よつばと大和撫子 ― あずまきよひこ『よつばと!』

よつばトラック

よつばと!

作者:あずまきよひこ
掲載誌:月刊コミック電撃大王(2002年3月~)


むかし犬をかっていたとき、毎日の散歩が結構苦痛だった。
でもいまでは、いつもおなじ道筋をまわっていただけなのに、
しあわせそうにしっぽをふって歩く飼い犬のうしろ姿がなつかしい。
凡庸な感覚しかもちあわせない人間には想像もつかないが、
犬にとって町は無限の情報がつまっている宝の山。
そして本作の主人公、小岩井よつばをみるといつも犬を連想する。
その敏捷なうごき、人なつっこさ、
しっぽのように感情をしめす後ろ髪はもちろん、
自分にとってあたらしい物事にすぐに夢中になる、
貪欲な好奇心こそがよつばの個性。
あと、レストランのメニューをみながらよだれをたらすような、
食い意地のはっているところもおかしい。
動物園や牧場にゆくと野生がよびさまされ、突然ヤギやヒツジをぶんなぐる。
そういう意味で、よつばはマンガ史上最強のヒロインかも。
かの女はちょっと人なみはずれている。


四コマで名をうったあずまきよひこは本作ではじめて長編にいどんだが、
話のながれのなかで空間をきりとるみごとな力量を証明した。
取材に相当な時間をかけ、大量の写真をもとに作画をしているようだ。
人物の表情やしぐさもフォトリアリズムの意識でとらえているから、
ギャグのコマの効果が一層たかまっている。
この緻密な画力に匹敵する作品は、
ジャンルはちがうが真刈信二と赤名修による『勇午』くらいのものだろう。
繊細な感情表現に目をむければ、『よつばと!』のほうが上だ。
おもしろいのは身長107cmのよつばをファインダーからのぞくと、
風景は自然にかの女の視線と一致すること。
ありふれた地方都市が、
子どもの目線でいききとかがやきだすのが本作の最大の魅力。
上の画像は知りあったばかりのよつばと恵那が、
トラックの荷台にすわってセミとりにでかける場面。
「なんだか違う町みたいに見える」とつぶやく恵那が印象的な、
作品中の白眉といえるほどうつくしい一コマだ。


男手ひとりでそだてられているよつばは、
三人姉妹がいる隣りの綾瀬家に毎日のようにいりびたっているので、
本作は変則的な四姉妹物ということになる。
『若草物語』とか『細雪』とか。
姿も心もうつくしい娘たちの日常は平凡だけどはなやかで、
丁寧につづられる感情の交流をおってゆくのがたのしい。
四兄弟物語ではこうはいきません。
小学四年生でもっとも年齢がちかい恵那が
よつばの相手をつとめることが多いのだが、
まったくこの娘はかしこくて健気で可憐ですばらしい。
たくましいよつばの行動は周囲の年長者を翻弄するけれど、
恵那は大抵の場合やさしい笑顔でそれをうけとめる。
かの女は自然科学に関心があるらしく、巨大なカエルにも動じず、
つったばかりのニジマスを平気でさばき、天体観測にだれよりも没頭する。
そんな好奇心のつよさがよつばと共鳴するのだろうか。


しかし、むこうは史上最強のヒロイン。
簡単にはりあえる相手ではない。
たとえば、
よつばがレンタルビデオ屋の「いろんないきもの」コーナーでうたう鼻歌は、
「ぼーくらはみんなー いーきていーるー
いきーているから つらいんだー」
という毒々しいもの。
悪意がないゆえの破壊力がおそろしい。
緑色の髪をもつ人種不明の五歳児は、
第三話ではやくもその超人哲学を表明する。
恵那から地球温暖化問題と節電の重要性をおそわったよつばは、
帰宅してすぐ、だいすきなとーちゃんにむかって
「みそこなった!!」と泣きながらさけぶ。
とーちゃんが地球の敵だったなんて!
いま一世を風靡する環境思想の偽善性をコケにしていて爆笑ものだが、
しかしこれでは教授した恵那の立場がない。
異世界からの使節の受け入れ担当者、それが綾瀬恵那の役目だ。
全人類の平和と道徳と科学が破壊されるのか、
それともこのキュートなエイリアンを大和撫子にしたてることができるのか。
すべては恵那のちいさな肩にかかっている。
よつばの苗字である「小岩井」は、有名な牧場をおもいおこさせる。
最初はよつばの動物性を象徴しているとおもっていたが、
じきに人間の家畜性をあざわらう命名なのかとうたがうようになった。
『よつばと!』はかわいいキャラ満載の心あたたまる物語だけれど、
世界のおわりを予感させる毒気にみちた問題作でもある。


よつばと! (1)よつばと! (1)
(2003/08/27)
あずま きよひこ

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スピリチュアルしょこたん

中川平山
http://blog.excite.co.jp/shokotan/2837910/

女の友人から、「今度わたしの友だちと飲みにいかない?」とさそわれたとする。
「いいよいいよ。で、どんなコなの?」
「えー、すっごいかわいいよ!」
さて、あなたはかの女の発言を信用できますか?
無理ですよね。
「女は、自分よりかわいい女を『かわいい』とはいわない」
というゆるぎない法則があるから。
そこにライバルへの嫉妬や競争心があるのはまちがいない。
ただ、サルの群れの生態を観察した本に書いてあったのだけど、
メスには、群れのなかの上下関係をきらう傾向があるらしい。
要するに「美人ザルとブスザル」という階級をなくすため、
自分より不器量な女を「かわいい」と評価して地位を上昇させ、
よりフラットな社会をきずこうとする活動なのだ。
われわれオスザルはその戦術に攪乱させられる、というわけ。


だが、しかし。
中川翔子OFFICIAL BLOG『しょこたん☆ぶろぐ』の
2007年6月21日更新の記事は、この原則にあからさまに反している。

平山あや女神様キタ━━━━(゜∀゜)━━━━━キタ━━━━(゜∀゜)━━━━━
ギザウツクシスwwwww天使wwww女神wwwww女神転生wwwwビューティwwww(´;ω;`)(´;ω;`)
ギャァアアアア━━━━━━━━━━

しょこたん☆ぶろぐ : あやあやっ?!

美醜の基準は人それぞれであることを前提に話をすすめるが、
しかし、おめめパッチリでスタイル抜群の平山あやの方が、
中川翔子より「かわいい」と断定してさしつかえないだろう。
実際のところ、個人的に平山あやはあまり好きなタイプではないので、
この判定は客観的といっていいはず。
あれあれ?
このふたりはほぼ同年代の同業者。
いわばおなじサル山の住人だ。
なのにしょこたん、上位のライバルを「女神」「天使」とあがめたてまつっている。
これではアイドル社会をフラット化するどころか、格差社会になってしまう。
コイツの頭はどうなってるんだと不思議におもい、しらべてみたのです。



『個人授業~正しい和田アキ子の作り方~』(2006年10月4日放送)

上の動画は削除されるかもしれないが、
抱腹絶倒まちがいなしなのでぜひ見ておいてほしい。
中川が和田アキ子に「ヲタク学」を講じるという趣向。
かの女は2004年11月にブログをはじめ、そのオタク趣味が一部で話題に。
2005年からは『王様のブランチ』にレギュラー出演し、一般での知名度も上昇。
そんなブレイク間近のいきおいで大先輩にいどむ。
涼宮ハルヒのコスプレで登場する冒頭から圧倒的なテンションだ。
若干噛みつつも全速力で講義をすすめるしょこたんに、アッコもおされぎみ。
圧巻なのは、「ツンデレ」なる語をしらないアッコに対し、
指をつきつけ「あんたバカァ?」とかますところ。
まあ台本どおりなのかもしれないが、そのなりきりぶりがアッパレだ。
「涼宮ハルヒ」というキャラ設定をかりることで、
「芸能界のご意見番」を水平な舞台にひきずりおろす。
ああ、これこそがフラット化戦術だ。
挙句のはてに三番目の動画では、アッコに綾波レイのコスプレをさせた上で、
『エヴァンゲリオン』のセリフをいわせるという、
おぞましい映像記録を後世にのこすことに成功。
新番組開始ということで、体をはって奮闘する和田もたいしたものだが、
みずからの趣味を前面に打ちだしながら、
芸能界のきびしい序列をかきみだすしょこたんの兵法が、
諸葛亮孔明のように図にあたっている。


