『大奥スパイミッション』 第4章「通り魔」


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 ハナは混乱する頭を抱え、中央線で立川へ帰った。時刻はもうすぐ十二時。ファミレスで完成させた表紙イラストは、すでに編集部へ送信した。

 みすぼらしい浮浪者と歩道ですれ違った。浮浪者は右脚を欠損しており、松葉杖を突いていた。戦傷を負った挙げ句に、主家を失った牢人だろう。ハナは同情を覚えたが、してやれることは何もない。

 ハナは重い足取りで家路を辿った。

 ターンッ!

 遠くから爆発音が街路に響いた。聞き慣れた火縄銃の音だと、ハナは判断した。どこで誰が撃ったのか特定しようと、アイフォンをスリープ解除した。

 ちかごろ江戸では、鉄炮による連続殺人事件が起きていた。町奉行の認識では、とある不逞牢人の犯行らしい。ゴシップ好きの江戸っ子は、それを「火縄の通り魔」と名付けた。

 ディスプレイを指でなぞるハナの隣に、犬塚信乃が立っていた。黒のレザージャケットを着ている。音もなく忍び寄った。電子辞書より一回り大きいサイズのコンピュータ、GPDポケットを左手に持っている。ハナの位置情報をこの端末で補足できる。

 信乃が小声で言った。

「おひいさま、ご無事でしたか」

「うわっ」

「銃声が聞こえたので、お節介と承知しておりますが、お迎えに参りました」

「ストーカーかよ。ま、ちょうどよかった。信乃は家に戻って道具をもってきて。あたしは慶長記念公園へいく」

 ハナはツイッターで「立川 爆発」と検索していた。雑多な情報をふるいにかけ、近くの公園が発砲事件の現場なのを突き止めた。

「なにをおっしゃるのですか」

「火縄の通り魔はこれまで野放しだったが……ふふっ、立川に現れたのが運の尽きだぜ」

「まさか御自身で捕まえる気ですか」

「モチのロン」

「危険すぎます。噂どおり犯人が牢人なら、従軍経験もあるでしょう。役人に任せるべきです」

「なら帰っておねんねしてな。あたしひとりでやる」

 サイレンを鳴らしてパトカーが車道を走り抜けた。信乃が我に返ったとき、もうハナの姿はなかった。




 ハナは慶長記念公園へ北側から侵入した。緑ゆたかな市民の憩いの場であるだけでなく、災害時には避難場所となる広大な空間だ。

 ハナは道路を避けて木立の間を進んだ。待ち伏せを回避したかった。荷物はアイパッドなどを入れた通勤用のボディバッグだけ。閉園は午後五時なので、人影は皆無だ。電灯も設置されてない。落葉を踏みしめる音以外なにも聞こえない。

 「太陽のピラミッド」と呼ばれる展望台に登り、膝を折った。メキシコの遺跡を模した、風景と不調和な施設だ。暗順応しはじめた視力で周囲を観察した。火縄の通り魔は無差別に一般市民を狙撃する。そして被害者が若い女なら、重傷を負わせたままレイプする。見晴らしのよい広場でなく、この森林エリアで犯行に及ぶだろうとハナは想定した。

 木造の売店のそばに、人型のシルエットがぼんやり浮かんでいた。手持ち無沙汰に直立している。見張り役の様だ。つまり敵は複数犯だ。

 ハナはボディバッグから旅弓を取り出した。折りたたみ式の小さな弓だ。ハナは弦を張り、矢をつがえた。この飛び道具の射程は約五十メートル。先制攻撃すればターゲットを斃せるが、単独で交戦開始するには敵情の偵察が足りない。

 いつの間に、隣で信乃がしゃがんでいた。二台持っている暗視双眼鏡の一台をハナに手渡した。

 ハナがささやいた。「来てくれたんだ」

「おひいさまに何かあったら、大殿様に顔向けできません」

「あたしだって久留里衆の端くれだ。通り魔ごときにやられてたまるか」

「とにかく、私の承認なしに敵と接触しないと約束してください」

「へいへい」

「力づくで止めますから、そのおつもりで」

 ハナは暗視双眼鏡を覗いた。増幅されたモノクロの画像で、見張り役の顔を注視した。頭は短い白髪で、左目に眼帯をつけている。ハナはこの老人に見覚えがあった。新宿駅でこちらを罠にハメた御庭番だ。

「あたし」ハナがつぶやいた。「このジジイを知ってる」

「まだ現役とは驚きました。七十近いはずですが」

「信乃も知ってるの」

「里見家と因縁が深いですからね」

「だれ」

「風魔小太郎です。かつて風魔党を率いた忍びです」

「えっ」

「北条氏が滅んだあと、盗賊に身を落としたと聞きますが、こんなところで出くわすとは……」

 キーンと耳鳴りが響いた。ハナは信乃の声を聞き取れなくなった。

 風魔小太郎は母の仇だった。

 館山城を攻めた徳川軍の別働隊を指揮したのが、徳川家に臨時に召し抱えられた風魔小太郎だった。盗賊として江戸を荒らしていた小太郎を捕縛した徳川家康は、その技能や知識を惜しんだ。なので彼を処刑する代わりに雇用した。特に南総の軍事や政治状況に精通していたのは、対里見戦略にうってつけだった。

 実際、小太郎は期待に応えた。結局館山城は落ちなかったし、徳川軍の遠征そのものは敗北に終わった。しかし正室を焼死させ、敵の総大将である里見正堯を揺さぶったのは大手柄だった。風魔党の残党などを掻き集めたわづか五十名では、これ以上求めようがない戦果と評価された。

 勿論それは、歴史に残らない類の歴史だが。

「殺す」ハナが言った。「絶対殺す」

 ブツブツとつぶやきながら、ハナは暗視双眼鏡を旅弓に持ち替えた。右耳の後ろまで弦を引き、呼吸を落ち着かせた。フクロウの鳴き声が聞こえた。五十メートル以内なら外さない自信があった。

