アドレナリン物理学 ― ジョアオ・マゲイジョ『光速より速い光』

光速より速い光 アインシュタインに挑む若き科学者の物語
Faster Than the Speed of Light
The Story of a Scientific Speculation
著者:ジョアオ・マゲイジョ
発行:NHK出版 2003年
次の引用は『ライ麦畑でつかまえて』からではありません。
一流大学につとめる現役の物理学者による、宇宙論の本です。
もしあなたが、宇宙論の研究者は誰にも邪魔されることなく
胸躍る知的世界に生きているのだろうなどと考えているなら、
そんな幻想はすぐに捨ててもらいたい。
現実には、われわれが食いつないでいけるかどうかは、
研究資金を管理している恐ろしく官僚的な機関にかかっているのだ。
そういう機関を牛耳っているのは、
とっくの昔に第一線を退いた元科学者たちときているから、
研究機関は絶大な権力を振るうばかりで、
知的な意味では粗大ゴミ置き場でしかない。
著者であるマゲイジョはポルトガル出身の理論物理学者。
1967年うまれ。
インフレーション理論の欠陥を解決するため、
「光速度一定」という相対性理論の基礎をゆるがす、
革新的な「光速変動理論(VSL)」を提唱した。

こんな人。
で、このハンサムなラテン男が、
自分の理論をひろく世にしらしめるために書いたのが本書だが、
筆は本来の目的からすぐにそれ、
数学ができるホールデン・コールフィールドが顔をだす。
そこで僕は、研究費申請書類のことを
「クソじじいの存在証明書」と呼ぶことにしている。
というのも、僕の見るかぎり、申請書の唯一の目的は、
寄生虫のための必要物資を作ることだからだ。
まともな研究をやめてしまった元科学者たちを入れるための
老人ホームを誰か作ってくれないものだろうか。
書類仕事が苦手なオレはおおいに共感。
ジョアオ先生、ついには現在の勤務先である、
インペリアル・カレッジの管理者まで槍玉にあげる。
僕はときどき、あの棟のスタッフと建物に対して
壊滅的なテロ攻撃を加えてやろうかと思う。
そうすればインペリアル・カレッジの平均知能指数が著しく上昇し、
結果として、教育と研究の質も高まるだろう。
テロ予告…逮捕されるぞ。
ここまで書いてもクビにならないのだから、
イギリスの大学は包容力があるなと逆に感心したり。
エントロピー増大の法則にのっとって熱的死につきすすむこの世界で、
オレはあえておなじ本を何度もよみかえす習慣をもたないが、この本はべつ。
よむたびに腹がいたくなるほど笑える宇宙論の本なんて、
ひろい宇宙にこの一冊だけだろう。
著者がケンブリッジの院生だったころ、かれの前には三つの選択肢があった。
ひも理論、素粒子物理学、宇宙論。
ひも理論はデータがまったくなく、あるのは思弁的理論だけ。
素粒子物理学はデータがあまりにも多すぎ、創造的なしごとの余地がない。
それに対して宇宙論は、現実の世界にしっかり根ざしながら、
基本的な問題が未解決のままのこされていることが魅力的だったそうだ。
なるほど、専攻はこうやってえらぶものなのか。
実験による検証が可能な分野をえらんだから、
自分の理論がまちがいだと証明されることも当然ありうる。
なにぶん敵が多い人がかんがえた学説なので、
VSL理論が撃墜されるのを心まちにする研究者もいるらしい。
それに対してジョアオ先生、
「たとえVSLが失敗しても、僕はもっと過激なアイディアに再挑戦するだけ」
と言いはなちます。
ラテン男にはちょっとかなわないですよね。
あらゆる学説は、その最大の批判者によってもっともよく理解される。
というわけで、本書の前半は相対性理論のわかりやすい解説書になっている。
アインシュタインの業績に対する解釈も独特でおもしろい。
かれは1905年に発表した特殊相対性理論に満足することはできず、
重力をあつかう一般相対性理論を見いだすために、十年をついやした。
一般相対性理論を追求するアインシュタインの苦闘は、
まさに大人の悪夢だったろう。
一般相対性理論をついに完成させた当時のアインシュタインの写真を見れば、
そこにはぼろぼろに疲れはてた男の姿がある。
その相貌は、長きにわたる血みどろの知的戦いを終え、
