『殲滅のシンデレラ』 第4章「地下駐車場」


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 アヤは羽多野とトワに連れられ、薄暗い地下駐車場をあるく。ことなる制服の少女二名と、派手なスーツの男一名。見慣れない組み合わせだ。

 コンクリートで囲まれた空間は、無機質で陰鬱。別のレーンから、タイヤの摩擦音がひびく。食事を終えたどこかのだれかが、帰路についた。

 新幹線も飛行機も、すでに京都行きの最終便が出た。アヤたちは都内のホテルで一泊したあと、早朝の新幹線に乗る予定だ。そして明日の夜十二時までにテロリストを斃す。タイトな日程になる。

 羽多野の車は、赤いメルセデス・ベンツGLS。七名が乗車可能なSUVだ。自慢の愛車の前に、中年の男女が立っている。ひとりはアヤの母。となりのピンストライプのスーツの男も見覚えがある。一度か二度、夫人同伴でアヤの家に来ていた。たしか東急本店の店長だったはず。

 濃紺のワンピースを着た母に、アヤが言う。

「よくここがわかったね」

「一応母親ですから。あと無理を言って、こちらの関さんに御協力いただいたの」

 母は関に頭をさげる。丁重に礼をのべる。関は満足げに、エレベーターの方へ去ってゆく。

 このデパートにとって、アヤの母は最大のお得意さまのひとり。大口顧客をつなぎとめるのは、店長の重要な職務だ。よその親子ゲンカに介入するくらいの骨折りは、苦にしない。




 アヤと母のふたりがGLSに乗る。体を包みこむ革張りのシートに座る。地下駐車場も静かだが、車内はまったくの無音だ。

 息苦しい。

 窓にシンデレラが映っている。アヤにウィンクし、サムズアップする。母との対決を応援してくれるのはうれしいが、正直言って気が散ってしまう。

 シンデレラは、スカートをひるがえしスピンする。電飾をほどこされた馬車などの乗り物が、GLSの両脇を行進する。お姫さまや妖精がその上で踊る。おなじみの賑やかな曲がながれる。

 エレクトリカルパレードだ。

 眉をひそめて母が尋ねる。

「アヤちゃん、疲れてるみたい」

 目をこすってアヤは集中をとりもどす。

「べつに」

「お父さんと話したの。これを見せたわ」

 イタリア製の革のトートバッグから、母は一枚の書類をとりだす。あちこち記入されている。

「離婚届?」

「これが私の切り札。お父さんのうろたえぶりったらなかったわ。アヤちゃんにも見せたかった!」

「そうなんだ」

「仕事の大変さは理解してるし、大抵のことは我慢するけど、子供たちを傷つけるのだけは許さないって言ってやった」

「へえ」

「ネイルをしてもいいと認めさせたわ」

「そうなんだ。ありがとう」

 アヤの態度は冷淡だった。いまさら遅いと言わんばかりだ。

 母は察知する。娘はなんらかの覚悟を決めたのだと。離婚届より強力な、とっておきのカードを切る必要がある。

 さりげない口調で母が言う。

「そういえば私、例の話をアヤちゃんにしたかしら。私が高校時代にお付き合いしてた人の話」

 明敏なアヤは、母の戦略を看破している。だがそこは、思春期の女の悲しさ。おもわず餌に食いつく。

「なにそれ、知らない」

「家庭教師だったの。当時は大学院生」

「ありがちだね。友達にもいるよ。カテキョとつきあってるコ」

「アヤちゃんも経験あるでしょう。先生を好きになったことが」

「さあ。どうかな」

 アヤは無表情をよそおう。

 図星なのはミエミエだった。どれだけ大人ぶっても、母には見透かされる。手にとる様に。

 母はほくそ笑む。

 娘がいじらしくてしかたない。母親業ほどたのしい仕事はない。あるわけがない。

「私たちは将来を誓い合ってた。あの人と結婚すると信じこんでた。でもダメだったわ。おじいちゃんに反対されて」

「へえ」

「あの頃のおじいちゃんは、それはそれは怖かったの。お父さんなんて比べものにならない」

「想像できないね」

「ちょっとでも口答えしたらぶたれるの。私も気が強かったから、しょっちゅう鼻血を出してたわ」

「それはひどいなあ」

「いまじゃアヤちゃんにベタ甘なんだから、なんだか不公平よね」

「私が可愛いからじゃない?」

「なによ。私だって昔は可愛かったのよ」

 ほがらかに母娘ふたりは笑う。

 アヤの読書好きは、上智大学仏文科卒の母の影響だった。月に一度は、ふたりで映画や演劇を見に出かける。基本的に仲のよい親子だった。

「結局」アヤが尋ねる。「その人とはどうなったの」

「駆け落ちするつもりだった」

「ぷっ」

「アヤちゃんは笑うけど、すくなくとも私は本気だった。逃げられちゃったけどね。おじいちゃんからお金をもらって身を引いたみたい」

「本人がそう言ったの」

「そんなこと聞くわけない。もし事実だったら、私が惨めすぎるでしょう」

「いまでもその人を思い出す?」

「それがね……」

 母は脇腹をかかえ、笑うのをこらえる。鉄板のエピソードがあるらしい。

 アヤは、自分が母のペースに乗せられてるのを自覚している。でも話の続きがどうにも気になる。

「こないだ」母が続ける。「新聞でひさしぶりに彼の名前をみたの。いまは大学教授なんだって」

「へえ」

「でも、そこでセクハラ事件を起こしたって言うから、びっくりするじゃない。教え子にちょっかい出して。大学はクビになったそうよ」

「うわあ」

「男の人の性癖って、死ぬまで変わらないのかって思ったわ」

 なるほど、そういうオチか。

 アヤは内心で批評した。

 若い娘が激情に駆られ、後先かんがえない行動に出るのはしかたない。若い娘なのだから。

 でも、落ち着きを取り戻したその先に、人生において本当に大切なものがある。

 就職、社交、子育て、選挙運動、地域振興、慈善事業、趣味の集まり、なんだっていい。やりがいのある仕事が山ほどある。寝るのも惜しいくらい充実した人生、だれもが羨む人生が待っている。

 佐倉家の跡取り娘でいれば。

 その生きた見本が、目の前にいる。

 アヤはGLSのシートに背中を預ける。首を回す。ボキボキと音が鳴る。

 家出の決心が揺らぐ。

 誘惑が大きい。

 母の様な人生は、どうかんがえても三十億円より価値があるのでは?

 捨てたら、一生後悔するのでは?

 アヤは、母娘だけがシェアできるテレパシー的な感情の虜だった。まるでロールケーキみたいな、やわらかくて甘いなにかに丸めこまれた。

 とどめを刺すべく、母は白い紙袋をトートバッグからとりだす。Diorと印字されている。

「ささやかだけど」母が言う。「これは私からのプレゼント」

「なに? 開けていい?」

「どうぞ。ディオールのネイルよ」

 アヤは昂奮して箱を開ける。三千円するピンクのエナメルだ。自分ではとても買えない。こんなにうれしいプレゼントはない。

 アヤの目が潤む。

 母の愛は疑いようがない。ちょっとあざといけれど。この人を裏切るなんて、決して許されない。自分もやさしい母のことが好きだ。心から感謝している。そして、だれよりも愛している。

 一方で、アヤはおのれの観察力を呪う。

 母のトートバッグに、もうひとつディオールの箱があるのに気づいた。たしか八千円くらいのアイシャドウだ。

 アヤは窓の外を見やる。殺風景な駐車場で待ちぼうけを食らう羽多野が、煙草を吸っている。トワはアイフォンをいじる。

 アヤは内心でつぶやく。

 衝動的に家を飛び出した私を慰めるため、お母さんはディオールのお店に立ち寄った。私の好みを知り尽くしてるから。

 でもお母さんは、そこでつい自分用のアイシャドウを買ってしまった。我慢できなかった。

 買い物中毒だから。

 この家にいたら、だれもが病んでしまうから。

 お母さんには恩がある。ありえないけど、もし老後に困窮することがあれば、絶対助ける。

 ただ、ひとつ言えることがある。

 あなたは私のロールモデルじゃない。

 私は私の道をゆく。

 アヤは、胸ポケットで震えるアイフォンを手にとる。カラオケにいったユウキからの、LINEの通知があった。




 羽多野はGLSを運転し、松濤の自宅前でアヤの母を降ろす。アヤはユウキに呼ばれたと言い、車内にのこる。用事がすんだら娘をすぐに帰すと母に約束して、羽多野は車を発進させる。