 ハナの右腕をそっと抑え、信乃がささやいた。

「おやめください」

「邪魔するな」

「相手は風魔党の頭領だった男です。全盛期は私以上の手練れでした。それに敵の規模もわかりません。我ら二人だけで交戦するなど論外です」

「だまれ」

 ハナは右手で信乃の首を掴んだ。渾身の力を籠めて絞めた。

 頸動脈を圧迫され、信乃の意識が遠のいた。体術をつかえば、華奢なハナを振りほどくのは容易だ。だが信乃は、ハナの怒りの凄まじさに圧倒されていた。

 ハナと信乃は同居していても、内面を共有する仲ではなかった。ハナが毎晩、燃え上がる館山城で逃げ惑う悪夢に苛まれているのを、信乃はつゆとも知らなかった。

 ガサゴソと、下の売店の方から物音が聞こえた。

 狂気の発作が鎮まったハナは、また暗視双眼鏡を覗いた。売店の奥は擂鉢状の大きな窪地になっている。底から泉が湧き出る、めづらしい地形だ。

 長い髪の女が窪地から這い出てきた。ブラウスが破れ、スカートが乱れていた。ランニングジャケットのフードをかぶった男が、その後を追う。がっしりした体格で、右手に鉄炮を持っていた。

 あれは「火縄の通り魔」だ。

 通り魔は女を仰向けにし、のしかかった。女は抵抗できない。銃傷を負って虫の息である様だ。

 ハナは暗視双眼鏡をボディバッグへしまった。隣でしゃがむ信乃を見た。信乃はこわばった表情で頷いた。つねにハナの安全を優先する彼ですら、これは非常事態だと認めざるを得なかった。

 信乃は足音を殺して階段を下りていった。展望台に留まったハナは、旅弓に矢をつがえた。通り魔に狙いをつける。木々が風にそよいでいる。頭一つ分、照準を修正した。

 ビンッ!

 矢尻が夜風を切り裂いた。通り魔のランニングジャケットの左肩に突き刺さった。

 風の影響を過小評価していた。

 ハナが言った。「クソッ」

 即座にハナは二の矢をつがえた。老いたりとはいえ鋭敏な風魔小太郎が、射線に立ち塞がる。矢の刺さった通り魔を、路肩に駐車してあるミニバンへ押しこんだ。

 かまわずハナは射た。矢は小太郎の背に命中した。うめき声を上げ、小太郎は膝をついた。だがすぐ立ち上がった。エンジンルームを回って運転席に座り、急発進させた。

 ハナが叫んだ。「あぶないッ!」

 掩護を受けて接近する信乃を、小太郎の運転するミニバンが轢こうとした。ミニバンは速度を落とさず走り去った。

 ハナは旅弓を構えたまま、展望台を駆け下りた。売店のそばの草叢に、信乃が尻餅をついていた。得意げな笑みを浮かべ、手のひらに乗せた数個の鉄片をハナに見せびらかした。

 撒き菱だ。

 ガシャンッ!

 衝撃音がハナの後方から届いた。撒き菱を踏んだミニバンが、公園のどこかで衝突事故を起こしたのだろう。タイヤがパンクしてコントロールを失ったのだ。

 信乃の咄嗟の判断に、ハナは舌を巻いた。身を躱すと同時に反撃までするとは。これは戦国の世に幾度となく繰り広げられた、久留里衆と風魔党の暗闘の再現だった。

 ハナはアイフォンを操作し、LEDライトを点灯させた。仰向けに横たわる女を照らした。呼吸をしていない。胸に被弾してるだけでなく、刃物による深い傷が全身にあった。

 人間の所業ではなかった。

 それでも女が這って窪地から逃げようとしたのは、生存本能の最後の発現だったのだろう。

 ハナは、おのれの存在理由を否定される様な絶望に襲われた。それを振り払おうと絶叫した。

「あああああああああ!」

 信乃は女の傍らにしゃがみ、脈を調べた。ハナを見上げて言った。

「おひいさま」

「なに」

「この女性はまだ心停止していません。楽にしてあげた方がよいと考えますが」

「……そうだね。お願いしてもいいかな」

「わかりました」

 信乃はスキニージーンズの尻ポケットから、スパイダルコの折りたたみナイフを抜いた。女の耳許でなにごとか囁き、静かに永遠の眠りに就かせた。

 ハナは通り魔が遺した鉄炮を拾った。銃身に「清堯」の銘が刻まれていた。たしか三河出身の鉄炮鍛冶の名だ。

 木造の売店に明かりが灯った。

 ハナは窓ガラスから漏れる光に手をかざし、暗順応した視力を守った。それでも目がくらんだ。

 信乃が立ち上がり、前後左右を見回した。通り魔の仲間がまだどこかに残っており、手ぐすね引いている。おそらく証拠を隠滅するのが目的だ。

 売店の角から、おんぼろのコートを着た男が姿を現した。身長は百八十センチ以上ある。削り跡の粗い、自作の木刀を右手に持っていた。

 ハナはこの大柄な男を知っていた。新宿駅の事務室で、風魔小太郎の部下としてハナを尋問した御庭番だ。

 男は軽く頭を下げた。無精髭がむさ苦しい。

「拙者は」男が言った。「播州牢人、新免宮本武蔵と申す者。先日は世話になった。あの機転は見事だった」

 AEDによるドア越しの電撃を指しているらしい。

 ハナは無言だった。震えて歯の根が合わない。

 広い公園に、逃げ場はいくらでもある。しかしハナが駆け出そうとするとその方向へ、武蔵という男の目が先手を打ってギョロリと動き、ハナを怯ませた。足が地面に釘付けされた。棒手裏剣四本を右手に掴むのがやっとだった。

 あと三歩まで距離が縮まった。目を細めて残忍な表情をつくり、武蔵は続けた。

「しかし、兵法家というのは評判が大事でな。もし女に遅れを取ったとの噂が広まれば、看板を下ろすしかない。そなたに恨みはないが、ここで死んでもらう」




テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

『大奥スパイミッション』 第3章「女子飲みパニック」


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 ハナは代々木アミューズメントスクールという専門学校で、イラスト技法の授業をしていた。教室では約二十名の生徒が、大型の液晶ペンタブレットに向かっている。生徒の年齢は二十歳前後が多いが、放課後に通う高校生もちらほらいる。ハナは彼らの課題を品評し、手直しすべき箇所を指摘した。

 細川という金髪の男子生徒の席にきた。豊満な肢体の少女が衣服を剥ぎ取られ、ゴブリンたちに輪姦されるイラストを描いていた。細川はクラスで一番の問題児だ。

 血が逆流するのを抑えようと、ハナは深呼吸した。専門学校の生徒は試験で選抜されず、授業料さえ払えば誰でも通える。つまり彼らは大事なお客さんだった。なおかつここは教育機関であり、辛抱強い指導が求められる。声を荒げて叱責するなど論外だ。