戦場から出てきたばかりの男のそれである。
戦果は上々で、かれが重力理論の最終版を水星軌道に適用したところ、
観測されるバラの花形の運動を精密に説明することができた。
「自然」がかれにかたりかけてきたのだ。
アインシュタインは究極のアドレナリン漬けになり、
数日のあいだ夢のような恍惚感にひたりつづけた。
しかしマゲイジョは、一般相対性理論の成功こそが、
アインシュタインをだめにしたと過激なことをいう。
わかいころのかれは、実験で検証できないものを排除する方針にもとづき、
絶対空間、絶対時間、エーテルなど、
当時の物理学を停滞させていた空想を一掃した。
だが年をとって神秘主義の誘惑にまけたかれは、
「数学的な美」こそが、科学者にただしい道をさししめすと信じるように。
こんにちの量子重力にとりくむ科学者たちも、
現実とのつながりをうしなった、
晩年の不毛なアインシュタインをあがめる傾向があるらしい。
アインシュタイン相手ですらこうだから、現代の同業者なんてメッタ斬りだ。
『ネイチャー』といえばイギリスの権威ある科学雑誌で、
知ったかぶりの立花隆が絶賛しているのをみたことがあるが、
実情は結構おそまつなものらしい。
特に宇宙論担当の編集人はとびきりのバカで、
その判定がしめされた査読結果は専門家にとって爆笑物だそうだ。
科学誌の査読者というのは、文芸評論家や学芸員とおなじ人種、
すなわち「科学者のなりそこない」で、
おおきな権力とにがい挫折感をかかえているため一層タチがわるいとか。
論文をのせてもらえなかったヒガミともいえるが、
このアナーキスト気質がよんでいて実にたのしい。
最高なのはやはりひも理論の研究者への悪口。
著者にいわせると、かれらは実験による検証からにげ、
実在しない仮想的理論をいじくるだけのインポ野郎ということになる。
「M理論」の命名法について。
この言葉を作ったカルトリーダー[引用者註:エドワード・ウィッテンのこと]は、
Mが何を意味しているかを決して明かさなかったため、
M理論家たちはその重要問題をめぐって議論を交わしている。
マザー(mother)のMなのか?
膜(membrane)のMなのか?
どうせなら、マスターベーション(masturbation)のMと言ってくれたほうが
僕には納得がいくのだが。
ひも理論家のかたがたすみません、これはボクの意見ではありませんよ。
あくまで引用です。
「ひもの神の恩寵により、われわれはエレガントな宇宙にすむことができる」
などと主張する思いあがったひも理論家に対しては、
粒子ではなくひもばかりの世界を創造してほしい。
毛だらけの宇宙がそんなに美しいだろうか?
と嫌味をいう。
これはたしかにそのとおりだな。
自然のたえなる歌声に耳をかたむけることをわすれ、
神経系がアドレナリンにみたされるよろこびもしらない生きかた。
アインシュタインですらおちいった罠をさけながら、
わたしたちは生きてゆけるのか。
ポルトガルの異端児が情熱をこめて書きあげた本書をよんでいると、
そのするどい知的能力の一端にふれることができ、
オレは物理学者ではないし、微分積分の初歩すらわすれたけれど、
自分の交感神経が活発化してゆくのを感じる。
翻訳はよみやすく装丁もカッコいい名著なのだが、現在は絶版なのかな。
それだけが残念。
哲学するより昼寝しよう ― フリーマン・ダイソン『叛逆としての科学』

叛逆としての科学 本を語り、文化を読む22章
The Scientist as Rebel
著者:フリーマン・ダイソン
訳者:柴田裕之
(2008年/みすず書房)
フリーマン・ダイソンは、1923年のイギリスに生まれた理論物理学者。
ジュリアン・シュウィンガー、リチャード・ファインマン、朝永振一郎らと同年代で、
みずからを「保守主義」の世代とよんでいる。
老いたアインシュタインやディラックらが馬鹿げた大理論に拘泥するのをみて、
自分たちは既存の物理学の細部を整理することに専念し、
実験結果にぴたりと一致する目ざましい業績をあげた。
この書評を大半として編まれた随筆集は、
伝統を墨守した物理学者としての現実主義と、
ゆたかな藝術的素養がとけあって読みごたえがある。
