも古代があったと思いたがっているんじゃあないでしょうか。
かがやかしく偉大な古代が、日本にもあった。
『万葉集』や『源氏物語』は、すばらしい古代の産物だ。
日本人はそんなふうに位置づけたがっているんじゃあないかと、私は感じます。
蒙をひらかれるおもいがした。
「日本の偉大なる古代文明」というプロパガンダがデッチアゲだとすれば、
修学旅行で感じたフラストレーションの説明がつくからだ。
ながい中世のほんの一時期の、特定地域のできごとや遺産が、
歴史のなかで必要以上の特権的地位をしめているのではないか。
はじめて西洋にあわせて日本史を、
古代と中世にわけて叙述しようとこころみたのは、
原勝郎の『日本中世史 第一巻』(1906年)だとされる。
王朝をローマ、東国をゲルマンになぞらえて、
武士が隆盛した鎌倉時代以降を中世と位置づけた。
なにも無理して歴史まで西洋にすりよらなくてもよいとおもうのが。
かがやかしきローマ帝国になぞらえて、
わが畿内にめぐまれた政治・宗教・文化的権威があたえられた。
もちろん関東人は野蛮な夷狄となる。
しかしみやびなるわが王朝を、
アフリカからブリタニアまでを支配し、
法律、交通路、度量衡などを整備統一した
大帝国に見立てるのは無理がありませんかね。
日本の文化は、権威で他国をおどしつけるような、
帝国主義的ふるまいがにあわないとおもう。
たしかにローマは西洋の中心だったかもしれないが、
すくなくともオレは奈良・京都に対して、求心力も遠心力も感じない。
実はこれまでの要約は著者の主張から意図的にずらしている。
京都でうまれそだった井上の歴史観はあまりに畿内にかたよりすぎ、
均衡をうしなっているとかんがえるからだ。
まあオレは根っからの野卑な関東人なのでおゆるしねがいたい。
しかし、著者の結論にまったく同意できなくても、
ときに知見がひろまることがあるのが本のよいところ。
おもうに、日本史の時代区分はふたつで十分ではないだろうか。
明治以前が「日本1」で、大正以降が「日本2」。
この区分法にしたがえば、わが国の歴史叙述から中心が取りのぞかれ、
あやしげな権威をまえにしてフラストレーションをためることもなくなる。
中高生の旅行先も、劇的に選択肢がふえるにちがいない。
![]() | 日本に古代はあったのか (角川選書 (426)) (2008/07/11) 井上 章一 商品詳細を見る |
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うつくしき妥協の産物 ― 『アイアンマン』をみて

アイアンマン
Iron Man
出演者:ロバート・ダウニー・Jr グウィネス・パルトロウ ジェフ・ブリッジス
監督:ジョン・ファヴロー
(2008年/アメリカ/125分)
冒頭の場面。
…って、オレはいつも映画の導入部から話をはじめてるな。
まあ作り手が一番力をいれるところだし、
すぐれたファーストシーンは、あとにつづくすべての場面を予感させるような、
その映画の象徴になることがおおい。
アフガンで軍高官に対する新兵器のプレゼンテーションをおえた帰りの、
軍需企業CEOのトニー・スターク(ロバート・ダウニー・Jr)が、
ハンヴィー(軍用の四輪駆動車両)のなかでわかい兵士たちと会話をかわす。

M1114ハンヴィー。
自虐ネタ、下ネタ、自慢、(女兵士に対しての)お世辞やらが、
若社長の口から自社のミサイルよりすばやくとびだして、
戦地にある若者の緊張をやわらげる。
兵器のプレゼンをする姿はカリスマ的で、
アップルCEOのスティーブ・ジョブズさながらだ。
ついに大企業の社長がヒーローになる時代がきてしまった。
わかくて、大富豪で、天才発明家で、見た目がよくて女にもてる。
しかもスーパーヒーロー。
まあ男の夢ですな。
運動能力に若干の不安をいだいてしまうが、
その辺は自作の戦闘用スーツでうめあわせる。
隙がない。
普通、映画の主人公は弱点をかかえていたり、
逆境におかれることで観客の共感をかちとるのだが、
トニー・スタークにその手の可愛げはまったくない。