中川翔子につづけとばかり、
自分のオタク趣味を宣伝するタレントがふえているのに、
それがかの女たちの知名度向上につながらないのは、
家元の真の目的を理解していないからだ。
しょこたんは趣味にいきるという人生のありかた、
そして美をもとめる精神の伝道者なのだ。
平山あやのうつくしさをブログで激賞したのは、
その感動を大勢とわかちあいたいという気もちのあらわれ。
かの女の哲学をまなぶこともなく、
自分がいかにオタクであるかをアピールしているだけでは、
視聴者になにもうったえることはできないだろう。
社会的地位や経済力にもとづく格差はどんな場所にも存在し、
それを消しさることはできない。
だが、精神よりも金にたかい価値をおく人生など、いきるに値するのか。
審美眼をみがく努力をおしみ、
うすっぺらい流行をおいかけながら年老いてゆくことのむなしさよ。
そう人々にといかけているという意味で、
しょこたんは美輪明宏の再来だといえる。
まあ、天草四郎のうまれかわりを自称する美輪もいまだに現役だけど。
そんな美の女神の巫女の神託に耳をかたむけているうちに、
平山より中川の方がかわいくみえてくるのが不思議だ。
これが巫女の呪術なのか。
ほら、もう一度上の画像を見なおしてみよう。
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中央線フロンティア ― 井伏鱒二『荻窪風土記』

中央線

荻窪風土記

著者:井伏鱒二
初出:昭和五十七年 新潮社
[新潮文庫版で読了]


井伏鱒二が荻窪に引越してきたのは、昭和二年の初夏。

その頃、文学青年たちの間では、電車で渋谷に便利なところとか、
または新宿や池袋の郊外などに引越して行くことが流行のようになっていた。
新宿郊外の中央沿線方面には三流作家が移り、
世田谷方面には左翼作家が移り、大森方面には流行作家が移って行く。
関東大震災がきっかけで、東京も広くなっていると思うようになった。


早稲田通りぞい、新宿区と中野区の境界のボロ屋にすむ
三流ブロガーのオレは、ある種のしたしみをおぼえずにいられない。
大地震が町なみを破壊し、金融恐慌の嵐がふきあれる昭和初期の東京は、
文士にとってすみやすい場所だったのかどうか知らないが、
なんにせよどこかに住処をもとめねばならない。
さらに荒廃した都市の瓦礫のしたから、
左翼運動の芽がいきおいよく伸びてゆく。
うわついた流行の尻をおうほど器用でもなく、
政治にのめりこむほど青くさくもない井伏は、
「オレが左翼になってもよいのか」と兄をおどして金をかり、
しずかな郊外に家をたてて住みつくことに。


文学青年も左翼でなければどうにもうだつが上がらぬ時節を、
どうにかやりすごすうちに、わが国は見とおしの暗い戦争にむかって舵をきる。
人気の劇作家だった弟子の伊馬鵜平も検閲になやまされるのだが、
なぜか母親が検閲官と何度も面会して交渉する逸話がほほえましい。
しかし世の潮流がはげしくとどろくなか、
井伏ひとりだけが超然としているのが不気味だ。
昭和十六年。

いつ戦争になるのかと、びくびくさせられる日が続いていた。
私は将棋と釣に凝るようになって、まじめに原稿を書くようなことはなくなった。
釣場へ行って糸を垂らすと、不思議に原稿のことが気にならなくなる。
釣の師匠の佐藤垢石が「童心宿竿頭」という美辞麗句を教えてくれた。


なにせ「三流作家」だからお上に楯つくなどかんがえもしなかったろうが、
戦時中にもっとも創作の熱がたかまった太宰治とは随分と対照的だ。


大学にはいりたての津島修治、すなわちのちの太宰治は、
井伏にだした手紙に返事をもらえなかったことに怒り、
かさねて「会ってくれなければ死んでやる」と書いてきたそうだ。
本書には太宰との釣りの思い出なども書いてあるが、
全体的に歯切れがわるくおもしろくない。
お洒落な太宰のジャワ更紗の下着の話は、
かれの見栄っぱりで意固地な性格がつたわるけれど。
井伏は早世した弟子に対して、
三十年以上も罪悪感をかかえていたのだろうか。
中央沿線というフロンティアで山椒魚のように川底にひそみ、
のらりくらりときびしい時代を最後までいきぬいて、
戦後の出版文化の隆盛のなかで名声をほしいままにする。
太宰の死についても、中島健蔵がかれから宿借りをしていれば、
「少なくとも自棄っぱちの女に水中に引きずり込まれるようなことはなかったろう」
などと、どこか他人行儀の口ぶりがむなしくひびく。
釣り糸をたらしながら、戦後の井伏は水面の下になにをみていたのか。


荻窪風土記 (新潮文庫)荻窪風土記 (新潮文庫)
(1987/04)
井伏 鱒二

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神の声を織ったタペストリー ― 『ウォンテッド』をみて

タペストリー

ウォンテッド
Wanted

出演者:ジェームズ・マカヴォイ アンジェリーナ・ジョリー モーガン・フリーマン
監督:ティムール・ベクマンベトフ
(2008年/アメリカ/110分)
[新宿プラザ劇場で鑑賞]


素顔という假面をかぶり、まったく別の人格としてふるまう。
そして「アクション!」のかけ声のあと、カメラのまえではじまる猿芝居。
そんなわけのわからない自分のはたらき如何で、
ウン千万、ウン億ドルの投資が水の泡ときえることもある。
役者という商売のことなんですけどね。
まともな神経ではつとまらない稼業だ。
見聞をもとにいわせてもらうなら、芝居のうまい役者に「善人」はいない。
毎日嘘をつきつづけることで生計をたてる職業なのだし。
で、オレがアンジェリーナ・ジョリーが苦手なのは、
多分かの女がいい人だからなのだろう。
いそがしい日程の合間をぬってユニセフの親善大使をつとめる、
黒柳徹子級の感心な芸能人でもある。
でも大根なんだよね。
顔だちが派手すぎて周囲との均衡をみだすことが多いし、
繊細な感情を表現することも不得手だ。
オレは性格がわるくても、演技のうまい役者がすきです。
かれらとつきあうのはスクリーンの前だけなのだし。


『ウォンテッド』でもアンジーさんは、いつもとおなじ巨大な目、
ぽってりした唇、自己主張がはげしすぎる肢体。
あたりまえだけど。
だけどこの作品のアンジーはよい!
だって全然しゃべらないんだもの!
立っているだけで十分存在感があるから、セリフなんていらないのです。
クールな立ちまわりに専念してくれたおかげで、安心感がある。
かの女の出演作ですきなのは『トゥームレイダー2』なのだけど、
職人ヤン・デ・ボン監督はあの作品でも、
アンジーから無理に感情表現をひきだそうとしなかった。
要するに適材適所ってこと。
超リアルなCGだとおもえば、
だれが何といおうとアンジーさんの肉体は一級品です。


しかし、脇役がしゃべらなければ物語はすすまない。
そこで登場するのが神の声をもつ男、モーガン・フリーマン。
ここぞという場面で長広舌をふるい、活劇に奥ゆきをあたえます。
演説する場はみっつ。
・主人公を暗殺者の組織に勧誘
・本作のウリである「まがる弾道」の解説と実演
・大団円で、部下を煽動
ホントうまいなあ。
荒唐無稽な筋書きも、モーガンの口からかたられると真実としてひびく。
まるで芳醇なワインを舌さきでころがすように、
ことばが不思議なリズムと色あいをもって流れだす。
じわじわと作品世界のなかに引きこまれる。
かれの存在で、B級映画がAとBの中間くらいに格上げされた。
アンジーの体とモーガンの声が、優雅なハーモニーをかなでる。


監督はティムール・ベクマンベトフ。
こちらの記憶力に挑戦するかのような名前だ。
上記のふたりへの演技指導でもすでにただ者でないことがわかるが、
作品全体でも演出の趣向がゆたかでおどろかされる。
本作の土台は1999年の『マトリックス』と『ファイト・クラブ』だろう。
抑制のきいた殺陣と映像美は『マトリックス』。
その一方で、突発的な暴力と巧妙な仕掛けは『ファイト・クラブ』。
まあ今世紀初頭の映画の教科書どおりにつくりました、
という見方もできるかな。
旧ソビエト・カザフスタンうまれの監督は、縦糸と横糸を丁寧に織りかさねて、
精緻なタペストリーをつくりあげた。


織物の中心となる主役についてかたっていなかった。
ジェームズ・マカヴォイは、はじめは気弱でうだつの上がらないサラリーマンで、
冒頭のおデブの女上司の鬱陶しい誕生会の場面から、
滑稽な演技で観客の心をがっちりとつかんでいた。
そこから、ネズミ爆弾で敵のアジトに突入する最後の大立ち回りまで、
ゆるみなく突っ走る熱演だったとおもう。
最近のアクション映画は大抵ラストシーンにちかづくにつれて失速し、
結局だれとたたかっていたのかすらわからなかったりする。
本作のジェームズ君は、精強な組織、極悪非道のボスを相手に、
最後までたたかいぬいたというだけでもエライ。
『ウォンテッド』は、本年度マイベストテン入選確定の傑作だ。
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太宰治という救世主 ― 『お伽草紙』を読んで

空襲

お伽草紙

著者:太宰治
初出:筑摩書房刊、昭和二十年
[岩波文庫版で読了]


