美術館は無法地帯 ― 「ジョン・エヴァレット・ミレイ展」をみて

ジョン・エヴァレット・ミレイ展

会場:Bunkamura ザ・ミュージアム
(8月30日~10月26日)


両親の
《両親の家のキリスト(「大工の仕事場」)》 1849-50年

会場にはいって数分後、《両親の家のキリスト》に心うたれた。

イエスたんギザカワユス(*´д`)

上の画像をクリックすれば拡大して見ていただけるのだけど、
やはりモニター越しではきびしいかな。
でもあやまって手に釘をさしてしまったイエスの表情が本当にかわいらしい。
やわらかな金髪、ほっそりとした首や顎の輪郭も可憐だ。
二十歳のミレーによる、このはじめての本格的宗教画は、
聖家族をなまなましく描きすぎたことで酷評されたそうだ。
マリアの表情がみにくい、とかなんとか。
しかし、美術史の知識がまるでないので無責任に想像するのだが、
当時の見物人がおこったのは、本作のイエスがかわいすぎるからではないか。
さすがにイエスさまに欲情するのはまずいだろう、と。
たしかに、心配そうなママにキスをする美少年の
口もとをみていたらだれでもドキドキしてしまうはず。


オフィーリア
《オフィーリア》 1851-52年

こちらはいわずとしれた代表作。
オレ、これ生でみたことあったっけな?
鬱蒼としげる草木にかこまれた緑だらけのキモチワルイ絵で、
正直つまらない作品だとおもっていた。
今回じっくりとみてみると、オフィーリアのはっとするようなうつくしさに気づいた。
モデルのエリザベス・シダルは、真冬に浴槽のなかで長時間ポーズをとらされて
ひどい風邪をひいてしまったらしい。
おかげで傑作ができたのだから、
われわれはモデルの努力に感謝しなくてはならない。
でもこの作品もどこか病んでいる。
オフィーリアの頬はほんのりと赤らみ、瞳には光がのこっていて、
とてもではないが死体にはみえない。
そもそも手つきがおかしい。
男に抱かれるのをまっているようだ。
この土左衛門はみるものを屍体性愛へと誘惑している。


連隊
《連隊の子ども》 1854-55年

右手に包帯をまいた少女が軍服を毛布がわりにしてねむっている。
この女の子もかわいいのだが、寝床が教会の石棺なので不吉きわまりない。
「萌えてよいのか?」という罪悪感がオレをまどわせる。
だらしなく垂れさがった両足と、ずり落ちそうで落ちない軍服が
微妙な物理的均衡をたもっていて、全体の構図に緊張感がある。
少女のやすらかな寝顔がかえって死を連想させるすばらしい作品だ。


二十代なかばでこれほどの技量を身につけたミレーは、
画壇からの非難を実力で賞賛へとかえてしまった。
ロイヤル・アカデミーの総裁になるなど、安定した地位を獲得する。
一方で作風は年をかさねるにつれおとなしくなってゆく。
藝術家の創造性のピークは大体四十代におとずれるものなのだが、
ミレーの場合はわかくして枯れてしまったようだ。
画面から張りつめた感覚が消えうせて、倒錯した趣味も表にでてこなくなる。


ハート
《ハートは切り札:ウォルター・アームストロングの娘たち、
エリザベス、ダイアナ、メアリーの肖像》 1872年

しかし四十三歳のときのこの作品はよかった。
わかい三人がカードあそびに興じているのだが、
性的な含意をもつタイトルがうまい。
左の娘は手札をながめていて、
真ん中は右の娘をみているのではなく、よそ見をしているようだ。
表情にしまりがなく、ゲームに集中できていない。
濃い色の瞳をもった右の娘は、なぜかこちらにつよい眼差しをなげかける。
鼻筋のとおったかしこそうな顔だちで、カードをにぎる手には力が感じられ、
よそ見をしつつもゲームへの関心はうしなっていない。
手札をかたむけすぎて相手にみえそうになってはいるが、
まだみられてはいないようだ。
おそらく手前がわにすきな男がやってきたのではないだろうか。
わたしのハートをあなたにだけ見せてあげるわ。
「ハートは切り札」というわけで、三人娘が本当にあらそっているのは、
素敵な結婚相手をみつける恋のゲームなのだ。
のんびりしているほかの二人に抜け駆けする、
右の娘のずるがしこさに萌えてしまう。
規則違反がもたらす罪悪感は、
藝術作品をよりなやましいものにかえる最高の調味料だ。
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テーマ : 絵画・美術
ジャンル : 学問・文化・芸術

かれは落下傘でおりてきた ― 中条一雄『デットマール・クラマー』

クラマー

デットマール・クラマー 日本サッカー改革論
著者:中条一雄
(2008年/ベースボール・マガジン社)


見るからに尋常な人物ではない。
ドイツ人のくせに身長は大抵の日本人よりひくく、
わかいころからの見事な禿頭のもちぬしだ。
しかし貧相ではなく、むしろその逆で、眼光は爛々とするどく、
短躯に精力がみなぎっているのが写真からつたわる。
1960年、三十五歳のときにサッカー日本代表チームを指導するために
わが国をおとずれたデットマール・クラマーによって、
日本サッカーの基礎がきずかれたという評価はすでにさだまっている。
かれの伝記である本書にはおもわぬ発見もおおく、
この国のサッカーの発展についていろいろとおしえられた。


まずおどろかされたのは、日本サッカー協会は
クラマーに報酬をしはらっていなかったという事実だ。
サッカーに商業主義が浸透する前の時代だったとはいえ、少々信じがたい。
なにをもとめて、国際舞台での実績が皆無といってよい国の
コーチになろうとおもったのだろう。
かれはのちに西ドイツ代表のスタッフとしてワールドカップに参加する人だし、
バイエルン・ミュンヘンの監督としてチャンピオンズカップを二度制している。
出世が人生のすべてではないけれど、自国にとどまった方が
自分の能力をためす機会がおおかったのはまちがいないのに。
どうもかれのコーチとしての個性は
第二次世界大戦の従軍経験でつちかわれたようだ。
十九歳で少尉となり、落下傘部隊をひきいて
フランス、ソ連、イタリア、アフリカなどを転戦した。
一万人で編成された部隊で、いきのこったのは五百人だけだったとか。
オランダで終戦をむかえて捕虜となり、監獄での尋問をいきのびた。
口にだせないような地獄を見たにちがいない。

だが、落下傘部隊の隊長はそうはいかない。
常に先頭の一番機に乗っていて、しかも最初に飛び出さなくてはならない。
敵地に降りるのだから、率先垂範でなくては、部下がついてきてくれない。
サッカーでも、コーチは最初に飛び降りる覚悟であるべきだ。


クラマーは日本選手とおなじ宿にとまり、一緒に畳でねて、風呂にはいり、
なれない箸で和食をたべながら心をつかんだことが美談としてかたられるが、
畳など戦場にくらべれば極楽浄土のようなものだ。


では逆に日本協会はなぜドイツからコーチをまねいたのか。
ここでも驚愕の事実が判明する。
第一次大戦のころ、広島湾の似島にはドイツ兵の捕虜収容所があった。
青島からつれられてきたドイツ軍捕虜のたのしみはもちろんサッカーで、
広島市に遠征したときにみせた技は当地の選手におおきな影響をあたえた。
広島でサッカーがさかんだったことはしっていたが、
その発端が第一次大戦にあるとは想像もしなかった!
1955年に協会会長に就任した野津謙も、
広島一中でサッカーをはじめた人物のひとり。
東大卒の医師でドイツ語が堪能であり、
ドイツ哲学やドイツ音楽を愛するドイツオタクだったようだ。
クラマーを通じて、シツジツゴーケンな
ドイツ精神を輸入したかったのだとおもわれる。


あたらし物ずきの日本人であるからして、サッカー先進国からやってきた
コーチに期待するものは最先端の高等戦術だ。
しかしクラマーは期待に反して、
サイドキックなどの基礎練習をひたすら反復させた。
そしてチームの結束をたかめるために、
当時でさえ時代おくれだったとおもわれる合言葉をもちいた。

これで韓国に勝てるはずはない。
そのとき、日本に来て初めて、私はヤマト魂という言葉を使った。
「キミたちにヤマト魂はあるのか。
ヤマト魂はどこにいった。
私は失望したぞ。」


異邦人が大和魂のなにを理解していたのかはよくわからないが、
そのドイツ的解釈はわかい選手の耳に新鮮にひびいたのではないか。
こうして日本代表は、東京やメキシコの
オリンピックにむけての準備をととのえてゆく。


落下傘部隊をひきいていたクラマーが単純な精神主義者であるわけもなく、
外国とたたかうには個人の能力が必要であることをよくしっていた。
「日本は組織力でたたかうしかない」と盲信する、
今日の能天気な日本人監督とは一味ちがう。
将来の指導者として、仲間からの信頼があつく統率力のある長沼健や、
頭脳明晰で語学に堪能な岡野俊一郎をそだてた。
人事の決定権がクラマーにあったわけではないが、
スタッフの刷新をはたらきかけていたらしい。
得点をとるために杉山隆一と釜本邦茂の連携をねばりづよく鍛えあげ、
チームの最大の武器とした。
左サイドの杉山からのパスを釜本がきめたゴールで、
日本代表はメキシコ五輪の銅メダルを獲得したが、
これはクラマーがふたりが音をあげるまで何百回と練習させたプレーだった。


まだアマチュアだった当時のサッカー界は、
メキシコ五輪のあと資金不足で強化に力をいれられず、
釜本や杉山につづくスターもあらわれずに長い低迷期をむかえる。
ねむっていた「大和魂」は、くすぶっていた灰に
火がついたように九十年代に突如として復活するが、
その土台をきずくのに小柄なドイツ人がどれほど貢献したのか、
われわれはしっておくべきだろう。


デットマール・クラマー 日本サッカー改革論デットマール・クラマー 日本サッカー改革論
(2008/08/07)
中条一雄

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テーマ : サッカー
ジャンル : スポーツ

手術刀をもった兵士 ― リチャード・ヴィラー『戦場を駆ける医師』

月森

戦場を駆ける医師 愛、勇気、憐憫
Knife Edge

著者:リチャード・ヴィラー
翻訳者:熊谷千寿
(1999年/原書房)


もし生まれかわったとしたら、なんの職業をえらぼう?
なれるものならサッカー選手になりたい。
ただプロをめざして練習にうちこむ自分の姿は想像できないな。
だったら軍人か医者だ。
どちらも他人の生命をあつかうという責任のおもい仕事であるがゆえに、
興味がひかれる。
片方は他者を殺し、片方は生かすというちがいはあるけれども。
おどろくのは、本書の主人公がその両方の肩書きをもっていることだ。


整形外科医である著者のリチャード・ヴィラーは医学生だったころ、
奨学金をおぎなうためにロンドン大学の士官予備養成組織にくわわる。
軍隊生活が肌にあうのかそこでの訓練にのめりこみ、
ついには特殊部隊のSASの選抜試験に挑戦しみごと合格。
将来が約束されたエリートなのだからその辺で満足すればよいのだが、
予備役である国防義勇軍第21SAS連隊での活動にはあきたらず、
イギリス軍の特殊工作活動の主力である第22SAS連隊に転属し、
軍医官として最強の兵士たちとともに世界をとびまわることになる。
世のなかにはかわった人もいるものだ、としかいいようがない。
オレは特殊部隊がすきで、クリス・ライアンやアンディ・マクナブなど
SASの下士官だった連中が書いた本を山ほど読んできたが、
めったに武器をあつかわない軍医による客観的な記録というのも
また別のおもむきがあってたのしめた。


軍隊に医師が必要なのはいうまでもないが、著者によると、
戦争下で死傷病兵をうむ最大の原因は病気であり、
二番目は味方の弾があたることで、敵の弾にあたることはもっともすくない。
戦争地域にいる兵士の大多数はわれわれの通念以上に安全らしい。
だからこそ、西側諸国の医学界でしられていない世界各地の病気や、
戦場という特殊な環境における問題を研究することが重要になる。
また、SASのような特殊部隊は敵戦線の背後で真価を発揮するのだが、
その際には地元民を味方につける民心獲得工作がかかせない。
かれらが一番よろこぶもの、それは医療だ。
未開生活をおくる民族は、西側の錠剤や注射に信仰にちかい執着をもち、
診療所にながい列をつくる。
SAS隊員はかれらにありもしない適当な病名をつげ、
ビタミン剤を偽薬としてあたえるだけなのだが。
戦場では、銃弾よりも薬の方が有用な武器になりうる。


SASの隊員は各自がふたつ以上の個人技能を取得するように訓練される。
その専門課程は、通信技術、医療技術、爆発物取りあつかい、語学の
四種類にわかれている。
入隊当時に医学生だったヴィラーは、当然のように医療課程をえらぶのだが、
なんとこのコースで不合格になってしまう。
SASの医療訓練はそれほどまでに高度で洗練されているのだ。
これに懲りたヴィラーは通信技術コースにすすんで、
ツー・トン・ツーのモールス信号を勉強することに。
かれはSASの医療を強化するために配属された士官であり、
特殊工作の訓練をうけてはいるが、みずから銃をもってたたかうことはない。
しかし、現代の戦場においてジュネーブ条約の効力は低下する傾向にあり、
まぶしくかがやく赤十字の腕章は兵站線の確認につかわれてしまう。
ボスニア紛争でセルビア側の砲手は、サラエボの陸軍病院の赤十字マークを
照準点につかって砲撃をおこなったそうだ。
医者ですら無条件で敬意をはらってもらえる時代ではない。