ただ翻訳の際に七つも章をけずったそうで、それだけが気にいらない。
本書のあちこちで詩が引用されている。
教養をひけらかすという風ではなく、
韻文の力をかりて自身の思想をふかめているようだ。
偉大な物理学者は大抵そうなのだが、
文系人間のオレがおよびもつかないような文学の心得があるものだ。
科学はその日常的実践において、哲学よりもはるかに芸術に近い。
真偽決定の不可能性を謳った不完全性定理の
ゲーデルによる証明に目をやっても、私には哲学的議論は見えない。
この証明は高々とそびえる建造物であり、
シャルトルの大聖堂に劣らず独特で美しい。
ダイソン先生、言いきっております。
比類ない創造的な業績をあげた科学者にかぎって、
その晩年に不毛な還元主義の哲学の罠にはまることがある。
アインシュタインの最後の二十年は、物理学全体を統一する
一組の方程式をさがすことに空費された。
ヒルベルトは数学全体を形式的命題のあつまりに還元することを目ざした。
ゲーデルにより、全体は各部の総和よりつねに大きいことが証明され、
その夢はうちくだかれてしまったが。
世界をひとつの方向に統一しようとするテツガクはつねにむなしい。
本書の六から十章でダイソンは戦争についてかたる。
物理屋のにわか軍談とおもったら、ところがどっこいこれは玄人の藝だ。
第二次大戦時にイギリス空軍で数理モデル化の研究に従事しており、
戦後も軍の活動にあれこれとかかわってきたらしい。
数学ができるとツブシがきくのでうらやましいですね。
どの話もおもしろいが、著者は大筋において
「戦争とは、何ひとつ予定どおりすすまず勝敗の歴史的原因も
確定のしようがない、やぶれかぶれの場当たり的行為だ」という、
トルストイ的な戦争観に同調している。
そして、終戦まで戦術の次元で猛然と戦争を遂行した、
ナチス・ドイツのヘルマン・バルク大将の職業軍人意識を賞賛する。
戦争においては、戦略という「哲学」は無意味どころか有害で、
役にたつのは戦術という「藝術」だけなのだ。
限定的な目的と手段で戦争をおこなったワシントンは、
アメリカに安定した政治体制の礎をきずくことができた。
しかし、目的に制限のない戦争を、
ヨーロッパ史上空前の規模の陸軍をつかって重ねたナポレオンの帝国は、
かれの生命がつきるよりさきに崩れさった。
奮戦した軍事指導者に対する敬意が、職業上の技術面から逸脱し、
かれらの軍事的な才能と道徳的な美徳が混同されるにいたり、
世界を統一せんとする野心がそだってゆくものらしい。
未来にむけて。
1918年に出版された、シュペングラーの『西洋の没落』の
終末的ビジョンに感化された科学者たちにより、
物理学と数学の両分野で革命のイデオロギーが勝利したという主張など、
科学史に関する記述にも興味がひかれる。
文学趣味があったヘルマン・ヴァイルやエルヴィン・シュレーディンガーは、
危機的な状況にある数学や物理学には急進的な改革が必要とかんがえ、
古典数学や物理的な因果関係の原理の正当性を否定し、
のちの量子力学や不完全性定理の革命が準備された。
オレは『西洋の没落』ってまだ読んだことがないんだよね。
いつかは読もうとおもいつつもう十年もたちましたか。
また、現代ではPCやWorld Wide Webなど、
安価で強力な機器の恩恵をあらゆる種類の科学者がうけられるようになり、
天文学などではアマチュアが定量的な科学をおこなう能力をえた。
つまり先ゆきが不透明なのです。
オッペンハイマーの三つの顔をえがく十五章が一番よく書けているかな。
鬼神のような頭脳と教養と組織力をもちながら、
どこか不幸の影がつきまとう男の生きざまをうまくまとめている。
こうした書簡を読むと、オッペンハイマーの性格を知る手がかりが得られ、
彼の人生がけっきょく悲劇に終わった元凶が浮かび上がってくる。
その元凶とは焦燥感であり、休むことを知らぬ生まれながらの性格だ。
きわめて高い水準の創造的な仕事をするためには、
休養期間も必要なのではなかろうか。
シェイクスピアは戯曲創作の合間には遊んでばかりだったと伝えられる。
よいことをいってくれるなあ。
焦燥感にかられた人間っていやですよね。
オレだって沢山休みをもらえれば、このブログの文章ももっとよくなるのに。
