『竜圏からのグレートエスケープ』 第6章「花嫁」


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 拷問は日を跨いで執拗に行われた。サクヤは、口を割らないジュンを捨てると決めた。ただ自分らが手を汚せば争いの火種となるので、竜族に殺させることにした。赤竜神がジュンの身柄を、日本政府に要求していたのは渡りに船だった。不倶戴天の敵だったジュンを妻に迎えるという政略結婚だ。

 ジュンの選択肢は二つ。自殺するか、脱走するか。もし逃げたとして、竜圏では武装なしで半日も生きられない。必ず死ぬ。首相に就任予定のサクヤは、そこでジュンの崇高なる「戦死」を発表して国葬を執り行い、万事めでたく解決という算段だ。

 憎たらしいほど隙がない。

 ジュンはヒューイで竜圏の中心地へ送られた。赤竜神が根城にする旧皇居の、生物研究所のガラス張りの温室がジュンの独房となった。四年前まで天皇が米を栽培していた田が外にあるが、今は荒れ果てただの泥沼と化している。

 雑草だらけの温室で、ジュンは地べたに腰を下ろしていた。足首を鎖で繋索されている。乱暴を受け、着替えもできず、セーラー服は汚れきっている。陸上自衛隊から鹵獲した89式小銃を装備する屈強なハーフドラゴン数体が、物珍しそうにジュンを監視していた。

 肩を落としたジュンは、己の右手を見つめていた。霊鎖の巻かれたクサナギを抜こうと無理した時の傷が、手当てされないまま化膿していた。もともと火傷を負っていた部位なので、見るも無慚な有様だ。お嫁に行ける体じゃないのに貰ってくれるのだから、感謝すべきかもなと自嘲した。

 ガサゴソと雑草から音がした。

 全長八十センチくらいの緑竜が、ススキの茂みの中で蠢いた。ジュンはしっしっと手を振るい、追い払おうとした。

 緑竜がジュンの意識に声を送り込んできた。

「ひどいケガだね」

「はぁ」

「僕の泡で治すといいよ」

 緑竜はジュンの傍らに寄り、口から泡を出した。ジュンはそれを取って右手に塗った。緑竜に軽度の治癒能力があるのを禁衛府の衛士は知っている。なんらかの成分が細胞に働き、破壊された組織を再生するらしい。敵である竜族に頼るのは癪だが、痛みが和らいだのは大助かりだ。

 ジュンが無表情で言った。

「ありがとう」

「どう致しまして。これは恩返しだよ。君は僕たちの命を救ってくれたんだから」

「はぁ」

「覚えてるかな。盗賊が卵を盗むのを止めたこと」

「知らん」

「もう。歌舞伎町のシネコンだよ。君は体を張って緑竜の卵を守ってくれた」

「全然覚えてない。いろいろありすぎて」

 ジュンは小さな緑竜を熟視した。深いエメラルド色の美しい鱗に、見覚えがないとは言えない。盗賊に蹴飛ばされた竜がいた気もする。あれかもしれない。

 妙に馴れ馴れしい緑竜に、ジュンは皮肉な口調で言った。

「でも、あたしほど竜を殺した人間はいないぜ」

「戦争だからね。悲しい現実だけど」

「殊勝な言い草だな。だったら逃してくれよ」

「僕にできることはする」

「ははっ、安請け合いすんな。あんたら緑竜は最弱だって聞くぞ。奴隷みたく扱き使われてるって」

「だからこそ協力する。赤竜神を斃すと約束してくれるなら」

「霊剣がなきゃあたしはただのJKだ」

「クサナギはいま竜圏にある。貢物として赤竜神に献上されたんだ。僕はそれを盗み出して君に渡す」

 ジュンは両手で頭を掻きむしった。

 生存本能と感情が、矛盾した計算結果を脳裏に表示していた。クサナギさえあれば逆転は可能だ。しかしよりによって、竜と共同作戦を実行するというのが気に食わない。

「あんたは」ジュンが言った。「なぜそこまでしてリスクを冒そうとする」

「竜族も一枚岩じゃない。種族同士の抗争があるんだ」

「らしいね」

「君が黒竜王を斃して以来、赤竜族の専横は歯止めが利かなくなっている。彼らは凶暴で、かつ狡賢い。そもそもこの戦争は、竜族のほとんどが反対してたんだ」

「つまり戦争を終わらせるのが目的か」

「それもあるけど、第一の目的は母親を救出することだよ。母は病気なのに、強引に赤竜神の奴隷にされた」

 鼻で笑い、ジュンが辛辣に言い放った。

「あんたらに家族愛なんてあるのか?」

「母は肺病なんだ。もう長くないと思う。安らかに最期の時を迎えさせたい。家族と悲しい別れ方をした君なら、この気持ちがわかるだろう」

「なぜ知ってる」

「竜族同士は記憶を共有してるし、人間の意識も……」

「あたしの頭の中を覗くのはやめろ!」

 ジュンは緑竜を突き飛ばした。バスケットボールの様に弾んで転がり、温室の窓ガラスに衝突した。ガラスが割れた。騒ぎを聞きつけ、見張り役のハーフドラゴンが集まってきた。脱走の相談どころではない。

 緑竜は泡を吐き、ガラスの破片の刺さった己の体を癒やした。犬歯を剥き出して立つジュンを見上げて言った。

「衝動的に行動しないでよ。大事な話をしてるのに」

「うるさい」

「いや、僕の提案が厚かましかったんだ。君は両親を殺した竜族を激しく憎み、敵として戦ってきた。急に気持ちを切り替えるのは無理だよね」

「…………」

「あと、君の内面に踏み込んだのを謝るよ。触れられたくない話題だったんだね。でも命の恩人と話せてよかった。良き来世を君が迎えられるよう祈ってる」

 打ち萎れた緑竜は尾を引き摺り、割れた窓から温室の外へ出て行った。




 婚礼の日がやって来た。

 朽損し壁が崩れた宮内庁庁舎で、ジュンは人間の女の奴隷たちにより花嫁支度をされていた。白い衣の上に領巾を羽織る、日本神話の女神みたいな格好だ。西洋のウェディングドレスに似てると言えば似ている。珍しく化粧の施された顔を鏡で見ると、案外自分もイケると思わなくもなかった。

 無論、気分は暗澹としていた。花嫁願望を最悪の形で叶える羽目になった。手癖の悪いジュンは、くすねた剃刀を隠し持っていた。自分の喉を切るつもりだ。

 あれから緑竜は何度か姿を見せたが、ジュンと接触しようとはしなかった。完全に孤立無援だ。今日まで粘ったが、竜族の警備も抜かりはない。そろそろ年貢の納め時だ。

 竜圏は旧皇居を中心に、半径約十キロの円を描いている。徒歩による突破は不可能ではない。

 敵がいなければ。

 すぐにワイバーンが組織的な捜索を行うだろう。航空自衛隊のAWACSを凌駕する探知能力を持つ種族だ。逃げようがない。地下鉄や上下水道などは破壊されている。

 銃と車輌を奪って遁走すれば、〇・一パーセントくらいの生存確率は見込める。しかし気力が湧かない。親友であるサクヤに裏切られたのが痛手だった。感情豊かなジュンは、精神的な支えを失うと無力に等しい存在となる。

「馬鹿野郎! 前に進まんか!」

 坂下門の残骸の方から、ハーフドラゴンの怒鳴り声が聞こえた。光沢を持った甲冑に身を固めた、リーダーのグラウリだ。人間の男を首輪で引っ張っていたが、従順に言うことを聞かないので鞭で責めている。

 鞭打たれる人間は、楽天イーグルスの野球帽をかぶっていた。部下である因幡八代だ。

 思わずジュンが叫んだ。

「因幡ッ! なぜこんなところに」

 因幡が駆け寄ってきた。不意な動きだったので、グラウリは綱を手放した。

 古代風の衣装を着たジュンの側で敬礼し、因幡が言った。

「長官、御無事でしたか」

「この格好のどこが無事だよ」

「よかった……」

「報告。手短に」

 ジュンは冷徹に言い放った。怒っているのではなく、会話に費やせる時間があと数秒しかないからだ。

「軽装甲機動車で侵入しました。他の三名は戦死です。自分の責任です」

 ジュンは目を瞑り、歯軋りした。

 因幡は責められない。おそらく彼らはサクヤの命令に逆らい、危険を承知で火中の栗を拾いに来たのだ。また客観的に見て、霊剣遣いで司令官を務めるあたしには戦略的価値があるし、救出作戦は必ずしも無意味じゃない。