著者は高所恐怖症でありながら、仲間にエベレスト登頂にさそわれると、
ことわりきれずに参加することに。
これだけでもすでに何かがおかしいが、おそろしいことに一行は
七千メートル付近で雪崩にまきこまれてしまう。
ひとりが死亡し、装備もおおきな被害をうけたため、
SAS隊員からなるチームは登頂をあきらめた。
雪崩事故から六日後、ヴィラーはようやく妻と電話ではなすことができた。

「ほんとにあきらめるの?」
彼女は信じられないとでもいいたげな口調で訊いた。
「絶好の機会なのに」
SASの夫に望むものは成功だけなのだ。


これくらいの女でないと、SAS隊員の女房はつとまらない。
著者は軍をひいたあとも、医師として第三世界の危険地帯を股にかけている。
オレのような平凡人には想像もできない世界だが、ある種のひとびとは、
胸の奥の博愛精神につきうごかされて冒険のなかでいきてゆく。

NGOは、現地サラエボで働くことができる外科医を
数日のうちに必要としています。
手を貸していただけないでしょうか?
わたしはばかだった。
<安楽椅子の戦士>という役割になじみはじめていたのだが、
体の奥底ではまだ冒険の声が生き残っていた。
どんなに年をとって衰えても、その声が今また聞こえていた。
ところどころ意味がわからず苦労しながら手紙を読んでいくにしたがって、
最初はかすかな火花だったものが炎になるのがわかった。
だれかがやらなければならない。
可能だということをだれかが証明しなければならない。
わたしがやったっていいはずだ。


あまりにもうつくしい一節なので長く引用してしまった。
メスをもった兵士の最大の武器は、その情熱なのだ。
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テーマ : 読んだ本。
ジャンル : 本・雑誌

東西歌合戦 ― 小川剛生『武士はなぜ歌を詠むか』

幸子

武士はなぜ歌を詠むか 鎌倉将軍から戦国大名まで
著者:小川剛生
(2008年/角川叢書)

学校でおそわる歴史がおもしろくないのは、ながれが一方的だから。
ただひたすら西から東。
逆にむかう水路はひとすじもなし。
畿内はつよく、ただしく、とうとい。
征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂は東国の野蛮人をきりしたがえ、
われらがミカドのもとに日本をたばねた。
たしかに頼朝だの尊氏だの家康だのといった時代においては、
弓矢が自慢の武家がこの国を統治しようとこころみた。
しかしかれらの将軍職も所詮はミカドがあたえた肩書きにすぎない。
源氏将軍は三代で断絶、尊氏は逆賊の汚名をきせられ散々だ。
家康がきずきあげた体制はなかなか堅固なものだったが、
結局いやしい東国武士の支配は異人のあなどりをうけて崩壊。
薩摩や長州を軸とする官軍がそれをうちやぶり、
天子の威光がくまなくてらす本来の日本がたちもどった。
めでたし、めでたし。

歴史の授業のなかで、東国はサンドバッグのようにうちのめされてきた。
でも、そんなに東国人は野蛮でいやしかったのだろうか。
かれらにも弁明の機会をあたえるべきではないのか?
どのような人々が、どのようにいき、どのようにたたかい、
どのように死んでいったのか。
たしかに東国では『源氏物語』も『枕草子』も書かれなかったけれど、
戦乱のつづく時代のなかで武士は和歌をよみつづけた。
歌をよむことで家臣との結束をたかめ、合戦をまえに神仏にいのり、
他国との交渉を有利にはこぼうとした。
それはもののふの名誉をかけた真剣ないとなみであり、
ただ単に田舎者が宮廷文化を真似しただけとはいえない。
本書は和歌という表現を糸口に、関東の武士のいきざまをえがきだしている。

『武士はなぜ歌を詠むか』は四部構成で、
・六代将軍として鎌倉にむかえられ、当地に歌壇をひらいて旺盛に活動し、
それを北条氏にきらわれて追放された宗尊親王
・和歌・音楽・絵画の教養ゆたかで、わかくして勅撰歌人だった足利尊氏
・江戸城をきずき、長尾景春の乱では三十数回の戦闘に勝利した名将で、
和歌の達者としてもしられた太田道灌
・東国にくだった冷泉為和を師匠として和歌をまなんだ
今川義元・氏真の父子や北条氏綱
といった面々が、有為転変のなかでせっせと歌づくりにはげんだことがわかる。
まだ三十代である筆者の、各時代の政治状況をおりこみながら
歌の鑑賞にみちびく語り口がたくみで、どの章もおもしろい。
一番興味ぶかかったのは、室町後期のスーパーマン・太田道灌のくだりかな。

鎌倉やいなの瀬川をゆく水のむかしの浪にかへる世もがな
「京進和歌」

鎌倉を中心とした伝統的な秩序を恢復させたいという、
道灌の念願がこめられているとか。
十五世紀の東国動乱にあって、向背さだまらぬ国人領主を心服させて
その盟主となるには、武力だけでなく文化の力が必要だったのだ。

天下人となった徳川家康は歌道に対する軽蔑をかくそうとせず、
平忠度の都落ちの逸話さえ冷笑した。
忠度は軍事的な窮地にあるというのに、
勅撰集にのせられるという夢をすてられずに
自作をたくそうと藤原俊成をこっそりたずねたそうだが、
それのどこが美談だというのか。
それだけの執着で兵法をまなべば、
平家もあれほどの負け方はしなかったものを。
…うーん、つまらん男ですね。
コイツがひらいた幕府のあと、武士の時代がおわったのはなんの因果なのやら。


武士はなぜ歌を詠むか  鎌倉将軍から戦国大名まで (角川叢書 40)武士はなぜ歌を詠むか 鎌倉将軍から戦国大名まで (角川叢書 40)
(2008/07/11)
小川 剛生

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

悪をたずねて三千里 ― 『敵こそ、我が友』をみて

バルビー

敵こそ、我が友 戦犯クラウス・バルビーの3つの人生
Mon Meilleur Ennemi
監督:ケヴィン・マクドナルド
(二〇〇七年/フランス/九十分)
[銀座テアトルシネマで鑑賞]


いい男だ。
ととのった知的な顔だちで、ハンサムといっていいだろう。
ナチス・ドイツの親衛隊中尉で、
フランスでの抵抗運動に対する過酷な弾圧ぶりから
「リヨンの屠殺人」とよばれたクラウス・バルビーのことだ。
悪役に魅力がないと映画はつまらない。
『ラストキング・オブ・スコットランド』という劇映画をとっているマクドナルドは、
バルビーの端正な顔にひかれて記録映画に着手したのではないだろうか。
娘もでてきて、インタビューで父親の弁護をする。
「屠殺人」なんて表現は本当の屠殺人に失礼だ、とか。
それはともかく、娘も相当な器量よしなのでおどろいた。


バルビーは三つの顔をもっている。
ひとつは親衛隊時代の「リヨンの屠殺人」。
戦後はアメリカ陸軍情報部隊に協力した工作員。
一九五〇年以降は、名前をかえてにげこんだ
ボリビアの軍事政権に対する助言者。
まえの二つの顔をさぐるために、
ヨーロッパでのバルビーの足跡をしるものに話をきくのだが、
正直にいって映画としてはこの部分がよわい。
でてくるのは歴史家やジャーナリストばかりで、
書物からえた知識をかたっているだけだからつまらない。
ナチスの直接の記憶はうすれつつあり、
記録映画も成立しづらくなっているようだ。
ただ、アメリカが真におそれていたのは共産主義であって、
ナチスなんかは兄弟みたいなものとみなしていたことがわかる。
そして「ソ連とたたかう」というのはあくまで名目で、バルビーの情報や人脈は
ヨーロッパ内における活動家をとりしまるために利用された。


さらにマクドナルドは悪役の影をもとめてアンデスの国にとぶ。
時代がちかいせいか、実際に交流があった人間もおおく登場して迫力がある。
ナチス高官のおおくは南米にのがれたのだが、
バルビーはその残党を組織して「第四帝国」を建設することを夢みていた。
アメリカ政府は南米の共産主義勢力をおさえるため、
各地の野蛮な軍事政権を陰に日向に支援し、
ナチスの残党を教師として独裁政治の手練手管をつたえさせた。
ゲバラよりはヒトラーの方がマシということだ。
マクドナルドがこの映画をつくった意図は、ナチスの告発ではなく、
「テロとのたたかい」の大義名分のもとに拷問を正当化した
近年のアメリカ政府を批判することにあるようだ。
わたしたちの世界の道徳の境界線はあいまいで、
灰色の部分がおおきいことをしらなくてはならない。
なるほど、でも納得できないな。
そんなお利口さんの映画という感じはしない。


映画では、試写会に有名人をまねいてそのコメントを宣伝につかう。
本作でもタダで映画をみた連中があれこれかたっているが、
もっとも取るにたらないのは、漫画家・小林よしのりのものだ。

どこにも正義はない。
だれにも理由がある。
毒をもって毒を制すという現実は、理想を軽く吹き飛ばす。
甘いことは言ってられない世界で、
それでも道義を貫く術があるのかを我々は試されているのだろう。

映画『敵こそ、我が友 ~戦犯クラウス・バルビーの3つの人生~』公式サイト

正義はないけど道義はある?
カッコつけているだけで意味はまったくない。
「正義」と「道義」をいれかえて文を書きなおしてもなにもかわらない。
たしかにこの映画は、「正義はない」的な物わかりのよい主張がある。
でもそれだけじゃない。
そんなことをいうためにだれがわざわざアンデス山脈にゆくだろう。
そこには魅力的な敵役をえがきたいという映画作家の情熱がある。
悪にひかれるのは危険な性向にはちがいないが、
逆にいえば内心に正義が存在することの証明だ。
ファシズムとたたかう、共産主義とたたかう、テロとたたかう、
そのこと自体になんの問題があるというのか。
「なんだかんだいってアメリカも悪なんだよね」としったかぶりし、
目のまえの不正を見のがす心のよわさが、
結局悪党どもにつけこまれる原因となるのだ。
いつの間にかわすれられたウサーマ・ビン=ラーディンも、
どこかの隠れ家でほくそえんでいるにちがいない。
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テーマ : 映画感想
ジャンル : 映画

やさしいモンスター ― ミクルスウェイト&ウールドリッジ『株式会社』

ジャックフロスト

株式会社
The Company: A Short History Of A Revolutionary Idea

ジョン・ミクルスウェイト エイドリアン・ウールドリッジ 著
鈴木泰雄 訳
日置弘一郎 高尾義明 監訳
(二〇〇六年/ランダムハウス講談社・クロノス選書)

ヘーゲルは現代社会の基本単位が国だと予言し、
マルクスは共同体、レーニンとヒトラーは政党だと予言した。
右も左も、偉大な思想家たちはみなまちがっていた。
当世のひとびとは、「会社」にもっともおおくの時間と労力をついやしている。
予想がはずれたのも無理はない。
この資本主義の怪物がゆりかごにおさまっていたヴィクトリア女王時代、
会社は自由主義経済学者からさえ批判されていた。
あやうい有限責任は時代おくれで非効率的だし、
そもそも専門経営者は株主の利益のために行動するだろうか?
会社は、その根底から資本主義的でないとおもわれていたのだ。
いまでは冗談にしかきこえないけれど。
しかし、バラック・オバマの知恵袋といわれるロバート・ライシュなどは、
「会社」の歴史を無視した乱暴な経済思想を実践にうつそうとたくらむ。
実に危険だ。
この鬼子がもつ二面性がまだよく理解されていないということだろう。

会社とは、市場原理にのっとって作動する集金機械でありつつ、
善人らしいさわやかな顔でふるまう政治的存在でもある。
これが会社の二面性だ。
たとえば東インド会社はインドを統治し、徴税までおこなっていた。
軍隊を保有してはなばなしい戦果をあげたりもした。
しかし会社が世界を制する前夜でも、このたぐいまれな組織は
一七九〇年代に奴隷制度をめぐる議論にまきこまれ、
イギリス国内での消費者不買運動の対象となった。
市場の「みえざる手」よりも、経営者の「みえる手」を世界は歓迎する。
そして、経営者というあたらしい種族がひきいる組織をそだてたのは、
十九世紀のアメリカだ。
鉄道会社はイギリスを中心に巨額の資金をあつめ、
列車の運行を円滑にすすめるために何百人もの常勤の経営管理者をやとった。
かれらは精緻な階層制度をもつ経営手法や、会計や情報のシステムを開発し、
近代的な営利企業のかたちをつくりあげた。
鉄道株ブームをうけてニューヨーク証券取引所が成長し、
鉄道、電線、郵便制度をしくことでインフラストラクチャーが整備されて、
広大な国がひとつにまとめあげられた。
それは会社による革命だ。