 ユウキからのLINEは「なんかデュナミスがやばいらしい。見てくる」というもの。109の裏の、道玄坂の入り組んだ細い路地に、GLSがとまる。ビルの一階はラーメン屋で、地下がライブハウス。格闘技ジムのデュナミスがある二階へは、建物左の外階段からあがれる。

 三十メートルむこうに、砂色に塗装された大きな車が二台駐まっている。どちらもナンバープレートはない。アメリカ軍などで使用される兵員輸送車のハンヴィーだ。

 もともと治安のよい区域ではないが、装甲をほどこされた軍用車輌は、いかにも物騒に目に映る。

 助手席のトワが、こわばった表情で羽多野に言う。

「羽多野さん、あれって」

「ああ。おそらくコーポレーションだ。先手を打ってくるとはたまげた。たいした情報収集力だ」

「はやく逃げないと」

「そうだな」

 アヤは胃が痙攣するのを感じる。後部座席から羽多野に話しかける。

「『コーポレーション』ってなに」

「CIAが保有する準軍事組織だ。SADとか、さまざまな名称があるが、いまはコーポレーションが通りがいい」

「え……敵はCIAなの」

「敵の一部だ」

「話ではテロリストを斃すって」

「嘘はついてない。もし日本の警察が準軍事要員を逮捕しても、アメリカ政府はかならず関与を否定する。そういう汚い作戦だ」

 二〇〇一年にはじまるアフガニスタン紛争で、現地に一番乗りしたのはCIAの準軍事組織だった。二〇一一年にパキスタンでビン・ラーディンを暗殺した作戦は、実行したのは海軍の特殊部隊だが、指揮したのはCIA長官だ。もし失敗しても、あとで頬かむりできる様にするため。アメリカは積極的に、軍事作戦の定義を更新しつづけている。

 善し悪しはともかく。

 アヤの脳裏で警報が鳴り響く。頭蓋骨が砕け散りそうだ。

 テロリストと聞いて思い浮かぶのは、浅黒い肌のアラブ人だ。アッラーフ・アクバルなどと叫んで犬死にする狂信者たち。あとはせいぜい、日本の年老いた左翼の過激派とか。

 たしかに私は迂闊だったかもしれない。

 でも私みたいな普通の女子高生が、アメリカ政府と殺し合いをさせられるなんて、いったいだれが想像するだろう。

 おだやかな口調で、羽多野が言う。

「まだアヤは契約してない。降りたければ降りろ」

「降りるとは言ってない」アヤが答える。「暗殺のターゲットはだれなの」

「ウォーレン・ワイズ。アメリカ合衆国大統領。京都中心部への核ミサイル攻撃を計画している」

「そんな!」

「京都での首脳会談のため、あす来日する」

「なんなの。自分がミサイルを落とす都市にノコノコやってくるとか。そもそもなぜ攻撃を」

「敵の計画のすべては把握してない。ただ会談のなかで、一種の宣戦布告をおこなうらしい」

「信じられない」

「情報そのものは確実だ。あるメッセンジャーから直接聞いた。世界的な有名人だ」

 誇らしげにトワが口を挟む。

「ちなみに、私の未来予知でも裏付けされてる」

 アヤはそれを無視し、羽多野に言う。

「だまされてないという保証がほしい」

「頭金の十五億では不足か」

「あなたは核兵器が怖くないの」

「怖い。だが対抗手段がある」

「なに」

「あとで教える」

「さっき言ってたメッセンジャーに会わせて」

「無理だ。連絡先を知らない。多分どこかでひょっこり現れるさ」

 羽多野は左腕のスピードマスターをみる。しかめ面をして続ける。

「アヤ。議論してる暇はない。嫌なら、ガラスの靴を置いて車から降りろ。俺は手持ちの駒で戦う」

 助手席のトワが、隣の羽多野の腿に手をおく。上目遣いで熱っぽい視線をおくる。そして見下す様に、後ろのアヤを横目でみる。




 ビルの外階段で騒ぎがおこる。

 ぞろぞろと約十人の集団がジムから出る。ほとんどが白人で、屈強な体格をしている。服装は統一されておらず、カジュアルなシャツの上にプレートキャリアを重ねる。全員アサルトライフルを手にするが、こちらもHK416やFN・SCARなど、まちまちの武装だ。

 コーポレーション。

 CIAに飼われた、血に飢えた猟犬ども。

 列の中ほどで、学院の制服を着たユウキが暴れている。コーポレーション隊員が、HKのストックで殴る。頭から出血したユウキがうなだれる。

 車内から見守るアヤの手のひらに、黒く塗られた爪が食いこむ。

 助けないと。

 あいつらが探してるのは私だ。ユウキは人違いで拉致されようとしている。もしくは、尋問して私の居場所をしらべる気か。

 つまり拷問。

 会長の下野寛を先頭に、ジムからインストラクターと練習生があらわれる。総勢七名。みな激昂し、口々になにごとか叫ぶ。招かれざる客が、彼らが可愛がっている少女を攫ったのだから当然だ。

 アヤは両手で窓ガラスを叩く。このあとに起こる惨事を想像できた。

 下野が右ストレートの一撃で、コーポレーション隊員を倒す。ほかの六人も下野につづく。狭い階段で、格闘家と準軍事要員の乱闘がはじまる。

 四十代なかばの黒人が、あわてず銃を構える。年恰好と雰囲気からいって指揮官らしい。装備は、銃身全体がサプレッサーで覆われたASヴァル。ロシアの消音アサルトライフルだ。

 黒人の指揮官が、路上から発砲する。

 無音だ。

 下野が階段を転落する。

 堰を切った様に、コーポレーションの八名が連射した。

 今度は耳をつんざく銃声が、道玄坂の路地裏で反響する。

 格闘家たちはみな即死か、致命傷を負う。コーポレーション隊員が弾倉を交換する。

 発砲しなかった二名は、ユウキをハンヴィーのそばに引きずってゆく。プラスチックの結束バンドで両手首を縛り、荷台へ放りこむ。

 アヤはドアハンドルに手をかける。

 トワが助手席から身を乗り出し、アヤの手をつかむ。目を丸くして尋ねる。

「助けに行く気じゃないでしょうね」

「あのコは私の友達だ」

「いまのを見たでしょう。連中は、世界でもっとも経験豊富な殺し屋なの」

「巻きこまれたのは私のせい。だから助ける」

「まだ舞踏術を口頭でレクチャーしただけよ。一度も練習してない。危険すぎる」

 顎に手を添えた羽多野が、険しい顔で隣のトワに尋ねる。

「舞踏術はなにを教えた」

「【ピケ・トゥール】と【ブリゼ】です」

「いいチョイスだ。いけるな」

「羽多野さん!」

「敵はこちらの奇襲を予期してない。いま攻撃すれば戦力をかなり削げる。尋問も避けたい」

 斜め後ろを向き、羽多野が続ける。

「アヤ。交戦を許可する」




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『殲滅のシンデレラ』 第3章「シンデレラ」


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 東急百貨店本店は、道玄坂をのぼりきった三叉路に面する。夜八時すぎだと、界隈の人通りは減る。黙りこくった男女が、円山町のラブホテル街につづく路地へ、闇に吸いこまれる様に消えてゆく。

 グレーのベストなどを着替えてないアヤが、アイフォンで通話している。

「そんなに心配しないで。お父さんは大袈裟に言ってるだけだから。ありがとう。おじいちゃんは私の一番の味方だとおもってるよ。そうだね。また会える日を楽しみにしてる。それじゃ」

 アヤは、山梨県の松本市にすむ祖父からの電話を切った。

 家出には軍資金が必要だ。

 水商売などでなく、まっとうな職に就くには、あたらしい住所を確保しないといけない。百万円くらいあれば安心だ。そして大金をポンと貸してくれる知人は、アヤを溺愛する祖父しか思いつかない。