米軍機の空襲下、高射砲のうなり声がひびく防空壕のなか、
五歳の娘に絵本をよみきかす作者の意識の奥で、物語がつむがれてゆく。
きびしい言論統制がしかれた戦時中なのに、
太宰の創作活動はむしろ活発化し、いくつかの最高傑作がうみだされた。
常識的にかんがえれば、戦争という憂鬱な現象を目のまえにすれば、
作家は声高に「つくり話」をかたる意欲をうしなうものだろう。
かれは何をまもるために何とたたかっていたのか。


本作は日本の昔話に題材をもとめるよっつの寓話をあんだ短編集。
「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切り雀」という選考だ。
だれもが知るおとぎ話に現代的解釈をくわえたパロディというよりは、
室町以来かたりつがれてきた物語のなかに、
日本人の原型をみつけようとする探求のこころみと読みとれる。
「瘤取り」は、コブをとったりつけたりするだけでつまらないが、
さすがは太宰、巻をすすむごとに熱がたかまってゆく。
「浦島さん」でえがかれる浦島太郎は旧家の長男で、
先祖伝来の恒産をもっているがゆえに、
その道楽は次男三男の酒乱のごとくムキなものではなくて、
あくまでゆかしく礼儀ただしい。
しかしそんな浦島さんも、竜宮での自由気ままな生活に飽き、
陸上のまずしい生活が恋しくなる。

お互ひ他人の批評を気にして、泣いたり怒つたり、
ケチにこそこそ暮してゐる陸上の人たちが、たまらなく可憐で、
さうして、何だか美しいもののやうにさへ思はれて来た。


そこは大地主の六男坊としてうまれた太宰治、
ケチくさい日常を自虐的にえがきつつも、それへの愛着はかくしようもない。


「カチカチ山」からはいよいよ本領発揮だ。
兎は十六歳のうつくしい処女で、不器量な中年男の狸が、
無邪気な小悪魔に一方的に翻弄されるという物語。
太宰にいわせると、「青春の純真」ほど残酷なものはないそうだ。
その是非はともかく、
比較的穏健なできごとしかおこらない日本の民話のなかで、
ひときわ異彩をはなつ「かちかち山」の解釈として説得力がある。
まあ、処女ならしょうがない。
太宰はこの話を自分なりに概括する。

或いはまた、道徳の善悪よりも、感覚の好き嫌ひに依つて世の中の人たちは
その日常生活に於いて互ひに罵り、または罰し、または賞し、
または服してゐるものだといふ事を暗示してゐる笑話であらうか。


「浦島さん」で展開されたリフレインがここにも。
わが国でもっとも陰惨な物語が、
死にぎわで「惚れたが悪いか」とさけぶ狸の哀切な喜劇に昇華する。


最後の「舌切り雀」にいたると、もはや自由自在に換骨奪胎の腕をふるう。
感情の交流をうしない、惰性が生活のすべてをしめている老夫婦。
ところがある日、亭主が浮気をしていると勘ちがいをしたお婆さんが、
唐突に嫉妬にくるい、お爺さんのあそび相手である小雀の舌をぬいてしまう。
洗濯につかう糊がどうこうという話のはずが、
実に低級な痴話喧嘩を挿入してしまう奇抜さにおどろいたり。
そのあと物語は周知のとおりにすすみ、
おおきな葛籠をかかえたお婆さんが災難にあう。

それから、どのやうなことになつたか、筆者も知らない。
 たそがれ時、重い大きい葛籠を背負ひ、
雪の上に俯伏したまま、お婆さんは冷たくなつてゐた。
葛籠が重くて起き上れず、そのまま凍死したものと見える。
さうして、葛籠の中には、燦然たる金貨が一ぱいつまつてゐたといふ。


きっかけがつまらない口論であるがゆえに、
その死にざまは「カチカチ山」の狸以上にせつない。
そしてあざやかだ。
市井にいきるひとびとの平凡で退屈な日常と、
ときに感情的になっておろかなふるまいをする姿を、
太宰は手なれた語り口でえがいている。
うんざりするほど単調でも、かぎりなくいとおしい、
われわれの「暮らし」を破壊する戦争への怒りがそこにある。
つめたい防空壕のなかで絵本を読みきかせながら、
太宰はうつくしい自分の「世界」をまもろうとした。


お伽草紙・新釈諸国噺 (岩波文庫)お伽草紙・新釈諸国噺 (岩波文庫)
(2004/09)
太宰 治

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キヨスクで林檎は買えるのか ― 西岡研介『マングローブ』

新宿

マングローブ テロリストに乗っ取られたJR東日本の真実

著者:西岡研介
(2007年/講談社)


スイカやエキナカで業績好調のJR東日本の内情を告発する。
JR東労組には過激派の革マル派がマングローブの根のように浸透し、
同社の経営の中枢を左右するまで成長してしまった、と。
いうまでもなく鉄道会社は、
わたしたちの日常生活の安全に直接かかわる公共性の高い企業であり、
この暴露本の内容は心胆をさむからしめるに十分だ。
東労組組合員のイジメは相当にあくどい。
対立する組合の運転手をいびるため運転席のうしろの窓にはりつき、
乗客の目のまえで「ヘタクソ」と怒鳴りあげる。
挙句のはてには、対向電車からのパッシング攻撃や信号隠しまで。
こんなのに巻きこまれて事故にあうのはまっぴらご免だ。
だがしかし、末端の連中の騒ぎなどささやかなもの。
どうやらJR東日本は根元から腐っている。


この問題には、中曽根内閣時代の政治状況がかかわっている。
中曽根は「国鉄分割民営化」を改革目標のひとつとしてかかげたが、
それは国鉄の巨額債務を解消すること以上に、
日本最大の労組である国鉄労働組合(国労)をつぶすことに目的があった。
要するに、旧社会党の支持基盤の総評を解体したかったのだ。
そして敵の敵は味方というわけで、国労の力をそぐために、
革マル派の幹部とみなされていた松崎明と手をむすぶ。
以前は国鉄当局とはげしく対立していた松崎だが、
組織温存のため方針を急転換し、分割民営化路線に追従。
政府・与党と松崎は手と手をたずさえ、
「目的のためには手段をえらばず」という禁断の果実を口にする。
当然、「転向者」となった松崎の組織は対立セクトの中核派から攻撃され、
七人が死亡、女をふくむ七人が重傷。

(略)それだけに松下氏[引用者注:松崎の懐刀]を失ったときの
松崎の悲しみは大きく、訃報を聞いて松下氏の自宅に駆けつけた松崎は、
人目も憚らず、それこそ獣のように、慟哭していました。
あんな彼の姿を見たのは後にも先にもあのときだけでした」
(JR東日本高崎支社関係者)


しかし愛弟子の葬儀で松崎は奇妙な弔辞をよむ。
すでに犯行声明をだしている中核派について言及することなく、
影の権力を呪うあやしげな陰謀論をとなえたという。
そこで中核派の名をだせば、
自分たちがいまだに革マル派であると認めることになる。
だから口をつぐむ。
仲間が殺されたときでさえ。
そうやって権力という麻薬は人の精神をむしばんでゆく。


松崎は自分の息子に「さつき企画」という会社をまかせ、
組合員四万九千人相手の「商売」で私腹をこやした。
その金でハワイや沖縄などに何軒も別荘をたて、
「元革命家」とはおもえない富豪のような生活をしているらしい。
もはや民間企業となったJRなのだから、
組合の問題は自力で解決しなければならない。
しかし、革マル派を利用してまでJR発足後の「労使協調」をすすめた、
松田昌士などの経営者はテロリストの跳梁をはばめなかった。
なにせ相手は反政府活動に従事する過激派だ。
鉄道屋をゆするなど、赤子の手をひねるのと同じかもしれない。
盗聴が得意な革マル派だから、金や女の醜聞でおどしたりもしただろう。
1994年に『週刊文春』が「JR革マル派問題」をとりあげたとき、JR東日本は、
子会社のキヨスクでの販売を拒否するという行動にでる。
同誌のキヨスクでのあつかいは約十一万部におよび、
文藝春秋は強硬手段に音をあげて「お詫び」記事を掲載する。
鉄道会社を「民営化」したら「極左暴力集団」に屈従したという皮肉に、
地獄のカール・マルクスも苦笑いをうかべていることだろう。


みなさんも金と女にはくれぐれも注意しましょう。
JR東日本初代監査役の柴田義憲は、警察庁警備局長をつとめ、
「公安捜査の神様」とまでいわれた人物。
労組から過激派を排除することを期待されてJR東日本に就職したはずが、
著者によるとミイラとりがミイラになってしまったらしい。
革マル派の盗聴による不都合な会話の録音があったといわれ、
それが原因なのか、柴田は不自然なまでに革マル派をかばうようになる。
警察首脳部に対し「松崎の転向は本物だ」、
「JR東日本に治安上の懸念はない」と繰りかえし発言し、
公安捜査の混乱をまねいた。
そして部下を次々にひきつれて、JR東日本は警察OBの格好の天下り先となる。
さすがにこれはヒドすぎる。
保守政治も共産主義革命も公安警察も、その理念は経年劣化し、
個人の欲望と組織防衛だけがうごめくカルト集団と化す。
あまりにも醜悪で非現実的ですらある告発だが、
JR東日本からの有効な反論がないかぎり、
本書に書かれている大部分は事実だとみとめざるをえない。


マングローブ―テロリストに乗っ取られたJR東日本の真実マングローブ―テロリストに乗っ取られたJR東日本の真実
(2007/06/19)
西岡 研介

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ジャンル : 政治・経済

超大作ミートボールスパ ― 『ハンコック』をみて

ミートボールスパ

ハンコック
Hancock

出演者:ウィル・スミス シャーリーズ・セロン ジェイソン・ベイトマン
監督:ピーター・バーグ
(2007年/アメリカ/92分)
[新宿ジョイシネマ3で鑑賞]

※注意!本エントリもさりげなくネタバレしています!


