メイドさん注意報 ― 「坊っちやん」を読んで

坊っちやん
夏目漱石 著
[漱石全集(岩波書店)で読了]
夏もさかりが近づき、週末はおれの家の近くでもちょっとした祭りがひらかれていた
それにしても東京の人は祭りがすきだねえ
おとなしい女の子でも、祭りと聞けば目をかがやかす
おれの東京ぐらしもそこそこながいのだが、さびしいことに地元の共同体にまったく縁がないので、町内の貧乏くさいイベントに参加しようとはおもわない
そもそも郊外の千葉そだちのおれは、祭りに心をおどらせた記憶がない
この町は生活するためにある空間なのだから、余計な行事をしてもらっても邪魔なだけ
遊びたいときは自分で遊び場をみつけるよ、てなもんだ
お面をかぶってウキウキ顔の子どもを見ればかわいいとおもうけれど、距離感はうまらない
おれが江戸っ子ときいておもいうかべるのは、立川談志とかビートたけしとかかな
かなりかたよった人選にちがいないが
豪傑を気どってはいるけれど、どこか傷つきやすそうな人となり
あまり友だちにはなりたくない種類の人たちかなあ
夏目漱石の「坊っちやん」の主人公は物理学校を卒業したばかりの数学教師で、たぶん日本文学史上もっとも有名な江戸っ子だ
ちなみに映画史からえらぶなら車寅次郎
坊っちゃんは無鉄砲で喧嘩っぱやく、わざとらしいほど典型的な江戸っ子気質になっている
松山に赴任した数学教師がおこす騒動をえがきながら、漱石は田舎の風俗と対比することで江戸っ子の滑稽さをたくみにあぶりだす
さすがにまあうまいものだ
それでもおれはこの主人公をすきになれないなあ
なんだかこの人はいつもおこってばかりで、地の文がうるさく感じるのだ
ひさしぶりに「坊っちやん」を読みかえして気づいたのだが、この小説はむやみに金の話がおおい
江戸っ子は宵ごしの銭はつかわないと聞いているが、そのわりに金勘定ばかりしている
蕎麦屋に行けば金の話、温泉に行っても金の話
温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。其上に女が天目へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へ這入つた。すると四十円の月給で毎日上等へ這入るのは贅沢だと云ひ出した。余計な御世話だ。
おなじ数学教師の山嵐とは一銭五厘をかえすかえさないで喧嘩になる
そういえば、この小説におけるただ一つの劇的な事件であるマドンナをめぐる三角関係も、うらなりの昇給を口実にした赤シャツの陰謀としてかたられるのだった
坊っちゃん、やはりおかしな人だ
江戸っ子は蕎麦はすきでも女はすきじゃない、すくなくともそういうフリはする
だから堅気の女を相手に惚れた腫れたとさわぐなど野暮の骨頂
マドンナが登場する場面でも、
所へ入口で若々しい女の笑声が聞えたから、何心なく振り反つてみるとえらい奴が来た。色の白い、ハイカラ頭の、脊の高い美人と、四十五六の奥さんとが並んで切符を売る窓の前に立つている。おれは美人の形容抔が出来る男でないから何にも云へないが全く美人に相違ない。何だか水晶の珠を香水で暖ためて、掌へ握つて見た様な心持ちがした。
水晶、香水と興味ぶかい比喩をもちいてはいるけれど、舌たらずで物たりないというか
江戸っ子漱石の限界といえるかもしれない
そのかわり坊っちゃんは、物語の全編にわたって下女の清に対する執着をみせる
この「婆さん」にささげたつよい慕情が、本作をわが国民最大の愛読書たらしめているのはまちがいないところだ
話はとぶがマルセル・プルーストの「失われた時をもとめて」の登場人物のなかで、フランス人にもっとも愛されているのが主人公につかえる老齢の女中、フランソワーズらしい
よく気がつき仕事もできるけれど、変に正義感がつよくてわがままで、いっていることはトンチンカンで、そんなところがこの上なくフランス的に感じられるとか
漱石とプルーストはだいたい同世代の作家なのだが、このふたりの代表作が「メイド萌え」の主題でなりたっているのはどういう偶然なのだろうか
坊っちゃんは赤シャツに暴行をくわえて中学をやめたあと東京にもどり、月給二十五円(けっきょく最後まで金の話!)の街鉄の技手として就職し、清をまた呼びもどした
清は玄関付きの家でなくつても至極満足の様子であつたが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹つて死んで仕舞つた。
しかし最愛のメイドさんが死んだというのに、坊っちゃんは案外淡々としている
借りはある程度かえしたという満足感があったからではないだろうか
主人公を溺愛していた清は、兄ばかり贔屓する母親をみて不憫におもったのか金銭的な援助もおしまなかった
坊っちゃんはもらった三円を蝦蟇口ごと便所におとしてしまうが、清は竹の棒をつかって茶色にそまった壱円札をとりもどした
これは強烈なトラウマだといえるだろう
坊っちゃんの奇矯な言動は、献身的なメイドの滅私奉公と、ウンコまみれの壱円札三枚の幻影につきまとわれていたことが原因にちがいない
無償の愛なんてどの時代にも存在しないのです
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救世主・オブ・ザ・イヤー ― 「スピード・レーサー」をみて

スピード・レーサー
Speed Racer
出演:エミール・ハーシュ クリスティーナ・リッチ マシュー・フォックス
監督:アンディ・ウォシャウスキー ラリー・ウォシャウスキー
(2008年/アメリカ/135分)
[新宿ミラノ2で鑑賞]
熱血ヒーローを演じた1994年の「スピード」のあと作品にめぐまれなかったキアヌ・リーブスを、少々難解なSF映画の主演に抜擢したチャウチャウ兄弟はやはりえらかった
「脚本の哲学用語を理解できたのはかれだけだったから」とかいう理由をきいたことがある
救世主になりきるのは楽じゃない
カリスマ性っていうんですか、ありがたみがなくてはいけないし
まあ映画界では毎年のようにあらたな救世主があらわれるわけですが
「世界を破滅からすくう」というみずからの運命をさとるためには、複雑な「世界」のあり様を理解する知性も必要だ
全人類の期待を背負うんですから、並みたいていの責任感じゃつとまりません
そしてキアヌは黒いコートを身にまとい、ふたつの世界をかるがると行き来しながら、みごとにその使命をまっとうした
「マトリックス」の世界観はフランスの思想家、ボードリヤールの本にもとづくとされているそうだが、実際は映画の「攻殻機動隊」から影響された部分の方がおおきいとおもう
なにが現実なのか明瞭ではない世界のなかで、高度に訓練されたプロフェッショナルがおのれの存在をかけてたたかうという筋書き
ちがうのは、押井守の作品が現実と虚構の狭間にしずみこんでゆく憂鬱な色調であるのに対して、チャウチャウ兄弟の方はもっとイケイケでアメリカンなノリであることだ
演歌とロックのちがいといいますか
おい!この世界を裏で牛耳る悪者がいるんだってよ!
だったらぶっ倒しにいこうぜ!
レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの"Wake Up"を大音量でききながら脚本を書きあげたとか
「スピード・レーサー」の物語も、そういう意味で前作にそっくりだった
まるで「マトリックス」のマトリックス世界をみているかのよう
主人公のスピードは、ひょんなことから巨大企業がレースの世界を支配しており、自分が愛するグランプリはすべて八百長であったことを知る
レーサーとしての誇りをとりもどすため、スピードはたったひとりで、ほかの競技者全員を敵にまわした状態でグランプリにいどむ
ちがうのは「スピード」なのに、そこにキアヌがいないってことだけだ
二十三歳のエミール・ハーシュはいったら悪いがまだひよっ子だ
べつに美青年ではないし、つよい個性も感じなかった
「マトリックス」公開時のキアヌは三十五歳だったので、くらべたら酷な部分もある
それでも作品全体が子どもっぽい印象になってしまったのは事実だ
映像的なアイデアが豊富でそれなりにたのしめるが、ときおりはさまれる弟と猿の寒いギャグで気分はなえてしまう
場内はだれもわらっていなかった
わらいがもれたのは、猿がウンコを投げつけるときくらいだったかな
チャウチャウ兄弟はユーモアのセンスがたりない人たちだということが判明した
おめめぱっちりで近未来顔のクリスティーナ・リッチはかわいいのだが、あの刈りあげたショートボブ(またの名をおかっぱ頭)をうけいれるのには勇気がいる
最近のハリウッドじゃおかっぱがはやっているのか?
少女時代のトリクシーの方に萌えくるってしまった自分がかなしい
しかしトリクシーって、これまたトリニティーに似ている名前だな
キャリー=アン・モスのトリニティーは話の展開におおきくからみますが、トリクシーははっきりいっておまけです
母親を演じるのはスーザン・サランドン
どういう偶然かしらないが、ここ一か月でかの女の出演作をみるのは三本目だ
うまい役者なので、悪ふざけぎみの映画のリズムを熟練のドラマーのように安定させている
しかし逆にかんがえると、おもしろみがないともいえます
刈りあげボブのようにきっちりとまとまった映画でけっしてわるくはないのだが、はっきりとした中心線がとおっていないためあざやかな印象がのこらない
スターウォーズ新三部作のカメラをまかされたデヴィッド・タッターサルが撮影監督をつとめており、色とりどりの画像はたしかにうつくしい
しかしこわれた信号機みたいで目ざわりだな、とおもえなくもない
かつて主演俳優にめぐまれたチャウチャウ兄弟は、作品を必要以上に深よみしてくれるファンをまきこみながら堂々たる三部作をつくりあげた
しかし映画はしょせん映画で、おかっぱ頭はただのおかっぱ頭だ
「刈りあげボブって近未来的でステキ」と「いまどきおかっぱ頭って(笑)」は紙一重であり、本作は残念ながら後者のように受けとられる映画の系譜に属している
もうすぐ公開される押井の「スカイ・クロラ」と見くらべて、時代と映画の関係についてかんがえてみたいとおもったりもした
関連項目:重要な更新があります?―「攻殻機動隊2.0」をみて
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サッカー官僚の魔女裁判 ― 西川周作を擁護して

やつらはいくつもの顔をもっている
警察官としてはしりまわり、犯罪者をとらえ
裁判官としてその罪をさばき
教育者として若者をみちびく
Jリーグの審判のことだ
おそるべき絶対権力をまもるために自分たちの権威をおもんじ、一切の批判をゆるさない
かれらは無謬の唯一絶対神につかえる神官なのだ
失敗をおかすことなどない
たとえばテレビ中継でも、判定に疑問を呈することは禁じられている
7月20日におこなわれたJ1第18節対磐田戦のあと、大分のGK西川周作は勝利の興奮がさめないままに、自身のブログにおいて物議をかもす文章をおおやけにした
89分にうけた警告について「わざともらいました!!p(^^) 」と書き、ルールを悪用して故意に審判をあざむいたことをあきらかにしてしまったのだ
出場停止期間を効率よく消化するために知恵をはたらかせたとか
目的までしるしてしまえば、もう言いのがれはできない
西川が嘘をついているか、主審の高山啓義がだまされて利用されたかのどちらかだ
これが試合後のいきおいで出たつくり話だったとして、それをいった西川にはなんの利益もない
嘘をつく動機がない
したがって結論は単純で、フィールド上の独裁者がコケにされたということだ
しかし騒動がひろまってゆくなか大分トリニータは西川のブログの更新を停止させ(無期限)、厳重注意処分をあたえる
溝畑社長、原強化部長、古澤広報部長の三人が譴責と10%一か月の減給に処された
「Jリーグの信頼を損なうことになった」ことを理由としてあげているが、説明に具体性を欠いており、単に西川の口を封じただけという印象をあたえている
西川はブログでの発言を撤回し、Jリーグによる事情聴取の中でも「故意にイエローカードをもらったわけではない」と主張しているらしい
どうしてそう断言できるのか?
たしかに計算づくでカードを出させるのはそう簡単ではないだろう
退場処分をうける危険性だってある
しかし先ほど書いたように、西川が「オリンピック出場中にJリーグでの処分をすませたい」とかんがえていたのはまちがいない
それがなかったこととされているのが納得できない
言論に対する弾圧だ
審判はつねにただしく、ルールは無矛盾であり、不祥事はすべてフィールドの外にある
すべての問題は西川の心の中でおきたことだと決着がつけられた
まったく不合理だね!
審判は毎試合まちがいをおかしつづけ、ルールは矛盾や不備のかたまりであり、それを自分に有利にもちいようとたくらむ選手はかならずあらわれる
これが真実だ
たとえばイングランドでは2004年にデイヴィッド・ベッカムが似たような揉めごとにまきこまれたが、周囲の反応はあっさりとしたものだったようだ
「おまえがそんなに知恵がまわるわけないだろ!」
さすがに母国はたいしたものです
じつはこのエントリを書くまえに情報をあつめたのだが、西川のどのプレーが警告の対象だったのかについてまだしらべられていない
事実関係についておもわぬ手落ちがあったら恐縮です
こちらとしては基本的事実を確認せずに記事を書いているプロの記者を責めたいのですがね!
あえておれの個人的な意見をいうならば、反町ジャパンの守護神の行為も発言も支持することはできない
サッカーは観客のために存在する
ルールをねじまげてまで試合の進行をさまたげるプレーをみとめるわけにはいかない
その意味で西川は批判されるべきだが、あくまでこれは特定の立場にもとづく評価だ
リーグ戦をたたかう中での長期的戦略として賞賛する人間も当然いるだろう
西川の書いた文章には49%の嘘とともに51%の真実がふくまれている
真実とは、審判はまちがいばかりで、サッカーはいきあたりばったりの即興性と退屈な予定調和でできているということ
サッカー官僚はこの事実を封印したつもりになっているが、ちかい将来に自分たちが現実から逆転ゴールをうばわれるだろう
かれらは自分たちの権威をまもることに血道をあげ、西川を犯罪者として断罪した
それでなにが解決したのか?
観客のために奉仕することをわすれた組織に未来などない
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痙攣するガール・ネクスト・ドア ― 篠田麻里子写真集"Pendulum"
篠田麻里子写真集 Pendulum
(楽満直城 撮影/2008年/ワニブックス)
1986年うまれの篠田麻里子は福岡県前原市の出身
秋葉原を拠点とする女性アイドルグループ、AKB48のチームAメンバーをつとめている
これまでこれっぽっちも関心がなかったのだが、アマゾンの「出版社のいちおしタイトル」としてかざられていた表紙のちいさな画像にひきつけられた