しかし、演ずるロバート・ダウニー・Jrは饒舌なタイプの役者なので、
あふれだすセリフの洪水で、
反発心をもたれるまえに観客をまるめこむ。
うまいとはおもうけれど、あやうい綱わたりだ。
「トニー死ぬな!がんばれ!」と素直に応援しづらいオレがそこにいる。
くだんのハンヴィーはアフガンのゲリラに襲撃されるが、
兵器屋をまもるために応戦した兵士たちはどうだろう、
心のなかで疑問を感じながら死んでいったのではないか。
企業経営者に知りあいがいないので偏見かもしれないが、
かれらはたったひとりで悪とたたかうために命をかけたりしないとおもう。
このあつかいづらいヒーローを世話するためにやとわれたのが、
社長秘書ペッパー・ポッツに扮するグウィネス・パルトロウ。
うつくしくかつ有能で、通常業務の補佐以外にも、
おそらくトニーの自宅に同居し、私生活の管理までまかされている。
トニーがつれこんだ女を翌朝においだすのもかの女のしごと。
女に「ゴミすてもわたしの役目ですから」と嫌味をいったりして。
嫉妬心をほのかにのぞかせるグウィネスに、ひさしぶりにドキリとした。
ところで「グウィネス」って名前は日本語になじまないので、
これからは「パルさん」とよぶことにします。
そんなパルさんの、上司のまえでは女の顔は一切みせない、
マジメな勤務態度に好感をおぼえた。
ところがとびいり参加したパーティ会場で、
青いドレスをきた秘書のすがたにトニーは色めきだち、
かの女を強引にダンスにさそう。
「こんなドレスをきて、汗どめもつけずに上司とおどるなんて…。
同僚に絶対誤解されます、困ります」とあわてるパルさんがかわいい。
トニーが正義にめざめるにしたがって、
パルさんの衣装と態度がすこしずつ大胆になる。
あくまですこしずつ。
はじめは髪はアップにしたり後ろでたばねて、
かっちりしたスーツで身をつつんでいたのが、
次第に体の曲線がみえる服になり、ラストではノースリーブ。
綺麗なブロンドもみせてくれるように。
たたかう男にひかれて女が奔放になるのか、
男をその気にさせようとして女が誘惑するのか。
両方かな。
いずれにせよ、寸どめのロマンスがエンジンとなって、
物語がじわじわと高潮してゆく。
極端にはしらない大人のムードに、あか抜けた趣味を感じる。
映画をみるかぎり、
トニーは経営上の雑務は幹部のオバダイアと秘書にまかせきりで、
自分は地下室で大すきな機械いじりに没頭。
そして地下室には秘書しかはいれないので、
実質的に経営者としての窓口はパルさんだけということになる。
だから、会社がオバダイアに支配されていたこともしらず、
痛い目にあうのもあたりまえだ。
それに女あそびの後始末を女秘書にさせるなんて趣味がわるいよね。
あまったれのダメ男という気がする。
パルさんもパルさんで、重用されるのをいいことに、
ダメ社長に意見ひとついわず忠節をつくしたのは問題だ。
出世のためにわりきっていたのかもしれないけれど。
パルさんはわすれがたい『セブン』のヒットと、
共演者であるブラッド・ピットとの婚約およびその解消の話題で、
一躍セレブの仲間いりをはたした。
その後は大女優を意識したような発言と作品えらび、
さらには本人の中途半端な演技力が原因で、
生ぬるい職歴をつんでいるようにおもえる。
「アクション映画のおバカなヒロインなんてやってらんないわ」
とおもっていそうなパルさんの最新作は、典型的なアメコミ超大作。
子どもがうまれて職業観がかわったのだろうか。
でもかの女のぬきがたく地味なひととなりは、
アクション映画の脇役のほうが映えるような気がする。
そんな年相応の妥協のおかげで、
大人のロマンスと派手なアクションが一度にあじわえる傑作がうまれた。
男も女も、そして発明家もCEOも兵士もハリウッド女優も、
毎日妥協をくりかえしながら人生をいき、
恋をしたり人をころしたり世界をすくったりする。
そう、大人だから。
なんてすばらしいことだろう。
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有為転変ジェフ千葉 ― 第28節・浦和戦をみて