いきなりで申しわけありませんが、インタビューからの引用です。

君の言う通り、本当に毎日ものすごい量の映画の脚本が送られてくるんだ。
その中から、「これ!」という一本を選ぶのは大変なんだけど、
いつも探しているのはビッグなアイデアだね。
セリフを一つ言えば、どんな人でも観たくなる……そんな映画だよ。
例えば『ハンコック』なら、“アル中のスーパーヒーロー!”(笑)。
この一言を聞いただけで、人はこの映画を観てみたくなる。
わかるだろ?
『アイ・アム・レジェンド』は、“地球最後の男”。
すぐにでも人の興味を引き付ける。
だから作品を選ぶときは、必ずコンセプトを大切にしてるんだ。

『ハンコック』ウィル・スミス 単独インタビュー

2007年のハリウッドの稼ぎ頭であるウィル・スミス(「フォーブス」調べ)。
世界中の俳優の嫉妬を一身にあつめる境遇にあるわけだが、
脚本の山にうずもれて生活するのも楽ではないかもしれない。
どの話がオレの個性にあってるかな?
ヒットする可能性がたかい脚本はどれかな?
おもしろい作品になりそうなシナリオは?
わかるわけがない。
東京の低収入者であるわたくしも結構ながく映画をみてますが、
何度も予告編をみて、ヤフーのユーザーレビューを熟読しても、
劇場にゆくまで作品の出来なんてわかりません。
ましてや、ただの紙っぺらでその判断をつけるなんて!
「コンセプト」重視で脚本をえらぶスミス氏ですが、
すこしかんがえすぎなような気がします。
かれの友人であるトム・クルーズ氏が、
サイエントロジーとかいう新興宗教にはまっているのは有名ですが、
親しいスミス氏までとばっちりをうけて信仰をうたがわれたりしました。
いろいろとハタ迷惑な性格のクルーズ氏ではありますが、
この人の出演作をえらぶ感覚のするどさは神がかりです。
「トム・クルーズが殺し屋? え~、大丈夫かな」と半信半疑で出かけたあと、
そのあまりのカッコよさに酔いしれながら映画館を後にしたり。
多分直感でえらんでいるのでしょうね。


本作のウィルは「アル中のスーパーヒーロー」に扮しているが、
残念だが到底ハマリ役にはみえなかった。
たしかに興味ぶかい「コンセプト」ではある。
超人的な能力の持ちぬしが、せせこましい人間社会に適応できるだろうか。
おそらくもの珍しさゆえに疎外され、結局いじけた性格になってしまうはず。
それでも広報の専門家をやとってメディア対策をおこなえば、
まっとうなスーパーヒーローに更正できるかも。
うーむ、すでにこの四行で理念だおれの気配が…。
それに自分がお酒がすきだからわかるのだけど、
四六時中ダラダラと酒をのんでくらしていたら、
ウィルみたいな引きしまった肉体は維持できません。
周囲から白眼視されるあまり性格が卑屈になったという設定も無理がある。
なぜって、この役者は愛嬌がありすぎて嫌われ者にみえないんだもの。
そういう意味では『ハンコック』の台本は、
ジェイミー・フォックスの手もとにとどいた方がよかったかな。


シャーリーズ・セロンの役は、さえないPRマンの奥さん。
アメリカ合衆国に足をふみいれたことはないが、町内に身長177cmで、
モデル体形の金髪美女の主婦がゴロゴロころがっていないことは断言できる。
シャーリーズ奥さまは、夕飯になんとかスパゲッティとかいう、
ミートボールがたっぷりはいったトマトソースのスパゲッティをふるまうのだが、
ママの自慢料理に旦那と子どもは大満足。
だけど、これがまたマズそうなんだ!
なんでもミートボールスパはかの国の定番メニューだそうで。
ボク、日本のお母さんに産んでもらってよかったよ。
とはいえ、南アフリカがうんだ名花シャーリーズと、
アメリカの大味な家庭料理という取りあわせはなかなかの珍味。
そして、かの女も超人だと判明したあとのドタバタが一番おもしろかった。
本当は怪力のくせに、「ジャムの瓶があけられないわ」とかいって
非力アピールする女心がかわいらしい。
本作は『Mr.&Mrs. スミス』を意識してたてられた企画だとおもうが、
紋切り型のアクション場面をほどほどにおさえてオシャレなコメディにしあげた、
ダグ・ライマン監督の職人藝までは見ならわなかったようだ。
どこかでみたようなCGと、いい加減な殺陣に上映時間をくわれて、
役者同士の掛けあいによる芝居のうま味が犠牲になった。
コンセプトや配役はわるくないのだが、
素材がミートボールのように皿の上にころがっている感じ。
まあ、これが平均的なアメリカ料理の味なのかもしれないけれど。
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市役所が日本文化を防衛した ― 『パソコンは日本語をどう変えたか』

美文字

パソコンは日本語をどう変えたか 日本語処理の技術史

編者:YOMIURI PC編集部
(2008年/講談社ブルーバックス)


コンピューターによる日本語処理技術の発展を追った本。
書名は日本語の変化との因果関係を分析したと受けとれるし、
「言葉への影響を追う」と背表紙にも書いてあるが、
残念ながら看板に偽りありだ。
それには言語学や文学研究の専門家による調査が必要だが、
まあ要するに、「PCは日本語をほとんどかえなかった」が事実だろう。
それでも興味ぶかい話はおおく、言葉についてかんがえさせられた。


戦争にやぶれて傷ついた日本人は反省猿モードにはいり、
過去のあらゆるものを否定した。
日本語もその標的のひとつで、えらい人たちは大マジメに
「漢字があるから日本語は世界に通用しない」
「コンピューターであつかえないような文字はダメ」
などと気炎をあげた。
そういう見苦しい戦後のドサクサにまぎれておこなわれた、
文部省による「国語改革」に比べたらかわいいものだが、
計算機屋もわが国の文化をその毒牙にかけようとする。
1970年代後半、メインフレームむけの日本語処理システムの開発がはじまり、
日本IBMと富士通が先陣をあらそった。
しかしコンピューター市場の中心だった日本IBMの「4300」シリーズは、
カタカナのみで漢字をあつかうことができない。
低級な文化の低級な文字ですから、
最先端のマシンにのせる必要などないのです。
コンピューターを手にいれる代わりに、
日本人が漢字をすてる未来もありえたのではないか。


発表されてからしばらくは買い手がつかなかった、
漢字をあつかえる富士通の「JEF」を導入したのは、
ベッドタウンとして人口が急増していたころの大宮市だった。
プリンターもふくめて、漢字の入出力ができるシステムを構築するには、
大体一億三千万円ほどかかったらしい。
しかし戸籍や住民票には、いまではつかわれない漢字が沢山のこっている。
役所は漢字を固有名詞として大量にあつかわねばならないので、
民間より行政のほうが漢字に対する意識がつよいのだ。
また、文部省が日本語を破壊した一方で、
住民の生活にじかに接する地方自治体が、
日本の歴史・文化をまもることに資産をついやす実情がなんともおもしろい。
アメリカでは表計算ソフトがPCの普及をあとおししたといわれるが、
日本は複雑な漢字をより簡単にうつくしく使いこなすことのできる、
「一太郎」などのワープロソフトがその役をになったというのが定説だ。
そこから単純に結論をみちびくなら、アメリカ人は金勘定が大すきで、
日本人はうつくしい言葉をおもんじているということになる。
市役所の職員ではないわたしたちも、
その信条に恥じないよう精進したいものだ。


パソコンは日本語をどう変えたか (ブルーバックス 1610)パソコンは日本語をどう変えたか (ブルーバックス 1610)
(2008/08/21)
YOMIURI PC 編集部

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哲学するより昼寝しよう ― フリーマン・ダイソン『叛逆としての科学』