 それでも仲間の死には、絶対的な重みがある。

 やるべきじゃなかった。

 ジュンが言った。「ルートは」

「北です」

 ジュンは口の端を持ち上げた。

 葛飾区に盗賊たちのアジトがある。因幡は彼らに協力を求め、竜圏の深くへ侵入したに違いない。あれほど盗賊を嫌っていたのに、ジュンのために豹変したのがおかしかった。

 グラウリが因幡のフリースジャケットの襟を掴み、引き摺っていった。抵抗する因幡を、甲冑を鳴らしつつ虐待した。

 ジュンは手にしていた剃刀を投げつけた。甲冑に微かな傷がついた。

「くそったれのトカゲ野郎!」ジュンが叫んだ。「そいつはあたしの部下だ。殴りたいならあたしを殴れ」

 グラウリは棒状の鞭の先端で、ジュンの尖った顎を持ち上げた。さすがに花嫁に暴行はできなかった。

「最初は赤竜神様も趣味が悪いと思ったが、化粧すれば多少は見れるツラだな」

「そりゃてめえの鱗だらけの顔よりマシだ」

「赤竜神様のことだ、三日もすれば飽きるだろう。そしたら俺様が味見してやるぜ」

「てめえは殺す。混血であるのがコンプレックスなのか、ハーフドラゴンが過剰に人間を殺傷するのを見てきた。中でもてめえは最悪だ」

「俺様の子供を産みたいか? それとも食われたいか?」

「天に誓って殺す」

 憤るジュンの頬を、グラウリは鞭で軽くはたいた。二メートルを超える巨体を揺らして去っていった。




 奴隷の女たちがジュンを囲み、乱れた衣装を大慌てで直した。月桂冠みたいな真拆の蔓を頭に乗せた。年嵩の女が竜族への無礼なふるまいをたしなめた。ジュンは黙殺した。女たちの竜圏への順応ぶりに感心するが、見習いたくはない。

 瓦礫の陰から遠巻きに、緑竜がこちらを見つめていた。視線が合うと隠れるが、しばらくするとまた顔を出した。ジュンのことが気掛かりらしい。

 ジュンは拳を握りしめた。

 緑トカゲの力を借りよう。四の五の言ってられない。仲間がいるのだから。因幡が盗賊と手を結んだらしいのも好材料だ。ホムラあたりと竜圏で接触できれば、ざっと見積もって生存確率は約三パーセントに跳ね上がる。

 三十三回に一回なら十分だ。

 あたしは命を懸けられる。

 ジュンは足許の石を拾って投げた。緑竜に躱されたが、二個めが命中した。

 小さな翼を広げて飛んできた緑竜が言った。

「やめてよ! 痛いじゃないか」

 ジュンが言った。「例の計画、乗った。よろしく頼む」

「悪いけど、なかったことにして。僕はあれから目を付けられて、散々いじめられたんだ」

 緑竜の翡翠色の瞳が、落ち着かなく泳いでいた。気が咎めている様だ。お人好しの種族なのだ。

「あんたの母親は肺病だと言ったな」

「そうだよ」

「あたしのお母さんは喘息持ちだった。発作が起きそうになるとステロイドを吸入していた。良く効く薬なんだ」

「へえ」

「あんたらの泡の治癒能力はすごいけど、人間は知恵を絞って医学を発展させた。人間と竜はきっと助け合える」

 緑竜は話を聞きながら尻尾を振った。

 ジュンはほくそ笑んだ。

 ちょろいな、こいつ。

 ジュンが言った。「ひとつ聞きたいことがある」

「なに」

「あんたの名前を教えてくれ」

 緑竜は前肢で顔を隠した。空中でもじもじと丸まった。

「そんな……まだ早いよ……僕たちはまだお互いをよく知らないのに」

 どうやら照れているらしい。

 竜族にとって名前には神聖な意義があり、ごく親しい者にしか本名を明かさないと、ジュンも伝え聞いていた。赤竜神や黒竜王なども通称にすぎない。

「あだ名とかないの」

「特にないよ。『そこの奴隷』とか呼ばれてる」

「あたしが付けてあげようか」

「うーん」

「『バブルン』。泡を吐くから。どうよ」

「わあ、可愛い名前だね! 気に入ったよ!」

 バブルンと名付けられた緑竜は、万歳しながら宙を舞った。

 こんなお気楽な生き物とコンビを組んで、本当に命懸けの作戦を遂行できるのか、ジュンは不安になった。




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『竜圏からのグレートエスケープ』 第5章「黒幕」


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 現在の総理大臣官邸は、臨時首都である甲府市に置かれていた。庭の見える一階の和室で、首相の白鳥健吉が座椅子に腰を下ろしていた。薄手のカーディガンにスラックスという、リラックスした格好だ。六十一歳なので顔に深い皺が刻まれてるが、軍人稼業で鍛えた肉体は精気がみなぎり、四十代後半と言っても通りそうな風采だ。

 座敷机には氷の入ったボトルクーラーがあった。白鳥はワイングラスを傾けつつ、銀色の半月が浮かぶ夜空を眺めていた。月に飽きたら、チェス盤で問題を解くのを楽しんだ。

 ドンドン!

 ノックと言うには乱暴な騒音が響いた。

 返事を待たずに引き戸が開いた。白のセーラー服を着たジュンが土足で入ってきた。朱塗りの鞘に収めたクサナギを帯びている。迷彩戦闘服を着た因幡も続いて和室に入った。こちらはサンドベージュ色の拳銃、シグザウエルP320を持っている。

 ジュンの頬は引き締まり、鋭く冷たい眼光を放っていた。恩人を断罪することになるかもしれない。

 どすんと座椅子に尻を落とし、ジュンが言った。

「半年ぶりくらいですかね。オヤジと直接話すのは」

「そうだな」白鳥が言った。「左腕を負傷したと聞いた。どんな具合だ?」

「どうってことありません」

「お前ほどタフなヤツは見たことがない。自衛官時代も含めて」

「頑丈さだけが取り柄なんで」

「こっちにはヒューイで来たのか」

「はい」

「腹が減ったろう。何か作らせよう」

「お気遣いなく。スタッフは全員追っ払いました」

 にこやかだった白鳥の表情が固まった。この国の最高水準の警備体制が敷かれてるのに、諍いの気配を感じなかった。ジュンの技量の評価を上方修正しないといけない。

 アイフォンで写真を見せ、ジュンが言った。

「妙見島にある竜の飼育場です。禁衛府が関わっていました。オヤジの差し金だとサクヤは言ってます」

「お前の意見はどうなんだ」

「オヤジが悪事に手を染めたとは信じたくない」

「それは願望であって、見解ではないな」

「いずれにせよ否定しないんですね」

 贅肉のない白鳥の顔をジュンは観察した。感情は読み取れない。荒んでいた三年前のジュンを目に掛け、問題を起こしても常に味方してくれた、大きな包容力を感じられない。自分自身と取り巻きを守るため黙りこくっている。