シェイクスピアやアインシュタインに追いつけるとまではいいませんが。
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優等生がおおすぎる ― リー・スモーリン「迷走する物理学」

迷走する物理学
The Trouble With Physics: The Rise of String Theory, the Fall of a Science, And What Comes Next
(リー・スモーリン 著/松浦俊輔 訳/2007年/ランダムハウス講談社)
著者のリー・スモーリンは1955年、ニューヨークうまれの理論物理学者
博士号をとったあとの1979年に、はじめての職場としてプリンストン高等研究所をえらぶ
24年前になくなったアインシュタインに面識のある人物に接触したいという期待があったのだ
学者の世界はいれかわりがはげしく、そのころには弟子や後継者はおろか、知りあいすらほとんど研究所にはのこっていなかった
かずすくないアインシュタインの知りあいのひとりであるフリーマン・ダイソンが著者を昼食にさそう
「プリンストンの居ごこちがよくなるように、わたしにできることはありますか?」
「…アインシュタインが実際にどんなひとだったのかしりたいのです」
「あいにくですが、それはお手つだいできない方のはなしですね」
「でも先生は1947年にこちらにいらっしゃって、アインシュタインがなくなる1955年までごいっしょだったではありませんか」
じつはダイソンもアインシュタインと親交をむすぶという希望をもってこの研究所にやってきた
面会の約束をしたあと、最近のこの大家の研究をしるために論文のうつしをもらう
統一理論をきずこうと努力するその学術論文をよんで、ダイソンはそれがまったくみこみのない紙くずであると判断した
まさかアインシュタインに面とむかって「先生の研究はどうにもなりません」というわけにもいかないので、翌朝に面会の予定をとりさげる
それからは科学の象徴が死ぬまでの8年間、顔をあわせることがないようさけながらすごしたという
1940年代にはアインシュタインはすでに過去のひととなり、同業者からまともにとりあわれなくなっていた
その栄光の反面なのか、物理学の女神はつねに残酷だ
マッハは原子をうけいれられず、マクスウェルはエーテルをしんじ、アインシュタインは統一場の理論をもとめ、失望をかかえたまま科学にささげられた人生をおえた
1970年代以降、すなわち著者が研究生活をはじめたころから、物理学はその基礎においておおきな進歩をみせていない
すくなくとも18世紀末からこちら、中心的な問題において四半世紀ごとに革命的な発展があったというのに
本書は30年間の物理学の歴史をまとめ、なぜあらたな革命がおきかったのかを考察し、現在の物理学者たちの「社会学」を批判的に論じて、停滞した現状をうちやぶるための糸口をさぐる
専門的な内容がかなりおおく、時空のとらえかたをわかりやすくまとめた前作の「量子宇宙への3つの道」のほうが格段によみやすい
ただ有能な物理学者が、みずからの人生と職業共同体にたいして落とし前をつけてやろうというすごみがあって、よみごたえは抜群だ
おれは自然科学にうといが科学関係の本はすきで、グリーン、サスキンド、カク、ランドールなどが書いたストリング理論がらみの著作もけっこうよんできた(もしくはよみとばした)
どれもつまらなかったが
読後感がわるく、これらの本の著者はうそをついているという印象がある
しかしさいきん日本でも、「ストリング理論は科学か」「超ひも理論を疑う」などのストリング理論を批判する書物がではじめて、ひも万歳路線は通用しなくなってきたようだ
そのなかで本書が貴重なのは、著者が一線級の理論物理学者であり、専門は量子重力理論であるとはいえストリング理論関係の研究もおおいことだ
これはストリング理論、そして物理学全体にたいする内部告発の書でもある
ストリング理論家の悪癖は、やたらと「うつくしい」とか「エレガント」とか陳腐な形容詞をつかいたがることだ
まあたいていの自然科学系の聖職者たちが本を書くと、微分積分すらできない無知蒙昧な民にたいして数式の「うつくしさ」を布教せずにはいられないものだけど