 父は先回りし、もともと折り合いの悪い義父に対し、アヤの家出を手助けしないよう釘を刺した。訴訟をちらつかされては、祖父も勝手はできない。

 アヤは、ビルの隙間の夜空を見上げる。

 みとめるしかない。

 父の方が一枚上手だと。

 歪んだ支配欲に衝き動かされてるくせに、打つ手のひとつひとつが的確で速い。

 もはや逃げ道はどこにもない。




 絶望に胸を苛まれるアヤは、無意識にもとづく習慣的行動で、東急本店七階の書店に来た。木張りの床面のフロアは、閉店時間が近いこともあって客はまばらだ。

 海外ミステリや美術書などがアヤの好みだが、いまは小難しい本を読む気になれず、児童書コーナーへ立ち寄る。サラ・ギブの絵本『シンデレラ』を手にとる。

 一九五〇年のアニメはすばらしい。でも、継母やふたりの姉が戯画的に誇張され、ちょっとギャグっぽく感じられる。王子さまもなんかダサい。その点サラ・ギブの絵は、ひたすら繊細で華麗。シンデレラのか細い肢体はスーパーモデルさながら。現代の少女のお眼鏡にかなう作品に仕上がっている。

 五歳くらいの女の子が、書棚の端の方からアヤを指差す。母親に耳打ちする。高校生が絵本を読むのがおかしいと言ってるのかもしれない。

 お嬢さん、わかってないね。

 アヤはつぶやいた。

 おとぎ話を必要とするのは、むしろ大人なの。

 だって私たちの世界は、あなたの世界とちがって、魔法使いも白馬の王子さまも存在しないから。

 アヤはふたたび絵本に目を落とす。

 水色のドレスを着たシンデレラが、お城の階段を駆け下りる。ガラスの靴が脱げて転がる。シンデレラは長いスカートの裾を踏み、よろける。

 おかしい。

 アヤは目をしばたく。

 絵がアニメーションみたく動いている。

 階段を転げ落ちたシンデレラは、頭を打って気絶する。御者が馬車へ引きずり込む。城の衛兵たちが馬車に発砲する。

 シンデレラに、こんな場面はない。

 どうなってるんだ。

 私が年を食ってるあいだに、絵本のテクノロジーが飛躍的に進化したのか。




 アヤは頭を掻きむしりながら、トイレへ逃げこむ。個室はどれも使われてない。洗面台に半袖のセーラー服を着た女がいる。髪はあかるい色のボブで、フレームの太い眼鏡をかけている。