115ピクセルでもかくしようのないすらりとのびた手足、やわらかそうな髪につつまれたちいさな顔
ふらふらとリンクにさそわれてもっとおおきい画像をみた
ひもをぎゅっとひきしめたような腰まわりにおどろく
横隔膜は悲鳴をあげているのではないか
猿のようにながい腕にぶらさがった手が異様におおきい
おれは指のきれいな女がすきだ
ぴたっと手のひらをあわせて指のながさをくらべてみたい
よくみると顔だちも端正だ
そしておれは通販屋に2940円をしはらった
AKB48は「エーケービー フォーティエイト」とよむのだそうだ
秋本康がプロデューサーとなり、モーニング娘などを手がけた夏まゆみが振りつけを担当している
メンバーは48名、高校生の制服を意識した衣装を身にまとい、劇場公演主体の活動をおこなっている
握手会などのエサをちらつかせたチケットやCDの売り方は悪評たかく、その露骨さから「AKB商法」などと揶揄されているらしい
しかしそのような批判は、熱心なファンをまきこんで成功したという証拠でもある
秋本康…おれの人生とはまったく縁のない男だとおもっていたが…
由緒ただしいインチキ業界人
大ベテランの一発屋
秋本といえばおニャン子クラブ、「セーラー服を脱がさないで」だ
しかし世の男たちはなぜそんなにセーラー服がすきなのだろうか?
学生時代の深刻なトラウマをひきずっているのか
おれのしるかぎり、女の子は私服でいるときがいちばん魅力的にみえるはずだが
服のセンスがわるくたって、それもかの女の個性の一部なのだから尊重すべきだ
制服なんて着るのも見るのもすきじゃない
まあ、ビキニの破壊力に陥落したおれがなにをいっても説得力がないかな
2940円のアイドル写真集に値段分の価値があるといいきれるだろうか
よくこれで商売がなりたつとおもう
「グラビアアイドル」などというおかしな文化が定着している国は日本だけなのではないか?
1991年に篠山紀信の撮影による宮沢りえの"Santa Fe"などがきっかけとなり、「ヘアヌード写真集」がブームとなる
九十年代後半からはかとうれいこや雛形あきこなどイエローキャブ所属タレントたちに人気があつまり、陰毛よりはいくらか健康的な「巨乳ブーム」が一世を風靡した
うら若い娘が素肌をさらしたところで、もはや目くじらをたてる人間などいない
じつにおおらかなものだ
セーラー服をぬがされたアイドルたちは娼婦の地位に転落する寸前でふみとどまり、ところがどっこい水着姿でいきのびてゆくのであった
バカにしているように聞こえたかもしれないが、もしこの国からアイドル、もしくはアイドル的な存在がいなくなったらおれはかなしくなるとおもう
男たちの願望をうけとめるアイドルたちは、現代社会における若々しい活気の量をはかる指標でもあるはずだ
本書の篠田麻里子嬢はじつに素敵だ
写真集だと磁器のような肌のきめのこまかさまでつたわり、とてもではないが平静ではいられない
胸は小ぶりだが、それよりも五体の均衡のうつくしさが大事だろう
両目ははなれ気味で、すこし垂れ目だ
ああ、わたしはなんて幸運なのだろう
もしかの女が釣り目だったら、全財産を麻里子嬢についやして人生を破滅させていたにちがいない
自分が垂れ目のせいか、猫や狐のような顔の女にひかれてしまう
なんにせよ、こんな女の子をつれて街をあるいたら鼻高々だろうなとおもわせる作品だ
しかし服をきた写真もおおいのだが、168cmの肢体を存分に鑑賞できるビキニの方が断然よい
着衣の麻里子嬢はまるでスーパーモデル、もといスーパーのチラシにでているモデルのよう
浜崎あゆみのPV顔負けの滑稽さだ
そしてこの写真集には、まりりんとおなじ身長の蛯原友里の亡霊が見え隠れしている
エビちゃんの人気の後押しがなかったら、男みたいな背丈で、体は骨と皮ばかりの娘がアイドルにはなれなかったはずだ
「おれはこんな女とつきあいたい、抱きたい」という曲線と、「わたしはこんな女の子になりたい」という曲線が交差するあやうい一点にしがみつきながら、アイドルはいきてゆく
麻里子嬢の日課はすくなくとも三十回以上の腹筋運動で、腹の筋肉がつってしまったことも何回かあるらしい
戦闘的なフェミニストはカメラの前で水着になるだけの職業をさげすんでいるだろうが、親からもらった生身だけでたたかえるほどこの稼業もあまくないことはしっておくべきだ

「エビちゃんみたいなお腹になりたい」とおもっていたかどうかはともかく、上の写真はひとりの女の子の日々の努力の結晶であり、その代価としてわたしたちは三千円をささげている
そしてバカみたいにおおきな黒眼鏡も、浜崎PV風の衣装もゆるしてあげたくなる
ちょっと背のびをしながらぼくたちの恋人を演じるアイドルは、わたしたちの共同体の最前線をになう先兵なのだ
ときに不自然な格好をしたり、痙攣した筋肉のせいで七転八倒することもあるけれど、だからこそかの女たちは尊いとおもわずにいられない
(楽満直城 撮影/2008年/ワニブックス)
1986年うまれの篠田麻里子は福岡県前原市の出身
秋葉原を拠点とする女性アイドルグループ、AKB48のチームAメンバーをつとめている
これまでこれっぽっちも関心がなかったのだが、アマゾンの「出版社のいちおしタイトル」としてかざられていた表紙のちいさな画像にひきつけられた

115ピクセルでもかくしようのないすらりとのびた手足、やわらかそうな髪につつまれたちいさな顔
ふらふらとリンクにさそわれてもっとおおきい画像をみた
ひもをぎゅっとひきしめたような腰まわりにおどろく
横隔膜は悲鳴をあげているのではないか
猿のようにながい腕にぶらさがった手が異様におおきい
おれは指のきれいな女がすきだ
ぴたっと手のひらをあわせて指のながさをくらべてみたい
よくみると顔だちも端正だ
そしておれは通販屋に2940円をしはらった
AKB48は「エーケービー フォーティエイト」とよむのだそうだ
秋本康がプロデューサーとなり、モーニング娘などを手がけた夏まゆみが振りつけを担当している
メンバーは48名、高校生の制服を意識した衣装を身にまとい、劇場公演主体の活動をおこなっている
握手会などのエサをちらつかせたチケットやCDの売り方は悪評たかく、その露骨さから「AKB商法」などと揶揄されているらしい
しかしそのような批判は、熱心なファンをまきこんで成功したという証拠でもある
秋本康…おれの人生とはまったく縁のない男だとおもっていたが…
由緒ただしいインチキ業界人
大ベテランの一発屋
秋本といえばおニャン子クラブ、「セーラー服を脱がさないで」だ
しかし世の男たちはなぜそんなにセーラー服がすきなのだろうか?
学生時代の深刻なトラウマをひきずっているのか
おれのしるかぎり、女の子は私服でいるときがいちばん魅力的にみえるはずだが
服のセンスがわるくたって、それもかの女の個性の一部なのだから尊重すべきだ
制服なんて着るのも見るのもすきじゃない
まあ、ビキニの破壊力に陥落したおれがなにをいっても説得力がないかな
2940円のアイドル写真集に値段分の価値があるといいきれるだろうか
よくこれで商売がなりたつとおもう
「グラビアアイドル」などというおかしな文化が定着している国は日本だけなのではないか?
1991年に篠山紀信の撮影による宮沢りえの"Santa Fe"などがきっかけとなり、「ヘアヌード写真集」がブームとなる
九十年代後半からはかとうれいこや雛形あきこなどイエローキャブ所属タレントたちに人気があつまり、陰毛よりはいくらか健康的な「巨乳ブーム」が一世を風靡した
うら若い娘が素肌をさらしたところで、もはや目くじらをたてる人間などいない
じつにおおらかなものだ
セーラー服をぬがされたアイドルたちは娼婦の地位に転落する寸前でふみとどまり、ところがどっこい水着姿でいきのびてゆくのであった
バカにしているように聞こえたかもしれないが、もしこの国からアイドル、もしくはアイドル的な存在がいなくなったらおれはかなしくなるとおもう
男たちの願望をうけとめるアイドルたちは、現代社会における若々しい活気の量をはかる指標でもあるはずだ
本書の篠田麻里子嬢はじつに素敵だ
写真集だと磁器のような肌のきめのこまかさまでつたわり、とてもではないが平静ではいられない
胸は小ぶりだが、それよりも五体の均衡のうつくしさが大事だろう
両目ははなれ気味で、すこし垂れ目だ
ああ、わたしはなんて幸運なのだろう
もしかの女が釣り目だったら、全財産を麻里子嬢についやして人生を破滅させていたにちがいない
自分が垂れ目のせいか、猫や狐のような顔の女にひかれてしまう
なんにせよ、こんな女の子をつれて街をあるいたら鼻高々だろうなとおもわせる作品だ
しかし服をきた写真もおおいのだが、168cmの肢体を存分に鑑賞できるビキニの方が断然よい
着衣の麻里子嬢はまるでスーパーモデル、もといスーパーのチラシにでているモデルのよう
浜崎あゆみのPV顔負けの滑稽さだ
そしてこの写真集には、まりりんとおなじ身長の蛯原友里の亡霊が見え隠れしている
エビちゃんの人気の後押しがなかったら、男みたいな背丈で、体は骨と皮ばかりの娘がアイドルにはなれなかったはずだ
「おれはこんな女とつきあいたい、抱きたい」という曲線と、「わたしはこんな女の子になりたい」という曲線が交差するあやうい一点にしがみつきながら、アイドルはいきてゆく
麻里子嬢の日課はすくなくとも三十回以上の腹筋運動で、腹の筋肉がつってしまったことも何回かあるらしい
戦闘的なフェミニストはカメラの前で水着になるだけの職業をさげすんでいるだろうが、親からもらった生身だけでたたかえるほどこの稼業もあまくないことはしっておくべきだ

「エビちゃんみたいなお腹になりたい」とおもっていたかどうかはともかく、上の写真はひとりの女の子の日々の努力の結晶であり、その代価としてわたしたちは三千円をささげている
そしてバカみたいにおおきな黒眼鏡も、浜崎PV風の衣装もゆるしてあげたくなる
ちょっと背のびをしながらぼくたちの恋人を演じるアイドルは、わたしたちの共同体の最前線をになう先兵なのだ
ときに不自然な格好をしたり、痙攣した筋肉のせいで七転八倒することもあるけれど、だからこそかの女たちは尊いとおもわずにいられない
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テーマ : アイドル写真集・イメージDVD発売情報
ジャンル : アイドル・芸能
サル山から遠くはなれて ― ジェラルド・カーティス「政治と秋刀魚」