 ジュンはワイングラスに手を伸ばし、赤い液体に指を浸した。指先を軽く舐めると、不快な苦みが口に広がった。

 涙がジュンの頬をつたった。

 それは黒竜の血液だった。白鳥が首謀者なのは間違いない。しかも違法取引に関わるだけでなく、竜の血を啜って寿命を延ばそうとしていた。

 嗚咽をこらえながらジュンが言った。

「なぜ、こんな真似を」

「政治の世界は、必ずしも白黒つけられないんだ」

「こんなの悪に決まってる!」

 ジュンは座敷机を叩いた。グラスが倒れ、チェス盤のキングが血の海に沈んだ。

「あたしの両親は」ジュンが言った。「黒竜王に殺された。中学の同級生は人身御供に取られて、いまだに安否が判らない。竜は全人類の敵だ。絶対滅ぼさなきゃいけないんだ」

「竜には利用価値がある」

「だとしても人肉を食わせて養うなんておかしい。死んだ仲間にどう顔向けしろと」

「兵たちの死は無意味ではない。有利な講和条件を引き出すには、できるだけ奮闘しないとな」

「講和? 何を言ってるんですか」

「日本政府は竜族と休戦協定を結んだ。明日発表する」

 ジュンは言葉を失った。想像すらしないことだった。背もたれに仰け反り、呆然とした。

 ジュンが力なくつぶやいた。

「誰に何を吹き込まれたか知りませんが、この戦争は勝てます。あたしの頭にはっきりした道筋があるんです。今から詳しく説明します」

「若いお前には解らぬだろうが、ことは政治なんだ」

「腐った政治屋連中は、まとめてあたしがぶった斬る。その後あたしを死刑でも何でもすりゃいいでしょう」

「お前を死刑になどできるものか」

 白鳥は優しげに愛弟子を見つめた。もともと痩身だが、頬の辺りがげっそりと窶れてるのにジュンは気づいた。

「オヤジ……ひょっとして体が」

「よくわかったな。ステージ3の胃癌だ。女房からは早く引退しろと毎日せっつかれて閉口している」

 政権の上層部で何が起きてるのかジュンは知らないが、白鳥の考えの一部を理解した。

 厭戦気分に傾いた国民から疎まれ、政治的に孤立したジュンを庇うため、白鳥は泥を被ろうとしている。竜族に膝を屈した売国奴という汚名を着て。

 卓上に身を乗り出し、ジュンが言った。

「戦況は有利なんです。竜族は焦ってます。講和するにしても、赤竜神をおびき出して斬るとか」

「お前はそればかりだな」

「これがあたしの仕事ですから」

「俺とて軍人だ。お前が思いつく程度の作戦はすべて検討した」

「諦めるなんてオヤジらしくない」

「まったくだ。政治家になどなるものではなかった」

 白鳥は衰えた足腰で立ち上がった。座敷の隅にあるワインセラーの扉を開けた。振り返ったとき、白鳥の右手に黒いシグザウエルP220があった。

 砂色のP320を構え、唾を飛ばして因幡が叫んだ。

「銃を捨てろッ!」

 ジュンは白鳥から目を離さず、背後の因幡に言った。

「いいんだ」

 因幡が言った。「しかし」

「銃口を下げろ。何も問題ない」

 白鳥がこの期に及んで、技量に優る二人と撃ち合って見苦しい死に様を晒すとは、ジュンには思えなかった。

 自決するつもりだ。

 汚職への関与を知られた以上、白鳥に逃げ道はない。ジュンが和睦を支持するなら交渉の余地がある。だがその条件だけは飲む訳にいかない。

 唇を震わせてジュンが言った。

「あたしはどうしたら」

「何もしてやれなくて申し訳なく思ってるよ」

「は?」

「苦難の道がお前を待ち受けている。竜族は恐ろしい敵だ。味方は一人もいないと覚悟しろ」

「全員が敵ってことはないでしょう」

「神に戦いを挑んだのが間違いだった」

「どういうことですか」

「ジュン、日本を頼む」

 白鳥は、こめかみに当てたP220のトリガーを引いた。




 ジュンは早足に官邸の玄関を出た。チェス盤から拾ったポーンを弄んでいた。恩人を死に追いやったことへの自責の念と、政権が崩壊する予感を覚えていた。

 内乱が起きるのか?

 それとも竜族の大規模な侵攻?

 自殺現場の後始末は因幡に任せた。ジュンは一刻も早く浦安の基地へ帰還しないといけない。禁衛府の手綱さえ掴んでいれば、竜や政治家や自衛隊や活動家が策動しても対処できる。

 茅葺きの門のところに、禁衛府の一個小隊約三十名がたむろしていた。ジュンの部下ではない。その内の十名が、白い玉砂利を踏み散らして近づいてきた。率いているのは、頬に絆創膏をしたサクヤだ。基地の留守を守る約束だったのに話が違う。

 バチバチと、ジュンの手許で異音がした。霊鎖がクサナギの鍔に巻きついた。抜刀を封じられた。

 悪寒がジュンの背筋を走った。

 ハメられた。

 虚勢を張り、あえて高圧的にジュンが言った。

「どういうことだ。説明しろ」

「暁ジュン」サクヤが言った。「白鳥健吉首相の殺害、および叛乱の容疑で逮捕する。禁衛府刑法に基づき、あなたは弁護士を呼ぶ権利も、裁判を受ける権利も認められない。抵抗すれば即射殺よ」

「お前が黒幕だったのか。裏で和平工作をしてやがったな」

「剣帯ごとクサナギを捨てなさい」

「ざけんな」

 ジュンは力任せに刀を引き抜こうとした。青白い火花が散り、両手の皮膚を焼いた。絶叫しながらジュンは粘った。鈍色の刀身が五センチほど姿を見せた。

 サクヤは肩をすくめ、真っ赤な唇に冷笑を浮かべた。

「これだから野蛮人は」

「くそが……真っ二つにしてやる……」

「ゴリラは檻に入れなきゃダメね」

 サクヤは白く滑らかな右手の掌を向けた。その刹那、ジュンは衝撃波を受けて後方へ吹き飛んだ。サクヤがこれほど派手な霊力を使えるとは知らなかった。

 ジュンは後頭部をしたたかに石灯籠にぶつけた。脳震盪を起こして気絶した。




 ジュンは官邸の厨房へ連れ込まれた。サクヤの部下によって身ぐるみ剥がれ、身体検査された。相手は全員男だった。彼らはジュンが携帯しているはずのアルミ製のピルケースを探していた。そこには両親の遺骨が入っていた。

 赤竜神は「常世の焔」なる霊力を使えると言われる。体の一部から死者を蘇らせる呪術だ。先輩の霊剣遣いから教わった伝説を信じ、ジュンは浦安の官舎に遺骨の一部を保管していた。そして竜圏に侵入するときは必ず持ち運んだ。

 サクヤはジュンの部屋に監視カメラを設置していた。今回の出動にあたり、ジュンがピルケースをリュックに入れる様子が撮影されていた。遺骨は人質としての価値がある。奪えばジュンはサクヤの言いなりになるはずだ。

 衛士たちはジュンに再び服を着せ、作業台に寝かせた。両手両足を蛇口に結びつけた。顔にタオルをかぶせ、その上から水を掛けた。ジュンは実はカナヅチだった。意識を失いかけるほど恐怖した。

 水責めに疲れた衛士たちは、ジュンをパイプ椅子に座らせ、両手両足をパイプに縛りつけた。もう少し手荒な拷問を試すことにした。

 目の前に迷彩戦闘服を着たサクヤが座っていた。細い脚を組み、文庫本を読んでいた。ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』だった。

 やかんの湯が沸いたので、サクヤはティーパックの入ったカップに注いだ。不機嫌そうに言った。

「もっといい紅茶を飲みたいわね。探せばあるんでしょうけど、あなたが料理人を追い返したから困るわ」

 ジュンが言った。「調子こいてんじゃねえ、ビッチ」

「忙しい時こそ、食にはこだわりたいもの」

「てめえの良く回る舌をいつか引っこ抜いてやる」

 サクヤはやかんをジュンの腿に置いた。ジュンはあっと叫んだ。紺のスカートが焼け焦げた。

 大量に涙をこぼしながら、ジュンがつぶやいた。

「くそ……この裏切り者が……ぜってえ許さねえ」

「許しを請うた覚えはないし、その必要もないわ」

「なぜ裏切った。いろいろあったにせよ、あたしらは親友だろう。中学以来の」

「あなたに友情を語る資格があるのかしら」

「ヨリが人身御供にされると決まった日……」

「中学の同級生のヨリちゃんのこと?」

「そう。あたしらはヨリの家に行って、一晩中泣いた。サクヤはあたしと正反対の性格だけど、信じられると思った。一生の友達になれると」

「懐かしいわね」

「これは昔話じゃない。ヨリは竜圏のどこかにいる。あたしらの力で解放してやるんだ」

「バカみたい。とっくに死んでるわよ」

 ジュンは愕然とした。石灯籠に頭をぶつけたとき以上に衝撃を受けた。人形みたく可憐な少女の、あまりに冷酷な発言に絶望した。

「何なんだ。お前はいったい何なんだ」

「私の将来の夢を覚えてる?」

「知るか」

「デリカシーのない人間って嫌いよ。私の夢は外交官になること。だから外交手段で戦争を終わらせるの」

「ふざけんな。竜族は滅ぼせる。勝利は間近なんだ」

「地底界まで下りて行って、竜族を根絶やしにできるの?」

「ムチャ言うな」

「どこかで手を打たねばならないでしょう。それが私の役割。人類と竜族はこれから共存共栄していくの」

 ジュンは口をつぐんだ。どちらかと言えばジュンは弁が立つ方だが、サクヤを言い負かせられる気がしない。

 早口でしゃべり続けるサクヤの口許を眺めていた。くねくねとうねる真っ赤な舌が、何かに似ていると思った。ついさっき、舞浜駅の上空で見たばかりだ。

 赤竜神の舌だ。

 上擦った声でジュンが言った。

「お前、人間じゃないだろう」

「突然何を言うの」

「竜の血が混じってるんだ。そうだ、それなら説明がつく。お前は竜族が開戦前に潜り込ませたスパイなんだ」

「私のどこが竜なのよ」

「ハーフドラゴンは体が大きいし、鱗だらけで人間に見えない。でも四分の一や八分の一の混血なら、人間に変装できるかもしれない。これまで発見されなかっただけで」

「前からおかしかったけど、ついに発狂したのね」

「竜族は日本政府をコントロールするため、あたしを利用した。でもあたしが勝ちすぎたから、切り捨てようとしている」

 サクヤは岩波文庫を作業台に置き、おろし金を手に取った。刃の突き出た面を向け、ジュンに近づいた。

「あなたの嫌いなところ、もう一つあったわ。勘が良すぎるところ」

「あたしを大根おろしにする気か」

「ええ、整形手術してあげる」

「これ以上美人になり様がないけどな」

「冗談は顔だけにして頂戴。ほら、ピルケースの隠し場所を言いなさいよ」

 サクヤはおろし金を持って近づいた。頬が薔薇色に輝いている。興奮している。

 ジュンは歯を食いしばった。

 多少の負傷は受け容れないといけない。死ぬよりはマシだ。顔を削られたくらいで服従などしない。

 ズダダダッ!

