優等生がおおすぎる ― リー・スモーリン「迷走する物理学」

迷走する物理学
The Trouble With Physics: The Rise of String Theory, the Fall of a Science, And What Comes Next
(リー・スモーリン 著/松浦俊輔 訳/2007年/ランダムハウス講談社)
著者のリー・スモーリンは1955年、ニューヨークうまれの理論物理学者
博士号をとったあとの1979年に、はじめての職場としてプリンストン高等研究所をえらぶ
24年前になくなったアインシュタインに面識のある人物に接触したいという期待があったのだ
学者の世界はいれかわりがはげしく、そのころには弟子や後継者はおろか、知りあいすらほとんど研究所にはのこっていなかった
かずすくないアインシュタインの知りあいのひとりであるフリーマン・ダイソンが著者を昼食にさそう
「プリンストンの居ごこちがよくなるように、わたしにできることはありますか?」
「…アインシュタインが実際にどんなひとだったのかしりたいのです」
「あいにくですが、それはお手つだいできない方のはなしですね」
「でも先生は1947年にこちらにいらっしゃって、アインシュタインがなくなる1955年までごいっしょだったではありませんか」
じつはダイソンもアインシュタインと親交をむすぶという希望をもってこの研究所にやってきた
面会の約束をしたあと、最近のこの大家の研究をしるために論文のうつしをもらう
統一理論をきずこうと努力するその学術論文をよんで、ダイソンはそれがまったくみこみのない紙くずであると判断した
まさかアインシュタインに面とむかって「先生の研究はどうにもなりません」というわけにもいかないので、翌朝に面会の予定をとりさげる
それからは科学の象徴が死ぬまでの8年間、顔をあわせることがないようさけながらすごしたという
1940年代にはアインシュタインはすでに過去のひととなり、同業者からまともにとりあわれなくなっていた
その栄光の反面なのか、物理学の女神はつねに残酷だ
マッハは原子をうけいれられず、マクスウェルはエーテルをしんじ、アインシュタインは統一場の理論をもとめ、失望をかかえたまま科学にささげられた人生をおえた
1970年代以降、すなわち著者が研究生活をはじめたころから、物理学はその基礎においておおきな進歩をみせていない
すくなくとも18世紀末からこちら、中心的な問題において四半世紀ごとに革命的な発展があったというのに
本書は30年間の物理学の歴史をまとめ、なぜあらたな革命がおきかったのかを考察し、現在の物理学者たちの「社会学」を批判的に論じて、停滞した現状をうちやぶるための糸口をさぐる
専門的な内容がかなりおおく、時空のとらえかたをわかりやすくまとめた前作の「量子宇宙への3つの道」のほうが格段によみやすい
ただ有能な物理学者が、みずからの人生と職業共同体にたいして落とし前をつけてやろうというすごみがあって、よみごたえは抜群だ
おれは自然科学にうといが科学関係の本はすきで、グリーン、サスキンド、カク、ランドールなどが書いたストリング理論がらみの著作もけっこうよんできた(もしくはよみとばした)
どれもつまらなかったが
読後感がわるく、これらの本の著者はうそをついているという印象がある
しかしさいきん日本でも、「ストリング理論は科学か」「超ひも理論を疑う」などのストリング理論を批判する書物がではじめて、ひも万歳路線は通用しなくなってきたようだ
そのなかで本書が貴重なのは、著者が一線級の理論物理学者であり、専門は量子重力理論であるとはいえストリング理論関係の研究もおおいことだ
これはストリング理論、そして物理学全体にたいする内部告発の書でもある
ストリング理論家の悪癖は、やたらと「うつくしい」とか「エレガント」とか陳腐な形容詞をつかいたがることだ
まあたいていの自然科学系の聖職者たちが本を書くと、微分積分すらできない無知蒙昧な民にたいして数式の「うつくしさ」を布教せずにはいられないものだけど
それは美意識による判断であり、理論の成果を客観的に評価する基準にはならない
ストリング理論は35年以上にわたって開発されてきているが、現段階で実行できる観測や実験によって、理論からみちびかれる予測をテストできる可能性はいまだにない
実験による検証がない理論でも、めだった問題にたいして説得力あるこたえをもたらすことができるなら支持すべきだとかれらはいう
ただしスモーリンによれば、そののぞみはうすいようだ
リチャード・ファインマンは「ストリング革命」からは距離をおいた物理学者だった