「細川くん」ハナが言った。「そういうのやめてって、いつも言ってるよね」

「え、なんでですか。今回のテーマはファンタジーだし、ぴったりでしょ」

「女の子の生徒も多いんだから、人を不快にしたり怖がらせる絵はやめて」

「これはアートなんです。表現の自由ですよ」

 ハナは液タブの電源コードを引き抜いた。丸めてゴミ箱へ投げ捨てる。力作が台無しとなり、細川は抗議の声を上げるが、ハナは無視して歩み去った。

 以前から細川の問題行動を学校職員に報告し、厳しい処分を要求していたが、その都度握り潰された。なんでも父親が業界の大物だとかで、手を出せないそうだ。

 ハナは鼻を鳴らした。

 あのバカガキ、いつか脳天に手裏剣刺してやる。

 向かいに座るブレザーの制服の少女が、熱っぽい目でハナを見上げていた。声優科所属のエイコだ。前髪を水平に切り揃えた、おかっぱ頭をしている。細川の悪趣味なポルノを我慢してたので、消してくれたハナに感謝しているのだろう。

 デスクを回ってエイコの背後に立ち、ハナが言った。

「うるさくしてごめんね」

「とんでもないです。いつもありがとうございます」

「直しは進んだ?」

「あの、質問があるのですが」

「なに」

「この『明度』って、『明るさ』とどう違うのかよくわからなくて」

「『明度』の方が全体的に滑らかに補正されるよ。ちょっと貸してみ……ほら」

「言われてみれば」

「手描き風の味が出るから、エイコちゃんの絵柄に合ってるかもね」

「なるほど。まだクリスタに慣れてないので、本当に勉強になります。ありがとうございます、先生!」

 エイコは頬を紅潮させながら、満面に笑みを浮かべた。人形の様に可憐な少女だ。ハナは彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。エイコは高校三年生だが、すでにアニメ数本に出演している。女子高生に憧れ、アニメを愛するハナにとってエイコは理想の存在、言うなれば天使だった。

「エイコちゃんは偉いなあ」ハナが言った。「毎日高校へ通って、声優科のレッスンを受けて、イラスト科にまで出るんだもん。努力家なんだね」

「実は私、前から里見先生の絵が好きで」

「そうだったんだ」

「ごめんなさい、黙ってました。漫画の単行本も買いました。プレミアついてましたけど」

「五千円くらいするよね」

「値上がりして今は二万円です」

「うへえ、あれにそんな価値ないよ! 言ってくれればウチにあるのあげたのに。もう見たくもないし」

 ハナのデビュー作である、ラノベのコミカライズ作品『異世界でハーレムを百個作った件』は電子書籍化されてない。原作者や編集部と一悶着があったせいで、幻の漫画となっている。

 エイコが言った。「女の子がみんな可愛かったです」

「あたしの取り柄はそれだけだもん」

「ただ……」

「ただ?」

「お話の終盤がすごいバタバタしてて……私なんかが言うのもおこがましいですが」

「ああ、あれね。あの主人公ってムカつく奴じゃん」

「どうなんでしょう。でもすごいモテますよね」

「クソみたいなヤリチン野郎なわけよ。で、あたしはいい加減うんざりしたんで、勝手に主人公を殺しちゃったんだ。そしたら原作の先生が激怒してさ。そんで打ち切り」

「…………」

「ま、あたしも若かったね」

「うふふっ」

 正確には、ハナは主人公を殺してない。断崖絶壁から海へ落ちるという原作にないシーンを描き、その後二度と登場させなかっただけだ。しかし問題の回が掲載されたあと、出版社の社長が原作者の自宅を訪れて土下座して謝った、なんて噂も耳にしたのも事実だ。

 ハナはエイコの席から離れ、また教室を巡回した。お気にいりの生徒とはつい話しこんでしまう。だが仕事である以上、よほどのクズ以外は公平に接しないといけない。




 一時間半の授業を終え、ハナは廊下に出た。体力には自信があるが、立ちっぱなしなので脚への負担が重い。

 背後から若い女の声が聞こえた。

「ハナちゃん、待って!」

 振り向くと、華やかな私服を着た三人の女子生徒が駆け寄るところだった。

 ハナが言った。「どうしたの」

「ウチらこれから飲みに行くんだけど、ハナちゃんも行かない?」

 生徒たちと年齢が近いハナは、育ちが良いせいか大らかな性格なのもあって、随分と懐かれていた。

 時刻が八時すぎなのをアイフォンで確認し、ハナが言った。

「うーん。誘ってくれるのは嬉しいけど、今日中に完成させなきゃいけない仕事があんだよね」

「エイコも来るってよ」

「うそ」

「きゃはは、めっちゃ食いついてきた」

「そんなんじゃねーし」

「イラストなら居酒屋で仕上げりゃいいじゃん」

 非常に小柄なエイコが教室から出てきた。握りしめた両手を自分の胸に押し当てている。一緒に来てほしいとハナに目で訴えている。

「そうだなあ」ハナが言った。「よくよく考えてみれば、作業はなんとか間に合うかも」

「ぷっ。わかりやすっ」

「うるせーな」

「ハナちゃんはエイコを贔屓しすぎ」

「んなわけねー。あたしは全員に公平だし」

「百合は漫画の中だけにしときなよ」

「……お前は今回の課題、倍にしたからな」




 代々木駅西口にある居酒屋の個室で、ハナは隅の方に座ってアイパッドにペンを走らせていた。液タブより画面が小さいが、アイパッドでも普段使っているクリップスタジオを問題なく動かせる。

 スタイラスペンがディスプレイでコツコツと鳴る。機嫌が悪いときのハナの癖だ。

 視線の先ではエイコが、男に挟まれながら烏龍茶を飲んでいた。例の自称アーティストの細川ら、三人の男子生徒がこちらを追っていたらしく、店内で強引に合流された。

 ハナは顔をしかめた。

 あたしとしたことが、尾行を見逃すなんて。どんだけ舞い上がってたんだ。

 オフショルダーのブラウスを着た女子生徒が、ビールジョッキを手にして隣に座った。ハナを誘ってきたヒナだ。

「ねえ」ヒナが言った。「楽しんでる?」

「これが楽しんでる顔に見えんの?」

「まだ怒ってるんだ。だからごめんって。あいつらが来るとは思わなかったんだもん」

「別にヒナは悪くないから、謝らなくていいよ」

「エイコと話したかったんだよね」

「そうだよ。声優の仕事のこととか、聞きたいことがいっぱいあったんだ」

「あのコかわいいよね」

「ほんと男とかうぜえ。あいつらエイコちゃんに釣り合うツラかよ」

 鼻息荒いハナを見て、ヒナはきょとんとした。

「あ、わかってないんだ」

「なにが」

「男子の目当てはハナちゃんだよ。いまだってチラチラこっち見てるし」

「心底どうでもいい」

「ブレないなあ」

 ヒナはハナの手許のディスプレイを覗きこんだ。薄紫色のロングドレスを着た少女のイラストだ。フリルが何段にも重なる豪華な衣装だった。金髪の頭にティアラが飾られている。