シャルトル大聖堂

叛逆としての科学 本を語り、文化を読む22章
The Scientist as Rebel

著者:フリーマン・ダイソン
訳者:柴田裕之
(2008年/みすず書房)


フリーマン・ダイソンは、1923年のイギリスに生まれた理論物理学者。
ジュリアン・シュウィンガー、リチャード・ファインマン、朝永振一郎らと同年代で、
みずからを「保守主義」の世代とよんでいる。
老いたアインシュタインやディラックらが馬鹿げた大理論に拘泥するのをみて、
自分たちは既存の物理学の細部を整理することに専念し、
実験結果にぴたりと一致する目ざましい業績をあげた。
この書評を大半として編まれた随筆集は、
伝統を墨守した物理学者としての現実主義と、
ゆたかな藝術的素養がとけあって読みごたえがある。
ただ翻訳の際に七つも章をけずったそうで、それだけが気にいらない。


本書のあちこちで詩が引用されている。
教養をひけらかすという風ではなく、
韻文の力をかりて自身の思想をふかめているようだ。
偉大な物理学者は大抵そうなのだが、
文系人間のオレがおよびもつかないような文学の心得があるものだ。

科学はその日常的実践において、哲学よりもはるかに芸術に近い。
真偽決定の不可能性を謳った不完全性定理の
ゲーデルによる証明に目をやっても、私には哲学的議論は見えない。
この証明は高々とそびえる建造物であり、
シャルトルの大聖堂に劣らず独特で美しい。


ダイソン先生、言いきっております。
比類ない創造的な業績をあげた科学者にかぎって、
その晩年に不毛な還元主義の哲学の罠にはまることがある。
アインシュタインの最後の二十年は、物理学全体を統一する
一組の方程式をさがすことに空費された。
ヒルベルトは数学全体を形式的命題のあつまりに還元することを目ざした。
ゲーデルにより、全体は各部の総和よりつねに大きいことが証明され、
その夢はうちくだかれてしまったが。
世界をひとつの方向に統一しようとするテツガクはつねにむなしい。


本書の六から十章でダイソンは戦争についてかたる。
物理屋のにわか軍談とおもったら、ところがどっこいこれは玄人の藝だ。
第二次大戦時にイギリス空軍で数理モデル化の研究に従事しており、
戦後も軍の活動にあれこれとかかわってきたらしい。
数学ができるとツブシがきくのでうらやましいですね。
どの話もおもしろいが、著者は大筋において
「戦争とは、何ひとつ予定どおりすすまず勝敗の歴史的原因も
確定のしようがない、やぶれかぶれの場当たり的行為だ」という、
トルストイ的な戦争観に同調している。
そして、終戦まで戦術の次元で猛然と戦争を遂行した、
ナチス・ドイツのヘルマン・バルク大将の職業軍人意識を賞賛する。
戦争においては、戦略という「哲学」は無意味どころか有害で、
役にたつのは戦術という「藝術」だけなのだ。
限定的な目的と手段で戦争をおこなったワシントンは、
アメリカに安定した政治体制の礎をきずくことができた。
しかし、目的に制限のない戦争を、
ヨーロッパ史上空前の規模の陸軍をつかって重ねたナポレオンの帝国は、
かれの生命がつきるよりさきに崩れさった。
奮戦した軍事指導者に対する敬意が、職業上の技術面から逸脱し、
かれらの軍事的な才能と道徳的な美徳が混同されるにいたり、
世界を統一せんとする野心がそだってゆくものらしい。


未来にむけて。
1918年に出版された、シュペングラーの『西洋の没落』の
終末的ビジョンに感化された科学者たちにより、
物理学と数学の両分野で革命のイデオロギーが勝利したという主張など、
科学史に関する記述にも興味がひかれる。
文学趣味があったヘルマン・ヴァイルやエルヴィン・シュレーディンガーは、
危機的な状況にある数学や物理学には急進的な改革が必要とかんがえ、
古典数学や物理的な因果関係の原理の正当性を否定し、
のちの量子力学や不完全性定理の革命が準備された。
オレは『西洋の没落』ってまだ読んだことがないんだよね。
いつかは読もうとおもいつつもう十年もたちましたか。
また、現代ではPCやWorld Wide Webなど、
安価で強力な機器の恩恵をあらゆる種類の科学者がうけられるようになり、
天文学などではアマチュアが定量的な科学をおこなう能力をえた。
つまり先ゆきが不透明なのです。
オッペンハイマーの三つの顔をえがく十五章が一番よく書けているかな。
鬼神のような頭脳と教養と組織力をもちながら、
どこか不幸の影がつきまとう男の生きざまをうまくまとめている。

こうした書簡を読むと、オッペンハイマーの性格を知る手がかりが得られ、
彼の人生がけっきょく悲劇に終わった元凶が浮かび上がってくる。
その元凶とは焦燥感であり、休むことを知らぬ生まれながらの性格だ。
きわめて高い水準の創造的な仕事をするためには、
休養期間も必要なのではなかろうか。
シェイクスピアは戯曲創作の合間には遊んでばかりだったと伝えられる。


よいことをいってくれるなあ。
焦燥感にかられた人間っていやですよね。
オレだって沢山休みをもらえれば、このブログの文章ももっとよくなるのに。
シェイクスピアやアインシュタインに追いつけるとまではいいませんが。


叛逆としての科学―本を語り、文化を読む22章叛逆としての科学―本を語り、文化を読む22章
(2008/06/21)
フリーマン・ダイソン

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破壊者・松木安太郎 vs. 連絡者・遠藤保仁

松木

ワールドカップ・アジア最終予選 バーレーン-日本

結果:2-3(0-2 2-1)
得点者:
[バーレーン]サルマン・イサ(後半四十二分)、オウンゴール(後半四十三分)
[日本]中村俊輔(前半十八分)、遠藤保仁(前半四十四分)、
中村憲剛(後半四十分)
会場:マナマ
[テレビ観戦]


テレビの視聴率や会場への集客数において、
われらが日本代表の人気が低下していることが明らかになってきた。
人気に浮き沈みがあるのはあたりまえで、
個人的にはまったく関心のもてない話題だが、
関係者たちはその原因についてあれこれと議論している。
宿主が死ねば、寄生虫もまた死ぬ。
日本代表を食いものにする大勢の人間は、不安におののくばかり。
しかし、皆わからないフリをしているのだろうか?
主たる要因ははっきりとしているのに。
テレビ朝日だ。
二〇〇一年に同社は八年間の契約で、
AFCが主催する全試合の放映権を獲得した。
この契約によりドイツ大会と南アフリカ大会の最終予選の放映権を独占。
落札価格は九十億円程度といわれる。
モトをとらねばならない同社の番組制作方針はマンネリの極致で、
代表戦の放映の質は地の底におちた。
角澤照治や田畑祐一の、醜悪で無内容な「実況」、
松木安太郎やセルジオ越後の、
俗におもねるだけでクソの役にもたたない「解説」。
サッカーファンからの批判がよほどこたえるのか、
松木は「ボクはシロウトの知識にあわせて解説してるんだ」と
釈明しているが、そんなヘリクツは通用しない。
ヤツは、番組製作者の「ひたすら騒げ」という命令に忠実なだけだ。
結果として、サッカーの「シロウト」たちは
耳ざわりな雑音をきらってテレビをけした。
もう一度念をおしておこう。
角澤や松木たちが、国民が日本代表のサッカーにふれる機会をつぶしたのだ。


さて、半年ぶりのマナマでの試合。
前回は最終防御線に三人がかまえて、ゴールに鍵をかけた。
両サイドに駒野と安田、中盤に鈴木、中村憲剛、山瀬という布陣。
これ以上はかんがえられないほどの、無残な戦術的敗北だった。
土曜日の試合では、半年まえは三十四分しか出番がなかった遠藤保仁に、
その三倍にちかい時間があたえられた。
遠藤は相撲取りのようにセンターサークルに体をのこしながら
灼熱の戦場を支配した。
中距離のパスの正確性と判断力は傑出しており、
小気味よくボールと味方選手が循環してゆく。
左がわでさびしげに出没する松井大輔の足もとにも宅急便がとどき、
その吸引力あるドリブルがバーレーン人をこまらせた。
高い位置のウイングによる起点も、半年まえになかったものの一つ。
オレが感心したのは前半十五分。
松井から中村俊輔へのパスが止められたときの遠藤の立ち位置だ。
中央のやや前よりに立つ遠藤の目前に相手クリアボールがころがり、
そこからの反撃でフリーキックを獲得。
十七分にそれを中村が直接きめて先制点をえた。
要するにサッカーは「そこ」にいればよいのだけど、それが一番むずかしい。