 茶髪ボブは、アイフォンを二台もつ。左で通話し、右でLINEをする。頭のよさをひけらかしてる感じで、ちょっと嫌味だ。

 アヤは洗面台に手をつき、鏡をみる。

 水色のドレスを着た、見覚えのある金髪の女が、こちらを見返している。

 鏡のなかの女は、右目のそばで横ピースする。アヤにむかい叫ぶ。

「じゃじゃーん! ワタシは全世界の悩める乙女のアイドル、シンデレラちゃんダ! デレちゃんって呼んでネ!」

 アヤは顔をしかめる。左に立つ茶髪ボブをみる。通話はやめ、いまはLINEだけしている。

「ノンノンノン」シンデレラが続ける。「デレちゃんの声は、キミにしか聞こえないヨ。安心してネ」

 アヤは咳払いし、小声で言う。

「あのさ」

「ナニ?」

「このクソみたいな状況を終わらせたい。悪夢だかなんだか知らないけど」

「わかる、わかるヨ! 窮屈な籠から逃げて、舞踏会に出たいよネ! 乙女の共通の夢!」

「そういうこと言ってんじゃなくて」

「そういうことだヨ。キミは突然あらわれたデレちゃんに困惑してるネ。でも、心のなかでデレちゃんを育てたのはキミなんダ」

「お願いだから、さっさと消えてくれる」

「ひとつだけ方法があるヨ」

 シンデレラは、鏡の外へ手をのばす。ヒールの高い一足の靴を洗面台におく。

 ガラスの靴だ。

 おもわずアヤは靴をつかむ。青みがかった素材は、軽くて柔らかい。履くことはできそう。

「その靴は」シンデレラが続ける。「契約書がわりだヨ。キミはそれを履いて『舞踏会』に出る。そこで夢をかなえるんダ」

「条件は?」

 出入口に、紫のスーツを着た男があらわれる。

 羽多野昇一だ。自分を窮地へ追いこんだ、殺しても飽き足らないほど憎い敵だ。しかし不意を打たれてアヤは硬直する。

 ここは女子トイレなのだ。

 アヤは奥を振り返る。茶髪ボブがにやりと笑う。こいつはグルだ。偵察していた。

 アヤの脳内で、きょう起きた出来事が線でつながる。因果関係が完成する。

 密告。

 夕食の林檎。

 幻覚。

 アヤがつぶやく。「盛ったな」

「おそるべき洞察力」羽多野が答える。「この混乱のなかで見抜いたか」

「なにを林檎に注入した」

「説明しよう」

 羽多野は掃除中の看板を出入口におく。口笛を吹いている。

「結論から言う」羽多野が続ける。「仕込んだ薬は、常習しないかぎり無害だ。市場に出回ってないが、豊富な実験データがある」

「なにを注入したのか聞いている」

「『オグンの霊薬』だ。たしかナイジェリアの神話から取った名前だとか」

「答えになってない」

「具体的な成分は俺も知らない。アヤはボコ・ハラムについて聞いたことがあるか」

「馴れ馴れしく呼び捨てするな」

「好きに呼ばせてもらおう。で、ボコ・ハラムについてだが」

「アフリカのテロ組織。イスラム原理主義の」

「さすがだ。何百人もの女子学生を拉致し、自爆テロを実行させたことで悪名高い」

「まさか」

「そのまさかさ。女子学生を洗脳するのにボコ・ハラムがつかったのが、オグンの霊薬だ」

 アヤの怒りは限度を超える。視界がぼやける。

 あきらかな傷害罪だ。いくら羽多野が民自党関係者でも、揉み消せないだろう。通報すべきだ。

 いや、司直の手は借りない。

 アヤは、こういうときのため格闘技を習っていた。パーマのかかった羽多野の髪をつかみ、洗面台に打ちつけてやろうと、一歩踏み出す。

 機先を制する様に、羽多野が言う。

「三十億円」

「あぁ?」

「これから言う任務に成功したら、それだけ払う。頭金として半額、今日付けでアヤの口座に入金する」

「…………」

「一生遊んで暮らせる額ではないが、十六歳の女にとっては十分だろう」

「意味がわからない。なにもかも」

「納得ゆくまで説明する」

「任務とやらを言え」

「暗殺だ」

 アヤは顔色を変えない。

「だれを。どうやって」

「テロリストが日本に潜伏している。約二十四時間後に京都が攻撃される。たしかな情報だ。俺たちはそれを阻止する」

「バカらしい。警察か自衛隊の仕事だ」

「日本でこの情報を得たのは、いまのところ約十名。俺以外の全員が頬かむりしている。君の父親はおそらく知らない。自衛隊のボスなのだがね」

 たしかに、自宅でだらしなく酔っていた父が、テロリストによる攻撃を把握してたはずない。まあ、元から計画など存在しないなら問題ないが。

「あんたの目的は」

「俺は愛国者だ。永田町や霞が関の魑魅魍魎とはちがう。この国を守るため体を張る。勿論、あとで報酬を請求するつもりだが」

 アヤの右手の親指と人差指がうごく。

 不確かな情報の洪水のなかで、有用なものと無用なものと判断保留すべきものを選別する。そして、知るべき情報を限定する。

「暗殺の手段について、まだ聞いてない」

 背後から、茶髪ボブが声をかける。

「ようやく私の出番ね」




 胸を反らせ、茶髪ボブが言う。

「遅ればせながら自己紹介するわ。私は雨宮トワコ。高校三年生。トワと呼ばれてる。よろしく」

 握手のため差し出した手を無視し、アヤが答える。

「その制服は姫百合学園。女子の御三家筆頭」

「おたがいにね。そっちは共学だけど。ところであなたはなにが見えたのかしら」

「見えたって?」

「鏡のなかに見たでしょう」

「……シンデレラ」

「あはははっ。やっぱり。抑圧的な家族からの逃避願望」

「笑われるのはすごく不愉快」

「あら失礼。あなたが見たのは『シャドウ』よ。悩める少女の心に巣食う悪魔。そして解放の天使」

「文学的修辞じゃなく、客観的事実を知りたい」

 はじめて見たときから、この女と反りが合わないのは承知していた。賢明さを鼻にかける人間は嫌いだ。自分もそうだから。

「じゃあ」トワが言う。「客観的な事実を言うわね。私たちはこれから、シャドウの力を借りてテロリストを殲滅する。戦い方は私がレクチャーする」

「どんな力があるわけ」

「私はテレパスなの」

「テレパス?」

「精神感応よ。まあ実演するのが一番ね。四桁の数字を思い浮かべて。あ、できるだけ複雑なのがいいわ。1234とかじゃなく」

 アヤはぼんやりかんがえる。

 9870。

 即座にトワがつぶやく。

「9870」

 アヤはまじまじとトワの顔をみる。得意げに鼻をふくらませている。

 答えがよくなかった。誘導された気配がある。直前に言われた1234に影響され、逆に降順にならぶ数字を思い浮かべてしまった。

 羽多野がため息をつき、トワに言う。

「あれをやれ」

「はあ」

「あれが手っ取り早い」

「しょうがないなあ。気がすすまないけど」

 トワはアヤと目を合わせる。薄笑いを浮かべている。人差指をくるりと回す。

 アヤは右手で自分の喉をつかむ。全力で絞める。気道と頸動脈を圧迫する。

 無論、意図せざる行動だ。

 窒息が二十秒つづく。

 アヤは喘いでいる。よろけて洗面台に左手をつく。

「もう……やめて……わかったから……」

 トワは精神操作を解く。咳きこむアヤの背中をさすりながら言う。

「疑問の余地はなくなったかしら」

「は……はい」

 トワは、置きっぱなしだったガラスの靴をとり、アヤに手渡す。さっき握手を拒否したアヤだが、今度は受けいれる。

 トワがほほ笑んで言う。

「ようこそ。私たちソリストの世界へ」

「まだ契約するとは決めてません」

「あなたは契約する。私にはわかる」

「トワさん」

「トワでいいわ」

「トワさんのシャドウをおしえてください」

「ティンカーベルよ」

「え。『ピーター・パン』のあの妖精?」

「そうよ。なんで笑ってるの」

 高慢ちきで嫉妬ぶかく、ウェンディに意地悪をする、うつくしい妖精。

 ぴったりすぎて笑える。

 羽多野を先頭に、三人は女子トイレを出る。

 アヤは鏡を一瞥する。

 はちきれんばかりの笑顔で、シンデレラが両手を振っている。アヤを励ますつもりらしい。

 でもその碧眼は、悲しげだった。




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『殲滅のシンデレラ』 第2章「ネイル」


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 ハチ公前の高架下を抜け、アヤは渋谷一丁目にある東京商工会議所の支部をおとづれる。古い建物で、外壁のタイルは薄汚れている。

 受付で受験票をわたし、簿記一級の合格証書の交付をもとめた。

 待たされるアヤは、アニエスベーの腕時計をみる。

 友人たちは異口同音に、スマホがあれば腕時計はいらないと主張する。理解できない。そんなだから時間を守れないのではないか。

 五分以上過ぎた。ただ書類を発行するだけなのに、遅すぎる。

 フロアの奥に声をかけようとしたとき、受験票をうけとった女が別室からあらわれる。女はカウンターにもどって椅子に座る。

 A4くらいの紙一枚をもっている。あれが合格証書だろうか。

 三十歳前後の女は、立っているアヤを見上げる。やや太りぎみで丸顔だ。アヤと目を合わせない。手が震えている。

 女は合格証書を縦に引き裂く。

 アヤが叫ぶ。「あっ」

 さらに縦に横に破られ、アヤの一年間の努力の結晶は、瞬く間に紙屑となって散った。

「なにするんですか!?」

 手前のデスクに突っ伏し、女が叫ぶ。

「ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」

 アヤはフロアを見回す。このパッとしない丸顔女が単独犯のはずない。

 斜め後ろから、紫のスーツを着た男がちかづく。シャツの色は黒だ。

 羽多野昇一。国会議員であるアヤの父の後援者だ。まだ二十四歳と若い。身長はアヤとほとんど変わらず小柄だが、頬髯をはやした精悍な顔立ち。客観的にみて美男子に分類できる。

 想像するに、自分に惚れている丸顔女を利用し、アヤにイタズラをしかけたのだろう。

 羽多野は、ミュージシャンのプリンスにすこし似ている。アヤは一九八〇年代に活躍したプリンスの世代ではないが、図書館で借りた洋楽名盤ガイドブックで知識を得ていた。入門書で勉強するのが好きなタチなのだ。

 腕組みしたアヤが、羽多野に言う。

「あいかわらず悪趣味な服ですね」

「随分な挨拶だな」

「こっちのセリフです。合格証書は羽多野さんがもってるんですか」

「正解」

 羽多野はジャケットの内側から、水色の封筒をだす。ジャケットの裏地のペイズリー柄が気持ち悪い。封筒は半分に折られている。

 ふざけるな。

 なに勝手に折ってんだよ。

 アヤは右ストレートをくりだす衝動を、寸前でこらえる。ユウキだったら確実にこの場でノックアウトしていた。

 羽多野は、折り曲げた封筒を元に戻す。皺を指でなぞりつつ、アヤの表情をうかがう。

 弄んでいる。

 羽多野が言う。「メールの返事をまだもらってない。店を予約したのに」

「このあと返信するつもりでした」

「よく言う。いつも速攻で返信するくせに。おそろしく事務的な二三行のメールを」

「結果を教えてくれたのは感謝してます」

「で、合格祝いはどうする?」

「お気持ちはうれしいですが、いきなり今日これからと言うのは……。両親と相談して日程を調整するってことでどうでしょう」

「ははっ。さすがは三代つづく政治家の家系だ。決して言質をとらせずに、人をこきつかう」

 アヤは自分の細い腕に爪を立てる。

「私からお願いしたわけじゃありません」

「まあね」

「はやく返してください。大声出しますよ」

「それは困る。三十億円の商談をまとめたばかりだ。水素自動車の開発に携わっててね」

「はやく」

「下水汚泥から水素をとりだす事業を、俺が仕切ってるのさ。有望なビジネスなんだ」

「調子にのるなよ、チンピラ」

 アヤは殺気をこめて言った。

 その低い声は、静かなフロアでも拡散しない。行き交う人々はふたりに気を留めない。ロビーに置かれたモニターは、全国の天気予報を表示している。

 羽多野はパーマをかけた髪を掻き上げる。愉快そうに目を細める。

 なんて女だ。

 アヤにアプローチしている男はいま、三十億円のキャッシュをもっているのに、これっぽっちも興味をしめさない。

 シロウトからクロウトまで、さまざまな女をモノにしてきた羽多野は、ある結論にたどり着いた。

 女はカネがすべてだ。

 かならずカネに靡くという意味ではない。逆の場合もある。思春期の女はえてして潔癖だし、ときに金銭の匂いに否定的に反応する。

 佐倉アヤはちがう。

 リアクションが皆無なのだ。眉ひとつ動かない。彼女にとって「三十億」は、単なる数字でしかない。沖縄県の降水確率みたいなものだ。

 まさに理想の女だ。

 唇を震わせ、アヤが言う。

「こういう茶番で時間をムダにするのは、おたがいのためにならないから、はっきりさせましょう」

「ふむ」

「私は政略結婚の道具にはならない。死んでも」

「大胆な発言だ」

「自分の市場価値はわかってます。私と結婚することが、この国で総理大臣になるための一番の近道なんです。母や祖母がそうだった様に」

「否定できないな」

「絶対私はそうならない。邪魔する人間は、だれであろうと全力で排除する」

「…………」

「おわかりいただけましたか」

「ああ」

 アヤは、気圧された羽多野から封筒を奪う。早足で商工会議所を後にする。

 残された羽多野は両手をポケットにいれ、深呼吸する。昂奮を鎮めたい。

 佐倉アヤ。

 なんて賢しらで、なんて愚かなのか。

 この俺が政略結婚を狙っている?

 バカバカしい。

 俺が永田町に接近するのは、カネと情報のためだ。下水道ビジネスとおなじ。手を出すのは儲かるからであって、下水が好きだからではない。

 総理大臣?