 換気扇を通じて、屋外からのアサルトライフルの連射音が聞こえた。ジュンとサクヤは沈黙し、腹を探り合う様にお互いの表情を凝視した。

 口火を切ってジュンが言った。

「ナミが来たんだろう。あたしがここにいるのは教えてある。連絡が途絶えたから心配して来たんだ」

「あなたに憧れて志願した、変わった子ね」

「マジメなやつだから、キレると怖えぞ。甲府が火の海になる」

「脅してるつもり? 私が霊剣遣いを恐れるとでも」

「改良した十握剣はクサナギより高性能だ。お前でも封じられるかどうか」

「十握剣は未完成でしょう」

「昨日まではな」

 小馬鹿にする様にジュンは片眉を上げた。

 サクヤはジュンが持ち出したポーンを握りしめた。

 葛藤していた。

 ジュンはまだ殺せない。禁衛府の戦闘部隊は忠誠心が強く、彼らを抑えるにはジュンを生かす必要がある。なので「人質」を取ってジュンを操る。自らの意思で講和すると見せかけて批判の矢面に立たせ、部下と共食いさせるのが上策だ。

 サクヤは外見に似合わぬ怪力で、木製のポーンを割った。断面を調べた。悪知恵の働くジュンのことだ、どうせ予想外なところに遺骨を隠したはずだ。

 優男風の部下にサクヤが言った。

「もう一度徹底的に身体検査しなさい」

「はっ」

「女だからって遠慮はいらないわ。中身は女じゃないもの」

「先程は直腸や膣まで調べました。生理中でした」

「へえ」

 パイプ椅子に縛られたジュンを見下ろし、サクヤは赤い唇を歪めた。愉快そうに優男に言った。

「せっかくだから、もっと可愛がってあげて。性的な意味で」

「それは……」

 優男は身じろぎした。戦場でのジュンの鬼神のごとき働きを知ってるので、さすがにレイプするのは躊躇われた。

「ゴリラ相手じゃ気が進まないでしょうけど、拷問の手段としては一番効果的なの。これは命令よ」

「了解しました」

 屈辱で顔を伏せたジュンを見て目を細め、サクヤは厨房から出た。外での衝突を解決しに行った。

 一方でジュンは、緑の樹脂が塗られた床を見つめながら、笑いを噛み殺していた。

 バーカ。

 その膣に遺骨は隠してあんだよ。

 陸上自衛隊の特殊部隊に伝わる秘匿のテクニックを、ジュンは白鳥から教わった。タンポンのアプリケーターに道具を入れて直腸へ突っ込む。ジュンは女なので、もうちょっとリアルに擬装した。

 たまたま生理中なのも幸いした。使用済みの生理用品に触るのを、男は忌避する。親の遺骨をあそこに入れるのは不謹慎かもしれないが、もともと母親の子宮から生まれた訳だし、許してくれるだろう。

 クサナギを奪われたジュンは無力だった。わずかな時間を稼ぐことしかできない。口の達者なサクヤは、今頃若いナミをたやすく煙に巻いてるだろう。何もかもどうでも良くなってきた。

 戦いに疲れたジュンはつぶやいた。

 会いたいな。

 お父さんとお母さんに。




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『竜圏からのグレートエスケープ』 第4章「背任」


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 イクスピアリを出たジュンは、舞浜駅前のデッキにいた。アイフォンに繋いだヘッドセットで因幡と通話していた。基地のあるディズニーランドの方を眺めている。薄曇りの空を二十頭ほどのワイバーンが飛び交っていた。竜族の中では翼が大きく、戦闘機の様に宙を切り裂いてゆく。

 マイクを通して、ジュンが因幡に言った。

「石ころなんか放っておけ。極力交戦は避けろ。頼むぞ」

 ジュンは通話を切断した。

 せっかくのBBQデートは、非常ベルを鳴らされたせいで中止となった。迅速かつ内密に事態を収拾するため、因幡を司令部へ送らざるを得なかった。

 そこにワイバーンの来襲があった。報告によると、敵は禁衛府から竜鉱石を奪回しようとしている。新宿など西部地区を解放したとき大量に獲得した、黒竜族が生成する鉱石だ。

 竜鉱石のほとんどは地下倉庫に保管してあり、ワイバーンは手が出せない。地上に残した分を取られるのは痛いが、敵の台所事情の苦しさが透けて見えもする。竜族も霊力を使用するには、鉱石が必要なのだ。

 地下では装備局が竜鉱石を鍛造し、損壊した霊剣の十握剣と布都御魂の修復を急いでいた。クサナギを含む三振りが、後輩の霊剣遣いに委譲される予定だ。そして三人がそれぞれ連隊を率いて竜族を囲い込み、全滅するまで圧力を掛け続ける。これがジュンの長期戦略だ。

 ジュンはパンジーの花壇の縁に、セーラー服のスカートを穿いた腰を下ろした。赤青白黄紫、色とりどりの花弁を指でいじった。

 脳内のチェス盤で駒を動かしていた。

 なるべく戦力は温存する。挑発には乗らない。次の作戦ではナミたち後輩に実戦経験を積ませる。敵主力を痛撃したあと、あたしは潔く退役し、高校三年生らしく受験勉強を始める。

 これまでと同じくギリギリの綱渡りだ。ジュンは霊剣遣いになったとき、自分は百パーセント死ぬと予測した。悪運に恵まれ、いまのところ先延ばしに成功しているが。

 思い通り事は運ぶだろうか。仮にうまく行ったとして、あたしは日常生活に適応できるだろうか。

 勉強とか、おしゃれとか、恋愛とか。

 BBQデートにしても、因幡と恋人同士になるのを本気で望んでた訳じゃない。指揮系統に悪影響を及ぼすから、そもそも士官と下士官・兵の間の情事は御法度だ。ただ同年代の女子みたいに、惚れた腫れたの真似ごとをしたかっただけだ。

 辺り一帯に影が落ちた。ジュンはカシオの腕時計を見た。まだ四時台だ。日没には早い。

 空を見上げた。翼を広げた赤い物体が天穹を覆っていた。あの黒竜王よりは小さいが、全長百メートル以上ある。ジャンボジェット機が墜落したかと見紛うほどだ。

 赤竜神。

 竜圏を力で支配する赤竜族の長だ。

 普段は旧皇居に潜み、めったに姿を見せない。最後に目撃されたのは、ジュンも参加した一年前のスカイツリーの戦いだ。あの会戦で禁衛府は二人の霊剣遣いを失った。ジュンも赤竜神と刺し違えて死のうとしたが、若いジュンに希望を託そうとする先輩二人に説得され、泣く泣く離脱した。

 その恐るべき最強の魔物が、竜圏の外に出現した。前代未聞の出来事だ。

 消耗しきっていたジュンの全身を電流が駆け巡った。知らぬうちに立ち上がっていた。同時にクサナギを抜いた。

 上空を旋回する赤竜神に、ジュンは念を送った。

 降りてこいよ、赤トカゲ。

 一対一で決着つけようぜ。余計な犠牲を出さない方が、おたがい好都合だろ。

 防空警戒システムが作動し、避難を促すサイレンと機械音声が駅周辺に流れていた。けたたましい赤竜神の啼声が鳴り響き、警報を掻き消した。ランドの方から約二十頭のワイバーンが、竜神の召喚に応じて飛来した。

 ジュンは唾を飲んだ。さすがにやばいかもしれない。

 ワイバーンは次々と、後肢に掴んでいたオリーブ色のトラックを放した。逃げ惑う市民の頭上に落ちた。

 攻撃ではなかった。ワイバーンは赤竜神に命じられ、奪回した竜鉱石を放棄した。赤竜神を中心にダイヤモンド型の編隊を組み、江戸川を遡る様に飛び去っていった。

 ジュンは納刀した。無敵の竜神があっけなく退散したのに仰天していた。

 だが簡単に逃がしはしない。北へ向かい走り出した。




 ジュンは左側に堤防を見ながら、無人の車道を小走りで進んだ。竜の編隊は見失っていた。

 なぜ赤竜神は、巣窟である西方の旧皇居へ直行せず、遠回りに北へ逃げたのだろうと考えていた。まるでジュンをどこかに誘導するみたいに。

 背後からブレーキ音が聞こえた。

 振り向くと、兵員輸送用の高機動車が停まっていた。ロールバーにミニミ軽機関銃を取り付けてある。陸上自衛隊第1師団を母体とする禁衛府は、戦車やヘリコプターなどの装備も保有している。ただし人竜戦争における主要兵器は霊剣であり、10式戦車ですら補助的な役割しか与えられてない。

 サクヤが助手席で立ち上がった。華奢な体型だが首に赤いスカーフを巻き、凛々しく迷彩戦闘服を着こなしている。ジュンにナイフで切られた左頬に絆創膏を貼っていた。

 ジュンを手招きし、サクヤが言った。

「さっさと乗りなさいよ」

 ジュンは頷き、荷台へ飛び乗った。他に衛士が四人いるので満杯だ。クサナギを鞘ごと剣帯から外し、抱きかかえて座った。

 サクヤに礼を言おうとしたが、口篭った。罪悪感に苛まれた。まず顔を切ったことを詫びないといけない。でもどう言葉にしたら良いか解らなかった。

 高機動車は百キロ近い速度で走行した。サクヤはペンダントにして首に下げた竜鉱石を触りつつ、行き先を指示していた。彼女にも霊力適性があり、竜の居場所を探知するなどの異能を発揮できた。