J1 第28節 ジェフユナイテッド千葉-浦和レッズ
結果:3-2 (1-1 2-1)
得点者:
[千葉]深井正樹(前半0分、後半12分)、ミシェウ(後半21分)
[浦和]田中マルクス闘莉王(前半8分)、エジミウソン(後半41分)
会場:フクダ電子アリーナ
[テレビ観戦]
おもく足をふみしめると砂ぼこりがまうフィールドで、
試合はあれ気味にはじまった。
開始直後のドサクサにまぎれた深井の得点のあと、
最後尾が持ち場であるはずの闘莉王がゴールまえに飛びこんで同点。
点数が均衡をとりもどしたのをきっかけに攻防もおちつくかとおもったが、
本拠でたたかう菜の花の色の十一人はさらに牙をむく。
左の谷澤、右の深井は、ボールをもてばすかさず面前の敵におそいかかる。
水野と山岸がいたころにくらべても遜色ない気迫だ。
そういえばこのチームには羽生、佐藤勇人、水本なんかもいたのだ。
随分むかしのようにおもえるが、去年の話。
巻誠一郎はあいかわらず最前線でいけにえとなり、
居場所をあたえられたミシェウがときおりたくみなわざを披露した。
闘莉王の股間をとおした三点目は最高。
はじめてみたけれど、線はほそいがたのしい選手だ。
深井の得点をたたえるミシェウの表情をみると、
チームにもすでに順応しているようだ。
還暦まぢかのスコットランド人であるアレックス・ミラーは、
五月の時点で跡形もなくくずれていたクラブの基礎をたてなおした。
かりに二部に降格したところで、
だれもその直接的責任を後任監督にとうことはできないような、
ひどいありさまだったけれど。
ミラーは、坂本、ボスナー、池田、青木の四人による堅牢な守備を構築し、
単純なウイング主体の攻撃を徹底させた。
さらに、八月に加入したばかりの深井とミシェウも有効活用している。
特に深井からは五試合で四得点をひきだしており、みごとな用兵だ。
両翼の深井と谷澤のドリブル突破は魅力にあふれているが、
守備時に対面の敵をおいかける執念もみごたえがある。
しつこく後ろからすがりつく谷澤にひきたおされた平川が、
おこるわけでもなく目を白黒させていたのが印象的だった。
オシム時代は個人戦術におもきをおくテクニカルなサッカーをめざしていたが、
いまにしておもえばあれは一種の理想形で、
わかいころは数学教授になりたかったという話もきく、
オシムの鋭敏な頭脳があってこそなりたつようにおもう。
何にせよ、リヴァプールからきたイギリス人の合理的で明快な戦法は、
地力で上まわるはずの浦和をくるしめていた。
赤い両翼がおしこまれたことで攻撃は
ポンテ、エジミウソン、高原の三人だけでつくるハメになり、
有機的な連携はみられなかった。
ときおり相馬、平川、山田がドリブルでスルスルと抜けだすこともあったが、
ふかい位置からの散発的な攻撃では威力にとぼしい。
千葉のほうはポストにぶつけるシュートが二発あったし、
勝利にあたいする試合はこびだったことはまちがいない。
まえに「オレは3-5-2がきらいだ」とかいたことがあるが、
今シーズンのJリーグはこの戦術を採用するチームがへっている。
ヨーロッパのモードが浸透し、
攻撃専門のウイングによる攻めが主流になったため、
サイドの守備が不安定な3バックの布陣が駆逐されたようだ。
しかし、浦和はACLを制した昨シーズンの成功体験が枷となり、
流行の変化に適応できていない。
サッカーはなんともむずかしい。
開幕後の十一試合で九敗二分けという地獄に足をふみいれた千葉は、
逆にそれが改革の好機となり、いつの間にかべつのチームにうまれかわった。
オシムが指揮していたころの千葉も大すきだが、
いまのクラブはそれよりもおおきな変化をみせている。
役割分担が明確になったチーム戦術のなかで、
選手たちは闘争心をむきだしにしながら攻撃をしかけ、
労をおしまず相手のボールをうばおうと走りまわる。
前社長・淀川隆博によりクラブそのものが完全に破壊されたことで、
ファンは結束力をたかめていままで以上に大声をはりあげる。