政治と秋刀魚 日本と暮らして四五年
(ジェラルド・カーティス 著/2008年/日経BP社)
アメリカの政治学者で、日米の政治交流にもおおきな役割をはたした人物による自伝的書物
日本語で書いたらしい
学者ではあるが書斎にこもるのはすきではないそうで、わが国の政治家の逸話もたくさんあっておもしろくよめた
著者がはじめて日本の土をふんだのは、東京オリンピックがひらかれた昭和三十九年
中曽根康弘としりあい、かれの紹介で大分の自民党候補である佐藤文生の選挙運動につきそい、その研究結果を「代議士の誕生」という論文にまとめる
この本が評判になって、その後の自民党の有力者たちと親交をむすぶことになる
あったことがない総理大臣はあの宇野宗佑だけだとか
竹下登からは政治資金の配りかたの極意をおそわる
陣笠代議士が金丸信(床下に金塊をためこんでいた)のところに金をもらいにゆくと、金丸はぽんと三百万円のはいった封筒をわたすだけ
しかし田中角栄の場合、封筒をわたしてもその場ではあけさせない
「よしゃ、よしゃ、あけなくていい。これを使ってがんばってくれ」
代議士が事務所にもどって封筒をのぞくとあらびっくり、中には四百万円の札束が!
こうやって手下の心をつかむわけです
非常に勉強になります
著者は大分での選挙運動では日本政治独特の「お流れ」の洗礼をうけることになる
地元の支持者たちからむりやり酒をのまされるつらい役目だ
よっぱらって目をまわした「ヘンなガイジン」をみて世話人たちはおおよろこび
政治家は酒をのむふりだけをして、盃をあらう器のなかに中身をすてる作法を身につけているのをしらなかったのだ
こうやってどぶ板をふみしめながら地盤をかため、党内では金のやりとりで権力闘争をくりひろげながら、戦後の政治はつくられてきた
著者はそんな「どぶ板選挙」をけっして非難はしていない
そもそもどんな国でも政治なんてかっこいいものではないのだ
カーティスは1969年、日米の政治研究者が会談する「下田会議」にくわわる
いまではかんがえられないが、「革命」がそれなりに本気でかたられていたこの時代では、ちょっとした民間人どうしの会合も政治思想上の反発をまねいたらしい
まずは愛国党総裁・赤尾敏が会場である下田東急ホテルに突撃する
「共産主義とたたかえ」とかなんとかさけぶ赤尾を、あわててかけつけた警察が連行してゆく
お次は労働組合連合会の総評の代表団がやってきて、「アメリカ帝国主義反対!」
右に左にといそがしいことだ
そんな混乱のなか、著者は過激派の演説にまるで熱がこもっていないことに気づく
義務感で共産主義や帝国主義を批判しているだけで、かれらは日本の過去を象徴しているにすぎないと見ぬいたらしい
熱狂の高度経済成長時代をへて、日本の政治も安定期へとむかってゆくのだった
官僚の優秀さに対する信仰はおとろえたとはいえ、すくなくとも日本の経済成長や政治的安定は政治家ではなく、官僚のおかげだったと信じているひとはいまだにすくなくない
しかし重要な外交問題や、官庁間の合意がない国内政策については、政治指導者による決定がおこなわれてきた
そもそもわが国は、国民あたりの国家公務員の数が他国とくらべてすくないとか
そして自民党という政党は、選挙民のニーズに敏感な「党人派政治家」と、政策に通じた「官僚出身者」の二人三脚で政権をにないつづけた
党人派は官尊民卑の態度がぬけない元官僚に我慢がならなかったし、役人あがりの政治家は「どぶ板」政治家に政策はまかせられないとかんじていた
しかしつめたい印象の官僚出身者ばかりでは国民に愛想をつかされる
一方で当時の役人あがりの政治家は事務次官や局長の経験者がおおく、現役の官僚も元上司の声を無視できなかった
自民党というサル山でははげしいボスあらそいがくりひろげられていたが、その一方でことなる経歴をもつものどうしが手をくんでまとまり、政権の独占状態を維持してきたのだ
しかしいまの自民党では地方政界からのしあがる議員は激減し、いわゆる「二世議員」にとってかわられた
かれらはどぶ板選挙や派閥の権力闘争をバカにしているわけだが、ぶっ倒れるまで「お流れ」で苦労した父親のおかげで自分が現在の地位にあることを理解できないのだからわらってしまう
「官僚→政治家」というコースもいまでは様変わりしてきている
六回当選しないと大臣になれない自民党の組織構造では、五十歳をすぎて政界にうってでてたところで大臣になるころには引退の時期をむかえることになる
したがってわかくして政治家に転身する官僚がふえたが、ペーペーではコネも経験もとぼしくて役にたたない
自民党の非公式の調整メカニズムは機能しなくなり、民主党の躍進におびやかされることに
しかし「単一民族」である日本社会における小選挙区制においては、候補者が51%の票をとろうと運動をおこなうため、各党の政策は似たり寄ったりになってしまった
アメリカ流の小選挙区を導入すれば「政策中心」の選挙になるとさんざんいわれていたのにね
結果としていまの政治では党のリーダーに過剰にスポットライトがあたり、選挙は党首の人気投票に堕してしまった
活発だったサル山はいつの間にかさびれ、退屈なサル回しの芸がはじまった
われわれはいつまであくびをかみ殺しながらおつきあいしなくてはならないのだろうか
![]() | 政治と秋刀魚 日本と暮らして四五年 (2008/04/10) ジェラルド・カーティス 商品詳細を見る |
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テーマ : 政治・地方自治・選挙
ジャンル : 政治・経済
重要な更新があります? ― 「攻殻機動隊2.0」をみて

GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊2.0
出演:田中敦子 大塚明夫 山寺宏一
監督:押井守
(2008年/日本/85分)
[新宿ミラノ1で鑑賞]
となりでやっているウォシャウスキー兄弟の「スピード・レーサー」とどちらをみるか迷っていたが、ひろい劇場のミラノ1にはいることにした
オリジナル版はすでにみていたのだけれども
そうささやくのよ、わたしのゴーストが
攻殻機動隊(オリジナル版1995年公開)のパクリ映画で富と名声をきずいたチャウチャウ兄弟だが、新作ではずっこけてキャメロン・ディアスのロマコメにもまけてしまったとか
人生ってきびしいわね
映画がはじまって三十分くらいして気づいたのだけれど、おれはじつはこの映画は未見だった
たしかDVDをかりてみた記憶があったのだが…
いつゴーストハックされていたのだろう
「2.0」では、3Dのカットをいれたり音声を大幅に変更するなどしているらしい
とくに銃声はなまなましくきこえた
CGによる人物の造形はつまらないし、出来もよくなかった
おれはアニメ自体もすきではなく、スクリーンでは生身の役者による演技をみたい
押井守作品だったら実写の「アヴァロン」がいちばんよいとおもう
新規アフレコにより、田中敦子の非情でありながらもかすかに官能のほのおがゆらめく声を堪能することができた
草薙素子という役をそれこそゴーストのように完全に自分のものとしているのがすばらしい
どっちがどっちのゴーストなのかはわからないが
荒巻大輔は、TVアニメ版の飄々とした阪脩のほうがふさわしいとかんじた
それはともかく、タイトルの小数点と小数第一位は意味不明瞭ではずかしい
とはいえこまかい修正点を更新した上で、ふたたびこの2008年の劇場にかける価値のある作品にはちがいない
十年や二十年でふるびたりはしない傑作だ
いまの押井自身も「アニメーションのピークの時代に作られた作品」だとかたっている
現役の作家がそういったところでなんの得もないので、たぶん本当なのだろう
士郎正宗による原作の漫画はごちゃごちゃしたコマ割りとだいぶかたよった政治的姿勢が特徴だが、映画では禁欲的な美意識につらぬかれた様式がとられている
登場人物はみな無表情で人形のようであり、雨、海、川が画面のおおくを占めて、水が視覚上のモチーフとなっている
そして原作の主題がよりきわだってつたわる
政治、経済、文化、道徳…ありとあらゆるものがウソくさくニセモノじみた現代社会
おのれの肉体ですら何者かに管理されており、本物であるとはいえない
それでも「自分」は存在する
しているはず
そんな世界の中ですくなくとも自分にだけは通用する正義をもとめて、公安9課の面々は生命(とよばれているもの)を賭けてたたかう
草薙素子は光学迷彩で水のように姿をくらましてネットの海をおよぎ、魚のような目をにぶくひからせながら犯罪者にくらいつく
敵役である「人形使い」は、単純にいってしまえば宗教の比喩だ
素子は最上位概念である人形使い=神と融合することで、よりひろい世界にアクセスすることができるようになる
すべてが「偽物」だというのならば、どこかに「真実」が存在しなければならない
それが神であり、宗教のネットワークなのだ
結果論ではあるのだが、この映画は二十一世紀初頭の国際情勢を予見していた
イスラム教とキリスト/ユダヤ教のネットワークが不正規戦争をたたかう世界
9.11やイラク戦争をイメージしていただきたい
第二次世界大戦や冷戦の時代には建前だけでものこっていた社会正義がわすれられるなか、今日もネットワークの支配をめぐって顔のみえない兵士どうしが不毛な殺しあいをくりひろげている
国家の正義ではなく、自分のゴーストのため、神のために
シカゴうまれのチャウチャウ兄弟はこの主題を無視して映像のかっこよさだけを剽窃したため、「マトリックス」シリーズは凡庸なできとなってしまった
淘汰を生きのびる映画と、そうでない映画があるようだ
おれは押井守にあったことがある
五反田駅の改札口で背のひくい犬のような顔の中年男とすれちがったのだが、あとでそれが押井であることに気づいた
もちろん声をかけたりはしていないから、それが本物の押井であるかどうかは保證のかぎりではないけれども
むしろおれのゴーストがみせた幻影であったほうが押井守的というか攻殻機動隊的というか
われわれの世界ではなにがおきてもおかしくないし、なにもおきていないかもしれない
そもそも読者であるあなたが、わたしが真実を書いているとしんじるべき理由はない
それにこのブログを実在する人間が書いているという根拠はありますか?
ネットは広大だわ…
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ティアラをつけたメグ・ライアン ― 「魔法にかけられて」をみて