 目をしばたかせてヒナが言った。

「きれい! ハナちゃんはなんだかんだでプロなんだね」

「あんがと。なんだかんだは余計だけど」

「このコはお姫さま?」

「いや、ただの村娘。カボチャを栽培してる」

「え、どういうこと。村娘がお姫さまになったの?」

「最初から最後まで村娘だね。異世界に転生した男子高校生が、農村にハーレムをつくる話だから」

 ぽかんと口を開けて、ヒナはハナの表情をうかがう。冗談を言ってる様子ではない。ヒナは本気でプロを目指すほどの実力者でないが、人並み以上に絵のことはわかる。

「悪いけど、全然村娘に見えないよ」

「うん。編集者に見せたらあっさりボツになった。でもせっかくのファンタジー世界なんだから、フリルたっぷりの服描きたいじゃん」

「なんでこれが通ったの」

「ボツになったあと、別案を新たに五点描いたんだ。それらはもっとフリル盛り盛りにした。そしたら編集者が呆れて、もとの案が通ったわけ」

「ひどっ」

「プロの交渉術と言ってほしいね」

 ヒナは畳で笑い転げ、ハナの膝を叩いた。絵の勉強より、友達や彼氏と遊ぶことに熱心な生徒だ。だがその一方でBL系の同人作家として活動しており、その界隈では結構知られる存在らしい。

 生徒たちはまさに玉石混淆だ。すでにプロデビューしている者もいるし、行き場が他にない落ちこぼれもいる。ただ全員に共通しているのは、普通の学校や仕事では満足できないという一途な思いだ。

 二歳年下のヒナの明るい色の髪を撫でながら、ハナは右手のペンを動かしていた。師弟というより、同志に近い。なんだかんだで、ここはあたしの居場所だ。失いたくない。

 ゾクッ。

 ハナの背筋に悪寒が走った。

 髪をツーブロックにし、黒縁メガネをかけた男子生徒の、不審な動作が目に留まった。エイコがトイレへ行くため席を外した隙に、烏龍茶のグラスに小さな容器から液体を注いだ。暗殺術を信乃から教わったハナは、たやすく察知した。

 レイプドラッグだ。

 それは女の意識を奪って強姦へ持ちこむのに用いられる。一般的なのは睡眠導入剤などだが、さっきのは透明な液体だった。たとえば度数九十六パーセントあるスピリタスの様な、ウォッカなどの酒を混ぜたのだろう。

 高校生に対し使うなんて、ゲスにも程がある。

 ハナはテーブルを飛び越えてツーブロックの隣に立った。その髪をつかんで言った。

「てめえ、ふざけんなよ」

 ツーブロックは目を見開いたまま硬直した。唇が震えている。だしぬけに怒りをぶつけられ、動顛していた。

 ツーブロックの左に座っていた金髪の細川が、ハナの手を払って言った。

「なにすんだよ」

 ハナが言った。「エイコちゃんのグラスに何か入れたろう」

「はぁ? んなわけねーだろ」

「この目で見たんだよ」

「俺らは普通に飲んでるだけだっつーの」

 ハナは男子生徒三名の表情を観察した。どうやら細川がリーダーで、ほかの二人が実行役らしい。今みたいに揉め事になったら、弁の立つ細川が談判に応じるという分担だ。連携のスムーズさを見るかぎり、これが初犯ではない。

「お前ら、常習犯だな」

「しつけーんだよ、ブス」

「全員奉行所に突き出してやる。学校にも報告する」

 細川が立ち上がった。ハナより十センチほど長身だ。

「なんなんだ、てめえは。いつも俺のことチクりやがって」

「お前の自称アートとは関係ない。これは強姦未遂だ。あきらかに犯罪だ」

「アルバイト講師のくせに偉そうなんだよ。てめえなんてすぐにクビだ」

「いい年してパパに泣きついてんじゃねえ、カス」

「てめえ、殺すぞ」

 細川はハナのグレーのパーカーをつかみ、前後に揺さぶった。ハナは口を結んで耐えた。生徒に暴力を振るえば、どんな理由があろうとクビになる。そもそも細川の意図は、この場を混ぜっ返し、追及をうやむやにすることだ。すべての性犯罪者と同様に、細川も狡猾だった。

 ハナはテーブルに手をのばし、烏龍茶のグラスを取った。すべて飲み干して空にした。細川たちは唖然とした。

 猛烈な頭痛と眩暈に襲われた。摂取したアルコールはおよそ五十グラムといったところだ。急性アルコール中毒をおこすには十分な量だ。




 ハナは居酒屋の通路を早足で歩いた。トイレを出たエイコとすれちがった。愛想よく会釈されたが無視した。そんな余裕はなかった。

 トイレの洗面台にグラスを置き、個室のテーブルから持ってきた食塩を振って入れた。蛇口からグラスに水を注ぎ、指でかき混ぜた。生理食塩水の出来上がりだ。

 ハナは食塩水を飲み、喉に指を突っこんだ。激しく嘔吐して胃洗浄をおこなった。アルコールの吸収をすこしは妨げられたろう。

 蛇口をひねって吐瀉物を洗い流した。胃液の酸っぱい臭いが漂った。

 ハナは鏡に映る自分を見た。徹夜明けで目の隈がひどく、顔は土気色だった。吹き出物も出ていた。ほとんど化粧しないので、たしかに細川の言うとおりブスだった。

 イラストに描いてるドレスの少女とは正反対だ。むしろこっちは、昔は正真正銘のお姫さまだったのに。

 あたしはいったい何をやってるんだ。

 いくらエイコちゃんのためでも、ここまで体を張る必要はない。ほかに有効な手立てはあるはずだ。性犯罪者のひとりふたりを叩きのめしたところで、世の中は変わらない。

 理由はわかっている。

 おのれの境遇が悲しいのだ。晩年は不遇だったが、日本を代表する名将のひとりに数えられる父。南総ではいまだに民衆から崇拝されている母。比べて自分は一向に芽が出ず、都会の片隅で朽ち果てようとしている。自分も一廉の人物になりたくて、むやみに正義感を振り回してしまう。痴漢狩りにのめりこんで、幕府に目をつけられるほどに。