五井にスタジアムがあったころはあわれなほど客がはいらず、
ユース出身選手が毎週のようにふぬけたプレーをしていたものだが。
はえぬきの主力選手が流出し、なじみのない新顔がふえるにつれ、
かえってクラブのアイデンティティが強固になってゆくのがおもしろい。
関連記事:淀川隆博が売りのこしたもの
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アドレナリン物理学 ― ジョアオ・マゲイジョ『光速より速い光』

光速より速い光 アインシュタインに挑む若き科学者の物語
Faster Than the Speed of Light
The Story of a Scientific Speculation
著者:ジョアオ・マゲイジョ
発行:NHK出版 2003年
次の引用は『ライ麦畑でつかまえて』からではありません。
一流大学につとめる現役の物理学者による、宇宙論の本です。
もしあなたが、宇宙論の研究者は誰にも邪魔されることなく
胸躍る知的世界に生きているのだろうなどと考えているなら、
そんな幻想はすぐに捨ててもらいたい。
現実には、われわれが食いつないでいけるかどうかは、
研究資金を管理している恐ろしく官僚的な機関にかかっているのだ。
そういう機関を牛耳っているのは、
とっくの昔に第一線を退いた元科学者たちときているから、
研究機関は絶大な権力を振るうばかりで、
知的な意味では粗大ゴミ置き場でしかない。
著者であるマゲイジョはポルトガル出身の理論物理学者。
1967年うまれ。
インフレーション理論の欠陥を解決するため、
「光速度一定」という相対性理論の基礎をゆるがす、
革新的な「光速変動理論(VSL)」を提唱した。

こんな人。
で、このハンサムなラテン男が、
自分の理論をひろく世にしらしめるために書いたのが本書だが、
筆は本来の目的からすぐにそれ、
数学ができるホールデン・コールフィールドが顔をだす。
そこで僕は、研究費申請書類のことを
「クソじじいの存在証明書」と呼ぶことにしている。
というのも、僕の見るかぎり、申請書の唯一の目的は、
寄生虫のための必要物資を作ることだからだ。
まともな研究をやめてしまった元科学者たちを入れるための
老人ホームを誰か作ってくれないものだろうか。
書類仕事が苦手なオレはおおいに共感。
ジョアオ先生、ついには現在の勤務先である、
インペリアル・カレッジの管理者まで槍玉にあげる。
僕はときどき、あの棟のスタッフと建物に対して
壊滅的なテロ攻撃を加えてやろうかと思う。
そうすればインペリアル・カレッジの平均知能指数が著しく上昇し、
結果として、教育と研究の質も高まるだろう。
テロ予告…逮捕されるぞ。
ここまで書いてもクビにならないのだから、
イギリスの大学は包容力があるなと逆に感心したり。
エントロピー増大の法則にのっとって熱的死につきすすむこの世界で、
オレはあえておなじ本を何度もよみかえす習慣をもたないが、この本はべつ。
よむたびに腹がいたくなるほど笑える宇宙論の本なんて、
ひろい宇宙にこの一冊だけだろう。
著者がケンブリッジの院生だったころ、かれの前には三つの選択肢があった。
ひも理論、素粒子物理学、宇宙論。
ひも理論はデータがまったくなく、あるのは思弁的理論だけ。
素粒子物理学はデータがあまりにも多すぎ、創造的なしごとの余地がない。
それに対して宇宙論は、現実の世界にしっかり根ざしながら、
基本的な問題が未解決のままのこされていることが魅力的だったそうだ。
なるほど、専攻はこうやってえらぶものなのか。
実験による検証が可能な分野をえらんだから、
自分の理論がまちがいだと証明されることも当然ありうる。
なにぶん敵が多い人がかんがえた学説なので、
VSL理論が撃墜されるのを心まちにする研究者もいるらしい。
それに対してジョアオ先生、
「たとえVSLが失敗しても、僕はもっと過激なアイディアに再挑戦するだけ」
と言いはなちます。
ラテン男にはちょっとかなわないですよね。
あらゆる学説は、その最大の批判者によってもっともよく理解される。