松井のサイド攻撃は有効だったが、
前線にいるのが玉田と田中の二人では選択肢がすくない。
単純な理屈をいうなら、中央に巻誠一郎がいれば得点機会はより多かった。
梯子をかけなければ壁はこえられない。
それとも、どのような高度なサッカー理論書に、
二本の槍だけで城門をこじあける方法がのっているのか。
両フォワードのうごきはよく、何度も相手の防御線の裏をついていた。
だが、いつものように背番号10の掩護射撃はなかった。
オレは中村俊輔という、左利きのやせっぽちの
価値が理解できないままもう十年になる。
土曜日もかれは中盤を徘徊しながら、むなしいピクニックをたのしんでいた。
多分かれは、10番のユニフォームをきせるために
やとわれたマネキン人形なのだろう。
中途半端だったのは、遠藤と対をなす長谷部もおなじ。
この役の最良の選択は鈴木啓太ではないか。
中盤よりまえの攻撃の指揮は遠藤がとるのだから、
相棒は黙々と支援をつづければよい。
ヤットのために相手ボールをうばって献上し、
ヤットのためにうごいてパスの行き先をふやす。
それだけで攻守の効率はたかまる。


骰子の目の奇数と偶数がみっつずつなのに似て、
よい面とわるい面がおなじくらいある試合だとおもっていたら、
日本代表はのこり十分で突如調子をみだした。
戦術面の不手際もあるにせよ、要するに最終予選出場国の
士気をうちくだけるような戦力差をつくれていないということだ。
連携や均衡は、まだまだ改善すべき余地がおおい。
十一人を堅密に鎖でむすぶことで失点のリスクは減少する。
そして目にみえない「縦」のつながりの存在も指摘しておきたい。
山口素弘や名波浩は対談で、遠藤保仁と中村憲剛を
日本のうつくしいパスサッカーの血脈の後継者に任命した。
かれらの鑑定眼はさすがに正しかったことが、
この最終予選で証明されつつある。
松木安太郎が放送室でどれだけ声をはりあげようと、
フィールド上にはりめぐらされた縦横の鎖を断ちきることはできない。
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ワインと欲望のカクテル ― 『コッポラの胡蝶の夢』をみて

ラブホ

コッポラの胡蝶の夢
Youth Without Youth

出演者:ティム・ロス アレクサンドラ・マリア・ララ ブルーノ・ガンツ
監督:フランシス・フォード・コッポラ
(二〇〇七年/アメリカ・ドイツ・イタリア・フランス・ルーマニア/百二十四分)
[渋谷シアターTSUTAYAで鑑賞]


円環をなしてはしる緑の山手線に二日酔いの体をねじこむ。
二週つづけて渋谷にゆかねばならないのか。
改札口からハチ公前広場にぬける。
ここのスクランブル交差点は世界で一番醜い土地だろう。
赤信号が芋でもあらうように人のながれを堰きとめ、
しばらくして拘留から解きはなたれた囚人たちは、
おのおのの欲望をみたすためにちらばってゆく。
渋谷には空白がない。
歩行者の目がとどく場所のすべてに広告がうめこまれ、
あらゆる企業が無駄な商品をうりつけてくる。
優秀なビジネスマンもさすがに空中は宣伝に活用できておらず、
九十度上をむいてあるけば看板をみないですむ。
人の足をふまないで目的地にたどりつく自信はないけれど。

範田

109のとなりにAV女優・範田紗々の巨大広告があっておどろいた。
一応AV会社による性病予防運動の一環という名目でかけているらしい。
この町の堕落も底の方にゆきついたかもしれない。
別にAV女優がきらいなわけではないですよ。
むしろ大好物です。
でも子どもから「この女のひとだれ?」ときかれたら、
なんてこたえてあげればよいのですかね。


人があつまるから金があつまるのか、その逆なのかはしらないが、
渋谷は欲望の中心となっている町だ。
欲望とは、他人に接近したいとねがう衝動のこと。
まるでブラックホールのように人々はその重力にとらわれる。
町ゆく人は生きいそいでいるように見え、表情に余裕がない。
オレはビルケンシュトックのサンダルをふみしめながら道玄坂をのぼる。
ブンカムラの前から小道にはいり、ラブホテル街を突進する。
ええ、お一人さまで。
だって目あての映画館がここにあるんだもん。
最悪の立地条件だ。
ただでさえ女の人はひとりでは映画館にゆきづらいときくが、
これではますます足がとおのくはず。
恋人同士ならある意味便利かもしれないが。
いや、それはない。
よい映画をみて気分をたかめて、
記憶にあたらしい場面や役者の話をしながら食事をたのしみ、
そのあとでナニヤラするというのが正式な手順だろう。
映画の前にけばけばしいホテルの看板を目にしたら興ざめだ。
空白のない町では、まともな段どりをつけることは不可能なのか。


ソフィア・コッポラは、しったかぶりして東京が舞台の
映画をつくって恥をさらした人ですが、
本作はかの女のお父さんの十年ぶりの新作です。
それはともかく、パパ・コッポラの子ども二人が映画の道にすすんだことは、
オレにとっておおいなる謎だ。
親父はこの仕事で人生が破滅しかかったのに…。
とめろよ。
三回も破産した経済状況も悲惨だが、その精神においても、
首をつらないでよくぞここまで生きのびたという映画人生。
ところが一転、コッポラ父さん、
経営するワイナリーが成功して大富豪になってしまったとか。
おそらくその儲けをつぎこんで、うるさいスタジオ幹部の顔色を気にせずに、
やりたい放題につくったゲージュツ作品が本作。
だから作中で展開される神秘的な東洋学も胡散くさくおもえる。
いくら脱俗的なことをいっていても、
そういう映画をつくれたのは金もちになれたおかげじゃないの?
でも今どき藝術家の魂が自由にたわむれる作品など貴重なので、
その映像美を堪能してきましたよ。


エキストラの顔つきにまで緊張感がただよっていて、
主演のティム・ロスが医師役のブルーノ・ガンツと話しているあいだも、
うしろの看護婦がそれらしい仕草をしている。
「プロの看護婦だったらここではどんな反応をするかしら?」
普通は、やすい報酬で演技する役者はマジメに役づくりなどしない。
気がぬけていたり、逆に変に目立とうとしたり。
本作はコッポラ全盛期ほどの張りはないにせよ、
近ごろの映画ではめったにみれないような熱気が感じられる。
そして、ヒロインのアレクサンドラ・マリア・ララのうつくしさに圧倒された。
今風に小顔で痩身なのもよいのだが、笑顔に愛嬌があり、
機敏にうごくおおきな瞳にひきつけられてしまう。
かすれ気味の声、顔の左がわの黒子も素敵だ。
輪廻転生だかなんだかしらないが、
いろんな時代の人間の生まれかわりという超難解な役を上手に演じている。


この作品はあれだね、黒澤明の『生きものの記録』がやりたかったんだね。
年老いた工場経営者が、核戦争への恐怖をつのらせるあまり、
全財産を投じて家族総員でのブラジル移住を計画するという異常な物語。
一九五五年の作品だ。
第二次大戦~冷戦と狂気の度合いをましてゆく一方の世界と並行して、
老人の生への執着心が常軌を逸してゆく筋書きはおなじ。
どちらも主人公のゆがんだ欲望と時代の暴力が、
見事にフィルムに焼きつけられている。
たしかに生命にしがみつこうとする老人の姿は不気味だ。
でも町とおなじで、キレイキレイだけでは藝術作品は成立しない。
なんにせよ、勝手気ままに映画をつくろうとすればするほど、
古典への傾倒があらわになってしまうのが
いかにもコッポラ調で、たまらない魅力がある。


なんですか、連想が強引すぎるとおっしゃるのですか?

この作品は「これからはゴダールをやる」という、コッポラの宣言である。
蓮實重彦

『コッポラの胡蝶の夢』公式サイト

でも、おもわず吹きださずにはいられないような、
いまだにゴダールへの夢をすてられない
元東大総長の老人のコジツケよりは何倍かマシですよ。
うつくしい映画はなんでもゴダールの影響かよ。
はっきりいいますが、コッポラが復活したのは単にワインが売れたからです。
wikipediaでの本作のページもハスミ信者の手によって歪曲されているようだ。

かつて自分はジャン=リュック・ゴダールになれたのに
ならなかったのだ、と発言したコッポラ。
息を呑むほど美しい画面と暴力的なまでの物語の
分断と再構築は二人の映画作家の共通点といえ、
コッポラにおいてその特徴が顕著に現れた作品が本作である。


いや、そんなこと全然ありませんから。
ゴダールの「分断と再構築」ってただのデタラメだし。
パパ・コッポラの古典趣味にもとづく編集の妙と一緒にしないでください。
ていうかこのページには、ゴダールのゴの字も書く必然性がありません。
時代おくれの狂信者どもの馴れ合いと我田引水は、
渋谷にたむろするギャルが裸足でにげだすほどの横暴さだ。
でも人間の肉体と同様に、ゴダール崇拝も
永遠の生を獲得することなどできないのです。