 ハナは拳で口許を拭った。

 それでもやっぱり、あいつらは許せない。落とし前をつけなきゃいけない。

 ふらつきながらハナは個室へ戻った。ひとりだけ制服のエイコは、トラブルが起きたのをつゆとも知らず、ほかの女子と談笑していた。ヒナがハナに、こっちは大丈夫だよと目配せした。女には女の連携があるのだった。

 細川たち三人の男子は、固まって座っていた。ハナの次の行動を警戒していた。もはや言い逃れは不可能だった。

 ハナはパーカーの袖から棒手裏剣を抜き、鯛の姿焼きの目のところに突き立てた。皿がひび割れた。

 冷たい視線で見下ろしながら、ハナが言った。

「あたしは人を痛めつける方法を知ってる。もしまた女の子に手を出したら、お前らを血祭りに上げる。これは脅しじゃない。あたしは絶対やる。わかったか」

「…………」

「答えろ」

「わかったよ」

「言葉遣いが間違ってる」

「わかりました」

「先生と言え」

「……わかりました、先生」




 細川ら三人が退散してから楽しい時を過ごしたあと、ハナは女子生徒たちと別れた。夜の代々木のビル街を見回す。カフェかファミレスで仕事の続きをしたい。あと一時間もあれば完成する。

 アイフォンをスリープ解除すると、LINEの通知が十三件溜まっていた。胃に穴があく思いをしながら、ハナは編集者に電話をかけた。

 誰も見てないのに深々と頭を下げ、ハナは言った。

「すみません! 表紙はあと三十分で送ります!」

 担当編集が言った。「いや、それはいいんですけど」

「いま作業中です! あとちょっとです!」

「だからいいですってば。里見さん、LINE見ました?」

「まだです」

「編集部は大騒ぎなんですよ。会社の上の方から、里見さんを外せって急に言われて」

 アイフォンを右耳に当てたまま、ハナは夜空を見上げた。

 細川の野郎だ。

 あのクソガキがパパに告げ口して、あたしに圧力をかけてきやがった。父親も父親だ。反応が速すぎるだろう。

 無言のハナに対し、担当編集が続けた。

「もしもし、聞いてます?」

「はい」

「なんか相当上の方が怒ってるみたいで。里見さん、また誰かとケンカしたんですか?」

「いえ、別に」

「ウチは買収されてからはHOSOKAWAの一ブランドにすぎないんで、拒否しようがないんですよ」

「あたしはクビですか」

「まあ、五巻続いた小説の絵師さんが変わると、売り上げに悪影響が出ますからね。できるだけ抵抗しますけど」

「お願いします」

「なんかわかったらLINEしてください。あと表紙もなる早で」

「了解です」

 ハナは通話を切った。アイフォンを路面に投げつけたいのを堪えた。

 あたしが何をしたと言うんだ。

 親が金持ちで権力を持ってるからって、強姦魔が幅を利かせるなんて、世の中まちがってないか。

 血が出るほど唇を噛みしめながら、ハナはアイフォンの地図アプリでファミレスを探した。それでも仕事はしないといけない。でないと生活が成り立たない。

 ハナはディスプレイから目を離した。

 ブレザーの制服を着たおかっぱ頭の少女が、ぼんやりと街灯に照らされて佇んでいるのに気づいた。

「エイコちゃん」ハナが言った。「まだこんなところにいたの。もう遅いから帰りなよ」

「里見先生。ちょっとお話してもいいですか」

「うん」

「さっきはありがとうございました。私を助けてくれて」

「なんのこと」

「とぼけないでください。あくまで推測ですけど、細川くんあたりが、私の飲み物に薬でも入れたんでしょう」

 身長百四十五センチのエイコは、十八歳という年齢以上に幼く見える。しかし端役とはいえプロの声優として活動しており、意外と世慣れてるのかもしれない。

 目を丸くしてハナは言った。

「するどいな」

「私は先生が思うほど子供じゃありません。頭に精液が詰まってる連中の行動パターンくらい読めます」

「あはは、言うねえ」

「感激しました。身を挺して私を守ってくれて」

「先生なんだから当然だよ」

「生徒全員に対してそうですか? 倒れる危険を冒してまで助けますか?」

「うーん」

「私を特別に思ってくれてるんですよね」

「まあね。エイコちゃんは偉いなって思ってるよ」

「あともうひとつ。先生がツイッターに上げてる天使のイラスト、あれ私がモデルですよね」

「えっ」

 図星だった。なんとなくエイコをイメージして描いたらバズったので、シリーズ化してすでに十点以上描いた。

 エイコが言った。「髪型も顔もまんま私じゃないですか」

「いや、その……不愉快だったらごめん」

「先生の愛を感じました。だから私も愛を返します」

 ハナには格闘術の心得がある。たとえ相手が非力な少女でも、攻撃可能な間合いに侵入を許すことはない。本能的に対人距離や体勢を調整する習慣がある。

 しかしエイコはハナの懐へ飛びこみ、思いきり背伸びして口づけをした。

 嘔吐したばかりの唇を指先で擦り、ハナが言った。

「なにすんの」

「マーキングです。先生は私のものだっていう所有権の宣言です」

「所有権って」

「これは私のファーストキスです。先生もそうでしょ?」

「うぐ」

「責任取ってもらいますからね」




テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

『大奥スパイミッション』 第2章「亡国の姫君」


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 ハナは新宿駅を出たあと街を不規則に歩き、追跡されてないのを確認した。タクシーを拾い、立川の自宅マンションへ帰った。立川は、勤務地のある代々木から電車で三十分。愛するアニメ、レールガンの聖地でもある。

 マンション一階は携帯ショップの「オーブ」が入居している。閉店時間を過ぎてるが、まだシャッターは下りてない。忍びの集団・久留里衆の残党が、仕えていた里見家が滅んだあと、機械をあつかう技能を活かして始めた店だ。それなりに繁盛し、都内に八店舗を展開している。

 ショップの自動ドアが開いた。スーツを着た痩身の男が、両手にゴミ袋をもって出てきた。店長である犬塚信乃だ。

 ハナが言った。「信乃、おつかれ」

「お帰りなさい、おひいさま。今日は遅かったですね」

「いろいろあってさ。いま掃除中? 手伝おっか」

「もう終わりました。ありがとうございます」

 信乃は透き通った微笑を見せた。任務とあらば、化粧なしで女に変装できるほどの美形だった。いまでこそ携帯ショップ店員に身をやつすが、かつては久留里衆でダントツの使い手と称された忍びだ。ハナに忍技を仕込んだのも信乃だった。年齢はハナより五つ上の二十六歳。