 くだらん。そんな肩書をもとめるのは白痴だけだ。

 俺がアヤに執着するのは、糞尿の洪水のなかに、まばゆい宝石をみつけたからだ。

 男に言い寄られるのは血筋のせいだと、アヤは信じている。おのれの真価に気づいてない。

 籠のなかの鳥は、籠を通してしか、世界をみることができない。

 哀れなアヤ。

 傷ついた小鳥が翼をひろげ、自由に羽ばたいたら、さぞ絵になるだろう。

 そのための鍵は、俺がもっている。




 道玄坂をのぼった松濤の、高い塀にかこまれた邸宅がアヤの家だ。自室は二階にある。

 ベッドの白いシーツは皺ひとつない。まるで新兵訓練キャンプの様だ。壁も机も本棚も真っ白で、兵舎より殺風景かもしれない。本棚には、池澤夏樹が編んだ世界文学全集がそろう。

 財布に忍ばせた鍵で、アヤは机の引き出しをあける。合格証書の封筒をしまう。引き出しにはジェルやブラシやリムーバーなど、ネイル用品がぎっしり詰まっている。独裁的な父の目を盗み、おもに百円ショップでコツコツ買いあつめた。

 ユウキに語った様に、アヤは一円たりとも無許可の支出を許されない。逆に言えば、説明可能なら自由に買い物できる。割引などを利用し、それこそ爪に火をともす思いでやりくりしてきた。ふだん東京地検特捜部とやりあう、父の秘書の調査さえ欺けるのだから、たいした技倆だ。

 アヤは確信している。

 帳簿を操作する能力があれば、世界のどこにいても食いっぱぐれる心配はない。

 自分に合格祝いをしてあげたくなり、アヤはネイル用品を物色する。

 ゴシック風のカッコいいのにしよう。

 制服を着たまま、カラーリングをはじめる。

 黒のカラージェルを塗った上に、ピンセットで十字架の3Dパーツをのせる。クリアジェルをすこしづつ流しこんで固める。まわりをホログラムで飾り、最後にトップジェルで仕上げる。

 うっとりした顔で、アヤは両手をながめる。

 まるで堕天使みたい。

 私にぴったり……なんてね。

 コンコン。

 ノックの音がした。

 アヤが答える。「はい」

 ドアの隙間に母の顔があった。どちらかと言えば美人の部類だが、かなり垂れ目で優しい顔立ち。凛としたアヤとまるで似ていない。

「アヤちゃん」母が言う。「御飯できたわよ。あら、ネイルしてたのね」

「うん。ちょっといいことあって」

「どうしよう。お父さんが急に帰ってきたのよ」

「えっ」

「まあいいわ。どうせ待たせたら怒り出すし。すぐ降りてらっしゃい」




 キッチンと一体のダイニングは、白を基調とした明るい空間だ。食卓に椅子が六つならぶ。アヤには四つ上の兄がいるが、オーストラリアに留学中で、いまは三人住まい。

 兄の留学は、実質的に逃亡だった。佐倉家の男子は東大法学部に行かねばならないというプレッシャーに、兄は負けた。

 母は、父が数日ヨーロッパに出張する予定だったので、料理を手抜きするつもりだった。鯖の煮付けやひじきのサラダなど、ほとんどは宅配の惣菜。ただ、ちゃんとした器によそうのでサマになっている。

 冷蔵庫から適当な食材をみつくろい、緊急措置で八宝菜をつくったのも大きい。女が料理のふりをするだけで、男は満足する。台所に立たない父は、母のサボタージュを見抜けない。

 父はビール一杯で酔っぱらい、顔を真っ赤にしている。永田町では不利にはたらく体質だ。そして自分がいかに首相から信頼されてるか、派閥のメンバーがいかに無能か、官僚と野党とマスコミと評論家がいかに腐ってるかをまくしたてる。独演会だ。アヤと母はひたすら相槌をうつ。

 取り憑かれた様に父が自慢話をしたがる理由を、アヤと母は知っている。

 婿養子だからだ。

 父はこの母娘を恐れていた。総理大臣をふたり輩出した家系の血を引く母娘は、まだ防衛大臣でしかない自分を軽蔑していると、信じこんでいた。

 母は台所で、デザートの林檎を用意している。いまはアヤひとりが矢面に立つ。

 アヤは時計をちらちら見つつ、十分に一回発言する。こちらが黙りっぱなしだと父の機嫌が悪くなるので、食事ごとに三回意見を述べることにしている。三十分で義務を果たしたとみなし、二階の自室へもどるのがルーチンだ。

 母が、皮をむいた林檎をテーブルにおく。アヤはフォークで口へはこぶ。脳に染みわたるほど酸味がつよい。しかし、深みのある味だ。

 家出の準備を着々とすすめるアヤだが、珍味にありつける点だけは、この家に感謝していた。アヤは食べ物に関心があり、いづれは京都で店をひらきたいとおもっていた。

「おいしい」アヤがつぶやく。「どこのかな」

「羽多野さんが送ってくれたの。さっきお礼の電話したら、アヤさんによろしくと言ってたわ」

「ふうん」

 ついさっき商工会議所で羽多野と会ったのを、アヤは話さない。話せるわけがない。

「彼は好青年ね。私みたいなおばさんにも親切だし」

「お母さんがモテるだけでしょ」

「なに言ってるの」

 母はうれしそうに笑った。

 好青年どころか、羽多野は女子高生を追い回すストーカーなのだが、アヤはあえて訂正しない。

 父がヱビスビールの五百ミリリットルの缶を、グラスに傾ける。空だった。ため息をつく。

 目の座った顔つきで、父がアヤに尋ねる。

「ところでアヤ。その黒い爪はどうした」

 母娘の間のおだやかな空気が凍りつく。

 父は続ける。「俺のいないとき、またそうやって爪をいじってたんだな。一式ここに持ってこい」

 アヤは無言でいる。

 母の掩護を期待していた。ネイルをオフせずに降りてこいと言ったのは母だから。

「大目に見てあげて」母が言う。「いくらマジメなアヤちゃんでも、おしゃれしたい年頃なのよ」

「お前の管理不行き届きだ」

「ごめんなさい。でもハメは外さないよう、ちゃんと見守ってますから」

「判断するのは俺だ。そんな爪をするのは水商売の女だけだ。お前は娘を娼婦にしたいのか」

 憤るアヤは、腋の下にじっとり汗をかく。フォークを父の目に突き刺そうかと思ったが、かわりに言葉で反撃する。

「さすがお父さん。水商売の女にくわしいね」

 母が叫ぶ。「アヤちゃん!」

 アヤの皮肉は禁句だった。

 たがいの交友関係に口出ししないというのが、佐倉夫妻のルールだ。アヤがそのバランスを崩したら、すくなくとも表面的に円満な夫婦仲が、一気に瓦解しかねない。

 だれのためにもならない。

 アヤは席を立つ。

 その瞬間、父がテーブルの上にあった一枚の紙を裏返す。

 母は不審そうな顔をする。

 アヤだけが青褪める。

 それは合格証書のコピーだった。羽多野がファックスしたのだろう。

 アヤはおのれの迂闊さを呪う。

 なんだかんだで、羽多野は自分の味方だと決めこんでいた。しかし実際は、単なる父の使い走りだった。身辺調査を依頼されてたのかもしれない。

 アヤが家出を計画していると、羽多野は父に密告した。

 終わりだ。完全に終わった。

 なんて卑劣なのか。

 生物学的に父親にあたるこの男は。

 切札を隠しておいて、ネイルがどうのと些末事で娘を揺すぶるなんて。

 もっとも効果的なタイミングで、アヤを打ちのめすために。

 そしてアヤを永久に支配しつづけるために。




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『殲滅のシンデレラ』 第1章「佐倉アヤ」


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 黒いサンドバッグが揺れる。

 ポニーテールの佐倉アヤが、細かくステップを踏む。ミディアムの髪をシュシュで束ねてある。両手足から打撃をくりだす。

 アヤは身長百六十センチで、体つきも華奢だが、歯を食いしばる表情は真剣そのもの。振動をうながす様に打つので、サンドバッグの振れ幅が大きく、人間同士の闘いみたいだ。

 三十分ぶっ続けで叩いたアヤは、青いマットにへたりこむ。飛び散った汗が溜まっている。渋谷区道玄坂にある格闘技ジム「デュナミス」では、ほかに十数名が練習している。プロ格闘家である下野寛が運営する、総合格闘技のジムだ。