それは美意識による判断であり、理論の成果を客観的に評価する基準にはならない
ストリング理論は35年以上にわたって開発されてきているが、現段階で実行できる観測や実験によって、理論からみちびかれる予測をテストできる可能性はいまだにない
実験による検証がない理論でも、めだった問題にたいして説得力あるこたえをもたらすことができるなら支持すべきだとかれらはいう
ただしスモーリンによれば、そののぞみはうすいようだ
リチャード・ファインマンは「ストリング革命」からは距離をおいた物理学者だった
連中がなにも計算していないことが気にいりません
そのかんがえ方を抑制しないことも気にいりません
実験と一致しないなにについてでも、説明をこしらえるところも気にいりません
「やっぱりただしいかもしれない」というための作為です
ファインマン先生もそうとうひどいことをいっているが、わかい研究者たちの耳にとどきはしないだろう
そもそもストリング理論をえらばなければ大学で職をえることができないのだ
そしてストリングとかMとかいう「仮説」が不当にも理論物理学の資源を独占し、結果としてこの分野からあたらしいアインシュタインやボーアが登場することをさまたげている
1940年代から70年代にかけて大学は指数関数的にふえ、わかい科学者は卒業すればたいした就職活動をしなくても教授職を手にいれることができた
しかしそれ以降大学の数はふえず、やとわれ教授は職にとどまっているので、博士号取得者がおおきく過剰になっている
採用基準も、補助金獲得実績や論文が引用された回数などの統計的な尺度をもちいるように
現代にわかきアインシュタインがいたら大学に就職できるだろうか?というきまり文句がある
もちろんできるわけがない
当時ですら大学にうけいれられず、スイスの特許庁につとめながら特殊相対性理論の論文を書きあげたのだから
そんな稼業であるから、ストリング理論家たちの共同体が閉鎖的になってゆくのも無理はないのかもしれない
著者がストリング理論の学会にでたとき、「こんなところでなにをなさってるんですか?」とたずねられたことがあるらしい
「わたしもストリング理論を研究していて、ほかのひとがなにをしているかしりたいんです」
「でも先生はループ重力のひとじゃないんですか?」
部外者たちいり禁止の学会というのもめずらしい
学会での講演のあとの討議のなかで議論がわかれそうになると、きまってだれかが「ウィッテンならどうかんがえるだろう」といいだすとか
ちなみにエドワード・ウィッテンはストリング/M理論の教祖さまです
科学者にたいして宗教的な比喩をもちいることは最大の侮辱であり、あまりよい趣味とはいえないが、なぜかひものひとたちはその栄誉にあずかることがおおい
著者は科学者の共同体を宗教と区別するために、「想像力共同体」と定義する
ときにふるい知識をすて、あたらしい真実をえらび、正統派、流行、年齢、地位の支配をはねのけて、未来にひらかれた想像力を共有するというまとまりだ
脳の処理能力はけっこうおそまつで論証はおそく乱雑であり、科学者にふさわしい職につけなかったアインシュタインや、研究ノートにはひとつも計算があらわれず、ことばと図だけで論証していたボーアのような変人を支援できるしくみでなくてはならないのだ
熟練の職人だけでは科学は進歩しない
現代でもそういった予見者たちはひっそりと活動し、やっかいな基礎的問題にうちこんでいる
翻訳のしごとをしながら研究をつづけたジュリアン・バーバーや、ローマで家庭教師などをしながら成果を本に書いたりしたアントニー・ヴァレンティーニなどのはなしはおもしろい
奇人変人の最たるものは数学者のアレクサンドル・グロタンディークで、パリの数学界に忽然とあらわれて目ざましいしごとをしたあとパリをさり、いまもピレネー山脈で隠遁生活をしているとか
理由は研究所に軍部が金をだすことに反対したとかなんとか
第一次世界大戦のあと師匠の世代の科学者が死んでしまい、じいさんでも理解できるよう手かげんをしないで自由に研究ができたヨーロッパで、量子力学の革命がおこったことも示唆的ではある
とはいえ物理学のために世界戦争をおこすわけにもいかないよね