会社、そして経営者という部族はさらに発展する。
一九二〇年代に苦境におちいっていたゼネラルモーターズは、
アルフレッド・スローンによって他社に先がけて事業部制を導入した。
ひとりの経営者が会社の活動のすべてをとりしきるのではなく、
自立的な各部門が、細分化した市場のニーズにあわせた
商品をおくりだす。
本部に数字につよい社員をあつめてつよい権限をあたえ、
複雑な組織を監督させた。
事業部制により、組織を拡張することも容易になった。
会社のすがたは、より官庁や軍隊のそれにちかづいた。
国防長官に就任したボブ・マクナマラのように、
実業家が政府に採用されるようにもなる。

会社は国家などという古ぼけた枠をやすやすとこえる。
国内産業を育成するためにひき上げられた関税に対応するため、
輸出にたよれなくなった会社は多国籍化した。
十九世紀の多国籍企業は帝国主義とむすびつけて
批判されることがおおいが、実際のところアフリカでくりひろげられた
土地収奪競争は商業上の利益をほとんどもたらしていない。
そもそもこの時期の海外直接投資の大半は、
植民地ではなく先進諸国を対象としている。
会社がほしいのは利益であって、植民地ではない。
二十一世紀においてもマクドナルドやナイキの「帝国主義」が告発されるが、
多国籍企業は現地平均よりたかい賃金や労働基準をまもっているし、
かれらにより世界中に学校や病院が建設されているのも事実だ。
会社は善人の仮面を必要とする。
信用がなければ顧客や労働者や監督機関との交渉が不利になる。
優秀な人材をあつめることもできない。

企業は利益を追求するために存在するのだから、社会的責任などない、
とかなんとか、オバマ周辺の過激派の思想がいかにトンチンカンかよくわかる。
利益追求のためのメカニズムと、社会にむけた顔をきりはなすことはできない。
やさしいモンスターの偽善者じみた仮面はときに鼻もちならないが、
それを力づくでひきはがそうとする人間は
レーニンやヒトラーとおなじ失敗をおかすことになるだろう。

関連項目:オバマ小学校の課題図書 ― ライシュ『暴走する資本主義』


株式会社 (クロノス選書)株式会社 (クロノス選書)
(2006/10/12)
ジョン・ミクルスウェイトエイドリアン・ウールドリッジ

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テーマ : 政治・経済・時事問題
ジャンル : 政治・経済

ラブ&ピース列伝 ― 『リズム天国ゴールド』と任天堂

ラブテスター

リズム天国ゴールド
(2008年/ニンテンドーDS対応/任天堂)

『リズム天国ゴールド』を批評する準備をしていてふとおもった。
このゲームをこまかく分析することに意味があるのか、と。
たとえば魅力を箇条書きにすることはできる。

・「リズムにのる」ことに主眼をおいた簡潔さ
・つんくの参加による楽曲のよさ
・竹内高による超ポップなデザイン
・とぼけたテクストがかもしだす、ほのぼのした世界観
・タッチペン入力のアナログ的な手ざわり

でもなにかちがうんだよな。
なぜ、莫大な制作費を投じて高性能なマシンのためにつくったゲームより、
この素朴な小品がかがやいてみえるのか説明できていない。
だから客観的な記述ではなく、
この作品に関連する人物を列伝の形式でかたってみよう。
任天堂という不思議な会社の実体の一部がみえてくるはず。



大澤
(うつむいている右の人です)
大澤和義
企画開発本部開発部

企画、ディレクション、プログラムを担当。
大澤がどんな人物で、本作にどのようにかかわっているのかしるには
ココを読めば十分すぎるほど。
ただし、社長の岩田聡は部下の才能を過度に自慢する癖があるので要注意。
リンク先でも大澤のことを「求道者」とよび、その個性をめでている。
おもしろいのは、

ただ、いまのゲームづくりの現状でいうと、
なかなかこれぐらいの規模で、
つまり、中心メンバーが5人という規模では、
ゲームってつくれなくなってるので、
このチームの存在自体がすごく独特で、
非常に興味深いですね。


という部分。
ゲーム制作が重工業と化した時代のなかで、
家内制手工業の規模をまもっていることがひとつの奇跡。
それは岩田という理解者があってこそにちがいない。
ハリウッド超大作というより、人形アニメやドキュメンタリーのような。
オーケストラというより、ロックバンドのような。



アシュリー
竹内高
企画開発本部開発部

大澤の相棒。
ポップでキュートでファニーで、それでいて洗練された絵柄の持ちぬし。
この人がかいた絵本がほしい。
絶対うれるのに!
この人の信条は「優しいキモチ」。

作品作りに一番大切なのは「優しいキモチ」だと思います。
チームで一つのものを創り上げると言う事は、とても大変な事です。
自分の事をしっかり主張する事も大切ですが、
やはり仲間を気遣ったりするやさしいキモチも絶えず持って欲しいと思います。

Gpara.com クリエイターズ・ファイル

ロックバンドでいうならベーシストだろうか。
持ち前の気くばりで大澤をささえる。



ワリオ
松岡洋史
クリーチャーズ所属
(元・任天堂開発本部開発第一部)

大澤の元上司で、「おおきな影響をうけた人」。
『メイド イン ワリオ』(2003年)のチーフディレクター。
五秒間の破天荒なプチゲームを軽快につないだ『ワリオ』はあまりに革新的で、
『リズム天国』も『ワリオ』なくしてはかんがえられない。
岡本太郎を愛する藝術家肌の開発者だ。
また「クリエイターズ・ファイル」からの引用。

ゲームは芸術です。
ゲームに限ったことではありませんが、名作と言われるものは人に感動を与え、
時には人生を良くも悪くも左右させてしまう力があります。
ですから我々作り手側としては、作品のメッセージに責任を持ち、
子供からお年寄りまですべてのユーザーに対して納得してもらえるような
作品作りを心がけるべきだと思っています。

Gpara.com クリエイターズ・ファイル

すくなくともオレは「ゲームは藝術だ」とおもっているが、
それを堂々といいきっている人はあまりみたことがない。
ロックな男だ。
新作の話は全然きかないが、どうしているのだろう。



よしお
坂本賀勇
企画開発本部企画開発部課長

大澤のいまの上司。
『ワリオ』『リズム天国』シリーズにもふかくかかわっている。
『メトロイド』など、かずかずの任天堂の名作の生みの親としてしられるが、
オレにとってはなんといっても熱愛する『ファミコン探偵倶楽部』の原作者。
ほかに『カエルの為に鐘は鳴る』『カードヒーロー』などのシナリオが賞賛される、
任天堂ではめずらしい個性をもった開発者だ。
坂本がひきいる企画開発本部は携帯機むけの作品の開発がおおく、
どちらかといえば任天堂において日陰の部署だったといえるが、
ニンテンドーDSの大あたりによって存在感が急激にましている。



軍平さん
横井軍平

1996年まで任天堂に在籍。
翌年に交通事故で死去。
現在の企画開発本部は、横井がいた「開発一部」のながれをくんでいる。
すでにながくなってしまったこのエントリの末尾で、
軍平さんの業績をかたりつくすことは不可能だ。
もちろん、字数をついやしたところでかたれる自信はないけれど。
軍平さんに不案内なかたは自分でしらべてくださいね。
「枯れた技術の水平思考」という思想の持ちぬしで、
機械の演算能力とリアルなグラフィックの競争にあけくれて
アイデアが枯渇したゲーム業界に警鐘をならしていた。
最先端技術による重工業がいかにむなしいものか。
横井をうしなったあとは、宮本茂を中心とする任天堂でさえ、
それに気づくのに十年ちかくをついやした。
横井軍平はかぞえきれないほどのヒット商品をうみだしたが、
時代はふたたびかれをさらにふかく理解しつつある。
冒頭にかかがげた写真は、軍平さんが開発した『ラブテスター』。
カップルが手をつないで愛情度をはかるという玩具で、
1969年に発売された人気商品だ。
そう、「ラブ&ピース」の思想がゲームの世界にかえってきたのだ。
宮本茂ではなく、横井軍平の弟子たちの手によって。


リズム天国ゴールドリズム天国ゴールド
(2008/07/31)
Nintendo DS

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ジャンル : ゲーム

タグ: 任天堂 

焼きマシュマロをたべながら ― リサ・ローブ 『キャンプ・リサ』

リサ
(注意!アンジェラ・アキではありません)

キャンプ・リサ
リサ・ローブ
[Camp Lisa - Lisa Loeb]
(2008年/アメリカ/36分9秒)


わたしのお盆やすみはまたたく間におわってしまいましたが、
みなさま夏のバカンスをいかにおすごしでしょうか。
アメリカ合衆国には足をふみいれたこともなく、
知人の一人もいないので聞きかじりで書いていますが、
当地の子どもは「サマーキャンプ」なる行事にでかけるのが一般的だそうです。
米国のそれはかなりの長期にわたる本格的なもので、
子どもたちはハイキング、カヌー、キャンプファイヤーなどに興じます。
最近では演劇や音楽などの専門分野に特化したものも人気があり、
障害者や難病をかかえた子どものためのキャンプもあるそうです。
こまかいことはともかく、アメリカの子どもたちにとってサマーキャンプとは
一生の思い出になる大切なもよおしなのです。
すくなくとも学習塾の夏期講習よりたのしいのはまちがいないですね!
でも、経済的な事情でキャンプに参加できない家の子もいます。
本作は、そういう子どもたちのために設立した「キャンプ・リサ基金」の
資金あつめを目的としてつくられたチャリティアルバムだとか。
慈善事業もいろいろありますけど、目のつけどころがよいですよね。
なんだかたのしげで、応援したくなります。


『キャンプ・リサ』は、リサさんが大すきなキャンプの定番曲と、
自身のこころはずむ記憶もとにしたオリジナル曲をまとめたアルバムです。
黒ぶちメガネのリサさんは女教師然としたキャラクターの持ち主ですので、
こういう良心的な構想の作品にぴったりです。
歌声から素朴でやさしい人柄がつたわってきます。
少年少女をあつめてコーラスに参加させたり、キャンプのゲームをさせたりして、
テントやキャンプファイヤーの情景が目にうかぶようです。
リサさんは地元オースティンのちかくでひらかれたキャンプで
ギターのひきかたをまなんだそうですから、
自分のルーツにかえるという意味もあるんでしょうね。
ニール・ヤングの"Love Is A Rose"のカバーもあります。
アメリカ民謡の"Home On The Range(峠の我が家)"は
日本人でもだれもがきいたことがあるはず。
ギターの弾きがたり、もしくはシンプルな伴奏が中心で
プロらしい飾り気などまるでありませんが、
キャンプの出し物としてはこれが自然なスタイルですよね。
たぶんアメリカで子ども時代をおくった人なら、
なつかしさで胸がキリキリとしめつけられるアルバムではないでしょうか。
だってキャンプに縁のないボクでもそう感じるんだもの。


オリジナル曲も全部いいなあ。
"Going Away"は「下着に名前を刺繍しなきゃ」とか、
出発まえの準備のあわただしさをえがいた曲。
前日の夜に荷づくりをはじめるタイプのオレは、この気もちよ~くわかるよ。
"Best Friend"ではキャンプ地で友だちをつくることに成功する。

あなたはポケットに手を突っ込んで
帽子を目深に被ってた
あなたは誰も知り合いがいないみたいで
私も誰も知らなかった
で 自己紹介が始まり名前が飛び交い
みんなまじめな顔をしていたけど
あなたと私は涙が出るほど笑ってた

人見知りのふたりが、気づいたら親友になっていたという夏の魔法。
キャンプのドキドキは、学校の修学旅行では絶対にあじわえない。
"It's Not Good Bye"は、キャンプ最終日のせつなさをうたう。

さよならじゃなくてちょっとの間離れるだけ
最後まで友だちでいよう
泣かないで 来年の7月はもうすぐそこ
さよならは言わずまた会う日までと言おう


本作には恋愛を直接におわせる表現はないけれど、
集団生活で何事もおこらないわけがないよね。
リサ自身の失恋の経験も曲に反映しているかもしれない。
まあ男女のあいだのできごとはともかく、
ながいようなみじかいようなキャンプ生活には様々なドラマがあって、
そのすべてがキラキラとかがやく宝物になる。


実はオレはリサのファンでもなんでもなくて、
持ち歌もデビュー曲の"Stay"くらいしかしらないのだけど、
このアルバムは夏の愛聴盤になりそう。
透明感のある歌声も、耳にのこる素直なメロディも、
十年以上まえから全然かわっていないんだね。
オレは子どものころからインドア趣味で野外活動は苦手だったし、
キャンプファイヤーでは好きな女の子の顔もロクに見れなくて、
キャンプの思い出なんてひとつもない。
でも胸にわきおこるこの甘酸っぱい感情は一体なんなのだろう?