よい映画をみれたため、オレはすこし軽い気分で道玄坂をくだる。
うすっぺらい欲望が貼りつけられた町なみも、
コマネズミみたいな人の群れも受けいれられる気がする。
ビールののみすぎで頭は痛いままだけれども、
コッポラのワインに感謝しなくてはならないかな。
ラブホテルにつれてゆく同行者がいなかったことが唯一の心のこり。
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内臓とミカン ― 宮崎市定『大唐帝国』

橘

大唐帝国 中国の中世

著者:宮崎市定
(1988年/中公文庫)
[元版:1968年/河出書房新社]


三国、西晋、五胡十六国、南北朝、隋、唐、五代十国…。
七百年におよぶ支那の中世をかけぬける一冊。
特に五胡十六国のくだりを読むのが苦痛だった。
五つの民族が十六の国をつくったから五胡十六国なわけだが、
漢字ばっかりの国名を目で追うだけで気がくるいそうになります。
万世一系の国にうまれてよかったと心からおもいました。
支那の子どもは歴史の授業をさぞかしきらっていることだろう。
しかも千円もするこの文庫本を買ったあとで、
すでにこの本を所有していたことに気づいた。
自分の家のなかですらこんな調子ですから、
歴史の知識などほとんど頭にはいりません。
まあ読んでおもしろければそれでよいのです。


宮崎市定ならではの流麗な文体でつづられた通史だが、
出来はそれほどよいとおもえない。
元版発表当時の「時代区分論争」に逸脱することがおおく、
ヨーロッパとの類似を指摘するのに労力をつかいすぎている。

かくして、中国中世は仏教の時代となった。
それはあたかもヨーロッパ中世がキリスト教の時代であったのと軌を一にする。


かなり無理があるだろう。
そもそも支那の歴史がなぜヨーロッパとおなじ軌道をはしらねばならないのか。
宮崎の属していた京都学派は、東大系の唯物史観に対抗し、
内藤湖南以来の時代区分法に固執した。
しかし全世界の歴史をひとつの理論で説明せんとする
野望はマルクスのそれとかわらない。
戦後の本家ヨーロッパでは中世の歴史観が再検討されていたのだが、
宮崎といえども時代の子、当時猛威をふるった
マルクス主義の悪影響はおおきかったようだ。
学者という生きものはとかく群れをつくりたがり、
そのなかできずかれた「理論」に目をくらまされて、
ありのままの現実がみえなくなる傾向がある。


西晋末期、永嘉の乱で支那文化発祥の地である黄河流域一帯は、
史上はじめて異民族によって征服されてしまう。
後世の支那人が史を読んでここにいたると、
みな痛憤やるかたないおもいにとらわれるらしい。
清初の儒者・顧炎武は『日知録』のなかでその原因を論じている。
学問がまず堕落して、それにつづいて天下が混乱におちいり、
異民族が横行し、支那人もその文化も泥まみれにされたのだ、と。
この極端な学問重視がいかにも支那らしくてよいですね。
「中世」の天子たちは絶大な権力をその手ににぎりながら、
「永遠の生」という人間の最終的な弱点をつかれて、
あやしげな薬をのんでかえって死期をはやめた。
ほんとうに不老長生の薬があるのなら、
ながい歴史のあいだには幾人かの実例があって、
いまの世まで生きながらえてみせてくれたはずだ。
しかしおろかな帝王たちは、実験を信ずるよりも道教という「理論」を信仰した。
童男童女の肝をもちいれば不老長生の薬がつくれますとささやかれ、
「なるほど、オレの権力があれば純なる物質が入手できるのか」と誘惑にまけ、
変な麻薬だかホルモン剤だかで体をこわす。


ところかわって、となりの島国のはなし。
ヤマトタケルのおじいさん、垂仁天皇は不老不死の薬といわれた
橘をとってくるよう田道間守(タヂマモリ)を常世の国につかわす。
田道間守は十年かかって橘のなる木をたずさえて帰国したが、
そのときすでに天皇は崩御されていた。
嘆きかなしみながら死んだ間守を人はあわれんで、
かれのなきがらを天皇陵の濠にほうむったとか。
伝説ではあるけれど、おなじ不老不死でもわが国の場合、
随分とあわれでせつない逸話になっている。
儒学よりもマルクス主義よりもナントカ理論よりも、
うつくしい物語の方に魅力を感じるのはオレだけだろうか。
すくなくとも、少女の内臓を食らうより趣味がよいですよね。


大唐帝国―中国の中世 (中公文庫)大唐帝国―中国の中世 (中公文庫)
(1988/09)
宮崎 市定

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どきどき文学裁判! ― 森鷗外『青年』

どき魔女

青年

著者:森鷗外
(明治四十三年三月から四十四年八月まで、「スバル」に連載)
[ちくま文庫版で読了]


『青年』には夏目漱石を原型とした作家「平田拊石」が登場し、
主人公・小泉純一のまえで講演をおこなう。
立派な紳士にえがかれているのが意外というか。

少し古びた黒の羅紗服を着ている。
背丈は中位である。
顔の色は蒼いが、アイロニイを帯びた快活な表情である。
世間では鴎村[引用者注:鷗外がモデル]と同じように、
継子根性のねじくれた人物だと云っているが、どうもそうは見えない。
少し赤み掛かった、たっぷりある八字髭が、油気なしに上向に捩じ上げてある。
純一は、髭というものは白くなる前に、四十代で赤み掛かって来る、
その頃でなくては、日本人では立派にはならないものだと思った。


自分の無知をはじることのおおい毎日だが、
鷗外の小説に漱石が顔をだして主人公と対決する劇的場面があったとは!
三十代から四十代なかばにかけての鷗外の創作活動は停滞し、
小説家としてもっとも重要な時期を無為にすごしていた。
しかし明治四十一年の漱石の『三四郎』が鷗外の士気をたかめたらしく、
かれにとってはじめての長編小説にいどむことになる。
『三四郎』はまよえるわかき知識人の目をとおして、
明治末期の社会のすがたをえがきだした作品。
ヨーロッパ小説っぽくて相当新鮮だったみたい。

話題に上っているのは、今夜演説に来る拊石である。
老成らしい一人が云う。
あれはとにかく芸術家として成功している。
成功といっても一時世間を動かしたという側でいうのではない。
文芸史上の意義でいうのである。
それに学殖がある。
短篇集なんぞの中には、西洋の事を書いて、
西洋人が書いたとしきゃ思われないようなのがあると云う。


大分ほめてるが、自分なら漱石よりよい物が書けるというおもいがあっただろう。
オレは古今東西の書物に通じているし、
医者や官吏の職をつとめあげる強靭な知性もある。
漱石なにするものぞ。
しかし文学界の両巨頭の対決はあっけなくおわる。
拊石先生はイブセンについてなにやらしゃべったあと、
ぶらりと座布団にもどったら、それきりで閉会。
もったいない!
総理大臣みたいな名をもつ主人公をけしかけて議論にもちこめば、
どれほど刺激的な挿話になっただろう。


山口県出身の小説家志望の青年・小泉純一は、
東京をぶらぶらしながら仲間とヨーロッパ文学談義に花をさかせる。
この小説、やたらと議論がおおい。
はっきりいって退屈だが、よくいえば『吾輩は猫である』のような
学者風の余裕を感じさせる。
文体も漱石を意識したのかどうかよくわからないが、
鷗外流のかわいたハードボイルドタッチに、
内面にふかくしずみこむ影がさしてよみごたえがある。
ヨーロッパ文学を範とし、五歳年下の漱石にその応用をまなび、
鷗外が書きたかったこととはなにか。
セックスだ。
ポルノ小説だ。
軍医としての地位をのぼりつめ、家庭生活も充実している男が、
睡眠時間をけずってまで創作にはげんだのは、
おのれの性的衝動に命じられていたからだ。
小説のなかでなら、オレは本当の自分でいられるはず。


知識人の世界においては、文学作品が純一と未来の恋人をつなぐ。
「文学=セックス」がこの共同体の公式だ。
有楽座にイブセンの劇を見にいった純一は、
スカンクの襟巻をした奥さんにであう。
イブセンさまさまだ。
切れ長の目にたっぷりと媚びをくわえたこの未亡人は、
ヨーロッパ流に青年を自宅にさそう。

「あなたフランス語をなさるのなら、
宅に書物が沢山ございますから、見にいらっしゃいまし。
新しい物ばかり御覧になるのかも知れませんが、
古い本にだって、宜しいものはございますでしょう。
御遠慮はない内なのでございますの」
前から識り合っている人のように、少しの窘迫の態度もなく、
歩きながら云われたのである。


山の手ことばが新劇風で結構でなくって。
未亡人という設定にやや不満を感じるけどね!
それこそ欧州の流儀で人妻にしないとつまらない。
まあ鷗外の立場上、姦通物はさすがに無理かな。
銃後の妻に対する兵の不安をあおる将校はおりません。
そしてフランス文学が、純一の性欲を厳粛に肯定する。
本をかりるために根岸の陰気な屋敷をおとずれ、
ラシイヌをかえすという名目で夜中にまたあいにゆく。