 アヤはウォーターサーバーから水分補給する。そこにジム会長の下野がちかづく。ふたりともTシャツにハーフパンツという恰好だ。

「アヤ、今日もがんばってるね」

 紙コップを手にしたアヤが答える。

「ありがとうございます」

「ちょっと話があるんだけど」

「お月謝のことですか」

「あまり言いたくないが……アヤは多いな。振り込みの遅れが」

 アヤは紙コップをゴミ箱に捨てる。かしこまって頭を深く下げる。

「すみません。いつも御迷惑おかけして。月曜日までにかならず振り込みます」

 サンドバッグを叩くときの鬼気迫る様子はなく、礼儀正しい。

 頭を掻きつつ、下野が言う。

「お金の問題じゃないんだ。そもそも君の家なら、ウチの月謝くらい余裕で払えるだろう」

 まだ頭を下げているアヤは、上目遣いで下野をみる。目に攻撃的な光が宿る。家庭に言及されたのが嬉しくなかった。

 大柄な少女が割り込み、アヤの肩を抱く。高校の同級生でもある、沢城ユウキだ。浅黒い肌に、白のスポーツブラが映える。

 ユウキが下野に言う。

「なあ会長。こいつの秘密を教えたげよっか」

「いきなりなんだよ」

「デュナミスに通ってるのを親に隠してるんだ。格闘技なんて野蛮だって反対されるから」

「なるほどね」

「ピアノの先生のところで練習するふりして、月謝の半分を受け取って、それをこっちに払ってるんだって。バカでしょ」

 口を尖らせてアヤが言う。

「月謝を免除されてるユウキに言われたくない」

「しょうがないじゃん。ウチは貧乏なんだから」

 ユウキはけらけらと笑う。目が細く、さほど美人ではないが、愛嬌のある顔立ちだ。

 ユウキの父・沢城彰は、UFCでの優勝経験もある伝説的な格闘家だった。しかし、あまりに激しいファイトスタイルが災いし、七年前に外傷性脳損傷が発覚した。以来、療養生活がつづいている。下野は先輩の沢城に恩を返すため、娘のユウキから月謝を受け取ってない。

 下野がアヤに言う。

「事情はわかった。でも親御さんに嘘をつくのはよくない。俺から話そうか?」

 隙のない微笑をうかべ、アヤが答える。

「わざわざありがとうございます。でも大丈夫です。自動送金サービスに切り替えるよう、ピアノの先生にお願いするので」

 私個人の問題は私ひとりで対処すると、アヤの表情はものがたっていた。




 アヤは大股でトレーニングマシンへむかう。オープンフィンガーグローブを外す。

 背後からユウキが声をかける。

「アヤ、スパーしよう」

「きょうは体を絞りたいの」

「道具いじってても強くなれないぜ」

「ほっといて」

「怒ってんの?」

「あたりまえでしょ。秘密をバラされたんだから」

「助けてやったんじゃないか。むしろ感謝してもらいたいね。いいからグローブつけろよ」

「強引だなあ」

 ふたりの少女は、二メートル離れて向かい合う。ユウキの方が七センチ長身だ。

 スポーツブラとショートパンツを着用するユウキは、肌の露出が多い。中性的な容姿のため下品ではないが、それでも目のやりどころに困る。対するアヤはユウキとちがい色白で、細身のわりに女らしい体つき。異性からの視線が煩わしいので、とてもおなじ恰好はできないとアヤはおもう。

 軽く飛び跳ねながら、ユウキが言う。

「負けたら帰りにマックで奢りな」

「私は賭けとかしないから」

「ビビってんのか」

「そんなんじゃない。ユウキは階級上だからアンフェアってこと」

「あたしは男子にも勝つけどね」

 ユウキは不敵に笑った。

 アヤは、自宅で書いている格闘技ノートの内容をおもいだす。スパーリングを嫌がるそぶりを見せたが、実は前からユウキの攻略法を考えていた。

 今年三月、ユウキは女子の総合格闘技の大会「アルテミス」において、十八歳以下の部門で優勝した。階級が上なだけでなく、高校生年代のチャンピオンでもある。

 でも、勝ち目がないってことはない。

 ユウキは私をナメている。お金持ちのお嬢さまの道楽だとおもっている。

 強くなりたい気持ちで私は負けてない。

 絶対、負けてない。

 どちらからともなく、ふたりは動きだす。最適な間合いをさぐる。アヤは身をかがめている。

 ユウキは苦笑する。リーチが長く、打撃の強い自分に対し、アヤは露骨にタックルを狙っている。教科書どおりの戦法だ。

 闘志を燃やすアヤが、一挙に間合いを詰める。ユウキはジャブとローキックで牽制する。距離をおいての攻防が一分ちかく続く。端正なアヤの顔が、苛立ちで引き攣っている。

 口の端を持ち上げ、ユウキが言う。

「優等生すぎるんだよ、アヤは」

 言い終わった瞬間、アヤが懐へ飛びこむ。

 それはユウキの誘いだった。ユウキはバックステップを踏み、タックルを切る。アヤの後頭部を押し、マットに両手を突かせる。背後に回ってしがみつく。

 アヤは亀の様に丸まる。五体を密着させ、関節技や絞め技に対抗する。しかし、するっとユウキの右腕が首に差しこまれる。

 裸絞めだ。

 ここから逆転はきびしい。

 アヤがつぶやく。「大丈夫。ここまで想定内」

 育ちのよいアヤは、中学生までバレエを習っていた。柔軟性をいかして体をひねる。コンパクトにたたんだ右肘を、ユウキの腹部へ叩きこむ。スパーリングの決まりごとを破り、全力で打った。

 ユウキが身を離す。横隔膜が痙攣し、呼吸がとまっている。

 くるしげに喘ぐユウキが言う。

「てめ……やりやがったな……」

 練習生はみなトレーニングを中断し、スパーリングを観戦する。ふたりの少女から、ただならぬ気配を感じた。ギャラリーにはプロ選手もいる。

 アヤは昂揚する。

 はじめてユウキに勝てる。ジムに入った半年前は、手も足も出なかったのに。

 努力の勝利だ。アリとキリギリスの寓話のとおりだ。インストラクターに課されたメニューの倍の練習量をこなし、たくさん本を読み、ヤフー知恵袋で質問しまくったおかげだ。

 アヤは突進する。潜水艦みたく沈む。

 ユウキが飛び上がる。両足を伸ばし、するどいキックで迎撃する。

 アヤは内心で笑う。

 総合でドロップキックって。

 デタラメだ。プロレス好きのユウキらしいけど。

 アヤはなんなく躱す。

 だが、それはキックではなかった。

 ユウキは両脚でアヤの頭を挟む。そのまま宙返りする。走るアヤの勢いをいかし、脳天からマットへ突き刺す。

 プロレスの華麗なる大技、フランケンシュタイナーだ。

 ユウキは、仰向けのアヤに馬乗りになる。顔面を打つ。脳震盪をおこしたアヤは抵抗できない。そばで見守っていた下野が滑りこみ、割って入ってスパーリングを止める。

 TKOだ。

 ユウキが感情を爆発させる。中邑真輔のマネをして叫ぶ。

「イヤァオッ!」

 ギャラリーは拍手喝采でこたえる。ユウキは全員とハイタッチする。

 横たわるアヤは、上半身を起こす。ぼうっとした頭で下野に尋ねる。

「いまのプロレス技ですよね?」

「そうだな」

「なら私の反則勝ちじゃ」

「ド派手なプロレス技だからって、総合のルールで反則にはならない」

「でも」

「あいつの即興性がすごいんだ。アヤもがんばってるけど、見習えばもっと強くなるよ」

 無言でアヤは立ち上がる。自分がみっともない負け惜しみを言ってるのに気づいた。唇を噛む。わななく口許を見られたくない。

 シャワー室に入り、すさまじい音を立ててドアを閉めた。




 土曜五時前の渋谷センター街。通りは歩行が困難なほどごった返す。

 練習を終えたアヤとユウキが、会話しながら歩いている。ふたりとも渋谷生まれで、駅の東側にある紅梅学院高等部に通っている。この街の雑踏は空気みたいなものだ。まったく苦にしない。