キャンプ・リサキャンプ・リサ
(2008/05/28)
リサ・ローブ

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うつくしきアウシュビッツ ― 『夜と霧』をみて

夜と霧

夜と霧
監督:アラン・レネ
(1955年/フランス/32分)
[早稲田松竹で鑑賞]

三本立てだけど、みじかいドキュメンタリーだけみてかえった。
最近は一日に何本もみる気力も体力も時間もなくなってきた。
でも、千三百円の価値がある三十二分だ。
あと一分つけたしただけで均衡がくずれてしまいそうなほど、
映像、ことば、音楽の密度がたかい。
ハンス・アイスラーはこの残虐な記憶に対して流麗な音楽を提供し、
皮肉で劇的な効果をあげている。

戦争終結から十年がたったアウシュビッツ。
施設は廃墟と化し、青々とした草むらの風景は牧歌的だ。
終戦後の収容所をおさめたカラー映像と、
戦争当時の白黒の記録映像や写真をつなぎあわせながら、
アラン・レネはおもくるしい記憶を目のまえにつきだす。
ユダヤ人をつめこんではしる列車をうつした映像で、
ちいさくて白いものが線路のわきにひらりとおちる。
囚人が危険をおかして、かすかな希望をたくしてなげた落とし文らしい。
人間の歴史のなかで、いや二十世紀の歴史にかぎってみても、
ナチス党がひきいるドイツによる虐殺は規模の上でおおきなものではない。
どちらかといえば小型の犯罪だ。
このできごとが歴史上に特権的な地位をしめているのは、
ユダヤ人が「文」に記録することを愛する人々であり、
その「落とし文」を丹念にあつめる理解者にめぐまれたからだろう。

レネの観察する目はするどい。
ガス室の天井にのこる無数の爪あとをフィルムにきざむ。
きれいな空気をもとめて、囚人たちが天井までよじのぼったのだろうか。
収容者の膨大な数の死体も映像にのこされている。
ナチスは脂肪を石鹸に、髪の毛を毛布に、皮膚を紙に、
灰や骨粉を肥料につくりかえようとしたらしい。
人間の脂肪から石鹸をつくるという話は、『ファイト・クラブ』にもでてきた。
女性の毛髪からつくられたという毛布のロールも登場する。
本当だろうか。
毛布をつくるのに適した原料はもっとほかにありそうなものだが。
なんにせよ、映像がもつ迫真性にかなうものはない。
とらわれ人が後代にたくした落とし文は、自身の肉体もふくめて、
ひとつの作品として精緻につむぎだされた。

みていておもったのは、アウシュビッツはうつくしいということ。
なぜこの収容所が特別なものとされているのか、わかった気がする。
突貫工事でつくられたわりには、施設はあまりに整然とたたずむ。
建物も、三段ベッドも、便所も、ガス室や死体をやく窯でさえ、
無駄がなく機能的で、目的にかなったつくりをしている。
軍事作戦の一環としておこなわれたのだから当然だけれど。
ヒトラーはわかいころ建築家志望だったが、
強制収容所にもドイツの建築思想が如実にあらわているようだ。
レネは『ヴァン・ゴッホ』や『ゲルニカ』など、
芸術についてのドキュメンタリーから映画作家の経歴がはじまった人だ。
ナチスの犯罪を告発するという目的が第一にはちがいないが、
建築作品としてのアウシュビッツにひかれた部分もおおきいのでは。
時代の要求のなかで、技術を駆使してつくられた物品と、
その背後にうごめくおぞましい狂気。
『夜と霧』は芸術ドキュメンタリーの最高傑作のひとつだ。
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テーマ : 映画感想
ジャンル : 映画

ふたなり作家・森鷗外 ― 『灰燼』を読んで

ふたなり

灰燼
森鷗外 著
[ちくま文庫版で読了]

半陰陽ってご存知ですか?
ふたなり、両性具有、アンドロジニー、インターセックス、ヘルマプロディトス
などというよびかたもあります。
第一次性徴における性別の判別がむずかしい状態をさす言葉です。
要するに男か女かわからない人のこと。
原因や特徴もさまざまで、遺伝子や染色体の構造もいくつかあり、
性器の形状にいたっては人それぞれ多様なモデルがあるとか。
「男と女」という性別の二分法も案外粗雑なものなのです。
森鷗外の『灰燼』には、相原という半陰陽の「青年」がでてきます。
しかも主人公と拳銃でたたかう場面もあったりして。
鷗外先生もヤるときはヤるのです。

今にSadismeやなんぞのような、
性欲の変態を書いて成功する人も出て来るかも知れない。
己は変生男子の小説でも処女作として書いてみようかしら。
なんにしろその相原と云う奴を見たいものだ。


「性欲の変態」!
キタキタキタキタ!
主人公である書生の山口節蔵は小説家志望でもあって、
創作の題材にしたいという目的をもちつつ相原にちかづく。
相原が下宿先のお嬢さんにちょっかいをだしてこまらせるので、
それをやめさせてくれとたのまれたのだ。

英書が少しずつ楽に読めるようになったので、ある時ポオの物を読むと、
自分の行くべき道をこの案内者が示してくれるようでもあり、
また自分の企ての無謀で危険なのを、
この先進者が高い処から見て笑っているようでもあった。


これは節蔵のかんがえをあらわした部分なのだけど、
小説家鷗外の気分が前面にでているとみてとれる。
鷗外はこの時期エドガー・アラン・ポーにかぶれて、
推理小説や怪奇小説に分類されるような作品を書いてみたかったのだろう。
それも倒錯した趣味の。
そもそも鷗外先生の作品には変態性欲の嗜好がヌキがたくある。
『山椒大夫』では、安寿と厨子王がひどい拷問にあう。

とうとう火筯を安寿の額に十文字に当てる。
安寿の悲鳴が一座の沈黙を破って響き渡る。
三郎は安寿を衝き放して、膝の下の厨子王を引き起し、
その額にも火筯を十文字に当てる。
新たに響く厨子王の泣き声が、ややかすかになった姉の声に交じる。


けなげな少女とその弟に対する残虐なしうち。
倒錯的だ。
結局夢のなかのできごとだとわかるけれど。
『高瀬舟』もこわい。
喜助が自殺をこころみた弟にとどめをさす場面がある。

わたくしはなんと云はうにも、聲が出ませんので、
默つて弟の咽の創を覗いて見ますと、なんでも右の手に剃刀を持つて、
横に笛を切つたが、それでは死に切れなかつたので、其儘剃刀を、
刳るやうに深く突つ込んだものと見えます。
柄がやつと二寸ばかり創口から出てゐます。


これは瀕死の弟の様子をえがいているわけだが、
鷗外は医者だから、このような切所でも冷静な描写に徹する。
そして、かれには人体を破壊する暴力への執着があるようにおもえる。

『灰燼』の主人公である節蔵はハードボイルドで、
ラスコーリニコフ的な虚無感をかかえたヒーローでもある。
下宿する谷田家の娘、華族女学校にかようお種さんに対しても冷淡だ。

「わたくし間が悪くてしようがないわ」と、お種さんは云ったが、
その間の悪いと云う詞も、学校で年上の女の子が使うのを聞き覚えて、
人真似に言うらしく、どうも男に揶揄われて間が悪いと云う感じが実際にあって、
それを詞に発したものとは聞き取られなかった。


良家の娘でも容赦なくその浅薄な言動を内心で軽蔑する。
節蔵は、女や女の尻をおいかけているような連中を

己は赤裸々の生活をしている。
あいつ等は衣服ばかりの生活をしている。
それに光彩があると云うなら、人世はペンキ塗だと、ふと思った。


という風に歯牙にもかけようとしない。
レイモンド・チャンドラーからの引用ではありません、鷗外です。

さあ、われらが節蔵君は物語の後半ではどんな活躍をみせてくれるのか?
十八章からは、『新聞国』と題した小説を書きはじめる。
新聞の種をつくる人と、種をひろって書く人と、それを買って読む人の
三種類の人間しかいない架空の国家をえがく寓話。
意味不明で、おもしろくもなんともない。
節蔵自身は「血の出るような風刺」と自讃しているが…。
サディズムも半陰陽もほうりだして、書けもしない風刺に手をつけて失敗し、
鷗外はこの作品を十九章でとじた。
小説を書いて同時代の社会に挑戦することからにげたといえるだろう。
その後の陸軍軍医総監は六十一歳で死去するまで、
平凡な歴史小説の執筆に没頭する。
変態性欲の兆候をオブラートにつつみながら。

灰燼 かのように―森鴎外全集〈3〉    ちくま文庫灰燼 かのように―森鴎外全集〈3〉 ちくま文庫
(1995/08)
森 鴎外

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ブラピ vs コンピュータ ― 『インクレディブル・ハルク』をみて

エイブラムズ

インクレディブル・ハルク
The Incredible Hulk
出演者:エドワード・ノートン リヴ・タイラー ティム・ロス
監督:ルイ・レテリエ
(2008年/アメリカ/112分)
[新宿オデヲン座で鑑賞]

本国では1999年10月に公開された『ファイト・クラブ』が、
二十世紀末を代表する映画であることに異論をはさむ人はすくないだろう。
エリートビジネスマンである主人公が徐々に暴力に目ざめはじめ、
巨大なテロ組織のリーダーになってしまうという常識はずれの物語。
映画では主人公がかかえている内側の暴力性を、
ブラッド・ピットが「もう一つの人格」として演じていた。
主人公(クレジットではナレーター)は最後に自分自身がおそろしい
「もう一つの人格」であることに気づくが、時すでにおそく、
デラウェア州の金融都市であるウィルミントンが目の前で崩壊してゆく。
それは2001年9月11日を予見したといえるほどの衝撃だった。
…あれ、ひょっとしてワタクシ壮絶なネタバレをしてますか?
気にせず話をつづけます。
知的で、物質的にも満足しているはずのビジネスマンの欲求不満と、
内面に巣くう破壊衝動を、エドワード・ノートンはみごとに演じきった。
この一作だけで、かれは栄光の二十世紀映画史に名をのこす。
だが今世紀にはいってからは傑作といえるほどの作品にめぐまれず、
エドワードは周囲の期待にこたえきれていない。
それはしかたがない。
『ファイト・クラブ』があまりに画期的だったから。

イェール大学卒で演技力にも定評があるエドワードが、
コミック原作のB級映画に興味をしめしたのはよくわかる。
かれは『ハルク』という素材に、『ファイト・クラブ』とおなじ主題を見いだしたのだ。
自分の内側にひそむ暴力性をどうやって克服するか。
1999年のあの映画で才能を絶賛されはしたが、
エドワードといえば「タイラー・ダーデン」、裏ブラッド・ピットをもとめられるという
苦悩の日々に決着をつけたかったのだろう。
本作の制作には積極的にかかわり、
脚本もかれの意図をかなり反映しているらしい。
逃亡さきのブラジルの場面で、ヒクソン・グレイシーそっくりの人物が出てきて
びびったが、家にかえってしらべたら本人だったので二重におどろいた。
ヒクソンの横隔膜のうごかしかたは異常だったよ。
エドワードは柔術に関心があるそうで、主人公のブルース・バナーに
その修行をさせて忍耐力を身につけさせようとしたみたい。
ポルトガル語のセサミストリートをみながら言葉をまなぶ姿も印象的。
ブラジルでの一幕はよくとれていたとおもうな。
本人がいうには、

一番大変だったのは、スタジオの人たちにアメコミ映画が
知的な作品になり得ることを納得してもらうのが大変だったかな。
アクションだけの作品にしたいと言う人たちもいたから、
一生懸命この作品に知性を持たせようと頑張ったよ。


とのこと。
なんかしらないけれど上から目線だよね。
さぞかし裏方連中にウザがられたにちがいない。

結果からいうと、エドワードの挑戦は失敗だったかな。
コンピュータがえがく緑色のバケモノは、
生身のブラッド・ピットより魅力的にはならない。
なるわけがない。
かれは本物の役者とがっぷり四つで激突する映画にでるべきだ。
でも、できる役者ほど一人芝居にはしりがちなのがかなしい。
CG自体も出来はよくない。
2003年のエリック・バナ主演、アン・リー監督の『ハルク』の方が、
緑のでかいヤツが最強の戦車M1A2エイブラムズを素手で破壊する
場面などがあっておもしろかったとおもう。
まああの映画はマッチョなエリック・バナがハルク役なので、
観客が「べつに変身しなくても十分たたかえるんじゃ?」と
しらけてしまうという缺点があったけれど。
ヒロインのリヴ・タイラーもほめられない。
パッツン前髪だし。
馬顔…じゃなかった、すこし顔が長めのリヴさんは、
前髪をのばすとかえって顔がおおきくみえるとおもいます。
パッツン反対世界同盟の一員としてつよくうったえたい。
美人は顔をかくすな!
ああ、でも運転中にメガネをかけている姿はよかった。
前髪はダメだけどメガネはOKって矛盾しているかな。
でもボクの内なる別人格がそういうのです!
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テーマ : 映画感想
ジャンル : 映画

ケンカは相手をえらべ ― 『明日への遺言』をみて

マックイーン

明日への遺言
出演者:藤田まこと ロバート・レッサー フレッド・マックィーン
監督:小泉堯史
(2008年/日本/110分)
[早稲田松竹で鑑賞]

これは世界で一番退屈な法廷映画ではないかな。
単調な審理が延々とつづいたので、心配していたとおり
オレのうしろにすわっているオッサンが大イビキをかきはじめた。
すぐに足をバシバシたたいて起こしましたよ。
主人公である陸軍中将・岡田資をかっこよくえがきすぎているため、
ハラハラドキドキの展開にならないのだ。
検察側においつめられて有罪が確定するとおもわれたそのとき、
突如法廷にあらわれた証人の一言で大逆転!
そんな劇的な場面はすこしもなく、
すべて岡田中将のねらいどおりに裁判がすすんでゆく。