しかしこのリー・スモーリンというひとは、せちがらい学者渡世がながいくせにふしぎとバランス感覚がすぐれている
大学院時代にポール・ファイヤーアーベントの過激な科学哲学に衝撃をうけて、ふらふらとバークレーまで本人をおとずれるあたりがおかしい
ファイヤーアーベントは科学がよってたつと主張する「理性」をうちくだき、科学なんてものはいきあたりばったりのでたらめだとうそぶいた男
そんな科学の敵が、じっさいにあってみるとそうとうな物理学ファンであることがわかり、スモーリンは学問の道を邁進するようはげまされる
光速変動理論のジョアオ・マゲイジョとも共同研究をおこなっており、本書にもマゲイジョが登場する
ポルトガルの変人であるマゲイジョの「光速より速い光」もすばらしい本なんだよなあ
いつかかたってみたい
科学だけでなく、本だってはみだしものが書いたほうが絶対におもしろいのです
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波うちぎわのラブレター ― 山本弘「"環境問題のウソ"のウソ」

"環境問題のウソ"のウソ
(山本弘 著/2008年/楽工社)
続編とあわせて50万部以上うりあげたという、武田邦彦の「環境問題はなぜウソがまかり通るのか(環ウソ)」のデータを検証して、その虚偽を徹底的にあばいた書物
武田は環境保護運動は朝日新聞などが中心となっておこした陰謀で、「地球は温暖化しておらず」、「リサイクルはむしろ資源のむだづかい」とぶちあげる
また朝日陰謀説か
おれ自身環境保護運動の偽善性に辟易してるところもあって、去年に「環ウソ」をよんでいたのだが粗雑な内容にあきれてすぐに本をとじた
くだらない書物に投資すべき時間はあまっていないのだ
山本弘がえらいのは、そういう本にこそ商売のタネがねむっているとおもってよくしらべたところ
みならわなくてはいけない
具体例をあげると、
「回収された24万トンのペットボトルのうち、再利用されているのは3万トンだけ」
という主張がもっとも衝撃的で「環ウソ」の中心となるデータだ
武田はPETボトルリサイクル推進協議会が公表するデータの引用だと著書にしるしているが、これが稚拙な捏造で、じつは自分につごうよくねじまげた数値だった
じっさいは3万トンどころか、その10倍らしい
ほかにもかぞえきれないほどのデタラメ、事実誤認、印象操作がつづく
ひどい本だとはしっていたが、ここまでウソだらけとはおもいもよらなかった
しろうとは権威によわく、まさか大学教授がペテンをしないだろうと信用してしまう
そもそも武田は環境分野で学術的に評価を受けるような研究論文を発表してはいないらしい
環境論はあつかう対象の規模がおおきすぎ複雑すぎるため、あまりに非科学的な傾向がある
地球温暖化の原因はほんとうに二酸化炭素なのか、二酸化炭素排出量をへらす有効な手段は存在するのか、そもそも地球温暖化はわるいことなのか、だれも証明しようがない
そんなトワイライトゾーンは環境ゴロたちの絶好のかせぎ場となる
環境保護が看板の山師もいれば、反対の陣営のペテン師もいるということだ
まあ、それはそれでよいのだ
言論という環境のなかで、詐欺師たちが生態的地位を確保することが無意味とはいえない
武田だって自分の本がこんなにうれるとはおもわなかっただろう
うれてほしいという願望はあったにせよ
もちろん発言には責任がともなうのだが、人がそれに気づくのはつねにあとからだ
おれは武田が山本におくったメールの内容がすこし気になる
私は200年もアジア、アフリカを植民地にしたヨーロッパ文化そのものを否定しております。
私は現在の世の常識とは少し違う考え方をしています。私は「誠実」を旨としておりまして、私の誠実とはヨーロッパ的な誠実ではありません。
言い訳というのは頭が少しよければだれでも出来ますが、私は言い訳はしません。考えていることをそのまま言っています。
…強烈だな
学者なら批判にたいして反証する義務があるだろ
しかもヨーロッパ文化そのものを否定ってずいぶんかたよってるな
十字軍やジハードじゃあるまいし
Amazonで本書のレビューをみると、武田に啓蒙された純真なひとびとが「人格批判をしている山本は卑怯だ!」といきりたっている