 午前中に学校があったふたりは、制服の紺のスカートを穿いている。アヤは半袖のブラウスに、グレーのベストをかさねる。ユウキはブラウス一枚で、ボタンを二つ開ける。

 十数分前まで取っ組み合ってたのに、アヤとユウキはなごやかに談笑する。外見も性格も生い立ちも異なるが、不思議とウマが合うのだった。

 右手に鞄をもって、ユウキが伸びをする。缶バッジやら、くまのプーさんのマスコットやらで、ごてごて飾り立てられている。一方、アヤの鞄は買ったときのまま。

「あー」ユウキが言う。「修学旅行たのしみだな」

「うん。私京都大好きだから」

「めっちゃ気合い入れてスケジュール組んでたよな。あれ全部回れるのかよ」

「せっかくなら、いろいろ行きたいじゃない。ネットですてきなおとうふのお店をみつけたの」

「豆腐ねえ」

「きっと気にいるわよ。荷造りはした?」

 ありえないという風に、ユウキは目を見開く。

「まだに決まってんじゃん」

「やっぱり。前日の夜に荷造りするタイプね」

「普通だろ」

「足りないものが見つかって慌てる姿が目に浮かぶわ。女の子は荷物が多いから、それじゃダメよ」

「あたしは化粧とかしないし」

「やれやれ。手伝ってあげようか?」

「わお。持つべきものは友か」

「家が近いんだから、お安い御用よ」

「アヤんちは松濤の豪邸だけどな」




 街の喧騒に混じり、アヤとユウキを呼ぶ声が背後からとどく。振り返ると、デュナミスの練習生三人がいた。みな二十歳前後の男だ。

 パーカーのフードをかぶった男が言う。

「いまから俺らカラオケ行くんだけど、アヤちゃんたちも行かない?」

 デュナミスの会員で女子高生はふたりだけ。器量のよいアヤは、特に目をつけられていた。さも偶然をよそおって声をかけてきたが、誘うタイミングを男三人で狙っていたのだろう。

 まぶしい笑顔で、アヤが答える。

「私たち、明日から京都で修学旅行なんです」

「そうなんだ」

「でもふたりとも、まったく荷造りしてなくて。家に帰って大急ぎでやらないといけないんです。よかったら、また別の機会に誘ってくださいね」

「オッケー。いい旅を」

「ありがとうございます!」

 筋骨隆々の男たちは、来た道を引き返してゆく。

 にやにや笑いながら、ユウキが言う。

「よく咄嗟に大嘘つけるよ」

「嘘も方便。こういうのは、相手の顔を立てるに越したことはないの」

「お前って、ほんと作り笑顔上手だよな。本性知ってるあたしでも騙されそうになる」

「まあね」

「自覚あるんだ」

「だって、よく鏡で練習するから」

「なんで」

「鏡をみると、そこに寂しそうな女がいるじゃない。だから私はほほ笑みかけて、楽しませてあげるの」

「なにそれ。きもい」




 マクドナルドの前で、ユウキが立ち止まる。

「じゃあ、奢ってもらおうか」

「はぁ?」

「負けたら奢る約束だろ」

「私は賭けをしないと言ったでしょ」

「聞いてねえし」

「勝手に思いこんだユウキが悪い」

「ざけんな。後からそういうこと言うのやめろ」

 ユウキは腰に両手をあて、仁王立ちする。通行人の邪魔になるのも一切構わない。

 ユウキが続ける。「奢れ」

「いやだ」

「来週はあたしが奢ってやるから、とにかく今日は奢れ。百円でいい」

 アヤは紺のスカートの脇で、すばやく右手の親指と人差指を動かす。

 それに目を留めたユウキが尋ねる。

「なんだよ、その変な指の動き」

「これ? 暗算するときの癖。昔そろばん習ってたから」

「また出たよ、お嬢さまエピソード」

「ごめん。奢るのは無理」

「百円くらい持ってるだろ!」

「お金の使い道を毎週、父の経理担当の秘書に報告しないといけないの。説明できない支出が一円でもあったら、あとで父に尋問される」

「ずいぶん過保護だな」

「佐倉家の跡取りの境遇は、こんなに悲惨なの」

「娘思いのいいお父さんじゃないか」

「冗談やめて。あれはサイコパスよ」

 ユウキは、アヤの肩を思い切り小突く。

「いまの取り消せ」

「なに」

「自分の親に言うことか。取り消せ」

「そんなのユウキに関係ない」

 アヤとユウキは、敵意を剥き出しにする。スパーリングのときより深刻だ。

 ユウキの父は、長年療養生活をおくっている。恵まれた環境を与えられてるにもかかわらず、家族を侮辱するアヤの言動を、ユウキは許せない。

 かたや、アヤにとって父との関係は、親友にも踏みこまれたくない心の領域だった。

 一触即発の空気が、マクドナルド前の歩道をオクタゴンに変える。睨み合うふたりを、ざわめく観衆が囲む。男同士ならともかく、女子高生のケンカはちょっとした見ものだ。

 制服警官が近寄り、ユウキの肩を叩く。

「君たち、なにをしてるんだ」

 警官が少女からの反撃を予測しなかったのは、無理もない。でもユウキは、格闘技の高校生チャンピオンだった。そして、すこぶる不機嫌だった。

 ユウキは警官の右腕をつかみ、腰投げで背中からアスファルトへ落とす。

 尻餅をついた警官は呆然とする。無線で応援を呼ぶ。数十秒で三人到着する。

 ブルルルッ。

 アヤのブラウスのポケットで、アイフォンが振動した。

 届いたメールをみて、アヤは飛び上がる。

「きゃあっ!」

 ユウキが尋ねる。「どうした」

「受かったの! 日商簿記の一級に!」

「ああ、言ってたね。そんなに難しい試験なわけ」

「高二で合格はめったにないわ。ああもう、本当にうれしい。これで自立できる!」

「おめでとさん」

 アヤは高校を中退し、独立する計画を立てていた。アルバイトで食いつなぐのではなく、正社員として就職するため資格取得をめざした。勿論、両親に反対されるのは確実。なので大好きな京都で職をさがし、決まり次第、家出するつもりだった。検定合格は、夢の実現にちかづく大きな一歩だ。

 無邪気にはしゃぐアヤを、ユウキは冷ややかに見つめる。つきあいは二年になるが、これほど感情を露わにするアヤを見るのは初めて。

 親を裏切って家出するのが、そんなにうれしいのか。それに京都へ引っ越したら、あたしと会えなくなるじゃないか。喜びすぎだろ。

 なんなの、こいつ。

 ユウキがつぶやく。

「あたしカラオケ行くわ。連中と合流する」

「荷造りは?」

「徹夜でやる」

「旅行の前日くらい、ちゃんと寝なさいよ」

「新幹線で寝れるでしょ」

「まったく。ユウキはしょうがないなあ。じゃ、また明日。夜遊びはほどほどにね」

「うぃっす」

 別々の方向へ去ってゆく、奔放なふたりの後ろ姿をみて、警官たちは首を横にふる。

 そして肝に銘じる。

 さわらぬ神に祟りなし。この街の女子高生に、安易に接触してはいけない。




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『殲滅のシンデレラ』 序章「ホワイトハウスのアリス」


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 アリスは足をすべらせ、どすんと尻餅をつきました。床にかけられたワックスが、まだ乾いてないのに気づきませんでした。あいたたとつぶやきながら、サックスブルーのエプロンドレスごしに、自分のお尻を撫でました。

「廊下をこんなにピカピカにしなくてもいいのに。でも床の市松模様はすてきね。チェス盤みたい」

 まだ七歳のアリスにとってチェスは難しいですが、ルールを知ってるのが自慢でした。三つ年上のお姉さんに勝ったこともあるのです。

 波打つ金髪を揺らし、アリスは振り返りました。背後には大きな鏡がありました。この鏡を抜けて、自宅から見知らぬ建物へやってきたのです。

 廊下の先から、ドタバタと足音が響きました。チョッキを着た白ウサギが走っていました。懐中時計をだし、時刻を何度も確かめていました。

 白ウサギが言いました。「時間がない! 時間がない! 大統領を待たせるわけにいかないぞ。でもホワイトハウスは迷路みたいだ!」

 物知りなアリスは、ホワイトハウスという建物の名前を知っていました。イギリスで言うなら、女王陛下のいらっしゃるバッキンガム宮殿の様なところです。きっと有名人がいるし、おいしい食べ物にもありつけそうです。アリスはわくわくしました。

 窓の外は夜更けでした。オックスフォードにある自宅では、ついさっき目覚めたばかりで、まぶしい朝日が差し込んでいたのですが。

「これは時差って現象ね。イギリスは五時間はやく時が流れてるの。きっとアメリカの時計は、ぜんまいが緩いんだわ」

 アリスは白ウサギを追い、開いているドアを抜けて部屋へ入りました。




 そこは楕円形の大きな部屋で、机とソファが並んでいました。ハンプティ・ダンプティ、もとい卵みたいな形で、めづらしい部屋だとアリスは思いました。向かい合わせのソファのあいだに置かれたテーブルは、食べ物などが散らばっていました。この家には、散らかしてはダメと怒るお母さんがいないのねと、アリスは羨ましくなりました。