魔法にかけられて
Enchanted
出演者:エイミー・アダムズ パトリック・デンプシー ジェームズ・マースデン
監督:ケヴィン・リマ
(2007年/アメリカ/107分)
[DVDで鑑賞]
ふと気づいたのだが、この作品はおれがはじめてみた「ディズニー映画」だ
お姫さまがウロウロする話をこのむ男はあまりいないのも事実だが
ひごろ知ったかぶりをして映画をかたっているが、ヘボブロガーの鑑賞歴などその程度のものです
そんなわたしも「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」でエイミー・アダムズの虜になり、食わずぎらいを克服することができました
ありがとうエイミー姫
ディスクをノートPCに差しこむまえから、魔法ははじまっている
「むかしむかしあるところに…」からはじまり、突然あらわれる王子さまのキスですべての決着がつき、「…そしてふたりは末永くしあわせに暮らしましたとさ」でおわる物語
だまされやすい子どもたちでも、さすがにいまさらそんなおとぎ話は通用しない
それならディズニーアニメのお姫さまを、ニューヨークにそのままつれてくればいいじゃない
ふわふわのドレスも、唐突にはじまる歌とダンスも、「ただ一度のキス」でちかわれる永遠の愛も、とりあえずアリになるし
だってかの女はお姫さまだもの!
でもこれはかなりむずかしい賭けだ
少女たちは大都会で右往左往するプリンセスに幻滅し、いい歳をしてディズニー映画をみているおとなたちは名作への冒涜とおもうかもしれない
じっさいに制作は難航したようだ
2002年にはクランクインするはずが、スタッフや脚本の度重なる変更をへて2007年11月にようやく公開にたどりつく
動物といっしょに掃除をしながらうたう「歌ってお仕事(Happy Working Song)」は、最先端のCGと調教師にトレーニングされたネズミやハトのハーモニーがたのしめる
ゴキブリのダンスは勘弁してもらいたいけれど
「想いを伝えて(That's How You Know)」はセントラルパークにいろいろな人種、いろいろなパフォーマーがあつまって恋のすばらしさをうたいあげる
途中で出てくるじいさんばあさんはむかしのミュージカル映画に多数出演していたベテランのダンサーだそうで、本作は過去の作品への敬意がかんじられてみていて気分がよい
エイミー姫の歌声もすばらしい
お姫さまらしい素っ頓狂ともいえる高音でうたっているのだが、都会の風景にやさしくなじんできこえるのが不思議だ
ニューヨークのど真ん中ではじまるミュージカルの不自然さも、エイミー姫の屈託のない笑顔をみているとゆるしたくなってしまう
まるで魔法みたい
現代都市に追放されたプリンセスをたすけるパトリック・デンプシーがじつによい
離婚をあつかう弁護士の役で、娘とふたりで暮らしている
ディズニーアニメと現実世界のつなぎ目となる、簡単とはいえない役どころだ
娘のプレゼントに伝記をあげて、「本なの?」といやな顔をされるまじめなパパぶりがおかしい
険悪な夫婦関係を処理する毎日をおくるインテリなのだが、永遠の愛をしんじるプリンセスによってじょじょに心がひらかれてゆくさまをうまく演じている
アンダレーシアからの客人と子持ちの弁護士が「そんなのはおとぎ話だ!」などと議論しながら、おたがいをふかく理解してゆく筋がきはとても現代的だ
設定がぶっとんでいるので目がくらまされるけれど、ようするにこの映画はロマコメなのです
メグ・ライアンがおいしいところをすべてもってゆくアレです
都会での熾烈な生存競争のただなかで、大切なひとたちをまもりそだてるという生き方
それはおとぎ話の王子さまより尊いのだと映画はうったえている
そしてエイミー姫
ぼくより年上のプリンセス
サファイヤのようにおおきくかがやく瞳、たかく秀でた頬、きりりとした鼻柱、かわいらしい口元
普通なら結婚式でも躊躇しそうな、ふわふわの純白のドレスがよく似あう
33歳なのにそばかすをのこしたような肌のきめで、たしかにお姫さまにみえます
どの国の姫君にも実際にお目にかかったことはないので、想像でいっていますが…
この映画ではいつもニコニコ、なにもかんがえてなさそうなところがよいです
でも年齢のせいなのか、みていて安心感があります
むしろロマコメのヒロインとしては最適の年格好ともいえますね
女性の観客は同性の役者にきびしいので、尻の青い小娘ではメグ・ライアンのかわりになれません
そしてたのもしい姫さまは、われらが現実世界に舞いおりて二三日で環境に適応してしまう
「妖精より役にたつ」魔法のカード、クレジットカードで買いものをたのしんだり
さっそく「デート」という現代の習慣を理解して実行にうつし、まわりの男たちをしっかりと品くらべした上で、安易な運命や「ただ一度のキス」などではなく、みずからの意志で生涯の伴侶をえらぶ
けっきょく女性の適応力と合理的な判断力にはかなわないというわけです
故郷に未練はないのか?
そもそもロバートは元妻となぜわかれたのか?
ナサニエルが良心に目ざめたきっかけは?
龍があばれる最後の場面が適当
ゴキブリがきもい
エイミー姫のしわをごまかせていない
…などの疑問点もありますが、重箱のすみをつつくのは野暮ってもんでしょう
だってこれはディズニー映画だもの!
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幽霊たちの逆襲 ― 三遊亭圓朝「怪談牡丹燈籠」

怪談牡丹燈籠
三遊亭圓朝 作
[岩波文庫版で読了]
夏だ!
怪談の季節ですね
稲川淳二の稼ぎどきでもあります
しかしなぜ夏になると急に怪談の需要がたかまるのだろう?
さいわいこれまでお目にかかったことはないが、幽霊が夏だけに活動するとはおもえないのだが
この疑問にこたえるべく仮説をたててみた
幽霊の活動を活発化させた犯人は日本政府だ
明治六年のグレゴリオ暦(新暦)採用により、旧暦7月15日におこなわれていた「お盆」が新暦8月15日に一月ずれることになる
新暦採用による季節感の齟齬をただすための処置であり、これを「月おくれの盆」とよぶ
同年に旧暦の盆の実行にこだわった山梨県に勧告をだすなど、政府は暦の変更をつよく全国に強制した
盆といえば正月とならぶ日本人にとっての重要な儀式だが、新暦でも1月1日からうごかなかった正月とちがい、盆はその暦の上でのよりどころがよわまってしまう
そもそも「正月」を1月1日からうごかせるわけがないし、お盆は「国民の祝日」という権威もあたえられずに冷遇されてきた
盆についてまわる仏教や土俗の要素が、神道にちかい政府からきらわれたのか
一般企業は8月15日前後は休日であることがおおいが、官公庁や金融機関は通常営業をしているし、現在のお盆には「ゴールデンウィーク」とおなじ程度の意義しかない
だから夏になると日本人がおもいだしたように幽霊話に夢中になるのは、うしなわれつつある盆の習俗をとりもどし、霊をなぐさめようという代償行為なのだろう
この説にはけっこう自信があります
さて、三遊亭圓朝の怪談のはなし
圓朝は幕末から明治期に活躍した落語家で、この「怪談牡丹燈籠」は明治十七年に速記本がはじめて出版された
こんなにおもしろい小説(著述ではないが)はひさしぶりによんだ気がする
幽霊はでてくるが超自然現象でおどかすことはなく、モダンな印象をもった
そもそも「真景累ヶ淵」の冒頭で圓朝はこうかたっている
今日より怪談のお話を申上げまするが、怪談ばなしと申すは近年大きに廃りまして、あまり寄席で致すものもございません、と申すものは、幽霊というものは無い、全く神経病だということになりましたから、怪談は開化先生方はお嫌いなさる事でございます。
怪談が「開化先生」がふかす逆風のなか語りつがれてきたことがわかる
たしかに「牡丹燈籠」はこわい
でもそれは幽霊のこわさではなく、人の心のこわさだ
おとなしい若侍の飯島平左衛門が、抜刀するや否やからんできた浪人を無残に切りきざむ導入部からそのまがまがしさにひきこまれる
そして敵討ちという主題が物語にからみつき、血のにおいをこびりつかせる
恋愛の描写もひかえめではあるがなかなかのもの
平左衛門の娘のお露と、その恋人である新三郎の逢瀬の場面
両人ともにその晩泊り、夜の明けぬ内に帰り、これより雨の夜も風の夜も毎晩来ては夜の明けぬ内に帰る事十三日より十九日まで七日の間重なりましたから、両人が仲は漆の如く膠の如くなりまして新三郎も現を抜かしておりましたが、…
「両人が仲は漆の如く膠の如く」という表現がエロティックというか、植物っぽくて不気味というか
このお露が幽霊となり新三郎にとりつきます
一番おそろしい場面は、この演目における極めつけの悪党である伴蔵が、若い女と浮気をしていることがばれて糟糠の妻のおみねを殺すところ
みね「誰も来やアしないよ、どこへさ。」
伴蔵「向うの方へ気を付けろ。」
という。向うは往来が三叉になっておりまして、側えは新利根大利根の流にて、折しも空はどんよりと雨もよう、幽かに見ゆる田舎家の盆燈籠の火もはや消えなんとし、往来も途絶えて物凄く、おみねは何心なく向うの方へ目をつけている油断を窺い、伴蔵は腰に差したる胴金造りの脇差を音のせぬように引こ抜き、物をも云わず背後から一生懸命力を入れて、おみねの肩先目がけて切り込めば、キャッとおみねは倒れながら伴蔵の裾ににしがみ付き、…
こういうのを名調子というのか、たくみな風景描写が残酷さをきわだたせていることだなあ
それにしても江戸時代の物語というのはサディスティックというか、ときに非人間的といえるほどの唐突な暴力にうったえるので背筋がさむくなる
そんな陰惨な話が庶民にうけていたのだから、あの時代の精神はそうとうに鬱屈している
それこそ現代とおなじくらい
幽霊も稲川淳二も、その出番がへることはとうぶんなさそうだ
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死と変容 ― Perfume "love the world" "edge"

love the world
Perfume
作詞・作曲:中田ヤスタカ
(2008年/24分23秒/徳間ジャパンコミュニケーションズ)
かの女たちの実質的なファーストアルバムである"GAME"は自他ともにみとめる傑作ということになっているが、過大評価のきらいがなくもない
アルバム制作は工程に余裕がなく、楽曲の質や統一感がいまいちだったとおもう
"チョコレイト・ディスコ"や"Twinkle Snow Powdery Snow"のような古い収録曲のほうが、どうしてもききくらべて魅力的にかんじられる
贅肉をそぎおとしつつドライブするタイトル曲や、かわいくてせつない"puppy love"などで新境地をひらいていたのは事実だけれど、アルバムを一枚とおしてきくことはほとんどなかった
そんななか7月9日にあたらしいシングルが発売された
これがなんともすばらしい
やはりアイドルはシングルにかぎりますね!
暗いB面が明るいA面にたいするアンサーソングのようになっていて、陰と陽が宙になげられたコインの裏表のようにみえかくれしながら歌の世界をふかめてゆく
"love the world"では、アゲハチョウのようにひらひらと舞うフレーズにみちびかれてやさしい歌声がながれだす
いつものように声は加工されているが、のっちが前面にでてきこえる
こっそり秘密をあげるわ
ずっとすきにしていいのよ
きっとキミも気にいるよ
ふたりだけの特等席
だれがなんといおうと、のっちの甘くぬれた声質はPerfumeの最大の武器だ
脳のなかの普段つかわない部分が刺激され、すきな女の子とふたりきりになったような心のたかぶりをおぼえる
"GAME"にたりなかったのはこれなんだよ
転調を多用しているらしくけっして単純な構成ではないが、サビはキャッチーでたのしい曲だ
刺激的 ほらステキ
みえる世界がきらめくわ
やわらかな キミのタイミング
ずるいでしょ チュチュチュ
love love the world
日本の「世(よ)」ということばは男女の仲を意味し、さらにひろく世間一般のこと、現実世界そのものをさすこともある
高校の古典の授業でそうならったときは、腑におちなかったものだ
わがごとく我を思はむ人もがなさてもや憂きと世をこころみむ
(わたしが相手をおもうようにわたしをおもってくれる人がいてほしい。それでも人と人のなかはいとわしいものなのかためしてみたい)
でも、「彼氏といっしょにいるときに、いちばん世界に存在するという実感をおぼえる」というわかい女の子はけっこういるかもしれない
でもって「やわらかなタイミング」でキスをもとめられたりして
男の子らしい欲望に翻弄されつつも、恋愛のあまずっぱいよろこびが曲にあふれている
だれか書いたシナリオ?
まだ このさきがみえない
一番星さがす 手がふるえても
しかし一筋縄ではいかないystk先生、Bメロの歌詞に不安の種をまいている
神でもなんでもよいけれど、いまのふたりの関係はだれかがさだめた筋書きの一場面にすぎないかもしれなくて、まだみぬ将来の不吉な予感にかすかにふるえる
唐突な口づけも、ひょっとしたらなにかのおわりをつげているのかもしれない
B面の"edge"はもっとそっけない曲で、おもたいビートのくりかえしがつづく
むかしはやっていたケミカルブラザーズみたいな曲調だ
「だんだん すきになる きになる すきになる」のフレーズが八回反復されながらじょじょに変容し、いつのまにか英語の歌詞にかわってゆく
ここでものっちらしき巻き舌のボーカルがきこえる
冥界に一歩ずつおりてゆくような感覚
だれだっていつかは死んでしまうでしょ
だったらそのまえにわたしの
いちばんかたくてとがった部分を
ぶつけて see new world
あからさまに「死」が、かの女たちの口から二回もとびでる
公式の歌詞は"see new world"だが、実際には"死ぬよ"にきこえる
そうかんがえれば、"new world"もどこの「世界」をさすのか意味深長だ
女の子にとって恋愛はおもうようにならなくてもたいせつで、だからこそその刹那において、じぶんがいちばんじぶんらしくありたいとねがう
絶対にゆずれない矜持がそこにある
それを相手にもわかってもらいたい、でもそのすべてをわかってもらえはしないことも自覚している
恋愛のそういう不完全性もふくめてうけいれる覚悟が、「死」という表現にあらわれている
聞き手をふかいところへいざなう死の天使たちは、地獄の底につまさきをつけた瞬間に翼をひろげながらうたいあげる
そうなんだね それはそんなかんじで
you say! oh yeh! I loving you yeh!
ああそっかで 話きいてないのね
I know. oh yeh! say loving you yeh!
いろいろ解釈はあるだろうが、恋人の無関心をなかばあきらめつつもなげいているとみてよいだろう
けっきょくキミはわたしの外面しかみていないんじゃない?
もちろん顔も髪型も服もだいじだし、ほめてもらえればうれしいけれど
でもわたしたちがいっしょにいるのは、それだけが理由じゃないでしょう
すきなのは見た目だけじゃない?性格もすき?
ちがうのよ、そんなことをいってるんじゃないわ
どう説明したらわかってもらえるのかな
…三十男がこんなふうによみといてみました
青春の光と影を十分あまりの二曲に完璧にとじこめた、あまりにもうつくしいシングルだ
しかしこれらの曲の陰影はあまりにも輪郭がはっきりとしすぎて、現在進行形の女の子たちのこころに直接とどくのかどうかはおぼつかない
曲のなかでPerfumeがえんじるヒロインたちは同世代の平均をはるかにこえて感受性がするどく、人生をいきぬくために必要である以上に運命のはかなさを理解しすぎているようだ
すれっからしの聞き手にとってはそこがおもしろいわけだが
死の天使たちは、神=ystkの意図に忠実すぎるともいえる
とはいえ、いま世界でこの陰のあるラブソングをうたいこなせるのはこの三人だけだろう
そういう意味では神が天使たちにふりまわされているといえなくもない
神が天使を支配しているというのは幻想であって、天使の存在によって神ははじめて神であることができるのかもしれない
なにかと深よみをしすぎるおれもその魔力の犠牲になっているのだろうか
それはそれでよいのだけれども
のっちとボクが「ふたりだけの特等席」にいる、とかんじさせてくれてこそのアイドルなのだから
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北村典子通信vol.2 ― バンブラDXが不毛の地を開拓する