 ハナは店内へ入った。二階にある信乃の部屋に居候中なので、お返しという訳ではないが、たまに店を手伝う。たしかに床やソファはきれいに磨かれていた。新宿で嫌な汗をかいたのを思い出し、ハナは給湯室で顔を洗った。まだ不快感が残るので、濡らしたタオルをもってソファへ戻る。グレーのパーカーを脱ぎ、重ね着していたキャミソールと長袖のTシャツもするすると脱いだ。上半身に身につけるのはクリーム色の下着だけ。

 ゴミ捨て場から帰った信乃が、ハナを見て硬直した。

 壁の方に顔を背け、信乃が叫んだ。

「おひいさま、なんて格好ですか!」

「なにをいまさら。あたしの裸なんて訓練のとき散々見てるじゃん」

「だれが入ってくるかわからないのに」

「あたしのペチャパイ見てもなんとも思わないでしょ」

「おひいさま!」

「あはは、ウケる」

 ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべ、ハナは服を着直した。信乃は眉をひそめる。長年の従臣という気安さで、ハナは信乃をからかってストレスを発散しがちだ。

 ハナはかつて南総を領有した大名である、里見氏の末裔だった。しかし、父の正堯が関ヶ原の戦いで西軍についたため、里見家は改易された。久留里城へ攻め寄せた四万の徳川軍を、十分の一の軍勢で撃退したのにこの結果だから、悔しさは倍増だ。それもこれも石田三成とかいうバカが、わづか一日で関ヶ原での決戦に敗れたせいだった。

 ただ正堯の長女、つまりハナの姉であるお雪が、家康の三男秀忠に嫁いでいたため、一族の死罪は免れた。お雪による懸命の説得があったと言われる。

 ハナは七歳のとき、流罪となった父に付き添い、高尾山で蟄居生活を送るはめになった。つねに役人に監視され、学校にも通えなかった。三年前に入院した父は病床で、忍びである信乃をハナの傅役に任命した。忍びは武士とちがい所領をもたず、無足人などと呼ばれ軽侮される身分だ。大名だった時期ならありえない人事だが、ほかに頼める家臣はいなかった。要するに信乃はハナのボディガードだった。そして昨年、父正堯は胃癌で他界した。

 ハナは、戦国の世の運命に翻弄された娘だった。姉からの金銭的支援はあるが、嫁ぎ先の徳川氏は二度も干戈を交えた相手であり、頻繁に連絡をとるのは憚られた。身寄りと言える人間は信乃しかいない。

 ため息混じりに信乃が言った。

「大殿様や御前様が見たら嘆かれます」

「はいはい」

「そもそも里見氏と言えば……」

「里見氏と言えば、源氏の血を引く名流。徳川ごときとは比べものにならない。聞き飽きたよ。でも血筋じゃ飯は食えないんだ。居候してるあたしが言うのもなんだけどさ」

 ハナは急に押し黙り、タオルで首周りを拭った。信乃の横を通り過ぎ、タオルを洗いに給湯室へ向かう。その横顔が翳っているのに、信乃は気づいた。

 また小言を言いすぎたと、信乃は反省した。

 むしろおひいさまは立派だ。強大な権力に人生を踏みにじられたのに、毎日明るく振る舞っている。自分の様に分限の卑しい者に対しても、基本的に優しい。情緒不安定になりやすいのが心配だが。

 支えないといけない。どんな犠牲を払っても。

 信乃は胸に手を当てた。鼓動が速まってるのがわかる。ハナのことを考えるとこうなる。これは恋愛感情などではない。崇拝的な忠誠心だ。

 給湯室から出たハナが、頬を紅潮させた信乃を見て首をかしげた。

 ハナが尋ねた。「どうしたの」

「いえ、別に。ちょっと考えごとを」

「めっちゃお腹すいた。回転寿司でも行かない?」

「すみません、伝えるのを忘れてました。正木大膳どのが部屋に来ておられます」

「まじか。あたしは遅くなると言って帰しちゃって」

「数々の武勲を立てた筆頭家老でしょう。そんな義理を欠いた態度ではいけません」

「あれは父上の家臣だから。あたしじゃない」

「里見家の家臣ですよ」

「とっくに滅んだんだよ、里見家は。どうして皆それがわからないんだろう」

 ハナは気怠そうに、窓の外の往来を眺めた。




 ハナは合鍵をつかい、マンション二階の信乃の部屋へ入った。信乃とはもう三年間、共同生活をしている。父が多額の負債を遺したせいで余裕がなく、ハナは家賃や光熱費を払っていない。信乃は家族みたいな存在ではあるが、主君が家臣に寄生するのは筋違いであり、これも頭痛の種だった。

 リビングではイームズの赤いソファに座り、里見家旧臣の正木大膳がスポーツニュースを見ていた。ワイヤーベースのテーブルにビールの空き缶が並んでいる。信乃は服や家具などに凝るタチで、インテリアはミッドセンチュリーとかいうスタイルが好みらしい。ハナは休日におしゃれなカフェへ連れていかれることもあった。

 大膳は着席したまま、ハナの方を向き丁重に頭をさげた。身長百九十センチの禿頭の巨漢だ。北条氏との戦いで「槍大膳」の異名をとった猛将で、その名は関東中に轟いた。

「おひいさま」大膳が言った。「暫くぶりでございます。御機嫌をうかがいに参りました」

「わざわざ来てくれてありがとう。変わりはない?」

「牢人への取り締まりが一層厳しくなりましたな」

「やっぱそうか」

「保証人がいないと、下宿を探すのすら難儀します」

「苦労をかけるね」

「なあに、三河の田舎侍が束になって掛かってこようが、物の数ではござらん」

 大膳は豪快に笑った。あちこち擦り切れた紺のスウェットの上下を着ている。まるで乞食だが、実際に乞食をしていた時期もある。かつて数万石の所領をもち、大名並みの権勢を誇った男が、いまや落ちぶれて見る影もない。

 ハナは白いダイニングテーブルに、ワコムの液晶ペンタブレットを置いた。新人のイラストレーターである彼女の仕事道具だ。明日がライトノベルの表紙の締め切りだが、だいぶ帰宅が遅くなった。徹夜の作業になりそうだ。