己は部屋を出るとき、ラシイヌの一巻を手に取りながら、こんな事を思った。
読もうと思う本を持って散歩に出ることは、これまでも度々あった。
今日はラシイヌを持って出る。
この本が外の本と違うのは、あの坂井夫人の所へ行くことの出来る
possibiliteを己に与えるというだけの事である。
行くと行かぬとの自由はまだ保留してあると思った。
こんな考えは自ら欺くに近い。
実は余程前から或る希求に伴う不安の念が、次第に強くなって来た。
己は極力それを卻けようとした。
しかし卻けても又来る。
敵と対陣して小ぜりあいの絶えないようなものである。


また青空文庫からの安易なコピペでだれも読んでいないとおもいますが、
まあ主人公が己の色欲にふりまわされて葛藤しているわけです。
でも、この人結局なにもしないんですよね。
「奥さんが敵に見える」とかいいはじめて。


鷗外先生、どうも逮捕されるのがこわかったみたい。
執筆開始の前年の明治四十二年に
『ヰタ・セクスアリス』を掲載した「スバル」が発売禁止の処分にあい、
翌年五月、すなわち『青年』の連載中に幸徳秋水などの社会主義者が
検挙される「大逆事件」がおこる。
ポルノと社会主義はなんの関係もないはずだが、
発禁作家・鷗外にとっては他人ごとに感じられなかったようで、
四十三年十一月には『沈黙の塔』という、
政府による言論弾圧を批判するヘタクソな風刺小説を書いている。
そしてはやくも翌四十四年一月、逮捕者のうち二十四名が死刑判決をくだされ、
幸徳秋水ら十一名が同月に処刑されてしまう。
やべえ、オレもころされる…(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
というわけで、『青年』は同年八月にぷつりと中絶。
猥褻図書がまずければセックスシーンぬきで完成させればよいのだが、
そもそもエロがかきたくて長編に手をつけたのだから、
鷗外先生にとってこれ以上つづける意味がないのです。


小説家というのはワリにあわないしごとで、
その作品は未来の読者からぶしつけに批評される。
藝術家はその時代、その環境に束縛されながら活動するのだが、
その鎖が消えうせた後世の人間にかれらのくるしみは理解されない。
小説家に治外法権は適用されないのだ。
百年まえの作家が、きょうの法律でさばかれる。
でもあえていうのだけれど、鷗外は『青年』を完成させるべきだった。
どんな駄作だって、未完より完結の方がよいにきまっている。
本作では「利他的個人主義」なる鷗外の商標となる思想が展開されるが、
どうしようもなく偽善的な主張といわざるをえない。
鷗外先生は、自作の読者のことすらかんがえていないんだもの。
オレは『青年』の文体がすきだ。
明治四十四年の末に連載された、これまた未完の第二のエロス長編『灰燼』も。
だからこそ、書きたいことが自由に書けなくても最後まで我慢してほしかった。
こんな不甲斐ない男がわが国を代表する文豪とされているけれど、
過大評価もいいとこではないかなあ。


普請中 青年―森鴎外全集〈2〉    ちくま文庫普請中 青年―森鴎外全集〈2〉 ちくま文庫
(1995/07)
森 鴎外

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アシュラガールズの日本文化論 ― Perfume『ポリリズム』

阿修羅

ポリリズム

Perfumeのシングル曲
作詞・作曲・編曲:中田ヤスタカ
(2007年/徳間ジャパンコミュニケーションズ)


七十年代はじめの「日本語ロック論争」ってご存知ですか?
黎明期の日本のロックは英語でうたわれるものが主流で、
「日本語はロックのリズムにのらない」が定説だった。
内田裕也などのミュージシャン、中村とうようなどの評論家によって、
はっぴいえんどに代表される「日本語ロック」が糾弾された。
この手の論争は何度もむしかえされる宿命にあり、
たとえば最近では「日本語でラップは可能か」など、
愚にもつかない議論でエネルギーが無駄についやされている。
外国の音楽は現地語でうたうのが一番適しているのはあたりまえで、
論争においては洋楽純粋主義者がつねにただしい。
だがしかし、いうまでもないことだが、
どの論戦においても日本語が最終的に勝利した。
ロックであろうと、ヒップホップであろうと、「日本語」はペロリと胃袋におさめる。
抵抗は無益だ。


Perfumeの楽曲を制作する中田ヤスタカ(以下ystk)は、
松本隆や桑田佳祐が苦心してつくりあげた
日本語ポップスの秘術を自家薬籠中のものとしている。
音楽の才能があって、わかくして成功して、見た目もよくて、
しかも言葉を魔法のように自由につかいこなせるのだから、
正直嫉妬せずにはいられない。
かれのつむぐ言葉はメロディやトラックと微妙にひびきあい、
わかい娘の繊細な恋愛感情を丁寧にえがきだしながら、
ときに絶妙な言葉あそびをまじえて聞くものをニヤリとさせる。

あの日の思い出 もう離さないで
やっと縮められた キミとの距離は
まだ元通り じゃないしスローリー
心の氷 溶かせたらいいね

"Twinkle Snow Powdery Snow"

はやいテンポの曲なので、語呂あわせが耳にここちよい。
スローリーなかしゆかの歌いかたもかわいらしい。
"I still"→「あいしてる」 (パーフェクトスター・パーフェクトスタイル)
"see new world"→「死ぬよ」 (edge)
のように、ystkは空耳系のもじりも得意だ。


で、ようやく『ポリリズム』の話なのだけど、
この曲の歌詞の職人藝がまたあざやかだ。

ほんの少しの 僕の気持ちが
キミに伝わる そう信じてる
とても大事な キミの想いは
無駄にならない 世界は廻る
ほんの少しの 僕の気持ちも
巡り巡るよ


NHKと公共広告機構によるCMへの起用をうけてかかれた曲で、
恋愛と環境保護のメッセージが重ねあわされている。
恋人どうしの愛と、環境をまもろうという愛は根がおなじだと。
本当かどうかしらないが、曲として提示されているから説得力がある。
そして『ポリリズム』という曲名は、間奏でもちいられている複合リズムと、
ポリ容器の「ポリ」の語呂あわせだ。
この着想はやはり斬新だとしかいいようがない。


『ポリリズム』にかぎらず、Perfumeの楽曲はどれも平仄が独特だ。
全体的に言葉数が多めで、しばしば不自然なリズムを歌い手にしいている。
難解な技巧をさりげなく聞かせるPefumeもエライのだけれど。
とくにのっちはリズムをキープする能力がたかく、
日本語として聞きとれるかどうかギリギリの線までくずしてうたう。
たとえば"love the world"では、

きっと、ひ~とりでな・や・ん・で 教え、て~くれて、いんだよ

てな具合。
ショートカットのリズム天使は、テクノの軽快なリズムにノリながら、
女の子らしい情感をたっぷりと言葉にまぶしている。
あ~ちゃんはどちらかといえば優等生的な歌い手で、
かしゆかは舌たらずでかすかに拍子におくれぎみ。
そして、この三位一体が不思議な歌の空間をつくりだす。
のっちの才能も非凡なのだけれど、
どんなリズムでもノせてしまう日本語の力もおそろしいというか。
支那でもポルトガルでもイギリスの言語でも、
ロックでもテクノでもヒップホップのリズムでもノッてしまう。
とりあえず、その場その場でカッコよければええんじゃけー。
のんべんだらりと抑揚にとぼしいリズムレス言語だからなのか。
それとも高度かつ難解な韻律をもったポリリズム言語なのか。



Zepp Tokyoでのライブ

さらにこの動画。
MC大将軍あ~ちゃんが観客をあおりにあおり、
一気に『エレクトロワールド』~『ポリリズム』となだれこむ。
七分十秒からの「ポリループ」での熱狂の渦がすさまじい。
三度にわたって絶叫にちかい歓声があがる。
たかが間奏なのに…。
Pefumeの動画もいろいろ見てるからちょっとやそっとじゃおどろかないが、
これにはさすがに鳥肌がたったよ。
インド舞踊のような振りつけがおもしろい。
まるで三面六臂の阿修羅像をみるかのようだ。
「ポリループ」にはいるまえの殺気だった面もち、
天竺風のクールな無表情、ループ後のさわやかな笑顔。
みっつの顔をコロコロとかえながら、三人娘はうたいおどる。
とくにかしゆかのポーカーフェイスはどこの菩薩さまかとおもってしまうよ。
てなわけで、ポリリズム文化の国のポリアイドルは、
人界をかるがると飛びこえてしまいそうだから底がしれない。
『ポリリズム』は本当に桁はずれの名曲だ!


ポリリズムポリリズム
(2007/09/12)
Perfume

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