 崩壊した橋の前で停車した。中洲である妙見島に掛かっていた橋だ。ジュンは高機動車から降り、単眼鏡を取り出した。コンクリートの護岸に囲まれた中洲を観察した。放置された工場や倉庫が見えた。いくつかの建物は屋根や壁が崩れ落ちていた。サクヤによると竜族の反応があるらしいが、百数十メートルある赤竜神が隠れられる場所はない。

 ジュンは拳銃のファイブセブンをリュックから出した。ホルスターを剣帯に留め、銃を右手に持った。愛用するサブマシンガンのP90は三キロと重く、通学時は携行しない。弾薬は共通だし、ファイブセブンでも十分役に立つ。

 五人の衛士に向かい、ジュンが言った。

「あたしが先頭に立つ。掩護しろ」

「バカね」サクヤが言った。「偵察が先でしょ。ヒューイがこっちに向かってるわ」

「ヘリは帰らせろ。バタバタ音を立てたくない」

「そもそも橋が落ちてるじゃない。どうやって渡るつもり」

「足場は悪いけど飛び移れる」

「皆があなたみたく猿の様に動ける訳じゃないの」

「じゃあここでお留守番してろよ」

 ジュンはスカートを穿いたまま瓦礫を滑り降りた。飛んだりよじ登ったりを繰り返し、昨日から流量が増えている江戸川を渡っていった。たしかに猿にそっくりだ。

 サクヤの部下四名は困惑げに、上官の顔色を窺った。理性においてはサクヤに与したいが、禁衛府長官を単独行動させるのは気が咎めた。

 首を横に振りつつ、サクヤが言った。

「やってらんないわ。こうやって六年間も振り回されてるの。私が川に落ちそうになったら、ちゃんと捕まえてね」




 ジュンは妙見島の工場内部へ潜入した。マーガリンなどを製造する食品工場だった。鉄製の点検用通路から、フロア全体を見下ろしていた。

 十一頭の黒竜が、船舶に使われる太い鎖で繋がれていた。工場の隅にはタンクがあり、赤い液体が溜まっていた。ここは竜の飼育場だった。育てた竜から採血し、不老不死の薬としてブラックマーケットで売り捌くための。

 丸眼鏡を掛けた禿頭の男が、通路に跪いていた。作業服を着ている。殴られて落ちた眼鏡にヒビが入っていた。この施設の管理者である四十代の男は、禁衛府に所属していた。しかも装備局局長という高官だった。

 ジュンはクサナギを抜き、丸眼鏡の首に刃を当てた。汚物を見るかの様な冷たい視線で言った。

「あたしが軍紀にうるさいのは知ってるだろうな」

 丸眼鏡の首筋の汗が、刃を湿らせた。暴行や略奪を働いた部下に対するジュンの怒りの凄まじさを、知らない衛士はいない。竜族の奴隷だった女に乱暴した一個小隊を、その場で全員斬り殺したという噂がある。

 ジュンが続けて言った。

「このくそったれな施設の目的は何だ。カネのためとは思えない。てめえの地位なら、もっと手っ取り早く稼ぐ方法がある」

「長官に報告が遅れましたことは誠に……」

「高校生だからってなめんなよ。そうやってごまかすなら、ぶった斬って竜に食わせてやる」

「私は軍紀に反する様なことは何も」

「クソが」

 ジュンは丸眼鏡の首根っこを掴み、手摺の外へ押し出した。通路の真下に人間の屍体が積み重なっていた。みな裸で、老若男女の日本人に見える。負傷などは目立たず、それほど腐敗も進んでいない。

 これらの屍体は竜の餌だった。

 ジュンが言った。「人肉を食わせて竜を飼う。これが悪くないとてめえは言うのか」

 丸眼鏡は答えなかった。落とされないよう抵抗するので精一杯だった。

 ジュンは背後からぽんぽんと肩を叩かれた。真っ赤な唇にぎこちない微笑を浮かべ、サクヤが立っていた。

「よしなさいよ」サクヤが言った。「尋問なら、司令部に帰って効率的にやりましょう」

 ふんと鼻を鳴らしたジュンは、丸眼鏡を突き落とした。屍体の山がクッションとなって受け止めた。

 サクヤに指を突きつけ、ジュンが言った。

「組織を監督するのはお前の責任だ」

「私のせいだと言うの!?」

「あたしはいつも現場にいるんだ」

「あなたの尻拭いで、こっちはどれほど苦労しているか!」

「うるせえ。お前、竜に咬まれたことあんのかよ」

「きょう私は、洪水の被害に抗議する団体と話したの」

「ラクな仕事じゃねえか」

「そうね。子供を亡くした悲しみで泣き叫び、怒り狂う母親たちの相手をするのはね。あなたがバスケで遊んでる間に」

「…………」

「あまり調子に乗らない方がいいと忠告しておくわ。『親友』としてね」

 サクヤの言葉の皮肉な響きが、胸に突き刺さった。

 ジュンは手摺を両手で掴んだ。混乱した頭は爆発しそうなほど痛んだ。視線を泳がせながら言った。

「あたし、サクヤに謝らないと」

「なによ」

「だから、その、黒竜王を斃すときに」

「ナイフで私の顔を切ったこと?」

「……うん」

「いまさら謝ろうってわけ」

「遅いけど、ごめんなさい」

 ジュンが深々と頭を下げるのを見ても、サクヤは眉一つ動かさなかった。自身の迷彩戦闘服を指して言った。

「今でこそこんなナリをしてるけど、私は見た目にも気を遣う、フツウの女の子なわけ。あなたと違って」

「サクヤはかわいい。昔から」

「顔を傷つけられてどう思うか、考えられないの?」

「謝ってすむ問題じゃない。許してもらえるとも思わない。でも本当にごめんなさい。反省してる。こういうダメな自分を変えたい」

 顔をしかめ、肩を落としたジュンの姿は、雨に濡れそぼつ野良猫の様だった。とても救国の英雄に見えない。

「まあいいわ」サクヤが言った。「こんなところでケンカしてる場合じゃない。難題が山積みなんだから」

「ありがとう」

「別に許してないわよ」

「ううん。サクヤと出会えたことに感謝してる。サクヤがいなかったらあたしは頑張れなかった」

「意外と人懐っこいからズルいのよね、あなたは。ところでどうするの」

「どうするって?」

「この施設よ。放置はできないでしょう」

 サクヤは飼育場を見下ろし、指をぐるぐる回した。

 人肉を食らい満腹になったのか、ほとんどの黒竜は眠っていた。誇り高い種族なのに、家畜としての立場を受け入れてる様に見える。薬物でコントロールされてるのかもしれない。

「壊すしかない。黒竜は殺す。証拠は一切残さない」

「写真は撮った方がよくない?」

「なんでだよ。禁衛府の恥じゃんか」

「これほど大掛かりな背任行為を、装備局長ひとりで取り仕切れるはずない。指図した人間を追及しないと」

「でも上官はあたしら二人だけだぜ」

「ええ。そして禁衛府は首相直属の機関なの」

「まさか」

 ジュンは蒼白になり、口許を手で覆った。

 現在の日本国総理大臣は白鳥健吉。禁衛府の初代長官だ。陸自第1師団長を務めていたが、霊剣遣いの少女たちを指揮官に抜擢するなど異例の指導を行い、ついには防衛省や統幕から独立した軍事組織を立ち上げるに至った。

 予算を奪われた自衛隊は反撥し、政治家は利権を求めて策動し、国民は動揺した。白鳥はクーデターを起こし、首相に就任した。憲法の停止を宣言して、人竜戦争を遂行する体制を整えた。その強引な手法には毀誉褒貶あるが、暁ジュンの様なじゃじゃ馬を乗りこなすには仕方なかったのも事実だ。

 首相就任後も白鳥は現役の軍籍を残しており、禁衛府の最高顧問を兼任している。

「嘘だ」ジュンがつぶやいた。「オヤジは悪党じゃない」

「あなたは最高顧問と親しいものね。気持ちは解るわ」

「撤回しろ」

「バカね。ちゃんと自分の頭で考えなさいよ」

 三年前、両親を黒竜王に殺されたジュンは、創設されたばかりの禁衛府に志願した。自分を虐める様に訓練に打ち込んだ。絶望し荒んでいたジュンを、白鳥は手塩にかけて育てた。いわば親代わりの存在だった。

 ジュンは白鳥健吉を尊敬していた。軍人としても、人間としても。戦争で国民に犠牲を強いながら、陰で竜族を家畜にして私腹を肥やすなど、似つかわしくない。盗賊ですらこんな非道はしない。

 ジュンは納刀したクサナギに手を添え、つぶやいた。

「ありえない。これじゃ仲間の死が茶番になってしまう」

「そうね。慎重に調査しないとね」

「あたしは甲府に行く」

「いまから?」

「ああ。首相と直談判して確かめる。もし本当なら斬る」




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『竜圏からのグレートエスケープ』 第3章「咬創」


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 真新しい白のセーラー服に身を包んだジュンが、レコード店の新星堂でアニメのブルーレイを物色していた。九頭竜に咬まれた左腕にはまだガーゼ包帯が巻かれている。帯刀して人目を引くジュンを、他の客たちは遠巻きから眺め、ひそひそと噂を語り合った。