http://touch-ds.jp/mfs/st91/interview.html
北村典子
任天堂・企画開発本部環境制作部
かの女のバンブラDXにいたるまでのしごとについては、下のリンクさきを参照してください
世界最強のOLが京都にいた ― 任天堂・北村典子の伝説
ゲームはひとりより複数であそんだほうがたのしい
これは真理だ
コンピュータは人間のふりをしてあそび相手になってくれるが、けっきょくむなしい
そしてインターネット環境が普及することで、当然のようにゲームの世界は革命的進化をとげることが期待された
わざわざ友人を家によばなくても、同好の士を瞬時に世界中からもとめることができる
ビジネスチャンスは無限だと、證券アナリストたちも本気でかんがえていた
しかしじっさいのところ、インターネットはゲームの進化にまったく貢献しなかった
皆無だ
いまも電話線をつうじておおぜいが、銃をうちあったりなぐりあったりしている
ようするに殺伐とした殺しあいだ
その種のゲームに習熟していない人間が敷居をまたげば、あっという間に抹殺される
プレイヤーどうしが結束する、MMORPGのようなたのしみかたも支持されている
しかしそれらのゲームは、時間や金を投資できない人間ではたのしめないつくりになっている
せっかくゲームにインターネットを導入したのに、いちげんさんおことわりの閉鎖的なコミュニティが形成されるようでは意味はなかったといえるだろう
フェイストゥフェイスのコミュニケーションは偉大であり、コンピュータによるネットワークはそのつたない模倣にすぎないようだ
ゲームがインターネットをつうじて横にひろがった例がないわけではない
Xbox360の「アイドルマスター」は、ファンがゲーム内の画像をじぶんのすきな曲とあわせてムービーをつくり、それをニコニコ動画などの動画共有サイトにアップロードするのが人気だ
しかし「アイマス」だけが飛びぬけてこの分野で支持されているのは、たまたまゲームの発売とニコニコ動画というサイトのサービス開始の時期がかさなったからだろう
発売元のバンダイナムコゲームスは、この展開をまったく予期していなかったにちがいない
そしてここでは「アイドルマスター」というゲームじたいは「素材」にすぎない
ユーザーは勝手に曲をえらび、勝手なソフトをつかい、勝手に素材を切り貼りし、勝手なサイトに動画をアップロードする
この「勝手気まま」というのが問題なのだ
ゲーム会社は、とてもではないがそれをとりしきることなどできない
たとえば一般に人気のある楽曲をサーバにアップロードすれば著作権が発生する
好き勝手に動画をつくられたら著作権料は膨大になってしまうし、かりにそれを販売するにしても、しろうとのつくった作品の品質をどう管理するのかという問題がしょうじる
しかし自由気ままにたのしめるからこそ、あそびの輪がひろがるともいえる
「共有」といえばきこえはいいが、そこにはなやましいジレンマがあるのだ
さてここでわれらがお団子ヘアの屯田兵、北村典子女史が登場する
かの女は前作の「大合奏!バンドブラザーズ」の反響として、掲示板やブログなどで「バンブラ職人」があらわれたことに賭けをおこなう
初期状態のソフトに収録されている曲をおおはばに割愛するかわり、すきな曲を勝手につくって任天堂のサーバにアップロードでき、しかもそれをだれでも無料でダウンロードできるという夢のようなシステムを構築する
なんでも著作権料100曲分までをダウンロード実績に基づいて任天堂が支払うというとりきめのおかげで、ユーザーは100曲までは追加料金なしでデータを手にいれられるとか
そして全国の「職人」たちにたいしては「たくさんの人にきいてもらえる」というインセンティブがはたらくので、楽曲のリストはさらに充実するだろうという目論見だ
JASRACが管理する曲なら、基本的にどれでもアップロードすることができる
法律がそんなにやっかいなら、それを管理してる連中を利用すればいいじゃない!ということで、このコロンブスの卵のように単純なルールが設定された
しかしおれのしるかぎりほかに類のないしくみであり、JASRACとの交渉は困難だったろうと想像する
さて、「バンブラDX」が発売されてすでに二週間とすこしが経過した
すでにユーザー投稿曲のリストには、重複をふくめてなんと600曲がならんでいる
もちろんおれもバンブラ職人の曲で演奏をたのしませてもらっている
2ちゃんねるでは追加曲が登場するたびにおおさわぎになっているようだ
「更新キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!!」
「なんだこれ、神アレンジじゃねーか」
「ちょwwwそれ俺の投稿曲wwwwww」
「本人降臨ktkr」
…みたいなかんじ
職人とユーザーが、バーバラの手のひらでたのしくおどっている
もちろんそれはだれでも気軽に参加できる、まさにゲームをひろく「共有」するたのしみだ
ソフトじたいの売上も好調らしい
ここ数年の任天堂による革命の最前線にたってきた北村だが、チームリーダーとしてのぞんだバンブラDXの開発でも新機軸をうちだすことに成功した
インターネットという不毛の地をきりひらきながら
その功績は百万言の賞賛にあたいするといえるだろう
おれがビル・ゲイツだったら、大枚はたいて坂口博信に時代おくれのRPGなんかをつくらせるのではなく、三顧の礼をもってゲーム事業に北村典子をむかえいれるのだが
え、なんですかゲイツさん?
Xboxにはアイドルマスターがあるからだいじょうぶですって?
まったくそんなだからあなたの会社はだめなんですよ
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マイケル・ベイにあかんべい ― 「ホット・ファズ」をみて

ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン!
Hot Fuzz
出演:サイモン・ペグ ニック・フロスト ジム・ブロードベント
監督:エドガー・ライト
(2007年/イギリス/121分)
[新宿ジョイシネマで鑑賞]
めずらしく買った映画のプログラムをみていたら、「劇場公開をもとめる2312名の熱き署名をうけ、ついに日本緊急公開決定!!」などと書いてあるのにびっくりした
ネットで署名(?)をあつめて二千人ってすくねえな!
配給会社ってのはその程度の反響で公開をきめるのかよ
うさんくさすぎるぞ
インターネットで口コミをひろめるバイラルマーケティングとかいう戦略でしょうか、この手の宣伝文句には眉につばをつけてきかなくてはなりません
プログラムの中ほどに、町山智浩によるエドガー・ライト監督への「直撃インタビュー」がのっている
どうみても「インタビュー」ではなくて「対談」だが
ごていねいに町山先生とライトがならんでいる写真までかざっている
「インタビュー」はこんなやりとりからはじまる
(ライト) あれ?イカすTシャツきてんじゃん!
(町山) これ?ジョージ・ロメロにインタビューしたときにもらった「ランド・オブ・ザ・デッド」のTシャツだよ
エドガー・ライトはロメロにオマージュをささげた「ショーン・オブ・ザ・デッド」(未見)の監督で、「映画秘宝」あたりでは神格化されているらしい
そんな偉大な監督との対等な関係をみせつけてじぶんの価値をたかめたいという意図がみえみえでげんなりしてしまう
町山さん、観客はあなたが身にまとっているボロ布になんてまったく興味はないのですよ
それとも「映画秘宝」の読者は、貧相な売文屋の御尊顔をおがむとしあわせになれるのだろうか?
映画批評の世界にはくわしくないが、B級映画をむやみにありがたがる町山/映画秘宝的な鑑賞作法が90年代後半の一世を風靡したのはおぼえている
クエンティン・タランティーノの「パルプ・フィクション」(1994年)のヒットがきっかけだった
いまではすたれているはずだが、町田などの残党はいまだに業界をウロウロしている
こいつらは作品のなかでサム・ペキンパーの引用があれば、それだけで「映画ファン必見の大傑作」とみなす
だからなに?と反論すれば映画愛がたりないといわれるから要注意だ
大学の英文学の先生ににてるね
「ユリシーズ」はギリシャ神話をモチーフにしていてうんぬん
「ロリータ」のこの部分はエドガー・アラン・ポーの「アナベル・リー」が下じきになっていてうんぬん
英文学の授業にでたことはありませんが、そこで「だからなんなんですか?引用があれば小説がおもしろくなるんですか?」と質問したら、教授は単位をくれそうにありませんね
こういう連中がのさばりはじめると、かれらが寄生するジャンルはつまらなくなるといえます
「ホット・ファズ」じたいはなかなかおもしろいコメディ映画だった
そもそもイギリスのコメディにはずれはあまりない
首都警察のエリート警官が、左遷されたさきのサンドフォードという村で事件にまきこまれるという話で、おおまかにいって三部構成になっている
Ⅰ あかぬけない村人をネタにしたコメディ
Ⅱ 連続殺人事件をおうサスペンススリラー
Ⅲ ドンパチ
第一部が圧倒的におもしろく、おわりにちかづくにつれて凡庸になってゆく
ジム・ブロードベント、ティモシー・ダルトン、ビル・ナイなどの大物もよい演技をしていて、映画の基礎は安定している
そしてなんといっても、脚本の執筆もつとめる主役のサイモン・ペグがいい
赴任そうそう村中の軽犯罪(未成年の飲酒とか)をとりしまる頑固一徹ぶりが爆笑をさそう
警察署もくせのある人物ばかりで、飲酒運転の男を逮捕したらじつは署長の息子で警官だった、とか脚本にひねりがきいている
なんでも監督の出身地でロケをおこなったらしく、田舎の風俗を撃つどす黒いわらいは本物だ
しかしサスペンスの部分は唐突な残酷描写がおおいし、最後のアクションもとってつけた印象はぬぐえない
まあそれなりに犯人さがしもたのしめるのだけど
サイモン・ペグの相棒(署長の息子)は警察映画マニアで、とくにウィル・スミス主演、マイケル・ベイ監督の「バッドボーイズ2」がだいすき
町山先生はそこに不審をいだいたらしい
(町山) でもふつう70年代のアクション映画がすきなひとは80年代以降のバカげたアクションはきらいだよね。「バッドボーイズ2」なんて無意味な大破壊が三時間も延々とつづく金の無駄つかいじゃない?
(ライト) そこがいいんだよ!あんなバカバカしいことにものすごい金と労力をかけてることにぼくは感動した!
ほかにも町田周辺の人間がいみきらっていそうなトニー・スコットやマイケル・マンなどの影響もうけているらしい
このあたりに1974年うまれのエドガー・ライトの本質があるようだ
「コメディ→サスペンス→アクション」とつなぐ(もしくはつながらない)やぶから棒の場面展開をペグは「ブラッカイマーの法則」とよんでいる
または「ポップコーンロジック」と
おおげさなだけで中身がからっぽなジェリー・ブラッカイマーやマイケル・ベイのしごとを揶揄しつつ、じぶんたちもそんなクールな映画をつくりたいという願望があったらしい
莫大な予算やカメラうつりのよい顔の役者がいなくても、理屈ぬきでポップコーン片手にたのしめる作品ができることを、たしかに34歳の監督は証明した
これはかなり革新的な発明だし、すくなくとも過去の映画の引用よりよほど興味ぶかい
まあ、地味なコメディの部分がいちばんおもしろいのは皮肉ではあるけれど
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万国旗よ永遠なれ ― 太宰治「津軽」