というわけで、本書の前半は相対性理論のわかりやすい解説書になっている。
アインシュタインの業績に対する解釈も独特でおもしろい。
かれは1905年に発表した特殊相対性理論に満足することはできず、
重力をあつかう一般相対性理論を見いだすために、十年をついやした。
一般相対性理論を追求するアインシュタインの苦闘は、
まさに大人の悪夢だったろう。
一般相対性理論をついに完成させた当時のアインシュタインの写真を見れば、
そこにはぼろぼろに疲れはてた男の姿がある。
その相貌は、長きにわたる血みどろの知的戦いを終え、
戦場から出てきたばかりの男のそれである。
戦果は上々で、かれが重力理論の最終版を水星軌道に適用したところ、
観測されるバラの花形の運動を精密に説明することができた。
「自然」がかれにかたりかけてきたのだ。
アインシュタインは究極のアドレナリン漬けになり、
数日のあいだ夢のような恍惚感にひたりつづけた。
しかしマゲイジョは、一般相対性理論の成功こそが、
アインシュタインをだめにしたと過激なことをいう。
わかいころのかれは、実験で検証できないものを排除する方針にもとづき、
絶対空間、絶対時間、エーテルなど、
当時の物理学を停滞させていた空想を一掃した。
だが年をとって神秘主義の誘惑にまけたかれは、
「数学的な美」こそが、科学者にただしい道をさししめすと信じるように。
こんにちの量子重力にとりくむ科学者たちも、
現実とのつながりをうしなった、
晩年の不毛なアインシュタインをあがめる傾向があるらしい。
アインシュタイン相手ですらこうだから、現代の同業者なんてメッタ斬りだ。
『ネイチャー』といえばイギリスの権威ある科学雑誌で、
知ったかぶりの立花隆が絶賛しているのをみたことがあるが、
実情は結構おそまつなものらしい。
特に宇宙論担当の編集人はとびきりのバカで、
その判定がしめされた査読結果は専門家にとって爆笑物だそうだ。
科学誌の査読者というのは、文芸評論家や学芸員とおなじ人種、
すなわち「科学者のなりそこない」で、
おおきな権力とにがい挫折感をかかえているため一層タチがわるいとか。
論文をのせてもらえなかったヒガミともいえるが、
このアナーキスト気質がよんでいて実にたのしい。
最高なのはやはりひも理論の研究者への悪口。
著者にいわせると、かれらは実験による検証からにげ、
実在しない仮想的理論をいじくるだけのインポ野郎ということになる。
「M理論」の命名法について。
この言葉を作ったカルトリーダー[引用者註:エドワード・ウィッテンのこと]は、
Mが何を意味しているかを決して明かさなかったため、
M理論家たちはその重要問題をめぐって議論を交わしている。
マザー(mother)のMなのか?
膜(membrane)のMなのか?
どうせなら、マスターベーション(masturbation)のMと言ってくれたほうが
僕には納得がいくのだが。
ひも理論家のかたがたすみません、これはボクの意見ではありませんよ。
あくまで引用です。
「ひもの神の恩寵により、われわれはエレガントな宇宙にすむことができる」
などと主張する思いあがったひも理論家に対しては、
粒子ではなくひもばかりの世界を創造してほしい。
毛だらけの宇宙がそんなに美しいだろうか?
と嫌味をいう。
これはたしかにそのとおりだな。
自然のたえなる歌声に耳をかたむけることをわすれ、
神経系がアドレナリンにみたされるよろこびもしらない生きかた。
アインシュタインですらおちいった罠をさけながら、
わたしたちは生きてゆけるのか。
ポルトガルの異端児が情熱をこめて書きあげた本書をよんでいると、
そのするどい知的能力の一端にふれることができ、
オレは物理学者ではないし、微分積分の初歩すらわすれたけれど、
自分の交感神経が活発化してゆくのを感じる。
翻訳はよみやすく装丁もカッコいい名著なのだが、現在は絶版なのかな。
それだけが残念。
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