ごていねいに星を1個だけつけながら
まあそう感情的になるなよ
世のなかそうおもいどおりにはいかないよ
油断すれば詐欺師にだまされることだってとうぜんある
無責任にかいた本が予想以上に注目をあつめて当惑することもある
そしてさまざまな研究、実験、データがつみかさねられてゆくなかで、砂のうえにかいた文字のように科学的主張なんてものはあらいながされてゆく
不確かだからこそ学問はおもしろい
それがいやなら環境問題なんぞにかかわらず、小林よしのりでもよんでいればよいのだ
theme : 環境・資源・エネルギー
genre : 政治・経済
湯冷めにご用心 ― 片山杜秀「近代日本の右翼思想」

近代日本の右翼思想/片山杜秀・著/講談社選書メチエ
おれはたぶん左よりの人間だ
保守とか反動とかは生理的にうけつけない
歴史関連の本をよむのはすきだし、ふるいものごとはできるだけ尊重する
だが古い時代を理想とかかげて現在に異議もうし立てをしたり、または現在をまるごとまもろうとする思想はうけいれがたい
社会思想として不潔だとおもう
外からかえってきて手もあらわないで料理をはじめるようなもの
そしてわれわれのいきる世の中は、未来にむけてひらかれてあるべきだ
未来志向の思想のほうがSFぽくてわくわくするし、断然クールだ
そんなおれにとって本書はじつに啓蒙的であるといえる
安岡正篤を再評価する第2章がおもしろい
細木数子の「元夫」であり、歴代首相の指南役をつとめ、「平成」の元号の考案者ともいわれる男
わかい安岡のキャリアはおどろくべきものだ
幼少から父によって漢学をたたきこまれたかれは帝大にすすむが、在学中に北一輝や大川周明としりあい、右翼的思想団体の同人となる
あらっぽい行動家たちも老熟した安岡の漢学的教養にまいってしまったらしい
大学をでて数年にすぎない安岡の勉強会には、そうそうたる官僚や軍人たちがつめかけた
早熟にもほどがあるだろうといいたくなる
片山は安岡の思想をある種の個人主義と位置づける
右翼思想なのに共同体ではなく個人におもきをおくという矛盾
それは阿部次郎らの大正教養主義からの影響がおおきいと片山はいう
この意見の妥当性はおれの知識ではわからないが、それなりに説得力はかんじた
どうせ社会をうまくかえられないなら、自分でかえようとおもわなければいい
そうやって安岡はのらりくらりと戦後もいきつづけ、「陰の御意見番」として天寿をまっとうした
そんな無責任ぶりゆえ、かれは仲間のはずの右翼連中からは「口説の徒」「うその標本」とバカにされていたらしい
血盟団の青年たちとの宴会でのエピソードが興味ぶかい
宴席で即興で漢詩(達筆すぎてだれもよめない)を書いたあと得意げに朗読し、「きみたちもこれくらいよめなければダメだぞ」とお説教
政財官のエリートには効果覿面のお座敷芸も、血気さかんな右翼青年につうじるわけもなくあざわらわれることに
政治・経済の現象をすべて指導者のこころの問題とかたづける安岡の思想は、指導者層にとってはここちよいぬるま湯だが、頭のゆだった行動家たちにはぬるすぎるのだった
大指導者様がいなかの若造にこけにされたところでいたくもかゆくもないかもしれない
そもそもすべては個人の問題、こころの問題らしいからね
今日でも「けっきょくは人それぞれ」ってぬるいいいかたをする人はおおいね
人は人、自分は自分
でもほんとうにそうおもってるのかな
すくなくともおれはちがうな
世の中そんなにあまくないんだぜ
たとえば人は人にたいしこんな罠をしかける
戦時中の政治に影響をあたえたといわれる安岡だが、国やぶれてもなんの反省もせず、ましてや戦争責任などとるわけもなく、指導者育成に注力しながら1983年に享年85にて死去
それはそれで立派な人生だといえる
だがかなしいかな、まさにその人生最後の年に、当時バーをやっていた細木数子につかまった
認知症の症状があったといわれる安岡は細木に「結婚誓約書」(!)なるものを書かされ、細木はそれをもとに婚姻届を受理させる
無責任男は孫みたいな年の女のせいで、たいしてかがやしくもない人生の晩節をけがした
翌月安岡は他界、そして(悪)名をあげた水商売の女が1985年に出した『運命を読む六星占術入門』はベストセラーとなった