岡田資は昭和二十年、東海軍管区司令官をつとめていたとき、
名古屋空襲をおこなった米軍のB-29爆撃機搭乗員をみずからの命令で処刑。
米軍から捕虜虐待罪をとわれて、横浜で軍事裁判にかけられた。
岡田は米軍による無差別爆撃こそが国際法違反であり、
搭乗員の処刑は「戦争犯罪人」に対する処罰にあたるため、
私的制裁のたぐいとはみなされないと主張した。
法律にうといので知ったかぶりでかんがえるのだが、
かれの申したては争点をひろげすぎている感があり、
罪状否認の戦術としてはよわいのではないか。
しかしかれの目的は処刑の責任を自分がすべてかぶり、
部下の罪をすこしでもかるくすることにあった。
結局岡田は昭和二十四年に絞首刑に処されるが、
かれのいう「法戦」はみごとな戦果をあげたことになる。
国が降伏したあとも、法廷において生命を賭して
たたかいぬく粘りづよさに感服せざるをえない。
米軍の法務官はさぞや手こずったことだろう。

監督の小泉堯史は黒澤組の出身で、なにかと黒澤明からの影響をいわれるし、
インタビューなどでもそれをかくそうとしない。
よくつくりこまれた法廷のセットをみると、後期の黒澤作品を連想させられる。
裏方の人間の魂がこもっているようなセットにたてば、
役者の顔つきも自然にひきしまってくるからおもしろい。
藤田まことの気合のはいった名演もさることながら、
米国人俳優からもよい演技をひきだせていた。
藤田まことの歌がうますぎてシロウトにきこえないのはご愛嬌というところか。
小泉が黒澤の助手になったのは1970年というから『どですかでん』のころ。
日米合作で太平洋戦争をえがく『トラ・トラ・トラ!』の制作途中で降板させられ、
自殺未遂をおこしたあとの作品だ。
だから本作は、黒澤の弟子による敵討ちなのだ。
撃ちてしやまむ、鬼畜米英。
映画屋の情熱も、軍人にまけずおとらず雑草のようにしぶとい。

裁判長、異議あり!
本作では敵国アメリカの役者をやとっているわけだが、
スティーブ・マックイーンの息子を名のる
フレッド・マックィーンの出自が本国でうたがわれているらしい。
端正で彫りのふかい顔だちはスティーブそっくりで、
上映中はオレもすっかりだまされていたよ。
すでにIMDbからは父親に関する記述が削除されているとか。
そりゃあないよ。
マックイーン氏のプロフィールがウソだとするなら、
それを宣伝文句につかったアスミック・エースはとんだ赤っ恥だ。
この映画のインタビューを読むと父親の話をはぐらかそうとしているのは
あきらかで、これはおそらくクロだろう。
四十六歳になって俳優転向なんていう経歴がそもそもあやしい。
でも顔が似ているからって息子を名のるなんて…アメリカ人おそるべし。
というわけで、戦争でも映画でもこの国を相手にケンカすると
ロクなことにならないとおもいしりました。
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テーマ : 映画感想
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オバマ小学校の課題図書 ― ライシュ『暴走する資本主義』

モンハン

暴走する資本主義
Supercapitalism: The Transformation of Business, Democracy, and Everyday Life
ロバート・B・ライシュ
(雨宮寛 今井章子 訳/2008年/東洋経済新報社)

「最も衝撃的で、最も心震わせた本」
「一人でも多くの日本人に読んでもらいたい」
と、巻末に勝間和代という人が推薦文をよせている。
最近本屋でよく写真がかざられているオバサンだね。
『預金残高が百倍になる方法』とか『IQが千倍になる秘密』とか、
その手の本を書いて人気があるらしい。
それはともかく、コイツとギョロ目の佐藤優の顔をみると
購買意欲がなくなってしまうのはオレだけだろうか。
その「推薦文」とやらも無内容なものだったよ。
日本人が家で料理をしなくなったのは問題だ、とかなんとか。
でもこの本が「衝撃的」で「心震わせる」という評価には同意。
逆の意味で、だけどね。

著者のライシュはアメリカの経済学者で、
クリントン政権において労働長官をつとめた。
現在はバラック・オバマの政策顧問だとかで、
その著書は「民主党政権のアメリカを予測する上では必読書だ」そうです。

本当にこういう政策が実現されるとすれば、
オバマはアメリカに本物の変化をもたらすことができよう。

『池田信夫 blog』

「本当」「本物」なんて似た言葉が連続してアホみたいな文ですね。
こんな悪文のドクショカンソーブンが上位なんだから、
グーグルとかいう検索エンジンはガラクタだとしかいいようがない。
本書は夏休みのオバマ小学校の課題図書ってところかな?
とりあえず眉をつばでぬらしながらよんでみた。

ライシュは最近はやりのCSR(企業の社会的責任)の害悪を説く。
たとえば2005年にヤフーは中華人民共和国政府の圧力に屈して、
自社のメールをつかった反体制派の名前を提出したことで責められた。
グーグルも「人権」「民主主義」などの言葉を削除した検索エンジンをつくり、
道徳的な問題がある領域に足をふみいれた。
著者はこれらの企業の行動について、
それが「利益のため」であるがゆえに肯定する。
企業は利益を追求するために存在するのだから、その判断はただしい。
もし米国政府が支那の人権問題を優先的にとりくみたいのならば、
米国企業の活動に足かせをはめる法律を通過させることができる。
ビジネスはビジネスマンに、政治は政治家にまかせろということか。
聖書のことばでいいかえるならば、
「カエサルのものはカエサルに、神のものは神におさめよ」だね。
民主主義国家なのだから、政治的な問題は民主主義の手続きを通じて
解決すべきというかんがえかたは理解できる。
今日の世界においては、政府や議会がうごくのを悠長にまっている
時間はあるのだろうかという疑問ものこるけれど。

ライシュは1970年代以降の経済体制を「超資本主義」と名づける。
資本主義が暴走するなかで消費者と投資家の力がつよまり、
労働組合や監督官庁の影響力が日に日にうすれてゆく。
肥大した企業の献金によって政治は混乱し、
民主主義の水準もはなはだしく低下した。
おいおい、CSRの弊害をかたってる場合じゃないじゃん。
これじゃすくいがないでしょ。
そして著者が書く処方箋は、
・政治資金を規制する
・法人税の廃止
・企業犯罪をみとめない
というもの。
企業は「人」ではないのだから、政治に関与する資格はないし、
納税の義務もなく、罪をとうこともできない。
ちょっとまってくれよライシュさん、「法人」は「人」でしょう。
オランダ東インド会社をモデルとしてかんがえられた
有限責任をみとめる1856年の株式会社法がきっかけとなり、
法律上の権利能力をあたえたれた「人」が経済の基本単位となった。
しかし、「人」として利益をあげて国家をしのぐほどの権力を獲得した「法人」が、
いまでは「人」としての義務を免除しろ、と生物学上の「ヒト」を恫喝する。

著者の意見はわからなくもない。
企業はいまや巨大な怪物と化した。
弱体化した政治体制ではそれをおさえることはできない。
だから、怪物は怪物同士で共食いをさせて生命力をよわめれば、
民主主義も健全な機能をとりもどすことができるのでは?
そううまくいくかよキチガイ学者!
怪物が肥えふとるのをだまってながめていれば、
二十一世紀のイギリス東インド会社がうまれるだけだ。
徴税権をはじめとするインドの統治権を手にいれ、
海軍兵力まで保有していたおそるべき「株式会社」。
なに?
いまは植民地時代じゃないから大丈夫?
なぜあなたがたはそんなに楽天的なのですか?
なんにせよバラック・オバマの背後にはこういう過激派がかくれており、
キチガイじみた政策を実現しようとねらっていることは理解できました。

こんなドクショカンソーブンを書いたらオバマ先生におこられるかな?
まあ、書きなおすのも面倒なので投稿しておきます。
オバマ先生自身はひょっとしたらいい人なのかもしれませんが、
そのトリマキがどれだけトチ狂っているのかについては
以下の記事も参照してくださいませ。

関連項目:ニホンザルを差別するオバマボーイズ
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テーマ : 政治・経済・時事問題
ジャンル : 政治・経済

映画と薬の関係 ― 『ダークナイト』をみて

薬

ダークナイト
The Dark Knight
出演者:クリスチャン・ベイル マイケル・ケイン ヒース・レジャー
監督:クリストファー・ノーラン
(2008年/アメリカ/152分)
[京成ローザ10で鑑賞]

二時間半をこえる映画は銀行をおそう場面からはじまる。
いつもおもうけれど、銀行強盗ってあんなに首尾よくできるものかな?
天井にバンバン鉄砲をうてば客と従業員がうずくまり、
ちょっとした機械をつかうだけで通信手段が無力化し、金庫に穴があく。
映画みたいにサクサクやれる仕事なら一度挑戦してみたいな。
銀行側の人間としてウィリアム・フィクナーがでていた。
鷹のようなするどい顔つきなので、ちいさい役でもすぐにわかる。
ヒース・レジャー扮するジョーカーに、冒頭の場面だけで殺されてしまうけれど。
フィクナーのように充実した経歴をもつ役者を序盤から無駄づかいするとは、
のこりの展開も期待できそうにおもえた。
『バットマン ビギンズ』も配役のうまさで成功した作品だった。
でもフィクナーをなぶり殺しにする手口は必要以上に残酷で、
不安が脳裏をかすめたのも事実だ。

ロンドン出身の映画監督、クリストファー・ノーラン。
三十八歳。
『メメント』以降の五作はすべてみているが、微妙な監督だとおもう。
『バットマン ビギンズ』は大好きだけれども。
『バットマン』というアメリカ臭芬々の素材を、英国風味にしあげる腕に感心した。
主演のクリスチャン・ベイルはもちろん、
マイケル・ケインもゲイリー・オールドマンも英国人。
飄々とした執事アルフレッドとわかい主人ブルースのやりとりは、
典型的なイギリス趣味でたのしい。
悪役専門だったゲイリーを善良な刑事にすえるセンスもしぶい。
もちろん米国人俳優もでていて、ケイティ・ホームズは可憐で愛らしく、
モーガン・フリーマンはしっかりと底部をささえている。
クリスチャン・ベイルの存在感もすばらしかった。
ムキムキと肉体をきたえあげたおかげで、アクションの迫力がちがう。
体だけじゃなくて、かれの暑苦しい個性がはまっていた。
全世界的に男らしい男は絶滅の方向にむかっているようだが、
そんな現代映画の潮流に歯止めをかける作品だといえよう。
ノーラン監督は『007』シリーズの大ファンらしく、ジェームズ・ボンド趣味と
アメコミ趣味がとけあった傑作といえるのではないだろうか。

例によって前おきがながくなりすみません。
実はこれでもけっこうけずっているのですが、必要な前提なのですよ。
ヒース・レジャーについて。
ことしの一月に亡くなったため、『ダークナイト』が遺作(のひとつ)になった。
死因に不明瞭な部分があるせいか、出演者や監督のインタビューを読むと
ヒースについての話は歯ぎれがわるい。
ただそれが逆に作品の神秘性をたかめ、
本国では興行収入の記録をぬりかえるヒットとなった。
死ぬことをまったくおそれない狂気の悪玉を演じた直後の、
謎めいたはやすぎる死。
スクリーンの背後の事情が観客の恐怖を増幅させ、
ヒースの演技は圧倒的に絶賛されている。
でもオレは評価できない。
この映画のジョーカーはただひたすら悪いだけの男じゃないか?
犯罪者なのに無欲で金には目もくれず、無計画に大勢の人間を殺し、
生きいそぐように自分の生命をなげすてようとする。
要するに病気じゃないか。
人間性に対する関心がわかず、「ブキミな男だな」としかおもえない。
こわいけれど、現実味はまったくない。
こんな病人がボスになれるほど、犯罪組織はいい加減ではありませんよ。

仏さまの悪口はいいたくないが、
撮影時のヒースはヤケをおこしていたのだろう。
死亡原因は鎮痛薬、抗不安薬、睡眠改善薬などの
処方箋薬の併用による急性中毒とされる。
去年から不眠症にかかっていて、薬にたよる生活をしていたとか。
過剰な重圧とたたかわなければならない仕事だし、
婚約解消などの私生活上のトラブルも影響しているだろう。
その後の女性の出入りもはげしかったようだ。
本作のヒースはジョーカーという役を自分のものにしたというより、
傷ついた神経をさらけだしているだけにみえる。
もちろんそれはそれでひとつの流儀ではある。
問題はかれが映画の調和をくずしてしまったことだ。
ヒースはおおきな口で共演者全員を食った。
今回は筋トレ不足のクリスチャンは終始憂鬱そうな顔で、
一体どちらが主役なのか不安になる。
あの異常にかっこいいバットモービルさえほとんどつかわせてもらえず、
さびしげにアイポッドじゃなかったバットポッドをころがしていた。
このバットポッドが貧乏くさくて、バイクの出来そこないにしかみえないんだな。