津軽
太宰治 著
[岩波文庫版で読了]
はずかしながらこれまで太宰治をよんだことがなかった
一冊もだ
あまったれで、みょうに肩肘はった文学青年という印象があって敬遠していた
ずっと気になってはいたのだが、時代おくれの作家をすすんで手にとろうとしなかった
いいわけをするなら、さらに個人的なことを書かざるをえない
おれの母親は卒業論文の題目に太宰をえらんだらしいのだ
かれの作品をよむことは肉親の内面をぬすみみるような気がして、ある種の罪悪感をおぼえる
太宰の偏屈な文学観にたいする反発と母親コンプレックスがないまぜになって、かたよった読書傾向がかたちづくられてきたようだ
そもそも日本文学、日本人が書いた本があまりすきではない
しかしブログをはじめたことがおれの意識をかえたのだろうか、昭和を代表するこの作家にふれてみる気分になった
「津軽」は1944年、太宰が36歳のときに小山書店から刊行された
晩年の作品ということになっているがまだわかい
「新風土記叢書」の一編として依頼され、三週間にわたって故郷の津軽半島を旅した見聞をまとめた紀行文であり、かれらしい藝をこらした小説でもある
これはすばらしい本だ
文章に力があり、節度のある緊張が全編にはりつめている
夢中になってよんでしまった
こんなにうつくしい書物を無視してきたおれの人生はいったいなんなのだろうか
私はこのたびの旅行で見て来た町村の、地勢、地質、天文、財政、沿革、教育、衛生などについて、専門家みたいな知ったかぶりの意見は避けたいと思う。私がそれをいったところで、所詮は、一夜勉強の恥ずかしい軽薄の鍍金である。
さらに著者は、本書で追求される主題が「愛」であることをあきらかにする
どこまで本音をいっているのかはあやしいが
地元の地形、経済、歴史についても饒舌にかたっており、それこそ一夜勉強の成果を発揮している
あちこちで「このあたりは国防上たいせつな箇所なのでこまかい描写をさけよう」という遠慮をしているのが気になった
いくら戦争末期とはいえ、太宰治の著作に軍事的な価値があるとはおもえないが、何度もそういうことわりをのべているので皮肉をいっているようにもみえない
当時の政府は紀行文の風景描写まで検閲していたのだろうか?
太宰は紺にそめるのに失敗して紫色になったジャンパーをきて旅にでたのだが、文章中でもしつこいほどその「みっともない姿」について自虐的にかたる
もともとは勤労奉仕の作業服だそうで、酒をのみながら本州最北端をうろうろしながらも、かれなりに聖戦に参加しているという意識があったのだろうか
過去の自伝的小説からの引用や、じぶんの家族についての逸話に紙幅がさかれており、やはり単純な旅行記というよりは、個人の内面の色彩がつよくでた文学作品とみなすべきだろう
太宰は、芭蕉が陸奥のさきざきで句会をひらき蕉風地方支部をつくったことを皮肉っているが、なんだかんだいってこの本を「おくのほそ道」になぞらえている
じぶんは俳聖のような職業的下心はなく、文学をわすれて「愛」をみつけるための純粋な旅をしているのだと主張しつつも、酒席であっさりと馬脚をあらわす
当時は「小説の神様」といわれて崇拝されていた志賀直哉の話題になり、だまっていられずに「かれは賤しきものなるぞ」と罵倒する
だから「津軽」には文学批評という一面もある
かれも芭蕉とおなじで一時たりとも小説からはなれられない文学バカで、世界のどこにいてもそこでの経験を作品に流用しようとする
因果な稼業だ
本書の最後で太宰は、かつての乳母であり「ほんとうの母親」としたっていたタケに再会する
タケの粗野なふるまいをみながら、金もちの兄弟のなかでじぶんだけそだちがわるいのは乳母の影響だったのだと納得して、この旅行記をしめくくる
ずいぶんひどいいいぐさだが、これがかれのみつけた「愛」というわけだ
これまた本心からいっているようにはおもえない
こんな劇的な場面を最後にもってくるという作為がすでに脚本家的で、うそくさいといえる
タケをさがして国民学校にまぎれこんだら、そこはまさに運動会のただなか
ひるがえる万国旗をみながら太宰は感慨にふける
日本は、ありがたい国だと、つくづく思った。
たしかに日出づる国だと思った。
国運を賭しての大戦争のさいちゅうでも、本州の北端の寒村で、このように明るい不思議な大宴会が催されて居る。
古代の神々の豪放な笑いと闊達な舞踏をこの本州の僻陬において直接に見聞する思いであった。
なんだよ、けっきょくこれがいいたかったんじゃないか
軍に色目をつかったのは、最後の場面の劇的効果をたかめるためだった
文学バカはこんな反時代的な生きかたしかできないのかもしれない
生地である金木が「活気を呈して来ました」と根拠もなくかたって土地のひとに不審がられる一幕もあり、この作品のなかの太宰は首都からとおざかるほどに高揚してゆく
おなじく戦争末期に書かれた「新釈諸国噺」「お伽草紙」も傑作とされている
独自の皮肉っぽい流儀でかれは戦争にくわわったわけだが、その相手はみずからの国家だった
そしてかれなりの戦場をいきのびたあとの1948年、太宰治は自殺(または自殺未遂の未遂)により40年にみたない生涯をおえる
![]() | 津軽 (岩波文庫) (2004/08/19) 太宰 治 商品詳細を見る |
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ニホンザルを差別するオバマボーイズ

バラック・オバマがアメリカ次期大統領就任を確実視されるなか、傲慢な「オバマボーイズ」がさらに図にのりだして目ざわりきわまりない
個人崇拝はいつでもはた迷惑なものだが、こいつらはじぶんたちが頭がよいとおもいこむ傾向があり、なかでも非常にたちがわるい
現職のジョージ・W・ブッシュはそうとうなワルだったけれども、看板をとりかえたところでアメリカ商店の品ぞろえが急にかわるわけもなく、これからも世界に迷惑をかけつづけるだろう
まあせいぜい戦争がちょっとだけへるくらいだろうか
そのかわり連中はつい最近までいきおいがあったネオコン以上におごりたかぶっており、教祖オバマさまを侮辱する(と解釈できる)ものすべてを高圧的に攻撃する
それがまったく悪意のないものであってもだ
これならまだキリスト教原理主義者のほうがましだ
イエス・キリストがえらいということなら、外国の事情に無知なわれわれ日本人でもしってますからね
猿がふんする大統領候補が「チェンジ」と聴衆に呼びかけるCMを制作した日本の携帯電話会社イー・モバイルに対して、CMの「猿」は米国初の黒人大統領を目指す民主党のオバマ上院議員を連想させるパロディーで、「人種差別に当たる」という批判がブログを通じて相次ぎ、同社がCM放送を取りやめたことが分かった。
[ITmedia]
さっそくきましたね!
「CHANGE」という宣伝工作はたしかにオバマ氏にそっくりで、その支持者たちが揶揄されたとかんじるのは理解できます
むしろもっとおちょっくてやるべきです
それなら「パクるのはやめてよ」くらいにとどめておけばよいものを、かれらオバマボーイズは人種差別を逆手にとって飢えた狼のようにかみついてきます
ユーモアがつうじないひとびとなのです
でも、おさるさんが黒人差別を意味するなんて日本人はしらないよ
百万歩ゆずってそれが「国際的な常識」だったとしても、だからどうだというのですか?
国内でながす日本人むけのCMでしょう?
在日米国人に配慮しろ?
おまえらいったい何様のつもりなんだ
CNNは「猿は歴史的に黒人を非人間と描くために使われてきたことを、国際的な人々は知るべきだ」と語るアフリカ系米国人のコメントを紹介。
これはあくまで一部のひとの意見ですよね?
まさかCNNの見解じゃないですよね?
それともアメリカの広告屋は、全世界の被差別人種がなににたとえられているのかしらべてからCMをつくっているんですか?
アメリカは特別?オバマさまは特別?
わかりました、みとめてあげましょう
あなたがたは
でもそのかわり、ニホンザルが特別な存在であることもみとめてくださいね
みなさんは猿におくわしいようですからわたしなどがいうまでもありませんが、ニホンザルは日本列島の固有種です
わが国で「猿」といえばこの種をさします
猿まわしや温泉の猿など、ひろく国民にしたしまれあいされています
「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿からわかるように、知恵をもった神聖な存在でもあります
だからそのへんのモンキーといっしょにしないでもらいたいのです
われわれ日本人はアメリカの黒人の歴史、そして現在の境遇にはふかく共感しています
でもそれとニホンザルはなんの関係もありません
オバマボーイズは頭のよわいひとがおおいので、さらに念をおしておきます
黒人にたいする差別はアメリカ国内の問題であり、日本の社会、政治、歴史、文化、ましてやニホンザルとはなんの関連性もない
そして自国の人種差別を完全に克服してはじめて、よその国のCMに文句をいう権利がうまれる
ひとことでいうなら、「おとといきやがれ」
これで一件落着ですね
このCMが動画サイトのユーチューブを通じて流れ、ブログで日本在住外国人から批判が続出。日本のオバマ氏の応援サイトも「アメリカの政治情勢のもと人種差別とみなされる」と抗議した。
これだよ…オバマボーイズ日本支部のバカどもが…(^ω^#)ビキビキ
火に油をそそいでどうする
あなたがたはリベラルをきどってたんじゃありませんか?
表現の自由、そしてわが国固有の文化をまもるためにどうしてアメリカ人に反論しないのか?
それどころかかれらは日本人の「後進性」をたたけるからおおよろこび!
なんとかなしい植民地根性
イーモバイルの経営陣も正々堂々とたたかうべきだった
CMの放送を中止してしまえば、じぶんたちの動機が不純なものであったとみとめるようなものだし、わるい印象だけがのこる
まあ、電話屋にりっぱな意図なんてあるわけないですけどね
オバマさまの人気にあやかろうとした下心を、ハゲタカどもにみすかされたってわけだ
それでも逆差別は卑怯だ
「オバマさまは黒人だから」をいいわけにして、どんなわがままでも正義になってしまう
教祖さまは人種問題を強調しない戦略をとっているが、その手下が逆差別を利用してやりたい放題であることはみてみぬふりをする
オバマさまが当選するまえでもこのありさまだから、来年からどうなるかとかんがえるだけでもぞっとするよ
さっき「アメリカの戦争がちょっとだけへるかも」と書いたけど、こんどはかれらは「人種差別とたたかう戦争」でもはじめるかもしれないね
逆差別十字軍を動物園の檻にとじこめておくよい方法はないものだろうか?
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ジューイッシュ・グラフィティ ― 「インディ・ジョーンズ4」をみて

インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国
Indiana Jones and the Kingdom of the Crystal Skull
出演:ハリソン・フォード カレン・アレン シャイア・ラブーフ
監督:スティーヴン・スピルバーグ
(2008年/アメリカ/123分)
[新宿プラザ劇場で鑑賞]
パラマウントのロゴをネタにした冒頭のギャグをみて、わるい予感が脳裏をよぎる
ありきたりだし、なにも「インディ・ジョーンズ」でやることじゃない
そしてプレスリーのロックンロールがながれるなか、アメリカ陸軍のトラックと二組のカップルがのったオープンカーが競争をはじめる
お、「激突」じゃん
スピルバーグ先生、じぶんの過去の作品をパロディにするつもりかな?
「アメリカン・グラフィティ」っぽくもあるね
が、軍用車両だけ右折して施設のなかにはいってしまう
じらすのはそこそこに、さっそくハリソン・フォードが登場
さすがにうごきはもっさりしているけど、口もとをゆがめる不敵なわらい方はあいかわらずすてき
最初から敵にかこまれて大ピンチです
銃をつきつけられて宝ものさがしに協力させられる
敵の銃弾からぬいてもらった火薬をばらまき、磁力で粉がひきよせられたところにブツを発見
さすが!知恵がはたらくね!
相手の弾薬をへらすのが本当の目的でしょ?反撃開始ってわけね?
倉庫のなかでのアクションシーンがスタート
われらがインディは普通に銃弾がとびかうなか敵地をぬけだし、そこでなぜか原子爆弾がドカン!
そりゃないよスピルバーグさん
被爆国の観客への配慮はなしですか
ていうかさっきの伏線は…?
いったいどうなってるんだ、このガタガタの展開は
「さいきんのスピルバーグはおとろえた。つまらない」
なんて批判されがちだが、そもそも
「スピルバーグの映画ってそんなにおもしろかったか?」
とききかえしたいところだ
スピルバーグはそのすさまじい早撮りでしられている
リハーサルをほとんどおこなわず演技には即座にOKをだし、「プライベート・ライアン」ですら三か月でとりおわったとか
そして撮影機材に精通しているため、コンピュータをもちいた映像処理の革新にもいちはやく適応し、はでなカットをつるべうちにするスタイルを確立する
しかけたっぷりの映像にハラハラドキドキさせられるけれど、よくみれば役者の顔には危機感がうかんでおらず全体としてうすっぺらい
とはいえ予算どおりスケジュールどおりとってくれるのでスタジオにとってこれほどありがたい監督はいないし、ポップコーン片手の観客たちにもあいされた
いっぽうで映画ファンは役者の演技をじっくりあじわって元をとろうとするので、1カット50テイク(笑)のような撮影進行があたりまえのスタンリー・キューブリックみたいな作家を支持したがるのです
昨今はCG技術がさらに進化し、だれでも「スピルバーグみたいな映画」がつくれるようになったわけで、本家の存在意義がとわれているといえるでしょう
しかしみながうらやむ富と名声をえたスピルバーグですが、それでもかれはゲージュツカぶって役者をいじめたりはしません
たぶんまじめでいいひとなんでしょう、あいかわらずてきぱきとしごとをしているようです
トム・クルーズは「アイズ・ワイド・シャット」の現場でキューブリックにしいたげられて、発狂しそうになったといってたなあ
ゲージュツカはとうとい存在ですが、まわりの人間にとっては迷惑きわまりないのです
本作はジョージ・ルーカスらの初稿を脚本化するのに難航し、M・ナイト・シャマラン、トム・ストッパード、フランク・ダラボンら大物の手をわたりながら何度も書きなおされることに
最終的には売れっ子脚本家のデヴィッド・コープ(「ミッション:インポッシブル」「スパイダーマン」など)の名義がクレジットされている
ハリウッドではよくあることだが、どこからどこまでがコープのうけもちなのかは判然としない
ダラボンにいたっては「むだな一年だった。もうルーカスとは二度としごとをしたくない」とまで悪口をいっている
だれがわるいのかわかってきましたね
ソ連軍の大佐にふんしたケイト・ブランシェットのとんでもない髪型も、ルーカス氏がじぶんの趣味をおしつけたらしい
まったく50年代風にもソビエト風にもみえませんが…
もちろんかの女も抵抗したそうだが、けっきょくこれです
そもそもジョージ・ルーカスさんってなにものなんですか?
なんでこんなに有名なんですか?
監督作品はたったの六本
そのうちの66%が例のスターウォーズです
のこりの二本はふるい低予算映画
プロデューサーとしても「ハワード・ザ・ダック」などいくつかの作品をてがけてはいますが、観客動員も評価もはかばかしくなく、むしろ「インディ・ジョーンズ」が例外なのだといえます
インディアナ・ジョーンズのおもての顔は考古学者の教授ですが、FBIから共産主義者であるといううたがいをかけられてその職をおわれることに
1950年代のマッカーシズムの風潮を批判的に作品にとりこもうとしたようですが、このテーマもどこかにまぎれてきえてしまいます
そもそもソ連軍の部隊とたたかう物語で、赤狩りもへったくれもないですよね
「レイダース」にでていたカレン・アレンを復活させて過去作のファンに目くばりをしていますが、場内は「このおばさんだれ?」みたいな空気でした
お約束のヘビぎらいのネタでさえ、わらいがおきていなかったのが意外です
さきほど「激突」の自己パロディにみえるシーンのはなしをしましたが、ラストはパロディどころか「E.T.」と「未知との遭遇」の陳腐な焼きなおしで、あれはわらうところなのか感動するところなのか…
脚本をいじりすぎたせいか一貫性はまるでありません
これなら「ハムナプトラ」のほうがましなのでは?という疑問がむくむくとうかびあがってきます
もっともいかせていないのは「父と息子」の主題
シャイア・ラブーフがリーゼントのバイク青年の役をえんじます
ひまさえあれば髪をいじりナイフをもてあそぶわけですが、柔和な顔だちのシャイアは不良にはみえませんね
物語では恋人もあてがってもらえず、アクションではハリソンにおくれをとり、お母さんのカレン・アレンにあまえるくらいが関の山
スピルバーグ先生のお気にいりの役者らしいけれど、まだまだ修行不足だなあ
わかい人材が抜擢されたとき、かれがユダヤ人かホモでないかしらべてみるとよい
あんのじょうシャイアの母親はユダヤ系
ちなみにハリソン・フォードもにたような生いたちです
もちろんドリームワークス作品にたてつづけに主演するという幸運をかちとったのはシャイアくんの実力にちがいありませんが、それでもお母さんに最大の感謝をささげるべきですね
この会社の設立者はジェフリー・カッツェンバーグ(ユダヤ人)、スティーヴン・スピルバーグ(ユダヤ人)、デヴィッド・ゲフィン(ユダヤ人でホモ)の三人
べつにユダヤ人にもホモにも偏見はありませんが、この業界におおすぎるという気はします
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死せる長沼健、生ける松井大輔をはしらす

サッカーについていろいろなひとがいろいろなことをいっているが、いちばんだいじなことはだれも口にしようとしない
それは、サッカーの勝ち負けは偶然によってきまるということ
こんなことをいったらバカにおもわれるからかな?
しかしけっきょくのところわれわれは、より幸運なチームを「強豪」とよび、よりつきにめぐまれた選手の「才能」をほめそやしているだけ
勝ち馬にのるってやつです
数年まえ、幸運児ロナウジーニョの「才能」をだれもが絶賛していたものだが、いまではかれは嘲笑のまとになっている
いわく、夜あそびばかりしてるからおちぶれたとかなんとか
有名になるまえからディスコがだいすきな出っ歯のブラジル人にとっては腑におちないことだろう
まあ、まわりの評価というものはえてして客観的ではないものだ
われらが電通代表が三次予選を突破した原因は、まず第一に実力
バーレーン、オマーン、タイを相手に三位以下の成績はあってはならないことだ
とはいえ3月26日は岡田武史のあきらかな戦術ミスでバーレーンに敗北し、電通代表はちょっとした危機にあった
いまからふりかえってみても、予選敗退のリスクはある程度たかまっていたとおもう
では六月の四連戦において、サッカーの女神がなぜかれらにほほえんだのかさぐってみよう
サッカーマガジン7月15日号はインタビュー記事がおおくてよみごたえがあった
はじめは六月の最初の三試合に先発出場し、1アシストをのこした松井大輔
全体的に優等生ぶった内容でつまらないが、ひとつ見のがせない発言が
(インタビュアー)―6月2日のオマーン戦は緊張感につつまれた試合でした
(松井)ぼく自身はほとんど緊張しませんでした
あの日、長沼さんが亡くなられて岡田監督も気合がはいっていたし、試合まえにいいことをいって雰囲気をもりあげてくれました
チームって、監督のひとことでかなりかわるものだとおもいます
かつての代表選手にして、代表監督やサッカー協会会長などの要職を歴任した人物が、代表チームがおいつめられていたまさにその日に没したのだった
なんという偶然!
…長沼?十年まえに会長をやめたやつだろ?
いまの選手たちにとっては無関係じゃん
もしあなたがそうおもっているとしたら、サッカー史についての無知が原因にちがいない
すこしでもこのスポーツに関心があるのなら、長沼が現在の日本のサッカーのありようにどれだけふかく関与していたのかしっておくべきだ
まあおれもWikipediaのうけうりなんですけどね
長沼健は1930年の広島にうまれた
被爆者であり、亡くなるまで白血球過多にくるしんでいたらしい
森孝慈、金田喜稔、木村和司、石崎信弘など、広島出身の関係者はおおい
長沼は焼け野原でサッカーにうちこんで頭角をあらわしてゆき、関西学院大学に入学して関西学生リーグで三連覇を達成するなどの活躍をみせる
関学卒業後も大学でサッカーをつづけるために中央大学の三年に編入(牧歌的な時代だ)、そこでも主将としてチームをまとめ、大学サッカー選手権大会二年連続準優勝などの成績をのこす
そして実家の電気工事業でつきあいがあった古河電工に入社、親分肌で組織力のある長沼はチームの強化を一任されることになる
かれのまわりには自然とひとがあつまるそうで、長沼が所属をかえるごとに日本サッカー界の勢力地図はぬりかえられ、あたらしいチームは強豪になってゆく
古河には平木隆三、八重樫茂生、宮本征勝、川淵三郎、木之本興三、清雲栄純、岡田武史らが集結し、かれらは「長沼一家」とよばれた
とはいえ入社当時は社会人スポーツは認知されておらず、古河はアイスホッケーの選手もまざったしろうとチームだったそうだ
アイスホッケー経験者で、高校からサッカーをはじめた巻誠一郎が後身のジェフ千葉にいるのもふしぎな縁におもえる
いまでもたいしてかわっていないが、日本人にとって「スポーツ」とは教育プログラムの一環だった
あとは相撲のようなおまつりがあるのみで、そのあいだがない
プロどうしの真剣勝負をみてたのしむというかんがえかたが理解されず、むしろそういう西洋的なスポーツ観はいやしいものとみなされていた
たしかに野球は成功したが、そのほかのスポーツは恩恵にあずかることができず、無にひとしい状況だったといえるだろう
わが国でサッカーが野球と対抗できるほどの「スポーツ」として市民権をえたのは奇跡なのだ
長沼は無報酬の日本代表監督としてメキシコオリンピックで銅メダルを獲得、そののちはサッカー協会専務理事に就任して組織の近代化に着手する
このころ古河の経理部にいた小倉純二を、サッカー経験がないにもかかわらず抜擢して財務にあたらせた
ちなみに小倉は現在の協会副会長で、次期会長の最有力ともうわさされている
まさに「フルカワはいってる」状態のおそるべき偏向人事
キリンビールなどのスポンサーを獲得し、電通がもちこんだペレの引退試合を開催するなどして、逼迫していた財政状況は急激に好転する
イングランドのまねをして皇室とのむすびつきをつよめてサッカーの社会的地位をたかめ、プロ化とワールドカップ招致というおおきな目標の準備をととのえてゆく
古河時代の子分である川淵や木之本がJリーグ創設にかかわり、ワールドカップをひらけるだけの実力を証明するため、日本代表のコーチに清雲や岡田をおくりこんだ
長沼は近代スポーツをねづかせるためのあらゆる努力をおしまず、そしてみごとに目標を達成した
すばらしい人生だったといえる
長沼の親分人生の最大の危機は1996年の代表監督問題だろう
体育会系の常識をこえたインテリである強化委員長の加藤久は、空気をよまずにアジアカップの結果をうけて加茂周監督を更迭、後任としてネルシーニョをえらぶことをきめた
ところが外国からかえってきた長沼は独断でその決定をくつがえし、加茂の続投を発表
「加茂でフランスに行けなかったら辞任する」とまで大見得をきって…
将来の日本サッカー界の重鎮と目されていた加藤久だが、その後は協会の要職からはなれている
かれはフルカワではないですからね
いちどへたをうったらさよならです
しかし結果として、加藤の判断がただしかったことが証明されてしまう
最終予選のまっただなかのカザフスタンで、加茂はけっきょく監督の座をおわれることに
この時点ですでに赤っ恥なのだが、眼鏡の子分が長沼を最悪の事態からすくったのは不幸中のさいわいといえるだろうか
大学時代は同好会にいた岡田武史を、サッカー部にいれさせた恩がむくいられたというわけだ
ここまでよんでもらえれば、なぜ岡田が6月2日のロッカールームでほえたのか理解できるとおもう
長沼健があっての岡田武史であり、日本代表であり、日本サッカーなのだ
「健さん」は、その死をもって弟子たちを窮地からすくった
代表チームはここ十数年で最悪のゲームといえる3月26日のバーレーン戦の悪夢をふりきり、3勝1引きわけでなんとか四連戦をきりぬけた
まあようするにサッカーは運なのだ
もちろん良好な人間関係はセーフティネットとしてはたらくが、いつどうやってスイッチがはいるのかはだれにもわからない
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優等生がおおすぎる ― リー・スモーリン「迷走する物理学」