 ソファでは短い金髪の男性が、ウィスキーグラスを傾けていました。ピンクのTシャツにジーンズと、へんちくりんな服装です。まるでウェールズの炭鉱夫みたいと、アリスは思いました。アリスはお母さんに言われて毎朝仕方なく、ふわふわの髪を苦労して櫛で梳かしていました。あんな恰好で人前に出られるなんて信じられません。

 アリスは声をかけました。

「つかぬことをお尋ねしますが」

 男性が答えました。「なにか」

「チョッキを着て懐中時計をもった、白いウサギを見ませんでしたか」

「リンカーンはここでウサギを飼っていた。でも懐中時計をもったウサギではなかったろう」

「いつも時間を気にしている、変わったウサギなんです」

「人間みたいなウサギだ」

「いいえ。時間を気にする人間は、大人だけです」

「たしかに」

 アリスは時間が好きではありません。お父さんやお母さんがせっかく楽しいお話を聞かせてくれるのに、時間になると寝なさいと言うからです。

 アリスはまだ自己紹介してないのに気づきました。良家の子女が、こんな無作法ではいけません。スカートの裾をもちあげ、挨拶しました。

「私はアリスです」

「自己紹介の必要はない」

「あなたは大統領のウォーレン・ワイズさんね」

「知ってもらえて光栄だ。なにか飲み物はいるかな。コーヒーとか」

「紅茶がいいわ」

「うーん、ないな。子供が飲める様なものは」

「ならお水で結構です」

 アリスはがっかりしました。南国の果物のジュースとか、めづらしい飲み物を期待していました。でも、不思議な旅でひどい目にあうのは慣れっこなので、我慢することにしました。




 アリスは大統領の向かいのソファに座りました。テーブルにはなにかのゲームのボードが広げられ、コマやダイスが転がっていました。見たことのないゲームです。

 興味津々のアリスに、大統領が言いました。

「これはモノポリーという不動産のゲームだ。勤務後によく部下と遊ぶんだ」

「私、ゲームが大好きなの」

「やってみるかい」

「本当に!? うれしい!」

「すこし難しいから、トランプとかでもいいが」

「トランプはちょっと嫌な思い出があるから、ぜひこのモノポリーで遊びたいわ」

 まづ八種類のコマのなかから一つ選びます。アリスは真っ先に猫のコマを選びました。ダイナという可愛い猫を飼っているからです。大統領はアイロンを選びました。

 アリスが言いました。「とっても地味なコマね」

「目立たないコマの方が、優位にゲームを進められる。アイゼンハワーもアイロンがお気にいりだった」

「何代か前の大統領かしら」

「そうだ。軍人でもある。アメリカが生んだもっとも偉大な人物のひとりだ。最後から二番めの」

「最後のひとりはあなたと言いたそうね」

「いや、レディー・ガガさ」

 つまらない冗談を言った大統領は、自分で笑いました。アリスはきょとんとしています。レディー・ガガという歌手をよく知らなかったのです。

 待ちきれなくなったアリスは、二つのダイスを握りしめました。ダイスを振るのを手で制し、大統領が言いました。

「せっかくだから賭けをしよう」

「いいわね。もし私が勝ったら?」

「特別なチケットを発行する。アメリカのすべてのレストランで、予約なしで無料で食事ができる」

「すてき! あなたが勝ったら?」

「メッセンジャーになってもらいたい。絶対誰にも知られずに届けたい伝言がある」

「どこへ行くの」

「日本だ。東洋にあるイギリスの様な島国だ」

 アリスは内心でほくそ笑みました。勝利のボーナスが魅力的なだけでなく、負けても悪くありません。黄金の国、日本。サムライやニンジャが活躍し、うつくしいゲイシャがいる国。前から行きたくて仕方なかったのです。

 アリスは喜び勇んでダイスを振りました。




 ゲームは一時間ちかく続きました。

 大統領が乱暴にダイスを振りました。アイロン型のコマが、ダークブルーのボードウォークに止まりました。大統領はアリスに二千ドル支払わないといけません。現金が不足しているので、自分の資産を売却する必要があります。

 アリスが上機嫌で言いました。

「オレンジの土地を五百ドルで買うわ」

「容赦ないな」

「不良債権ビジネスはおいしいって、バフィットさんがおっしゃってたもの」

「バフィット? ひょっとして投資家のバーナード・バフィットのことか?」

「ええ」

「クソッ。あのジジイも【おかしなお茶会】のメンバーなのか。なにがオマハの賢人だ。インサイダー取引の罪で逮捕してやる」

「そんなこと言うものじゃないわ。とても優しくて、すてきな方よ」

 アリスは大統領をたしなめつつ、ホテルの建設を進めてゆきました。盤上はアリスの建造物だらけです。すでに大統領は借金漬けなので、おそらく次の手番で完全に破産するでしょう。

 大統領はボードを勢いよくひっくり返しました。コマや建物が床に散らばりました。驚いたアリスは「きゃっ」と叫びました。子供にゲームで負けたのが悔しくて、大人が癇癪をおこすなんて、はじめて見ました。

 大統領は本当の大人ではないのかもしれません。アリスが考える政治家は、たとえばディズレーリさんの様なお爺さんのイメージです。まだ七歳のアリスが言うのもおかしいですが、三十四歳のワイズさんは若すぎる気がしました。

 アリスが言いました。

「アメリカでは、ゲームが終わるとボードをひっくり返す決まりなのかしら」

「どうでもいい。俺の負けだ。もう帰ってくれ」

「さすがに失礼だわ。私は七歳だけど、ちゃんとしたレディでもあるのよ」

「だまれ、ビッチ」

 アリスは仰天しました。もし自分が口にしたら、夕食を抜きにされてもおかしくない単語です。お国柄の違いでしょうか。でも、うつむいて頭を抱える大統領を観察すると、目許が光っているのが見えました。

「ワイズさん、泣いてるの?」

「うるさい」

「ごめんなさい。あなたにとって大事な賭けだったのね。私、ゲームに夢中になりすぎたみたい」

「負けは負けだ」

「わかったわ。楽しいゲームを教えてくれたお礼に、メッセージを伝えてあげる」

 大統領の目が輝きました。猫のダイナがイタズラをするとアリスは叱りますが、その後かわいそうになって、餌をあげて撫でてやります。そのときの表情に似ていました。やっぱり子供みたいな大人だなあと、アリスは思いました。

 大統領はハーバード大学に通っていたころ、ガールフレンドにふられた腹いせに、「フレンドリー」いうSNSを立ち上げたと言われます。すぐムキになる性格なのでしょう。でもそのおかげで、今ではバフィットさんなどと並び、世界有数の大金持ちとなりました。ちなみに大統領が好んで着るTシャツのピンクは、サイトのイメージカラーです。

 もちろんアリスは、インターネットのことはよくわかりません。せっかく人からお手紙をもらうなら、手書きの方がうれしいと思うのですが。

 大統領が言いました。

「羽多野というモグラが東京にいる。今から言う内容を伝えてほしい」

「名前のついたモグラさんがいるなんて!」

「いや、内部協力者を意味するスパイ用語だ」

「なあんだ、つまらない。ええと、ミスター・ハタノ……紙とペンを貸してもらえるかしら」

「メモをとるなど論外だ。ロシアや中国に見られたら第三次世界大戦が勃発する。暗記してくれ」

 アリスは不安になってきました。とても賢いアリスですが、お勉強は苦手です。ドジスン先生が個人的に算数を教えてくれますが、アリスが楽しいお話をせがむので授業は進みません。

「がんばるわ」

「じゃあ行くぞ。『レッドクリフ作戦の発動を通達する。行動計画に変更なし。JST六月五日二四〇〇時、USSアラバマから発射されたSLBMが、京都市中心部に着弾する。各自奮励し、任務を全うせよ』。以上だ」

「もう! そんなの覚えられないわ!」

「なら『行動計画に変更なし』だけで構わない」

「最初からそう言ってくれればいいのに。ところでSLBMってなんの略語かしら」

「潜水艦発射弾道ミサイルだ。核弾頭を積んだ戦略兵器だよ」

 アリスはため息をつきました。

 アリスは楽しいお話とゲームと猫が好きな、いたって普通の女の子です。でも不思議な旅をするたび、訪れた国がしっちゃかめっちゃかになってしまうのです。

 アリスはつぶやきました。

「今回の冒険も、大変なことになりそうだわ」




テーマ : オリジナル小説
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苑田 謙

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