子犬のようにかわいらしいケイティ・ホームズはどこかにきえてしまい、
ケイティと同系統の顔ということなのか、マギー・ジレンホールが起用された。
ジェイクの姉さんで、決してわるくない。
ブルースは元カノのレイチェルの気をひこうとわざと派手な女あそびをするが、
かの女は嫉妬が半分、かれの意図を察しての困惑が半分という感じ。
男くさい映画にほろにがい三角関係の味をくわえている。
しかし、主人公をふったことに対する報いなのか、
あっさりとジョーカーの犠牲となってしまう。
もっと見せ場をつくってあげなきゃかわいそうだよ。
ジャック・ニコルソンの悪影響をうけたようなヒースの悪ノリに引きずられて、
演出も妙におもくるしく、冷酷だ。
この不協和音、なにかに似ているぞ。
あれだ、ノーラン監督作品の『インソムニア』(2002年)だ。
あの映画でもノーランは刑事を演じた主役のアル・パチーノの独走をゆるし、
全体の構成をぶちこわしていた。

どうもこの監督、役者にあまい人なんじゃないか。
配役がピタリとはまればよい映画をつくれるのだけど…。
映画監督たるもの、ときにはわがままなスターに対しても一喝し、
作品自体をよくすることを優先させなければならない。
本来なら胃腸薬が手ばなせないような、
銀行強盗のつぎくらいにむずかしい稼業だ。
ゴッドファーザーにはびびってなにもいえず、
私生活があれてるヒースも面倒くさいので放置。
これではよい映画はつくれない。
もちろんノーランは作品を魅力あるものにするため最大限の努力をしただろう。
ただ、現場に胃薬がたりなかったんじゃないかな。
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テーマ : 映画感想
ジャンル : 映画

藝術というカオス ― 井伏鱒二『珍品堂主人』

骨董

珍品堂主人
井伏鱒二
[中公文庫版で読了]

骨董に凝っていた小林秀雄は、なにかにつけて家にある古道具の
値段をあてさせようとするので来客者は閉口したらしい。
骨董趣味は道楽の域をこえて、あの時代の文士をとりこにした。
かれらはふるい壺をながめてくらし、ときに骨董屋にだまされたりしながら、
藝術の世界の最前線にたつための刺激をえていたのだろう。
本作の主人公は、趣味の道具いじりが高じて骨董屋になってしまった
五十七歳で通称を“珍品堂”という男。
この小説は古美術をめぐる挿話をかたりつつも、
それはひろい意味での藝術論となり、ひいては井伏の文学観をあぶりだす。
作品のふかいところにしかけられた細工がおもしろかった。

大学の哲学教授である来宮と珍品堂が議論をかわす。
そのときの来宮のセリフは有名らしいけれど、ここでも引用しておこう。

骨董は女と同じだ。他の商売とは違う。
変なものを掴むようでなくっちゃ、自分の鑑賞眼の発展はあり得ない。
骨董にも女にも、相場があるようで相場がないものだ。
持つ人の人格で相場がある。なるほど骨董に惚れたとする。
惚れるから相場があり、自分の発展がある。
しつこく掛け合っていると、いつかは相手が売ってくれる。
いつかは相手が、うんと云う。


主人公である珍品堂も「この説に異存のある筈はない」といっているから、
素直に読めばこれが作品の支柱となるかんがえだといえる。
でもどうなんだろう、「骨董=女」の比喩はイマイチわかりにくくないだろうか。
骨董は藝術作品でもあり、同時に市場で流通する商品でもある。
藝術のもつ主観的な要素、すなわち市場原理に還元不可能な価値を
強調していると読みとることはできる。
芸術は金銭より強し。
でもそれだけじゃあ陳腐すぎるよね。

しかし骨董屋の間では、贋物をつかまされたら実力がなかったと
思うよりほか致しかたないことになっている。
そのくせ、世のなかには幾万、幾十万の点数に及ぶ贋の骨董品がある。
矛盾した云いかたのようですが、古来、
真物を欲しがる人があまりにも多すぎたせいではなかろうか。
一面、だから真物が貴重だということになって来る。


「真実の美」をもとめる欲望ぬきで藝術は成立せず、
そしてその欲望が藝術作品の市場価値をうみだし、市場をひろげ、
売り手と買い手のかけひきのなかで「贋物」も量産されてゆく。
金銭と無関係である藝術など存在しない。
それはたしかにそうだろうね。
てことは井伏さん、理想と現実の中間あたりに
藝術の地位をさだめるつもりかな。
まあ妥当な判断といえるかも。

乾山にしても、芸術家らしさが無くなったときにいいものをつくっている。
おのれを出した焼物にろくなものはない。焼物は芸術作品とは違う。
要は、見る人が芸術品として感ずるかどうかであって、
見る人の目の如何にある。
これが焼物に関する珍品堂の持論であるのです。


藝術家は、おのれを殺して職人になりきったときにはじめて、
真の藝術作品をつくりだすことができる。
なるほど、ちょっとあいまいだけど感覚的に理解できる気はする。
これで『珍品堂主人』の藝術論はほぼ要約できたはず。
ゲージュツなんて単語が何度もでてきてうるさいエントリになりましたねえ。
カッコつけて旧字をつかったのもよくなかったかな。

だがしかし、これで話がおわるような井伏鱒二ではないのだな!
金策にゆきづまった珍品堂は、客に金をかりて高級な料亭をはじめる。
器も料理も主人の趣味が存分にいかされた「途上園」は大繁盛する。
ところが顧問にむかえた蘭々女なるお茶の師匠がとんでもない女で、
レズビアンの手管で女中をあやつり、店をのっとろうとする。
蘭々女に不当に解雇された会計助手をすくうために、
珍品堂は弁護士を通じて労働争議をおこす。
だがこの騒動自体が蘭々女の策略だったらしく、
結局珍品堂が店をおいだされてしまう。
なんの変哲もない骨董屋が、いつの間にか組合運動にまきこまれるカオス。
読んでいて目が白黒しましたよ。

途上園のオーナーである九谷は気の毒におもい、
「寸志」として珍品堂に鎌倉時代の瀬戸瓶子をわたす。
これはかつて珍品堂がかれに売りつけたもの。
中には売ったときのまま、貴重な永楽銭が十二枚はいっている。
古銭愛好家に珍重される「金銭」そのものが、失意の骨董屋をすくう。
藝術とは、金銭自体をも一飲みにする鯨のような怪物なのだ。
時代背景がマグマのようにふきだすカオスのなか、
藝術をめぐる風刺が閃光のようにひらめくすごい小説だ。

珍品堂主人 (中公文庫)珍品堂主人 (中公文庫)
(1977/01)
井伏 鱒二

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おどれカズダンス ― 五輪代表敗退におもう

U20

北京オリンピック 男子サッカー 一次リーグB組第一試合 ナイジェリア-日本
結果:2-1(0-0 2-1)
得点者:オビンナ(後半13分)、アニチェベ(後半29分)/豊田陽平(後半34分)
[テレビ観戦]

>反町監督の意図はわかっているつもりだ。
>谷口の運動量に賭けて、影のストライカーとしての得点を期待したのだ。
>そして、中盤の枚数をひとつふやして「数的優位」をたもつこともできる。
>しかし谷口は、中央で攻撃を指揮することはできない。

組織力より天津飯 ― 「反町ジャパン」を傍観する

金曜日にこう書いてしまったわけだが、すまないね谷口君!
後半34分にその谷口のパスから豊田のしぶいゴールがうまれた。
まあ相手のゴールキックのミスをついただけなのだが。
川崎の守備的ミッドフィールダーはきょうもシュートをはずしすぎた。
上のリンクさきをよめばわかるけれど、おれは決してかれを責めてはいない。
自陣ふかくを守備のためにはしりまわり、
攻撃にうつってはだれよりもおおくのシュートをはなった。
当然のように終盤には足がつってうずくまったが、
爪先をつかんで痛みをこらえつつ足裏をのばす姿が印象にのこっている。
だが、おじけづいて「数的優位」という妄想にすがりつき、
かれに過剰な負担をかけた指揮官をゆるすことはできない。

ナイジェリア戦にのぞみ、反町康治は各エリアごとに一人ずつ選手をかえた。
FW
森本→李
MF
梶山→細貝
DF
長友→安田
おれが最大の障害だとかんがえていた
中盤の前方に位置する三人にはまったく手をつけていない。
監督はまえの試合の攻撃の構成に満足したようだ。
まあそうだよな。
自分がかんがえた戦術なんだし、根本からまちがっているとはみとめづらい。
そしてソリさんの理想とともに天津の夏がおわる。
左の香川、右の本田は目的をうしなったままウロウロとただよう。
谷口ははてしない縦のピストン運動で消耗し、
乳酸のたまった足で得点をのがした。
もちろん谷口がゴールをきめる可能性はあった。
でもそれは指揮官が最良の選択をしたということを意味しない。
帰化人である李は、アフリカ人だけを友として64分を所在なげにやりすごす。
手前味噌で恐縮だが、おれが前のエントリで指摘した
左サイドバックの変更は十分に機能していた。
左右の不均衡はただされ、安田はすばらしいクロスをあげていた。
浪速の金狼はナイジェリア人に果敢にまたぎフェイントをいどんでいた。
いつもの安田だった。
それが一番大切なんだよ。
「組織力でたたかう」だかなんだかしらないが、
むだに悲壮感をただよわすサッカーなどみたくない。

反町は敵の守備の扉をこじあける鍵をひとつももたなかった。
ドリブラーがいないチームだ。
あえていうなら、香川真司が斬りこみ隊長の役目をまかされいていた。
香川はよい選手だとおもうが、器用すぎてプレーがかるい。
それがわるいというわけではなくて、個性の問題だ。
かれにはおなじプレーを何度もくりかえして壁をぶちやぶるひたむきさがない。
梅崎司がいればチームのたたかい方はかわっていた。
ヤツならでかいディフェンダーにむかってしつこいほど突っかけ、
ペナルティエリアにはいればコロコロころがって警告をうけていただろう。
それでもよい、絶対につれてゆくべきだった。
「日本人の個人技は世界では通用しない」というソリさんの判断だろう。
しかし通用しなかったのは「組織」だ。
だれがくずして、だれが点をとるのかすら不明の「組織」だ。
非合理的な戦術思想にガンジガラメになったまま、
代表チームは「日本らしさ」さえ表現できないまま帰国する。
長沼健が亡くなった今年、日本サッカーの成長神話はとだえた。

このチームははやい時期に監督をかえるべきだったのはたしかだ。
適任者はカナダのU-20ワールドカップに出場した
チームをひきいた吉田靖だろうか。
そもそも今回の五輪代表には、カナダにいった二十二人から四人が進級した。
安田、内田、香川、森重で、主力として天津でも奮闘している。
ほかには梅崎や柏木もえらばれる可能性があったし、むしろいるべきだった。
福元と赤いトサカの槇野が中央をかため、
両サイドバックはむこうみずに飛びだしてゆく。
梅崎はペナルティエリアの角にむかって突進し、
侵入できなければシュートをうつ。
柏木がフィールドのあちこちにかわいい顔をだし、
前線ではふてぶてしい森島があばれる。
まじめな青山隼は中盤の底で、個性ゆたかな仲間のために均衡をとっていた。
あのチームの若者たちは窮屈な規律などとは無縁で、
ゴール後のパフォーマンスのことばかりかんがえていたよ。
あれこそが日本らしいサッカーだとおれはおもう。
おちゃらけてはいるけれど、チームのためにすべての体力と精神力をささげる。
カズやゴンも日の丸を身につけたときはそんな風にたたかっていた。
派手なパフォーマンスは自分たちを鼓舞するための儀式なのだ。
まあ、単に目立ちたいという理由もあるだろうけれど。

天津での五輪代表は、ナイジェリアから一点をかえしたあと
はじめて自信を手に入れた。
「おれたちでもやれるんだ」という意気は選手たちの顔つきをガラリとかえる。
おれはこのチームに感心したことは一度もないし、ずっと批判的だった。
でも体をはって、一丸となって、足がつるまではしる男たちをみれば
素直に感動せざるをえない。
でも、その時間が十分少々というのはあまりにもみじかすぎる。
あまりにかなしいし、悔いがのこる。
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テーマ : サッカー五輪代表
ジャンル : スポーツ

熊本城、陰茎、陸上自衛隊 ― 『翔ぶが如く』を読んで

熊本城

翔ぶが如く
司馬遼太郎
[文春文庫版で読了]

この長編小説をかなりまえに読みおえていて、
感想を書こうとおもっていたのだが、むずかしかった。
すばらしい作品にはちがいない。
再読したことで自分のなかでの評価もたかまり、
著者の最高傑作なのではないかともおもっている。
司馬遼太郎が五十代はじめの四年弱をついやした長い新聞連載で、
主要な人物がきえたり、目だたなくなったりする構成上の缺点があり、
単調なできごとの羅列に退屈する部分もある。
しかし薩摩士族の颯爽としたふるまいが実にあざやかで、
その香気にゆったりひたるたのしさは何にもかえがたい。
司馬は薩摩弁を習得するために相当勉強したらしいが、
随所にちりばめられた薩摩ことばが効果的だ。
いつか芋焼酎でも飲みながらまた読みかえしたい。