 ハナはリビングに向かって言った。

「締め切りが迫っててさ、ここで作業させてもらうね。でもゆっくりしてってよ」

「どうぞお構いなく」

 そう言って大膳はヱビスの缶を開けた。信乃が自分用に買ったものだが遠慮はない。ハナがつかう冷蔵庫にあるものは、家臣の共有財産だとおもっている。

 父正堯は自分の死後も臣下に厚く報いるよう、今際のときにハナに命じた。里見の家があるのは、戦場で命を散らした彼らのおかげだからと。

 しかし大名家としての里見氏は、もう存在しない。なのに旧臣にタカられ続け、姉からの仕送りはすぐ底をつく。こんな非生産的な関係は、そろそろ精算すべきではないか。

 テレビを見ながら大膳がつぶやいた。

「また白龍が優勝しましたな」

「だれ」

「横綱ですよ。三場所連続優勝です」

「ふうん」

 これっぽっちもハナは相撲に興味がない。

「おひいさまが小さかったころ、よくこの大膳と相撲を取りましたなあ」

「そうだっけ」

「どうです、ひさしぶりにやりますか」

「また今度」

 家臣の前で主君はどうふるまうべきかを、ハナは父から学んだ。いまも感情をコントロールしてるつもりだ。でもどうしても、苛立ちが声に滲み出る。

 正直、もう帰ってほしい。

 大膳はテレビを消し、ヱビスの缶をもって食卓へ近づいた。

 大膳が尋ねた。「座ってもよろしいですかな」

「どうぞ」

「お話があるのですが」

「なんでも言ってよ」

 ハナは作り笑顔を浮かべた。用件はわかっている。百パーセント、金の無心だ。

 向かいに腰を下ろし、大膳が言った。

「実はそれがし、会社を興す計画があります」

「へえ。なんの会社」

「警備会社です。すでに家臣一同には声をかけました。彼らがこのまま離散してしまうのは、あまりに惜しい」

「その資金が必要ってことかな」

「将来への投資と思ってくだされ。いづれ我々の手でお家の再興を果たしますゆえ」

 スタイラスペンがコツコツと音を立てた。

 ハナは内心で毒づいた。

 また例の与太話がはじまった。これでもあたしは頑張ってるんだ。邪魔しないでくれ。

「いくら要るの」

「とりあえず五百万」

「そんなのポンと払えないよ」

「今回ばかりは決死の覚悟でお願いしております。大殿様の御無念がいかばかりか、おひいさまが誰より御存じでしょう」

「ほんとに無理だって。借金が八千万もあるから、遺産相続で家財道具を差し押さえられたんだ」

 ハナは廊下に積まれた段ボール箱を指差した。甲冑や刀剣など、里見家に伝わる財物を放り込んである。大膳は箱へ駆け寄り、中身を漁った。鞘に入った小ぶりの刀を取り出した。

 目を血走らせて大膳が叫んだ。

「村雨ではござらぬか。まさかこれを手放すのですか!?」

「しょうがないじゃん」

「抜けば玉散る、摩訶不思議な霊刀ですぞ。里見家代々の御先祖にどう申し開きするおつもりか!?」

 ハナの手が震え、ますますペンが騒いだ。

 誰のせいでこっちは借金を背負ったと思ってやがる。

 逆上した大膳は、断りなくハナの自室のドアを開けた。散らかり放題の汚部屋だった。

 桐の衣装箪笥を引き出し、大膳が続けた。

「御前様の形見の小袖ですな」

「勝手に触んないで」

「これも売るつもりですか」

「できれば手放したくない」

「由緒あるものだそうです。売るならこっちにしなされ」

 花車文の黄色の小袖を、脂ぎった手で大膳が掴むのを見て、ハナは眩暈に襲われた。怒りで血圧が上昇していた。

 遺品の小袖を見ると、「南総の名花」と讃えられた母のかんばせが思い浮かぶ。十四年前、母は戦火に見舞われて亡くなった。

 あの日は、忘れ様がない。

 関ヶ原の戦いで西軍に加わった父正堯に対し、徳川家康は三男秀忠率いる四万の大軍を派遣した。正堯は久留里城に籠もってそれを迎え撃つ一方で、妻子を後方の館山城に置いた。守備兵はわづか百名だった。そして徳川軍は正堯を揺さぶろうと、五十名からなる別働隊で館山城を攻めた。

 別働隊は傭兵が主体だったと言われる。寡兵で城攻めを任された彼らは、悪辣な誘致戦術を採用した。つまり城周辺の村落を焼き、住民を虐殺した。ハナの母は敵の意図を看破した上で、あえて守備兵に住民の救援を命じた。しめたとばかりに徳川軍は、空き城同然となった館山城へ火をかけた。そのとき負ったやけどが原因で母は死去した。

 当時ハナは七歳だった。いまでも毎晩、城内の火災に巻きこまれる悪夢を見る。襷をかけ鉢巻をしめた、凛々しい母の姿も。ハナをはじめとする子供たちを土蔵へ匿い、重い鉄扉を閉める直前、母はこう言った。

「強くなりなさい、ハナ。平和な時代をつくり、守ってゆくのはあなたたちの役目です」

 決して侵されたくない心の領分がハナにあるとしたら、それは母の記憶だった。大膳は土足でそこへ踏み込んできた。ふたたび乱を起こし、家康に復讐するのが目的で。

 正気の沙汰ではない。

 いまさら徳川に叛旗を翻してどうする。関ヶ原以降急増した牢人を一掃したい幕府にとっては、むしろ思う壺だ。それに万が一徳川を倒せたとして、その後どうする。里見幕府をひらくのか。そんな能力があたしらにあるとでも?