迷走する物理学
The Trouble With Physics: The Rise of String Theory, the Fall of a Science, And What Comes Next
(リー・スモーリン 著/松浦俊輔 訳/2007年/ランダムハウス講談社)
著者のリー・スモーリンは1955年、ニューヨークうまれの理論物理学者
博士号をとったあとの1979年に、はじめての職場としてプリンストン高等研究所をえらぶ
24年前になくなったアインシュタインに面識のある人物に接触したいという期待があったのだ
学者の世界はいれかわりがはげしく、そのころには弟子や後継者はおろか、知りあいすらほとんど研究所にはのこっていなかった
かずすくないアインシュタインの知りあいのひとりであるフリーマン・ダイソンが著者を昼食にさそう
「プリンストンの居ごこちがよくなるように、わたしにできることはありますか?」
「…アインシュタインが実際にどんなひとだったのかしりたいのです」
「あいにくですが、それはお手つだいできない方のはなしですね」
「でも先生は1947年にこちらにいらっしゃって、アインシュタインがなくなる1955年までごいっしょだったではありませんか」
じつはダイソンもアインシュタインと親交をむすぶという希望をもってこの研究所にやってきた
面会の約束をしたあと、最近のこの大家の研究をしるために論文のうつしをもらう
統一理論をきずこうと努力するその学術論文をよんで、ダイソンはそれがまったくみこみのない紙くずであると判断した
まさかアインシュタインに面とむかって「先生の研究はどうにもなりません」というわけにもいかないので、翌朝に面会の予定をとりさげる
それからは科学の象徴が死ぬまでの8年間、顔をあわせることがないようさけながらすごしたという
1940年代にはアインシュタインはすでに過去のひととなり、同業者からまともにとりあわれなくなっていた
その栄光の反面なのか、物理学の女神はつねに残酷だ
マッハは原子をうけいれられず、マクスウェルはエーテルをしんじ、アインシュタインは統一場の理論をもとめ、失望をかかえたまま科学にささげられた人生をおえた
1970年代以降、すなわち著者が研究生活をはじめたころから、物理学はその基礎においておおきな進歩をみせていない
すくなくとも18世紀末からこちら、中心的な問題において四半世紀ごとに革命的な発展があったというのに
本書は30年間の物理学の歴史をまとめ、なぜあらたな革命がおきかったのかを考察し、現在の物理学者たちの「社会学」を批判的に論じて、停滞した現状をうちやぶるための糸口をさぐる
専門的な内容がかなりおおく、時空のとらえかたをわかりやすくまとめた前作の「量子宇宙への3つの道」のほうが格段によみやすい
ただ有能な物理学者が、みずからの人生と職業共同体にたいして落とし前をつけてやろうというすごみがあって、よみごたえは抜群だ
おれは自然科学にうといが科学関係の本はすきで、グリーン、サスキンド、カク、ランドールなどが書いたストリング理論がらみの著作もけっこうよんできた(もしくはよみとばした)
どれもつまらなかったが
読後感がわるく、これらの本の著者はうそをついているという印象がある
しかしさいきん日本でも、「ストリング理論は科学か」「超ひも理論を疑う」などのストリング理論を批判する書物がではじめて、ひも万歳路線は通用しなくなってきたようだ
そのなかで本書が貴重なのは、著者が一線級の理論物理学者であり、専門は量子重力理論であるとはいえストリング理論関係の研究もおおいことだ
これはストリング理論、そして物理学全体にたいする内部告発の書でもある
ストリング理論家の悪癖は、やたらと「うつくしい」とか「エレガント」とか陳腐な形容詞をつかいたがることだ
まあたいていの自然科学系の聖職者たちが本を書くと、微分積分すらできない無知蒙昧な民にたいして数式の「うつくしさ」を布教せずにはいられないものだけど
それは美意識による判断であり、理論の成果を客観的に評価する基準にはならない
ストリング理論は35年以上にわたって開発されてきているが、現段階で実行できる観測や実験によって、理論からみちびかれる予測をテストできる可能性はいまだにない
実験による検証がない理論でも、めだった問題にたいして説得力あるこたえをもたらすことができるなら支持すべきだとかれらはいう
ただしスモーリンによれば、そののぞみはうすいようだ
リチャード・ファインマンは「ストリング革命」からは距離をおいた物理学者だった
連中がなにも計算していないことが気にいりません
そのかんがえ方を抑制しないことも気にいりません
実験と一致しないなにについてでも、説明をこしらえるところも気にいりません
「やっぱりただしいかもしれない」というための作為です
ファインマン先生もそうとうひどいことをいっているが、わかい研究者たちの耳にとどきはしないだろう
そもそもストリング理論をえらばなければ大学で職をえることができないのだ
そしてストリングとかMとかいう「仮説」が不当にも理論物理学の資源を独占し、結果としてこの分野からあたらしいアインシュタインやボーアが登場することをさまたげている
1940年代から70年代にかけて大学は指数関数的にふえ、わかい科学者は卒業すればたいした就職活動をしなくても教授職を手にいれることができた
しかしそれ以降大学の数はふえず、やとわれ教授は職にとどまっているので、博士号取得者がおおきく過剰になっている
採用基準も、補助金獲得実績や論文が引用された回数などの統計的な尺度をもちいるように
現代にわかきアインシュタインがいたら大学に就職できるだろうか?というきまり文句がある
もちろんできるわけがない
当時ですら大学にうけいれられず、スイスの特許庁につとめながら特殊相対性理論の論文を書きあげたのだから
そんな稼業であるから、ストリング理論家たちの共同体が閉鎖的になってゆくのも無理はないのかもしれない
著者がストリング理論の学会にでたとき、「こんなところでなにをなさってるんですか?」とたずねられたことがあるらしい
「わたしもストリング理論を研究していて、ほかのひとがなにをしているかしりたいんです」
「でも先生はループ重力のひとじゃないんですか?」
部外者たちいり禁止の学会というのもめずらしい
学会での講演のあとの討議のなかで議論がわかれそうになると、きまってだれかが「ウィッテンならどうかんがえるだろう」といいだすとか
ちなみにエドワード・ウィッテンはストリング/M理論の教祖さまです
科学者にたいして宗教的な比喩をもちいることは最大の侮辱であり、あまりよい趣味とはいえないが、なぜかひものひとたちはその栄誉にあずかることがおおい
著者は科学者の共同体を宗教と区別するために、「想像力共同体」と定義する
ときにふるい知識をすて、あたらしい真実をえらび、正統派、流行、年齢、地位の支配をはねのけて、未来にひらかれた想像力を共有するというまとまりだ
脳の処理能力はけっこうおそまつで論証はおそく乱雑であり、科学者にふさわしい職につけなかったアインシュタインや、研究ノートにはひとつも計算があらわれず、ことばと図だけで論証していたボーアのような変人を支援できるしくみでなくてはならないのだ
熟練の職人だけでは科学は進歩しない
現代でもそういった予見者たちはひっそりと活動し、やっかいな基礎的問題にうちこんでいる
翻訳のしごとをしながら研究をつづけたジュリアン・バーバーや、ローマで家庭教師などをしながら成果を本に書いたりしたアントニー・ヴァレンティーニなどのはなしはおもしろい
奇人変人の最たるものは数学者のアレクサンドル・グロタンディークで、パリの数学界に忽然とあらわれて目ざましいしごとをしたあとパリをさり、いまもピレネー山脈で隠遁生活をしているとか
理由は研究所に軍部が金をだすことに反対したとかなんとか
第一次世界大戦のあと師匠の世代の科学者が死んでしまい、じいさんでも理解できるよう手かげんをしないで自由に研究ができたヨーロッパで、量子力学の革命がおこったことも示唆的ではある
とはいえ物理学のために世界戦争をおこすわけにもいかないよね
しかしこのリー・スモーリンというひとは、せちがらい学者渡世がながいくせにふしぎとバランス感覚がすぐれている
大学院時代にポール・ファイヤーアーベントの過激な科学哲学に衝撃をうけて、ふらふらとバークレーまで本人をおとずれるあたりがおかしい
ファイヤーアーベントは科学がよってたつと主張する「理性」をうちくだき、科学なんてものはいきあたりばったりのでたらめだとうそぶいた男
そんな科学の敵が、じっさいにあってみるとそうとうな物理学ファンであることがわかり、スモーリンは学問の道を邁進するようはげまされる
光速変動理論のジョアオ・マゲイジョとも共同研究をおこなっており、本書にもマゲイジョが登場する
ポルトガルの変人であるマゲイジョの「光速より速い光」もすばらしい本なんだよなあ
いつかかたってみたい
科学だけでなく、本だってはみだしものが書いたほうが絶対におもしろいのです
![]() | 迷走する物理学 (2007/12/13) リー スモーリン 商品詳細を見る |
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おやすみキム・ゴードン ― Melody Gardot "Worrisome Heart"

Melody Gardot
Worrisome Heart
(2008年/アメリカ/33分12秒)
上の画像の左がソニックユースのキム・ゴードン
右が夫でバンドの中心人物のサーストン・ムーア(身長2メートル)
本エントリのメロディ・ガルドー嬢と関係はまったくありません
この"Worrisome Heart"というアルバムをきいていたら、キムが雑誌のインタビューでかたっていたことをおもいだした
女性のシンガーソングライターを揶揄する内容だったと記憶している
なんで女のひとってシンガーソングライターになりたがるのかなあ?
ギターやピアノのひきがたりは音楽として保守的すぎるし、せいぜい歌詞で自己表現するだけでつまらないとおもうわ
女性アーティストももっと大胆な表現に挑戦するべきよ
うろおぼえだがこんなかんじ
キムはおれのあこがれの女性でもあるので、これをよんだときは得心したのだが、でもおもうのだ
だれもがキム・ゴードンになれるわけじゃない
ニューヨークを拠点に実験的な音楽をうみだし、世界中に地下のネットワークをひろげて、ステージで耳ざわりなノイズをまきちらす
ロックのあたらしい潮流をつくりだし、オルタナティブな音楽のゴッドマザーとして崇拝される
あなたが特別すぎるんです
夜ふけには女性の歌声がききたくなる
べつにおれがさびしいひとりぐらしだからってだけではないとおもう
寝床にはいって本でもよみながら、スピーカーにつないだiPodにある曲をシャッフルで再生するのだが、そのプレイリストに女性のシンガーソングライターがけっこうはいっている
ファイストとかキャットパワーとかシゼル・アンドレセンなんかがおきにいりだ
騒音だらけの昼間にきくとさっぱりだけど、草木もねむる時刻になると本来のひびきをとりもどす音楽がある
ミズ・ゴードンみたいに、男たちにまじって白日夢のノイズにたちむかえる女性は例外なのだ
そして90分や120分のスリープを設定して、しばらくしてからねむりにつく
なんというか、人間のこころのどこかに子もり歌をもとめる願望があるのかもしれない
もちろん深夜にソニックユースをきくのもたのしいんですけどね
余談がながくなったが、メロディ・ガルドーはフィラデルフィア出身で1985年うまれのシンガーソングライター
"Gardot"は英語よみなら「ガードット」だとおもうが、インタビュー映像で本人が「ガルドー」といっていたのでそれにあわせることにする
なんだかミステリアスな名前だ
19歳のときに交通事故にあい、記憶障害と、光と音にたいしての過敏症をわずらった
いつもサングラスをかけているのはそのためらしい
「事故にあったときの痛みは、10段階でいうなら40くらい」というほどの災難だったようだ
後遺症にくるしむメロディにたいし、医師はきずついた脳の神経回路をいやすために音楽をはじめることをすすめる
だからかの女にとって音楽活動とはリハビリの一環なのだ
その歌声には「人気ものになりたい」「ひとを感動させたい」といった欲があまりかんじられず、自分と外の世界のあいだの溝を音楽をつうじて手さぐりするような感触がある
レビューとしては、音そのものに関係ない部分にこだわりすぎているかもしれない
レコード会社は商品に神秘的な装飾をほどこして宣伝するものだし、はなし半分というつもりできかなければならない
でも、そういういかがわしさもふくめてポップミュージックの魅力だとおもっていたりもする
全9曲(10曲目はみじかいアウトロ)は、3曲ごとに雰囲気がことなっている
最初の3曲はジャズ的なムードが支配している
トランペットにみちびかれて歌がはじまる表題曲は、やはりよい曲だ
円熟のジャズシンガーをきどってはおらず素朴なうたいぶりで、"All That I Need Is Love"のスキャットでは「のっぺらぼ~」と空耳がきこえる
中盤はカントリー/フォークのようなシンプルな曲調
ちょっと器用なアメリカ娘なら鼻歌でつくれそうなメロディだ
でも個人的には"Sweet Memory""Quiet Fire"あたりが、アルバムのなかでもいちばんすきかもしれない
シンプルにはちがいないのだが、意外と曲ごとの目鼻がたっている
音楽としての目あたらしさはまったくないけれど
7曲目の"One Day"からは夜のしじまにしずみこんでゆく
つぎの"Love Me Like A River Does"では、
Love me like a river does
Endlessly
Love me like a river does
Baby don't rush you're no waterfall
と、川のようにやさしく安定した愛情をもとめていて、ちょっとせつない
美空ひばりの「川の流れのように」(秋元康作詞)はじぶんの人生をやたらとおおげさにふりかえる曲だったが、お国によって川の歌もずいぶんかわるものだ
最後の"Goodnite"も軽快なリズムをもつ佳曲だとおもう
わかいミュージシャンなのでこれからどんなキャリアをかさねるのかさっぱりわからないが、サングラスごしの色あせた風景をひかえめにゆびでなぞるような音楽をつくりつづけるのだろう
そんな歌声が海をこえてひとのこころをいやせるのだから、音楽ってのはふしぎだ
キム・ゴードンになれなくたって、夜になればそこにはしずかな歌声のための空間がある
![]() | Worrisome Heart (2008/02/26) Melody Gardot 商品詳細を見る |
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