 禁衛府次長のサクヤは昨晩、臨時首都の甲府市で会見を開き、黒竜王と九頭竜を討伐したことを発表した。作戦の詳細は明かされなかったが、誰が竜を斃したのか全国民は理解した。日本に現存する霊剣遣いはジュン一人だからだ。異常気象による付随被害に対する不満も存在したが、赫々たる戦果に抗議の声は押し流された。

 ジュンは救国の英雄だった。そして、畏怖されていた。

 彼女は左腕の包帯を撫でた。体育の授業を見学すればよかったと後悔していた。バスケットボールが好きなのでつい参加してしまった。十二針縫った傷口が開いたかもしれない。

 ジュンは現役の女子高生でもある。激務の合間を縫い、週に一度くらい浦安市にある高校へ通っている。四六時中軍人に囲まれていたら、本当の自分を見失いそうだから。

 禁衛府は東京ディズニーリゾートを接収し、前線基地として利用していた。広大な敷地と充実した周辺施設は、根拠地に打ってつけだった。竜圏に近いため閉園したTDRを、せっかくなので有効活用した。

 ショッピングモールであるイクスピアリの賑わいは、竜の侵攻が始まる前とさほど変わらない。江戸川を越えて竜が千葉県まで侵出することは稀だし、もし現れても基地から禁衛府の精鋭が出動するので、市民は安心して生活できる。

 慣れっこになっただけとも言えるが。

 ジュンはファンタジー系アニメのパッケージを手にした。竜と戦うのが仕事なのにおかしいが、好みのジャンルだった。剣と魔法の活劇が見たいというより、女の子の衣装がカラフルで可愛かったりするのが、見てて楽しい。

 九千人を擁する行政機関の長たるジュンは、国務大臣並みの給料を貰っている。しかも官舎暮らしなので金が貯まりすぎて困るほどだ。贅沢したくはないし、その暇もないが、唯一の例外はアニメグッズだった。声優イベントの優先販売申込券が封入されるとあれば、円盤を買わない訳にゆかない。

 店内の大型モニターに、新作アニメの宣伝が流れた。セーラー服の少女が刀を振り回し、竜を相手に奮闘していた。現在NHKで放映されている『ドラゴンスレイヤー暁ジュン』だ。

 目立つのが嫌いではないジュンも、さすがに赤面した。テレビ放映も第一話以降見ていない。政府の誇大なプロパガンダの材料にされるのは愉快ではなかった。

 ジュンは新星堂から飛び出た。包帯に血が滲んでいた。

 耐えがたい痛みに襲われた。腕が引きちぎられるかと思った。コールマンのリュックサックからピルケースを取り出すが、中身は空だった。アンフェタミンでごまかせない。

 地中海の港町をコンセプトとする建物をふらついた。鉄製のベンチの手摺につかまった。通行人は禁衛府長官の異変に気づいたが、敬して遠ざけた。触らぬ神に祟りなしという態度だ。

 楽天の野球帽をかぶった長身の青年が、目と鼻の先に立っていた。部下である因幡八代だ。

 水の入ったナルゲンボトルを差し出し、因幡が言った。

「長官、お疲れさまです。お買い物ですか」

「まあね」

「顔色が優れない様に見えますが」

「あたしは生理が重くてさ」

 ジュンは一口飲んで水筒を返した。ベンチに座りたいのを我慢し、背筋を伸ばした。虚勢を張らねば、十八歳の女の身で総司令官は務まらない。

「因幡は」ジュンが言った。「ここで何してんの」

「長官が出てるアニメのブルーレイを買いに来ました」

「あたしは出演してねーよ」

「そういう意味じゃなく」

「あんなもん見んな。作画もストーリーもクソすぎる」

「衛士は皆見てますよ。誇らしいです」

「ゴールデンなのに視聴率十パーセント切るってヤバいだろ。円盤に至っては大爆死だし」

「なんだかんだで詳しいですね」

「うるせーな」

 ジュンはため息をついて腰を下ろした。短いスカートから伸びる脚を組み、長身の因幡を見上げて言った。

「お前、あたしを尾けてたろ。全然気づかなかったけど。でも声を掛けてくるタイミングが不自然だ」

「鋭いですね」

「サクヤの命令で監視してんのか」

「何をおっしゃるんですか」

 因幡が左隣に座った。整った顔を近づけ、ジュンの目を見ながら言った。

「清原次長は関係ありません。長官を交代で護衛すると、側近の者同士で決めたんです」

「うざっ。いますぐ止めろ」

「では申し上げます。長官は検査入院をなさるべきです」

「休めるもんなら休みてえよ! でも霊剣遣いはあたしだけじゃんか。あたし抜きでどう戦うんだよ!」

 因幡は、四歳年下であるジュンのヒステリックな叫びを浴びても、涼しい表情を崩さなかった。

「禁衛府は池袋・新宿・渋谷などの西部地区を奪還しました。竜族は守勢に回っています。敵が反攻の態勢を整えるには、少なくとも一、二週間を要するでしょう」

「ほんとバカだな。流れが変わった今しかチャンスはない。全戦力を投入して、東西から旧皇居を挟撃する。次の一戦で竜族を滅ぼせなくても、この戦争での勝利は確実になる。そしたらあたしは退役する」

「禁衛府はどうなるんですか」

「サクヤに任せときゃ大丈夫だろ。あいつは生徒会長とか、仕切る仕事が大好きなんだよ。霊剣遣いもナミとか後輩が育ってきてる。あたしは世代交代のことまで考えてんだ」

 ジュンは人差し指で自分の頭をつつき、才幹をアピールした。

 因幡は小声で唸った。戦略を立案し遂行するジュンの能力は、実績が証明していた。反論の余地がない。

 深く頭を下げ、因幡が言った。

「差し出がましい振る舞いでした。御気分を害されたら申し訳ございません」

「別に怒ってねーし。むしろ、いつもありがとう。ワガママなあたしを支えてくれて」

「とんでもないです。軍人の義務を果たしてるだけです」

「義務ね。あたしはちょっとお手洗い行ってくる。そのあとスーパーで食べ物とか買うけど、因幡はどうする?」

「お付き合いします。頭脳はともかく、荷物持ちならお役に立てるので」




 ジュンは女子トイレに入った。擦れ違ったOL風の女から遠慮がちに会釈された。他に利用者はいない。

 洗面台の鏡に向かった。ひどい顔だった。日焼けした顔面は傷だらけで、髪もボサボサだ。こんな女子高生と出くわしたら、誰だってビビるだろう。

 左腕の包帯を外した。軽く触れるだけで、神経を削る様な感覚が走った。経験したことのない痛みだ。

 縫合された咬創をおそるおそる観察した。十二針縫われた傷の何箇所かで糸が切れていた。皮膚がかすかに波打ち、黒い物体の先端が傷口から見え隠れした。

 何かがいる。あたしの腕の中に。

 ジュンはリュックから戦闘用ナイフを取り出した。切先で糸を切り、慎重に刃を傷に差し込んだ。ナイフが刺さると、黒い物体がうねった。ジュンの喉の奥から呻き声が洩れた。意識が飛びかけた。

 黒い物体を指でつまみ、洗面器へ落とした。蛆虫などの寄生虫かと思ったが、色はどす黒く、長さは十センチ近い。ナメクジやヒルに似ている。しかし胴体には、未発達ながらも四本の足らしき物が生えていた。

 アンフェタミン中毒による妄想であってくれと、ジュンは祈った。一方で洗面器を這う、ヌメヌメした物体には現実味があった。ジュンはこの生物に心当たりがあった。

 黒竜の胚だ。卵から孵化する前の状態だ。

 ジュンは黒い物体を掴み、個室に入った。奥歯が鳴っていた。手にした物を便器へ投げ込んだ。それは水を嫌がり、水面で跳ねていた。ジュンは涙を流しながら「大」のボタンを押して流そうとした。