だがこの小説の読後感はにがい。
晩年の司馬がとらわれた悲観主義の芽がすでにでているようだ。
かれは美的行動者としての「サムライ」が大好きで、
なかでも薩人をその代表者とみなしているようだ。
しかし作品のなかでは、近代的な権力の装置がすりこ木のように運動し、
日本がほこるべき美意識の体現者たちが抹殺されてゆく。
私見だが司馬の考えでは、おそるべき権力装置、
すなわち「官」の発生は徳川家康の時代にさかのぼる。
この歴史作家は家康がきらいで、おもくるしい社会体制が二百六十年も
つづいたせいで日本人の精神はいびつになった、という風に書いていたはず。

家康は関ヶ原のたたかいで自分に味方した加藤清正の領地を加増し、
肥後の五十二万石をおさめる大名とした。
薩摩の島津氏が反乱をおこすことをおそれ、
清正がそれに対する抑えとなることを期待したらしい。
築城の名手とされる清正は熊本城をきずき、南方の薩摩ににらみをきかせる。
そして家康が感じていた脅威が正当であったことが証明される。
かれのつくった幕府が薩摩藩と長州藩の手によってほろぼされたからだ。
熊本城も江戸幕府をまもる役には立たなかった。
そもそも加藤家は1632年に改易され、肥後国は細川氏が後をついでいる。

征韓論にやぶれて薩摩にもどった西郷隆盛らが西南戦争をおこすのだが、
熊本城は幕府が消滅したあとになってようやく真価を発揮する。
それでこそ権力装置だ。
日本最強の軍団であると自負し、周囲からもそう評価されていた薩軍は、
熊本城を本拠地とする鎮台の百姓兵など簡単にもみつぶせるとかんがえた。
しかし司令官・谷干城にひきいられた鎮台兵は勇敢にたたかい、
清正が設計した石垣の「武者がえし」もおおいに有効で、
薩兵はひとりたりとも城内に侵入できなかった。
田原坂の激闘など、抜刀し絶叫しながら敵陣にとびこむ示現流の薩兵と、
近代的軍事思想のもとで訓練された鎮台兵のたたかいはあまりに生々しく、
読んでいるだけで血のにおいがただよってくるほどだ。
酸鼻をきわめる描写もある。

攻撃部隊には戊辰のうらみとして薩人を憎む地方のものが多かったせいか、
戦闘終了後には残虐行為が頻出した。
死体はどういうわけか政府軍の兵士のために多くが裸にされていた。
なかには陰茎が切りとられて口に哺ませられていたりした。
戦争を高貴なものとして教えられてきた薩人に対し、百姓あがりの鎮台兵が
戦争の本質が何であるかを教えているようでもあった。


簡潔ながら、歴史の無残さが胸につきささるような書きぶりだ。

しかしもっとも残酷な人物は、当時においても
薩摩の実質的な支配者だった島津久光だろう。
東京の政府に対し不平をかかえていた久光は、陰に日向に西郷たちを
支援していたのだが、乱の責任を追及する勅使に対して狡猾にふるまい、
家臣であり、当時県令をつとめていた大山綱良を見殺しにした。
司馬は刑殺された大山を「道化師」とあわれむ。
久光はさらに、西郷ら首魁の数名のみを処刑するかわり、
参戦したすべての士族は放免せよ、という条件の休戦をもとめた。
戦況の不利をみて自分の権力基盤の保存をはかったのだ。
もちろん休戦請願は却下されたのだが、トノサマの卑怯な態度をみると、
サムライの美意識へのあこがれもむなしくなるというものだ。

西南戦争後、西郷の盟友で、のちに政敵となった大久保利通は暗殺される。
家康がつくり、大久保がそだてた権力装置だけがこの国にいきのこった。
熊本には陸上自衛隊西部方面隊の司令部があり、
いまも軍事的に重要な役割をになっている。

翔ぶが如く〈1〉 (文春文庫)翔ぶが如く〈1〉 (文春文庫)
(2002/02)
司馬 遼太郎

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

タグ: 司馬遼太郎 

組織力より天津飯 ― 「反町ジャパン」を傍観する

天津飯

北京オリンピック男子サッカー 一次リーグB組第一試合 日本-アメリカ
結果:0-1
得点者:ホールデン(47分)
[テレビ観戦]

日本のサッカーは「個人の能力」ではかなわないのだから、
「組織力」で勝負するべきだ。


よく聞く言葉であり、なかば常識になっているといえるだろう。
おれにはまったく意味がわからないが。
「組織力」って一体なんなの?
組織で数的優位をつくる?
ちょっとまってください、サッカーのプレイヤーは人数がきまっているんですよ。
相手が一人一人を監視したらそれでおわり。
けっきょく一対一の攻防がすべてです。
もうすこし論理的にかんがえてみましょうか。
もし本当に「組織力」が「個人能力」の差をうめることができるのなら、
一部の強国以外はみな「組織力」で勝負しているはずではないか?
そして「組織力」が世界のサッカーの主流になっているはずだ。
いやいや、日本人選手はチームに対する忠誠心がたかく、
運動量が豊富で、パスをつなぐ技術がたかい。
だからこそ組織でたたかうサッカーにむいているのだ!
…なるほどそこまで譲歩していただければ飲みこみやすくはなりました。
でもそれって「個人能力」ですよね。
忠誠心も運動量もパスの技術も。
なんで素直に「個人でたたかう」といわないのですか?
なにをおそれているんですか?

サッカーマガジン八月十九日号は、
われらが五輪代表チームの中心選手へのインタビューを掲載している。
本田圭佑、安田理大、長友佑都の三人だ。
本田はこの世代の選手では一番鼻っ柱がつよくて、
「組織教」にも毒されていないはずだったが、
本番をまえにびびったのか弱音をはいているからなさけない。

ある意味海外の良いところでもあるんですけど、
向こうは完全に「個」なんです。
でも、相手が個を押し出してくるのなら、
こっちは組織で数的優位をつくって対抗する。


ああ、かれまで臆病者の教義に洗脳されたのか。
日本人らしい運動量が自慢の長友は、女手ひとつで三人の子どもをそだてた
母親への感謝の気もちをかたっていて泣かせるが、ここにも邪教の魔の手が…。

守備では、2対1など数的優位の状況を
できるだけ増やしていかないと厳しいでしょう。


きました数的優位!
守備で数的優位、攻撃でも数的優位。
どうして都合よく日本人だけが外人を数で上まわるのか?
そもそも「数的」の「的」が意味不明。
単純に数の大小をくらべているのではなく、流動的な状況における
戦術のありかたを曖昧に表現しているのだとかんがえられる。
要するに、バカなスポーツ記者と玉蹴り屋だけが
信じている実態のない概念なのだ。
安田は…浪速の金狼はどうなんや?

僕のプレーの全部を見てほしいですね。
どんな強い相手が目の前におっても、
そこに向かっていくチャレンジ精神を見てもらいたいです。
僕は気持ちが前に出る選手やし、どんな相手でもアグレッシブにいく、
というところを見てもらいたいです。


さすがは妻子持ち、ええこというやないか!
なんもかんがえとらんだけかもしれへんけど。
いやたしかに安田はいいよ、走るだけの長友より全然いい。
川崎の暴れん坊・森勇介との対決は最高だったなあ。
それにしてもコイツの笑いの個人能力はワールドクラスだな。
直前のインタビューなのに「(笑)」ばかりだよ。
逆に心配になってしまうよ。
柏木、梅崎、家長といった選にもれた連中をネタにしてからかうのだが、
これはかれらをはげますメッセージでもある。
やさしい男なんだ。
ガンバ大阪ジュニアユース時代の先輩である本田も当然標的になっている。
本田は、ほかの選手が『プレイボーイ』を読んでいる横で
ひとりで『プレジデント』を読んでいるらしい。

前おきがながくなったけれど、試合の話。
反町監督がとった戦術は、前線に森本をすえて、
その後ろに左から香川、谷口、本田をならべるというもの。
右利きを左に、左利きを右に。
両翼の香川と本田の縦への推進力はよわく、どうしても内側をむきたがる。
相手守備陣への重圧をほとんどあたえられなかった。
それはそれでよい。
日本人は中盤に人材が豊富なのだから、
その長所をいかしてボール所持率をたかめる。
中盤でパス交換をしながらサイドバックの上がりを待ち、
「人数をかけて」決定的にくずす。
それなりに合理的な「組織サッカー」だといえる。
実際に前半は、最近なぜか絶好調の内田篤人が右サイドを制圧した。
しかしなぜ谷口博之なんだ?
前線への果敢な飛びだしがウリの男で、何度も好機に顔をだす。
健闘していたのは事実だ。
しかしあまりにはげしい上下動をしいられて、シュートに力がたりない。
非力な森本は完全に孤立し、ごついアメリカ守備陣の陰にきえた。

反町監督の意図はわかっているつもりだ。
谷口の運動量に賭けて、影のストライカーとしての得点を期待したのだ。
そして、中盤の枚数をひとつふやして「数的優位」をたもつこともできる。
しかし谷口は、中央で攻撃を指揮することはできない。
このように選択肢がすくなくなっている状況において、
きのうは内田しか敵防衛線をやぶれなかった。
反対側の長友はほとんどの時間で沈黙し、
敵の右サイドバックのウインに縦にぬかれて失点の原因をつくる。
このウインは百メートルを十秒台ではしるらしいからすごいねえ。
残念ながら長友は「2対1など数的優位の状況」はつくれなかったことになる。
もし安田が先発だったら?
春風亭小朝カットの二十歳なら百メートル十秒男にちがう応対をしただろうね。

このチームは4-4-2をベースにたたかってきたが、
指揮官は臆病風にふかれてしまったようだ。
本田の弱気発言もその空気に影響されたからなのかもしれない。
もはやグループリーグ突破の可能性はほとんどなくなったわけだが、
現地で天津飯や嫁への愛をブログでかたる安田の出番はあるのだろうか?
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感動はリメイクできない ― 「ファミコン全ソフトカタログ」完結!

ゴルビー

ファミコン全ソフトカタログ
制作者:DragonScreen2301(すくりん)
(2008年2月~8月/ニコニコ動画)

そこにはすべてがある
うたがうのなら、缺落したものをさがしてコメント欄で報告してほしい
時間の無駄だとおもうけれど
キノコ王国でクリボーを踏みつけ、戦闘機に乗って宇宙を飛びまわり、勇者として邪悪な魔王にいどみ、場外ホームランをかっとばし、巨大ロボットをあやつり、F1グランプリで優勝して、探偵として殺人犯を追いかけ、戦国時代の天下を統一、アイドルに恋して、細菌を撲滅し、オリンピックで世界記録を更新、大好きなアニメの主人公になりきり、百姓一揆をおこし、エスパーに超能力を開発してもらい、不良少年としてケンカにあけくれ、田代まさしがヒーローになり、競走馬をそだててGIタイトルを目指し…って、なんの話だったっけ
ああ、まだまだあったね
南北戦争(ノース&サウス わくわく南北戦争)、アメリカ合衆国の大統領選挙(アメリカ大統領選挙)、ソビエト連邦初代大統領(ゴルビーのパイプライン大作戦)なんていう題材もある
娯楽に関係するありとあらゆる素材がゲーム化され、ゲームになりそうにもない材料でもとりあえずためされて、全1252本のファミコンソフトがつくられた
そして失敗作ですら「伝説のクソゲー」として同世代の語り草となっている
ファミコンの登場はそれほど画期的だった
現実と娯楽の世界を一気に飲みこんで、なんでもありの「ゲーム」の世界が突然変異のようにしてうまれた
まるでゲーム自体が悪の魔王のようでもある

「ファミコン全ソフトカタログ」はニコニコ動画にアップロードされている動画シリーズで、その名のとおりファミコン全1252タイトルの十秒ずつのプレイ動画を編集したもの
資料的な価値がきわめてたかく、これを無料でたのしんでしまってもうしわけないほどだ
これだけ人気をあつめた企画を、これまで商業目的でだれもこころみなかったことを不思議におもう
著作権の問題もあるにちがいないが、要するに手間がかかりすぎるのだろうか
しかしうp主(ニコニコ動画では投稿者のことを感謝の念をこめつつそう呼ぶ)は動画をまとめる手際がよく、調査はゆきとどいており、ファミコン世代なら時間をわすれて夢中になる
この計画をおもいついただけでもえらいとおもうが、うp主は毎週日曜日に缺かさず新作を投稿し、予定どおりにシリーズを完結させたのだった
この動画集によってはじめて、ファミコンという現代の神話の全貌があきらかになった

なぜファミコンは成功したのか?…なんてお題目はおれには荷がおもい
もちろん当時の社長、山内溥の開発・販売戦略くらいは知っている
「本体は原価ギリギリの低価格に設定し、ソフトで利益を出す」
「PC的な機能を削ぎおとし、ゲームに焦点をあてた高性能」
「横井軍平、宮本茂といった才能を抜擢し、ソフト開発に注力する」
「マリオなどのキャラクターを時間をかけて人気者にそだてる」
「他社の参入には消極的で、ソフトの質を管理するためうるさく口を出した」
といったところかな
でもファミコンの爆発的な成果はあまりにも目ざましすぎて、あらゆる理由づけがウソくさくおもえる
すべては運だったのではないだろうか
山内自身が口ぐせのように言っているように
しかし任天堂は上に挙げた戦略をすこしもかえておらず、いまだにそれで繁栄しているのも事実
ビジネスにおいて成功体験に固執することはもっとも危険なのだが、この企業にはあたりまえの常識が通用しないからおそろしい

