どきどき文学裁判! ― 森鷗外『青年』

どき魔女

青年

著者:森鷗外
(明治四十三年三月から四十四年八月まで、「スバル」に連載)
[ちくま文庫版で読了]


『青年』には夏目漱石を原型とした作家「平田拊石」が登場し、
主人公・小泉純一のまえで講演をおこなう。
立派な紳士にえがかれているのが意外というか。

少し古びた黒の羅紗服を着ている。
背丈は中位である。
顔の色は蒼いが、アイロニイを帯びた快活な表情である。
世間では鴎村[引用者注:鷗外がモデル]と同じように、
継子根性のねじくれた人物だと云っているが、どうもそうは見えない。
少し赤み掛かった、たっぷりある八字髭が、油気なしに上向に捩じ上げてある。
純一は、髭というものは白くなる前に、四十代で赤み掛かって来る、
その頃でなくては、日本人では立派にはならないものだと思った。


自分の無知をはじることのおおい毎日だが、
鷗外の小説に漱石が顔をだして主人公と対決する劇的場面があったとは!
三十代から四十代なかばにかけての鷗外の創作活動は停滞し、
小説家としてもっとも重要な時期を無為にすごしていた。
しかし明治四十一年の漱石の『三四郎』が鷗外の士気をたかめたらしく、
かれにとってはじめての長編小説にいどむことになる。
『三四郎』はまよえるわかき知識人の目をとおして、
明治末期の社会のすがたをえがきだした作品。
ヨーロッパ小説っぽくて相当新鮮だったみたい。

話題に上っているのは、今夜演説に来る拊石である。
老成らしい一人が云う。
あれはとにかく芸術家として成功している。
成功といっても一時世間を動かしたという側でいうのではない。
文芸史上の意義でいうのである。
それに学殖がある。
短篇集なんぞの中には、西洋の事を書いて、
西洋人が書いたとしきゃ思われないようなのがあると云う。


大分ほめてるが、自分なら漱石よりよい物が書けるというおもいがあっただろう。
オレは古今東西の書物に通じているし、
医者や官吏の職をつとめあげる強靭な知性もある。
漱石なにするものぞ。
しかし文学界の両巨頭の対決はあっけなくおわる。
拊石先生はイブセンについてなにやらしゃべったあと、
ぶらりと座布団にもどったら、それきりで閉会。
もったいない!
総理大臣みたいな名をもつ主人公をけしかけて議論にもちこめば、
どれほど刺激的な挿話になっただろう。


山口県出身の小説家志望の青年・小泉純一は、
東京をぶらぶらしながら仲間とヨーロッパ文学談義に花をさかせる。
この小説、やたらと議論がおおい。
はっきりいって退屈だが、よくいえば『吾輩は猫である』のような
学者風の余裕を感じさせる。
文体も漱石を意識したのかどうかよくわからないが、
鷗外流のかわいたハードボイルドタッチに、
内面にふかくしずみこむ影がさしてよみごたえがある。
ヨーロッパ文学を範とし、五歳年下の漱石にその応用をまなび、
鷗外が書きたかったこととはなにか。
セックスだ。
ポルノ小説だ。
軍医としての地位をのぼりつめ、家庭生活も充実している男が、
睡眠時間をけずってまで創作にはげんだのは、
おのれの性的衝動に命じられていたからだ。
小説のなかでなら、オレは本当の自分でいられるはず。


知識人の世界においては、文学作品が純一と未来の恋人をつなぐ。
「文学=セックス」がこの共同体の公式だ。
有楽座にイブセンの劇を見にいった純一は、
スカンクの襟巻をした奥さんにであう。
イブセンさまさまだ。
切れ長の目にたっぷりと媚びをくわえたこの未亡人は、
ヨーロッパ流に青年を自宅にさそう。

「あなたフランス語をなさるのなら、
宅に書物が沢山ございますから、見にいらっしゃいまし。
新しい物ばかり御覧になるのかも知れませんが、
古い本にだって、宜しいものはございますでしょう。
御遠慮はない内なのでございますの」
前から識り合っている人のように、少しの窘迫の態度もなく、
歩きながら云われたのである。


山の手ことばが新劇風で結構でなくって。
未亡人という設定にやや不満を感じるけどね!
それこそ欧州の流儀で人妻にしないとつまらない。
まあ鷗外の立場上、姦通物はさすがに無理かな。
銃後の妻に対する兵の不安をあおる将校はおりません。
そしてフランス文学が、純一の性欲を厳粛に肯定する。
本をかりるために根岸の陰気な屋敷をおとずれ、
ラシイヌをかえすという名目で夜中にまたあいにゆく。

己は部屋を出るとき、ラシイヌの一巻を手に取りながら、こんな事を思った。
読もうと思う本を持って散歩に出ることは、これまでも度々あった。
今日はラシイヌを持って出る。
この本が外の本と違うのは、あの坂井夫人の所へ行くことの出来る
possibiliteを己に与えるというだけの事である。
行くと行かぬとの自由はまだ保留してあると思った。
こんな考えは自ら欺くに近い。
実は余程前から或る希求に伴う不安の念が、次第に強くなって来た。
己は極力それを卻けようとした。
しかし卻けても又来る。
敵と対陣して小ぜりあいの絶えないようなものである。


また青空文庫からの安易なコピペでだれも読んでいないとおもいますが、
まあ主人公が己の色欲にふりまわされて葛藤しているわけです。
でも、この人結局なにもしないんですよね。
「奥さんが敵に見える」とかいいはじめて。


鷗外先生、どうも逮捕されるのがこわかったみたい。
執筆開始の前年の明治四十二年に
『ヰタ・セクスアリス』を掲載した「スバル」が発売禁止の処分にあい、
翌年五月、すなわち『青年』の連載中に幸徳秋水などの社会主義者が
検挙される「大逆事件」がおこる。
ポルノと社会主義はなんの関係もないはずだが、
発禁作家・鷗外にとっては他人ごとに感じられなかったようで、
四十三年十一月には『沈黙の塔』という、
政府による言論弾圧を批判するヘタクソな風刺小説を書いている。
そしてはやくも翌四十四年一月、逮捕者のうち二十四名が死刑判決をくだされ、
幸徳秋水ら十一名が同月に処刑されてしまう。
やべえ、オレもころされる…(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
というわけで、『青年』は同年八月にぷつりと中絶。
猥褻図書がまずければセックスシーンぬきで完成させればよいのだが、
そもそもエロがかきたくて長編に手をつけたのだから、
鷗外先生にとってこれ以上つづける意味がないのです。


小説家というのはワリにあわないしごとで、
その作品は未来の読者からぶしつけに批評される。
藝術家はその時代、その環境に束縛されながら活動するのだが、
その鎖が消えうせた後世の人間にかれらのくるしみは理解されない。
小説家に治外法権は適用されないのだ。
百年まえの作家が、きょうの法律でさばかれる。
でもあえていうのだけれど、鷗外は『青年』を完成させるべきだった。
どんな駄作だって、未完より完結の方がよいにきまっている。
本作では「利他的個人主義」なる鷗外の商標となる思想が展開されるが、
どうしようもなく偽善的な主張といわざるをえない。
鷗外先生は、自作の読者のことすらかんがえていないんだもの。
オレは『青年』の文体がすきだ。
明治四十四年の末に連載された、これまた未完の第二のエロス長編『灰燼』も。
だからこそ、書きたいことが自由に書けなくても最後まで我慢してほしかった。
こんな不甲斐ない男がわが国を代表する文豪とされているけれど、
過大評価もいいとこではないかなあ。


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(1995/07)
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