 ボタンに掛かった手を、背後から大柄な人間が止めた。因幡だった。断りもなく女子トイレに侵入していた。因幡は便器から物体を拾い、空のナルゲンボトルへ入れた。

 ジュンが叫んだ。「何しやがる!」

「捨ててはいけません。医務局に持っていって調査しないと」

「冗談じゃねえ!」

「自分に任せてください。信頼できるスタッフに極秘にやらせます。これは長官のお体のためです」

「お願いだ……やめてくれ……あたしがこんな体だと皆に知られたら……」

「命に代えても秘密は守ります」

 黒のサテンジャケットを着た因幡にしがみつき、ジュンは号泣した。乱れたジュンの髪を、因幡は不器用に撫でた。思春期を戦争に捧げたこの少女を、初めていじらしく思った。

「あたしは」ジュンが言った。「ひどいことをしてきた。卑怯で残酷なやり方で竜を殺した。人間も大勢死なせた」

「長官が、ではありません。私たちが、です」

「あたしは人間じゃなくなったんだ」

「違います。長官は人類の希望です」

「やっぱダメだ……サクヤに知られたら大事になる……」

「苦しいお立場は承知しています。たまには部下を頼ってください。長官に恩返ししたい人間は沢山いるんです」




 ジュンはイクスピアリの一階に降り、スーパーマーケットの成城石井に入った。大泣きしたせいで食欲が湧き、野菜や果物を因幡が持つ買い物カゴへ放り込んだ。

 精肉売り場でジュンの目付きは鋭くなった。竜圏にいるみたく集中していた。タレに漬けられて表面に胡麻が乗った黒毛和牛のパックを、目敏く発見した。

 ジュンは喉を鳴らした。

 あれは絶対おいしいやつだ。

 ジュンはパックを取った。隣にいた三十代の女と同時だった。気が逸っていたジュンは、太めの女を思わず睨みつけた。幼い娘を連れた女は身をすくめ、パックを手放した。

 食い意地の張ったジュンは、ばつが悪くなり頭を下げた。太めの女にパックを差し出して言った。

「すみません。これ、どうぞ」

「そんな」太めの女が言った。「恐れ多いです」

「あたしは一人なんで。家族で食べてください」

「どうかお気遣いなく。暁さんこそお疲れでしょう」

 母親は娘の手を引いて去っていった。刀を差した女子高生と関わるなどまっぴらと言わんばかりだった。

 戦利品をカゴに投げたジュンに、因幡が言った。

「今の態度は良くないですよ」

「あたしの?」

「そうです。あの女性は怖がってました」

「ちゃんと謝っただろ」

「我々は戦場帰りですから、殺伐とした雰囲気を発散してるんです。市民と接する時は腰を低くしないと」

「へいへい」

 ジュンはスナック菓子を漁り始めた。力自慢の因幡でも手でカゴを持つのがきつくなり、カートを使った。

 カートを押しながら因幡は嘆息した。

 難しいところだ。陰惨な戦争から解放された、ジュンのわずかなプライベートの時間は、自由に過ごさせたい。しかし周囲からの視線は無視できない。付随被害を躊躇しないジュンの戦略を、国民は心から支持してはいない。

 高校球児上がりの因幡は、十八歳の少女の立ち居振る舞いにきめ細かく配慮するのに向いてなかった。本来は親友であるサクヤが適任だが、最近は独走しがちなジュンと対立することが多く、さらに都庁跡で顔を切られた件で決定的な亀裂が生じた。

 だから、因幡など側近が支えるしかない。

 ステーキ肉を持ってきたジュンに、因幡が言った。

「肉屋でも開くつもりですか」

「官舎に帰って自分で焼く。めちゃくちゃ肉食べたい」

「ウチにバーベキューのセットがありますが」

「たしかお姉さんと一軒家に住んでるんだっけ」

「姉夫婦は妊娠してから甲府に引っ越しました。子供がいると竜圏の近くは不安らしくて」

「ふうん。じゃあお邪魔しようかな」

「ナミさんとか訓練生も呼びましょうか。長官を慕ってるから喜びますよ」

「それもいいけど早く食べようぜ」

 ジュンは無表情につぶやいた。

 内心では胸騒ぎしていた。

 つまりこれは因幡と二人きりではないか。

 たしかに因幡は、野球と近接格闘しか能がない朴念仁だ。それでも単なる上下関係から、もうちょっとマシな間柄にステップアップする好機となりそうだ。




 ジュンはカートを押してレジに並んだ。戦災による人手不足の影響か、長蛇の列ができている。因幡はバーベキュー用の炭を買いに、二階のアウトドアショップへ向かっていた。

 さっき肉を取り合った太めの女の背中が、目の前にあるのに気づいた。なんとなく気まずいが、ジュンは黙っていた。たかが和牛のパック一個ごときで国家的英雄に謝罪されては、相手も恐縮するだろう。

 カゴの中の、赤みの多い分厚いステーキ肉を見つめた。焼肉のタレも三種類選んであるが、大根おろしと醤油でさっぱり頂くのがいいかもしれないと、舌舐めずりした。

 ジュンはぼんやり考えた。

 この肉を生で食べたらどんな味がするのかと。

 鉄臭い肉汁を想像すると、唾液が口腔に溢れた。呼吸が荒くなった。ほかに何も考えられなくなった。

 ジュンはラップに爪を立てた。ステーキ肉を握り、そのまま齧りついた。さすがに固いが、強引に食いちぎった。咀嚼すると、想像以上の滋味が広がった。肉は生で食べるのが一番なのだと解った。

 前に並ぶ、ピンクのトレーナーを着た幼女がジュンをじっと見つめていた。母親と手を繋いだ五歳くらいの幼女は、人間が生肉に食らいつく行為を理解できず戸惑っていた。

 ジュンは我に返った。腋にじっとり汗をかいていた。コアラのマーチの箱を開け、中身を幼女に数個渡した。人差し指を唇に当て、内緒にしてねとメッセージを送った。幼女はぎこちない笑顔で応えた。

 太めの女がやりとりに気づいた。コアラのマーチを頬張る娘と、口許と右手を真っ赤に染めたジュンと、食いちぎられたカゴの中のステーキ肉に、落ち着きなく視線を動かした。

 太めの女が言った。「うちの子に何をしたの」

「別に。何も。お菓子をあげただけ」

「私たちに関わらないで」

「大丈夫。全然問題ない」

「まさかこんな所で生肉を食べてたの」

「一瞬おかしくなっただけだって」

「やっぱり。噂通りあなたは頭が……」

 激戦の後遺症で神経が過敏になっているジュンは、太めの女が興奮して喚き散らす前兆を感じ取った。反射的に左手がクサナギの朱塗りの鞘へ伸びた。

 機先を制され、太めの女は沈黙した。カゴを捨て、娘の手を引いた。行列を突き飛ばして出口へ急いだ。壁にある非常ベルを見つけた。振り向いてジュンを指差し、言葉にならない叫びを上げつつボタンを押した。

 警報が鳴った瞬間、買い物客はみな泡を食って逃げ出した。竜の襲来だと勘違いしていた。




テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

『竜圏からのグレートエスケープ』 第2章「黒竜王」


全篇を読む(準備中)






 山手線の高架を潜った先の、副都心と呼ばれた西新宿は、歌舞伎町より無慚に朽ち果てていた。人と竜の、ときに竜同士の争いに巻き込まれ、すべての超高層ビルが倒壊していた。腐蝕し蔦が絡みついた現代建築は、退廃的な美を湛えていた。

 ジュンと因幡は、瓦礫に身を寄せて暴風雨を避けながら、荒廃した土地を進んでいった。

 まだ竜族との遭遇はない。重傷を負ったジュンにとって、仲間の存在は正直ありがたい。目と耳がもう一組あると、警戒しながらの戦術的移動がしやすい。

 ターゲット以外との交戦は絶対避けたかった。

 クサナギの使用はあと一回が限度だ。九頭竜を斃すのに霊力を使いすぎた。これ以上はジュンの身心が保たないだけでなく、嵐による付随被害も取り返しのつかない規模になる。

 一撃離脱。生き残るにはこれしかない。

 数頭のワイバーンが、暗雲を引き裂いて飛び交った。金切り声を地上へ響かせた。ワイバーンはもっとも飛行が速い種族であり、偵察・警戒・連絡などの役割を務める。竜族は電波が通らない竜圏において、複雑な啼声と共有される記憶により、高度な移動情報通信システムを構築していた。

 雲翳を見上げながらジュンが言った。

「あと十五分が限度だな。包囲される前に逃げるぞ」

 因幡が言った。「赤竜まで来たら厄介ですね」

「黒竜の縄張りのど真ん中だから、それはない。いま襲ってくるとしたら人間の奴隷だろう。注意しろ」

「あの盗賊団が裏切るかもしれませんよ」

 前行する因幡の広い背中をジュンは眺めた。盗賊を作戦に引き入れるのに彼は猛反対していた。

「ああ見えてホムラは筋を通すタイプだ。利益も与えてある。心配いらねえよ」

「だといいのですが」

 足許に流れる雨水にジュンは指を浸した。コールタールの様に黒ずみ、粘りついた。鼻が曲がりそうな臭気も漂った。

 ジュンが囁いた。「近いな」

 因幡は無言で頷いた。楽天イーグルスの臙脂色のキャップの下の、端正な顔が引き攣っている。

 いまから対峙するのは、大地を支配する黒竜族の長だった。人類はまだ、族長クラスの竜を斃した経験がない。終わってみれば、黒竜王が飲み込んだ膨大な血の量が、また一滴増えるだけの結末に至るかもしれない。

 賭博なら、二人はそっちにベットするだろう。

 コンクリートの砕片が崩れないよう慎重に、ジュンと因幡は斜面を登った。都庁前の半円形の広場に出た。午後二時なのに空は暗澹としており、視界は不鮮明だった。ナイトビジョンを用意すべきだったとジュンは後悔した。前方に倒れた二百四十三メートルの都庁舎が、広場を占拠していた。