さて、気になる点も指摘しておこう
「ファミコン全ソフトカタログ 最終回」は動画によせられたコメント数を集計したランキングなのだが、すこしかたよりを感じる
『ドラゴンクエストⅣ』が一位、『Ⅲ』が二位、『Ⅱ』が十位
つまらない番付だなあ
おれがこのRPGの代表的シリーズにまったく関心がないということもあるが、『ドラクエ』は少々神格化されすぎているのではないか?
ライバル会社と合併してできたスクウェア・エニックス社は、いまも毎月のようにDQやFFのリメイク作品を発売し、それがまた懐古的なファンによくうれている
二十年まえのゲーム業界はなんでもありのごった煮で、日々あたらしいジャンルの作品がうまれていたというのに
いまのゲーム会社は過去の業績にしか自信がもてず、新作をつくることを躊躇する
ユーザーも他人の評価ばかりを気にして、陽のあたらないゲームには決して手をださない
中学生くらいになればそれぞれゲームの趣味がわかれて当然だが、いまの子は『モンスターハンター』しかやらないのだからなさけない
正直に言って、ビデオゲームの未来は暗いとおもっている
たしかに任天堂はWiiやDSによってインターフェイスを中心にハードを変革し、なかば強引にゲームを進化させた
それはそれですばらしいのだが、任天堂だけではファミコンのような「神話」はうまれない
任天堂は絶対に『いっき』を、『スペランカー』を、『セクロス』をつくることはできない
それだけははっきりしている

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リメンバー・ニュータイプ ― 『スカイ・クロラ』をみて

空

スカイ・クロラ The Sky Crawlers
出演:加瀬亮 菊地凛子 谷原章介
監督:押井守
(2008年/日本/121分)

またまたまたおかっぱ頭のヒロイン!
パッツンだかパックマンだか知らないが、いい年した女が前髪をだらだらのばすのはやめてくれ
そんなに河童になりたいのかな
パッツン前髪が男ウケがわるいのは、ちょっとでも顔の表面積をせばめようとする涙ぐましい努力を見透かされてしまうからだ
女にうまれた以上、自前の顔をまるまるさらして批評を待つべき
そして本作の女主人公は声もひどい
演じたのは菊地凛子なのだが、泥水のようににごった声は聞くにたえない
調子っぱずれでリズムはガタガタ、演技というよりはただのノイズだ
「アカデミー賞のノミニーをつかえば箔がつく」と勘ちがいしたプロデューサーが押しつけたのかとおもっていたが、実は監督の押井自身がアフレコ開始の三週間まえに独断できめたらしい
この耳ざわりな騒音が作品の緊張感をたかめていると好意的に解釈…できないか
映画を快適に鑑賞するためには、菊池の声を脳内で田中敦子に変換しながらみる必要があり、非常につかれる121分でした

実写の役者が中心となり、わかい伊藤ちひろに脚本をまかせるなど、押井は三十年の経験のなかでつちかった演出手法を大胆にあらためたことがわかる
空戦場面は圧倒的ななまなましさのCGをもちい、地上での人間ドラマは伝統的なアニメの体裁で丁寧にえがく
登場人物はずんぐりむっくりとしていて、アニメ的なデフォルメを感じる
そして先端的なCGと正統派のアニメが溶けあっているのがすばらしい
形容にこまるほどうつくしい青空をながめるだけでも、劇場に足をはこぶ価値はあった
前作の『イノセンス』よりすぐれた作品であるのはあきらかだ
『イノセンス』では邪魔くさく感じたオルゴールも、存在感のある小道具として効いていた
だれかがネジをまいておけば永遠に音楽をならしつづける、ニセモノの楽器
「マガイモノとしての風景」、「反復する日常」という、作家個人がかかえている主題はさらにふかめられたようだ

作品世界のなかでは、永遠に歳をとらない「キルドレ」とよばれる子どもが戦闘機を操縦する
「キルドレ」の具体的な実情はあきらかにされないが、これは要するに『機動戦士ガンダム』における「ニュータイプ」だろう
おとながはじめた戦争を、子どもがたたかうという不合理な世界
二十一世紀にガンダムの主旋律のリフレインが鳴りひびいている
このアムロ・レイ的主題に、レシプロ戦闘機に乗ってはかなく散った特別攻撃隊の若者たちの霊をなぐさめる意味があると、映画館のなかでふと気がついた
陰惨な目的のために若者を組織し、不毛な死へとむかって駆りたてたおとなたち、政府高官、軍の高級幕僚に対する怒りもある
レシプロエンジンのうなり声が、日本のアニメにおける古典的主題の眼目がどこにあるかをあきらかにした
もちろん現代に神風特攻隊は存在しないが、国そのものがかわったわけではない
たとえば若者を食いつぶす経済システムにはその名残りがある
あの悲観的な『新世紀エヴァンゲリオン』の「チルドレン」も同様の題材だといえるが、『スカイ・クロラ』にはより前向きな活力があるとおもう
それは反復するマガイモノじみた映像の奔流のなかで、かすかに息づいている

おっとっと
話が力みすぎたかな
つよい作家性をもつと評価される押井だが、その作品は原作つきばかりでなにがこの人の信条なのかは明瞭ではない
地味な創作である『アヴァロン』ですら、『ウィザードリィ』というゲームの下敷きがある
だから押井が、特攻隊的主題が書かれた小説をなぜ映画化したのか決めつけるのは危険だ
単に「レシプロ戦闘機の映画がつくりたかった」だけなのかもしれないから、この作家を深読みしていると『ウィザードリィ』のような迷宮にはまりこんでしまう
ニセモノの軍隊、ニセモノの戦争、ニセモノの兵士、ニセモノの恋愛…
『スカイ・クロラ』は、かろやかな映像の魔術に翻弄される傑作だ
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同級生対決! 中村とうよう vs 石原慎太郎

狼

ミュージックマガジン八月号をよんでいたら、音楽評論家・中村とうようのコラム「とうようズ・トーク」の火をふくようなはげしさにびっくりした
このじいさんが数か月ごとに感情を激発させることはしっていたが
東京都知事をつとめる石原慎太郎の六月六日の会見での発言にかみついている

イシ腹死ンダローなる男のデタラメ、イイカゲンぶりムキ出しの言葉に今さらながらアキレ果て、胸がムカムカしてならなかった。

オリンピック候補地の第一次選考を通過した四都市のうち、市民からの支持率は東京が59%で最低だったことについて石原は、

東京の人のメンタリティーというのは、非常にぜいたくになっているからね。みんな他人事と思って、肩越しにしらっと眺めている。オリンピックをやるなら勝手にやれ、ってものじゃないと思うんだな。これから機運が高まって、必ず東京の人も日本中もみんなでやろうってことになる。僕はそういう意味で、日本人を信じている。メディアはあまり信じていないけど。


と、かたっている
たしかに傲慢な口ぶりだ
オリンピック招致などというイシ腹が「勝手に」やっていることを、冷ややかにうけとめている都民を「ぜいたく」と形容するトンチンカンさを批判することにはおおいに同意する
都民から見はなされてもなお「これから機運が高まる」と強弁する知事の姿勢には、独裁者の危険な悪臭がただよっているのも事実だ
しかしとうようはコブシをまだおろさない
イシ腹を当然のようにファシストよばわりしながら、

イシ腹はぼくと同じ歳だと思うが、あの戦争の時代に受けた教育を憎悪するぼくとは正反対のファシスト、しかも幼時に受けた教育が拭い切れずにいる時代遅れの老人というよりも、アベ晋三と同じように骨の髄からの「君が代」・靖国主義者たることを戦略的に選択した悪辣な犯罪人という正体を、今さらながら見せつけた。

と非難する
インターネット上ではもっとひどい罵詈雑言が飛び交っているわけだが、やはり紙の上でみると破壊力があるものですねえ

中村とうよう(本名・中村東洋)は1932年7月17日の京都にうまれた
石原慎太郎と同年ということになる
京都大学を卒業したあと銀行勤務などをへて、ボブ・ディランやビートルズのような新世代の音楽に関する情報の需要にこたえるため、1969年に「ニューミュージックマガジン」を創刊
日本の風土とは縁もゆかりもない「ロック」という音楽が受けいれられるようになったのは、中村とうようの功績がおおきいと言われている
ロックミュージシャンが商業的に成功し、ロックが「普通の音楽」として消費されるようになるなかで、とうようはさらに世界各地の音楽に触手をのばし、「ワールドミュージック」の紹介者として活動する
まあとにかく外国の音楽の研究と紹介に明け暮れた人生だ
わが国の音楽ファンで、とうようの音楽に対する造詣の深さ、視野の広さをしらない人はいないし、よくもわるくも影響力はおおきい
たしか独身のはずで、世人なら家族のためについやす時間と資金をすべて音楽にそそぎこむことで、膨大な音源と知識をたくわえたのだ
その遺産を引きつぐ人間はいないけれども

そういう人生はむなしいといっているわけではないですよ
本人だっておのれの成しとげた仕事に誇りをもっているだろう
おれだって人づきあいより自分の関心をふかめることを優先するところがあり、要するにオタクなわけだが、すきでやっているのだから他人にどうこういわれたくはない
「世界にはまだ自分がきいたことのない音楽がある」とかんがえただけでいても立ってもいられなくなり、収蔵品が日に日に膨張して住居を占拠する
自分より音楽にくわしい人間がいれば嫉妬に身が焦がれそうになり、その知識の一片でもぬすみとろうとあがく
そしていつか音楽の世界を征服し、その道の権威とみなされたいという欲望
家族や知人からはまず理解されることはなく、ときに狂人あつかいされたりもするが、そういう種類の男が一定数存在しているのも事実だ
孤独といえば孤独だが、地平線をめざして駆けぬけてゆく一頭の馬をとめられるものはいない

しかし東京都知事は老評論家の悪罵など気にもとめないだろう
そもそもとうようの声が耳にとどくこともあるまい
三度目の任期をつとめる首都の長のまわりには、猫なで声で自分をほめそやす人間しかおいていないはずだ
都庁に出勤することも週に二三日程度で、午後の数時間しかはたらかないことも多いらしい
もと右翼活動家で、かつて石原の秘書をつとめていた副知事・浜渦武生が実際の政務をとりしきり、都庁は宦官に牛耳られた宮廷のようになっているようだ
(浜渦は予算委員会での偽証の罪をとわれていったん辞職したが、のちに参与として都政に復帰)
しかし石原は「つよいリーダーシップをもつ政治家」という印象づくりになぜか成功している
弟は大根役者だったくせにね
七十五歳の老人になにが期待されているのかはわからないけれど
この歳なら職場にでるのだって億劫だし、書類など読むふりだってしたくないだろう
たぶん都民もそういう事情をわかったうえで、この言語能力のあやしい死にぞこないを放し飼いにしているのではないだろうか
七十の老人なら、わが町を崩壊させるようなバカはやらないはずと
実際に1975年に美濃部亮吉に挑戦して都知事選に立候補したときは見事にやぶれている

ところで石原がテレビにうつるといつも目をパチパチさせて気もち悪いが、あれはチック症の症状なのだろうか
かれは人種、性別、職業、障害者などに関して侮辱的発言をすることで有名だが、自分が精神もしくは脳の障害をかかえていることに起因する卑屈なコンプレックスにちがいない
「差別発言」をするなって?
町の行政責任者が精神や脳の病気をわずらっているとしたら、それは全住民の生活にかかわる重大な問題だ
公人の精神や身体の健康については一般のプライバシーの原則はあてはまらない
あえて皮肉な見方をするならば、石原のそういう柔弱さが有権者の共感をよんでいるともかんがえられる
東京は弱者の王によっておさめられているのだ

中村とうようは五月号のコラムでも石原を批判している
2005年に開業した新銀行東京(またの名を石原銀行)の累積赤字が三月までに1016億円に達し、東京都による400億円の追加出資がきまったことだ
話によると400億ぽっちで経営が再建できるわけがなく、国際決済銀行による自己資本比率の基準を維持するための捨て金だそうだ
現知事の任期がおわるまで潰すわけにはいかないということか
これだけでもゆるしがたいが、「つよいリーダーシップをもつ政治家」の石原慎太郎はいまだに目をパチクリさせながら自分の責任を否定しつづけている

弱者の王がオリンピック招致に躍起になるのはよくわかる
いまのままでは史上最悪の東京都知事として記憶されるわけで、職務経歴書の最後に「オリンピック招致」と書きこめば「終わりよければすべてよし」で一発逆転!
人生の最晩年をささげた十二年間の激務の日々(週二三日だが)もむくわれるというものだ
そう都合よく物事ははこびませんけどね、石原さん
われわれ都民はあなたの名誉欲を嗅ぎとっているから、駅にポスターが何枚貼られていようと招致運動を応援しないのですよ
べつにスポーツがきらいだからではありません
石原慎太郎が人生ののこり時間をついやすべきなのは、時代おくれのお祭りさわぎではなく、私財のすべてを投じたうえで「石原銀行」の後始末をつけることだ
歴史の女神に断罪されるまえに
弱者があつまれば都知事になることくらいはできるが、草原をかける悍馬、断崖でほえる狼の声を掻き消すことはできない
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