連中がなにも計算していないことが気にいりません
そのかんがえ方を抑制しないことも気にいりません
実験と一致しないなにについてでも、説明をこしらえるところも気にいりません
「やっぱりただしいかもしれない」というための作為です
ファインマン先生もそうとうひどいことをいっているが、わかい研究者たちの耳にとどきはしないだろう
そもそもストリング理論をえらばなければ大学で職をえることができないのだ
そしてストリングとかMとかいう「仮説」が不当にも理論物理学の資源を独占し、結果としてこの分野からあたらしいアインシュタインやボーアが登場することをさまたげている
1940年代から70年代にかけて大学は指数関数的にふえ、わかい科学者は卒業すればたいした就職活動をしなくても教授職を手にいれることができた
しかしそれ以降大学の数はふえず、やとわれ教授は職にとどまっているので、博士号取得者がおおきく過剰になっている
採用基準も、補助金獲得実績や論文が引用された回数などの統計的な尺度をもちいるように
現代にわかきアインシュタインがいたら大学に就職できるだろうか?というきまり文句がある
もちろんできるわけがない
当時ですら大学にうけいれられず、スイスの特許庁につとめながら特殊相対性理論の論文を書きあげたのだから
そんな稼業であるから、ストリング理論家たちの共同体が閉鎖的になってゆくのも無理はないのかもしれない
著者がストリング理論の学会にでたとき、「こんなところでなにをなさってるんですか?」とたずねられたことがあるらしい
「わたしもストリング理論を研究していて、ほかのひとがなにをしているかしりたいんです」
「でも先生はループ重力のひとじゃないんですか?」
部外者たちいり禁止の学会というのもめずらしい
学会での講演のあとの討議のなかで議論がわかれそうになると、きまってだれかが「ウィッテンならどうかんがえるだろう」といいだすとか
ちなみにエドワード・ウィッテンはストリング/M理論の教祖さまです
科学者にたいして宗教的な比喩をもちいることは最大の侮辱であり、あまりよい趣味とはいえないが、なぜかひものひとたちはその栄誉にあずかることがおおい
著者は科学者の共同体を宗教と区別するために、「想像力共同体」と定義する
ときにふるい知識をすて、あたらしい真実をえらび、正統派、流行、年齢、地位の支配をはねのけて、未来にひらかれた想像力を共有するというまとまりだ
脳の処理能力はけっこうおそまつで論証はおそく乱雑であり、科学者にふさわしい職につけなかったアインシュタインや、研究ノートにはひとつも計算があらわれず、ことばと図だけで論証していたボーアのような変人を支援できるしくみでなくてはならないのだ
熟練の職人だけでは科学は進歩しない
現代でもそういった予見者たちはひっそりと活動し、やっかいな基礎的問題にうちこんでいる
翻訳のしごとをしながら研究をつづけたジュリアン・バーバーや、ローマで家庭教師などをしながら成果を本に書いたりしたアントニー・ヴァレンティーニなどのはなしはおもしろい
奇人変人の最たるものは数学者のアレクサンドル・グロタンディークで、パリの数学界に忽然とあらわれて目ざましいしごとをしたあとパリをさり、いまもピレネー山脈で隠遁生活をしているとか
理由は研究所に軍部が金をだすことに反対したとかなんとか
第一次世界大戦のあと師匠の世代の科学者が死んでしまい、じいさんでも理解できるよう手かげんをしないで自由に研究ができたヨーロッパで、量子力学の革命がおこったことも示唆的ではある
とはいえ物理学のために世界戦争をおこすわけにもいかないよね
しかしこのリー・スモーリンというひとは、せちがらい学者渡世がながいくせにふしぎとバランス感覚がすぐれている
大学院時代にポール・ファイヤーアーベントの過激な科学哲学に衝撃をうけて、ふらふらとバークレーまで本人をおとずれるあたりがおかしい
ファイヤーアーベントは科学がよってたつと主張する「理性」をうちくだき、科学なんてものはいきあたりばったりのでたらめだとうそぶいた男
そんな科学の敵が、じっさいにあってみるとそうとうな物理学ファンであることがわかり、スモーリンは学問の道を邁進するようはげまされる
光速変動理論のジョアオ・マゲイジョとも共同研究をおこなっており、本書にもマゲイジョが登場する
ポルトガルの変人であるマゲイジョの「光速より速い光」もすばらしい本なんだよなあ
いつかかたってみたい
科学だけでなく、本だってはみだしものが書いたほうが絶対におもしろいのです
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