「おかしい」ジュンがつぶやいた。「黒竜王はこの辺りにいるはずなのに」

 轟々という音が響いた。

 ジュンはぎょっとして飛び跳ねた。三年に及ぶ軍歴で、その音が何を意味するか知っていた。

 巨竜の寝息だ。

 P90を瞬時にクサナギに持ち替えた。近辺で寝ているであろう黒竜王を探した。

 ジュンが叫んだ。「クソッ!」

 見誤っていた。広場に横たわっていた物体は、倒壊した都庁舎ではなく、眠っている黒竜王だった。

 これほど巨大とは。

 三年前、ジュンは黒竜王を間近に見たことがあった。あれからさらに肥大化していた。

 ジュンは戦慄した。武者震いだった。

 ついに辿り着いたぜ。

 お父さんとお母さんの仇の居場所に。




 黒竜王の尾の方から、人間の女の声がした。

「待ちなさい! 私たちが相手になるわ」

 飛鳥時代みたいな黄色の衣装を着た五人の女が、横坑から現れた。プリーツスカート風の裳を穿き、鉄矛を持っていた。

 ジュンは納刀しつつ、舌打ちした。

 心配した通りだ。竜から解放されて歓喜すべき立場の人間が、得てして歯向かってきやがる。

 女たちは黒竜王の妻だ。聞かないでも解る。戦前は政府が籤引きで人身御供を差し出したし、戦中はブラックマーケットで多くの女が売られてきた。竜族がいかなる審美眼に基づいて人間の妻を選ぶのかは謎だが、五人とも王の側女にふさわしい器量を備えていた。

 ライフルに矛で対抗するデタラメさは、女たちが衣装だけでなく世界観まで古代風に染まった証拠だ。インカ帝国を征服するときのスペイン人の心境を、ジュンは理解した。

 文明を信じない敵が、いちばん厄介だと。

 おいそれと人間に手は出せない。竜圏は少なくとも名目上、日本の法律が適用される領土だ。無法地帯ではない。下手を打てば、政治的にこっちの首が飛ぶ。

 長い黒髪を後ろで束ねた女が言った。

「竜王様への乱暴は許さない」

「ええっと」ジュンが言った。「特殊生物被害者保護法にもとづき、皆さんを竜圏外へ送還します。こちらの因幡衛士長の指示に従い、速やかに退去してください。従わない場合は敵性勢力と見做され……」

「竜王様は重い病に罹ってるの。おそらく寿命なの。お願いだからそっとしておいてあげて」

 ジュンは振り返って黒竜王の寝顔を見た。健康かどうか診断できない。ジュンが精通してるのは竜の殺し方だ。

 ジュンは怒りを篭めて女を睨んだ。

 この女たちの言動は想定内だ。ストックホルム症候群だ。人質が誘拐犯に愛着を示すというあれだ。珍しくもない。

 あたしはただ、邪魔されたくないだけだ。

 ジュンが因幡に言った。

「こいつらを武装解除して追っ払え。抵抗したら撃っていい。あたしはサクヤが来る前にケリをつける」

 因幡が言った。「了解」

 サクヤとは、禁衛府次長の清原サクヤのことだ。中学以来の親友としてジュンを補佐するだけでなく、独走しがちな相棒の手綱を締めるお目付役でもあった。

 五人の女は、近づく因幡に穂先を向けた。皆へっぴり腰で、アサルトライフルを装備した衛士の敵ではない。

 それでも彼女らは、徹底抗戦の意志を示していた。

 長髪の女がジュンに言った。

「聞いて。あなたは竜王様の御心を知らないだけなの」

「なめんな」ジュンが言った。「あたしはこのトカゲ野郎をようく知ってる。最低最悪の人食いモンスターだ」

「竜王様は本当は平和を望んでおられる」

「うるせえ、ビッチ。寝言は地底界に帰ってから言え」

「人と竜は解り合える。種族の違いは問題じゃないの」

 因幡は固唾を呑んだ。背後にいるジュンが、女を真っ二つにする衝動に駆られるのを気配で察した。人間の殺害は物議を醸す。ジュンの統率力や戦術眼を尊敬しているが、若さゆえの軽率さを感じるときもあった。

 あえて因幡はSCARを捨てた。釣られて女の一人が、やあっと無意味な叫びを上げて矛を突いてきた。因幡は右に動いて躱し、女の腕を取って転がした。もう一人に足払いした。ジュンと口論していた長髪の女の側頭部に、拾った矛の柄を叩き込んだ。残る二人は戦意喪失し、矛を放棄した。

 鮮やかな手際に感心し、ジュンは鼻を鳴らした。

 高校時代まで野球選手だった因幡は、百八十四センチと長身だ。肩を壊して引退する前は、プロから声が掛かるほどの剛速球投手だったらしい。男なので霊力を使えないが、単純に近接格闘の技倆であればジュンを凌いでいた。

 ジュンと因幡はアイコンタクトした。

 決着をつける時だ。




 左手をクサナギの鞘に添え、ひとりでジュンは一歩また一歩と、黒竜王の頭部へ近づいた。心臓が高鳴っていた。

 お父さん、お母さん。

 見ててね、今からあたしがすることを。

 黒竜王の瞼が持ち上がった。濁った目でジュンを見下ろした。

 努めて平静な口調で、ジュンが言った。

「よう、久しぶり。あたしを覚えてるかい。それとも人間なんて餌だから、気にも留めないかな」

 竜族は人間の言語を解する。発声はできないが、人間の精神に直接言葉を送り込むことができた。

「覚えているとも」黒竜王が言った。「我々の記憶は失われることがない。そしてその記憶は竜同士で共有される」

「あたしも竜だったら赤点取らずに済むのにな」

「暁ジュン、お前は両親の仇を取りに来たのか」

「たりめえだろ。そのためにあたしは生きてきた。地獄の様な戦場を潜り抜けて」

「どれだけ竜を殺した。どれだけ人間の被害者が出た」

「あたしに説教すんな、トカゲ野郎。命乞いをしたけりゃ聞いてやる。まあその後で瞬殺するけどな」

「哀れな。憎しみに囚われた娘よ」

 ジュンはクサナギを鞘走らせた。しかしバチバチと火花が散る音がして、刀は固まった。手許を見ると、鍔のところに電光の鎖が巻きついていた。

 霊力によってクサナギが封じられた。誰がやったのかは解っている。その権限を持つ人間は一人しかいない。

 暗がりを見回しながらジュンが叫んだ。

「サクヤッ! 霊鎖を解けッ!」

 死角から、禁衛府次長の清原サクヤが現れた。澄まし顔で刀の間合いに立っていた。抜けない以上斬られる恐れはない。

 迷彩戦闘服を着たサクヤは、ジュンの中学時代の同級生だ。人目を引く容貌の持ち主だった。美少女というだけでなく、生まれつき唇と頬が真っ赤だった。あまりに唇が赤く、まるで生肉に食らいついた後みたいに見えるので、コンシーラーでごまかさねばならないくらいだ。

 憮然と腕組みして、サクヤがジュンに言った。

「あなたはひどい人ね。私に前線の指揮を任せおいて、自分は秘密作戦をこっそり実行してたなんて」

「なぜ邪魔する。あと一太刀で黒竜王を葬れるんだ」

「作戦中止命令が出たからよ。首相直々の」

「ふざけんな!」

「ふざけてるのはあなたでしょ。霊剣の使用は一日一回までと決められてるのに、もう四回も使った」

「九頭竜を斃せたんだから価値ある勝利だ」

「犠牲が大きすぎる。霊力バランスが崩れたことによる異常気象で、関東地方のほとんどのダムが決壊した。どれほど被害が生じたのか見当もつかない。実質的に敗北よ」

「国民は理解してくれる」

「あらそう。弁明は軍法会議でするといいわ」

 サクヤの真っ赤な唇が歪んだ。ナンバーツーである彼女には、長官を告発する法的権利がある。

 ジュンは剣帯に差していた、鉈の様な戦闘用ナイフを振るった。サクヤは目を丸くして、自分の左頬を触った。華奢な指がべっとりと血で濡れていた。

「信じられない」サクヤが言った。「自分が何をしたのか解ってるの」

「霊鎖を解け。三度めは言わない」

「あなたは親友の顔を切ったのよ」

「それがどうした」

「狂ってる。あなたの辛い経験は知ってるわ。でも禁衛府を率いる責任の方が重いでしょう」

 ジュンは苦しげに俯いた。明るく快闊な性格だが、ときおり陰鬱な表情を見せることがあった。醜い火傷が残る己の右腕を見つめていた。

 ぼそぼそとジュンがつぶやいた。

「三年前、あたしは京王プラザホテルのレストランにいた。両親の結婚記念日を祝っていた。黒竜王が現れて新宿を壊滅させた。お母さんはあたしを庇って死んだ」

「家族を失ったのはあなただけじゃないわ」

「着飾ってキレイにお化粧したお母さんは、黒焦げになった。翌朝救助されるまで、あたしは瓦礫の下で一晩中、お母さんの焼け爛れた肉の臭いを嗅いでいた。一分一秒だってあの日を忘れたことはない」

「…………」

「たとえ世界が滅んでも、あたしは黒竜王を斬る」

 闇の中でジュンの瞳が燃えていた。サクヤはこの幼馴染が、実は竜より恐ろしいモンスターだったのではないかと、考えを改めていた。本能的な恐怖に震えながら。




テーマ : オリジナル小説
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苑田 謙

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