 叛乱が無意味どころか有害なのは、大膳ら旧臣が一番わかっている。でも彼らは死に場所を求めている。みじめに老いさらばえるのでなく、戦場で華々しく散りたいのだ。

 ハナは液タブの電源を切った。食卓に置かれた伝家の宝刀が目に入った。主君には家臣を裁く権限がある。こちらの裁量で切腹を命じることもできる。

 そんなに死にたいなら勝手に死ね。

 あたしや母上を巻きこむな。

 ガチャッ。

 マンションのドアが開き、黒のスーツを着た信乃が部屋に入ってきた。

 リビングで仁王立ちする大膳が、高圧的な口調で言った。

「信乃、お前は下がっておれ。おひいさまと大事な話をしている最中だ」

「わかっております。渡すものを渡したら出ますので」

 信乃は平気な顔で食卓へ近づいた。ハナは申し訳なさと恥づかしさでうつむいた。ここは信乃の自宅ではないか。大膳は、十数年前の身分差をいつまで引きずっているのか。

「ごめん」ハナがつぶやいた。「あの言い方はない」

「慣れっこだから大丈夫ですよ」

 信乃はハナに封筒を手渡した。

「これは?」

「店にあったビール券です。二十万円分あります。大膳どのも納得してくれるのではないでしょうか」

「いつもいつもありがとう。あたし、信乃に頼りすぎだ」

「水臭いことを言わないでください。おひいさまのお役に立つ以上の喜びはありません」




 酒浸りの大膳はビール券を握りしめ、上機嫌で帰っていった。お家再興云々は口実で、当座の生活費が入ればとりあえず満足なのだろう。

 ハナは仕事を再開しようと液タブに向き直るが、まるで手が動かない。散文的な現実がのしかかり、異世界ファンタジーのイラストを描く心理状態にならない。

 信乃が食卓にグラスを置いた。琥珀色の液体から湯気が立ち、甘くまろやかな香りが漂った。かすかにアルコール臭もする。ただしハナはめったに飲酒しない。

 怪訝そうにハナが尋ねた。

「なにこれ」

「ホット・バタード・ラムです。お酒を飲みたい御気分じゃないかと思いまして」

「まあね……ん、おいしい。体の芯があったまる感じ。徹夜仕事をがんばる気力が湧いてきたわ」

「無理をなさらないでくださいね」

「相変わらず信乃って女子力高いなあ。あたしよりいいお嫁さんになれるよ」

「ありがとうございます」

 冗談を平然と受け止め、信乃はほほ笑んだ。女装して街を歩いても誰にも気づかれない容貌なので、洒落にならない。

 食卓の向かいで同じカクテルを飲み、信乃が続けた。

「御前様の血を受け継いでらっしゃるのだから、おひいさまもいづれは立派な奥方におなりあそばします」

「どうだか。母上の遺伝情報は全部姉上に行ったもん。あたしはちっちゃい頃から、久留里衆に交じってヤンチャしてたし」

「懐かしいですね」

「いま思えば、母上は放任主義だったなあ。とにかく優しかった。あたしって、わがままなクソガキだったじゃん?」

「ええ、そうですね」

「少しは否定しろよ。でも母上はいつもあたしの味方だった。死に別れたのは七歳だから、記憶はおぼろげだけど」

「忍びにも親切にしてくださる、すばらしいお方でした」

「だよねえ。そういや聞いたことなかったけど、信乃のご両親は健在なの?」

「わかりません」

「え」

「両親は五歳だった私を、久留里衆へ売りました。それ以来会ってません。地元の目端の利きそうな子供を、久留里衆はスカウトしていたんです」

 信乃は穏やかな表情で、穏やかでない過去を語った。

 頬を引き攣らせてハナが言った。

「ごめん。余計なこと聞いたかも」

「とんでもない。忍びに家族など不要です。もし任務より大切なものが自分にあったら、差し障りが出ます。敵は必ずそこを突いてくるので」

 信乃の唯一の弱点は、アルコールに弱いことだった。普段より舌が滑らかになっている。

 そして彼の表情は、内面のプライベートな領域をハナに侵犯されて傷ついたというより、忍びとしての誇りをひけらかしている風だった。




 時計は夜十時を回った。

 信乃は、東久留米にできる新店舗の準備をしに出掛けた。ハナはぬるくなったホット・バタード・ラムをすすりつつ、出しなに信乃が口にした話を思い返していた。

 携帯ショップのオーブは、空席となる立川店の店長をハナに任せたいらしい。ちょくちょく店を手伝っていたから、適性は問題ない。忍びが主君を雇う形になるが、将来的にはハナを会社の幹部に据える考えがあるそうだ。

 イラストの仕事との両立はおそらく不可能だ。しかし優先すべきは収入の安定だろう。絵は趣味で描くこともできる。電撃文庫の様な大手ならともかく、ハナが寄稿している出版社はライトノベル一冊で十五万円。合い間に専門学校で講師をつとめているが、自活するには不十分だ。

 ハナが居候しているのは別に負担でなく、むしろ信乃にとっては光栄だが、それでもやはり経済的な自立こそがハナの幸福につながるのではないか。

 そんな風に信乃は語った。

 いよいよ首が絞まってきたなと、ハナは思った。やはり絵の仕事で食べていくのは厳しいのかもしれない。

 そもそもあたしは、どれくらい本気でイラストレーターになりたかったんだっけ。

 高尾山での蟄居生活では、父上から学問を、信乃から忍技を教わった。それ以外の時間はひたすらアニメを見たり、お絵かきをしていた。同世代の友達がひとりもいないから、妄想の中でずっと架空の女の子と遊んでいた。

 年月が経ち、戦乱の時代は終わった。父上の軍略や信乃の忍技は、無用の長物となった。あたしが持ってるスキルは、ほかに絵しかなかった。なので十九歳で漫画家としてデビューした。びっくりするほど売れなかったし、原作者とケンカして某出版社を出入り禁止になった。

 いまの仕事は楽しい。できれば続けたい。でも自分に特別な才能がないのはわかっている。あたしよりずっと巧い人たちでさえ、大して稼げてないという現実も。

 だからって、携帯ショップの店長かあ。

 亡国の姫君からの華麗なる転身。

 そして普通に恋愛したり、結婚したり。

 あははと、ハナは声に出して笑った。

 脳裏に信乃が浮かんだからだった。信乃を恋愛対象に考えたことは一度もなかった。美男子で誠実で、パートナーの候補としては申し分ないのに。

 ハナは首を振った。

 ないない。それだけはない。

 あたしは男性アレルギーだし、だいたい信乃の方が断るだろう。恋人がいるのかどうか全然知らないけど。




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『大奥スパイミッション』 第1章「お江戸の電撃姫」


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 江戸西端にある新宿の夜景が車窓を流れていた。アール・デコ風のドコモタワーの背後は暗闇だった。とっくに閉まった新宿御苑は照明が灯っていない。

 ときは慶長十九年。関ヶ原の戦いから十数年が過ぎた。征夷大将軍に就任した徳川家康らが支配を確立し、この列島はようやく永続的な平和を取り戻そうとしている。

 いまのところは。

 ショートボブの髪をミニツインテに結ぶ女が、満員電車でドアに押しつけられながら、アイフォンでアニメを見ていた。『とある科学の超電磁砲』など、お気にいりの作品は全話ダウンロード済みで、いつでも鑑賞できる様にしてある。画面では主人公の御坂美琴がスターバックスかどこかのカフェで、放課後なので制服のまま友達とおしゃべりしている。

 女は涙ぐんだ。二次元の少女たちが羨ましくて仕方ない。特殊な環境で生育したこの女は、教育機関へ通った経験がない。だから学校帰りに友達とクレープを食べるとか、そういう仲睦まじい青春の一場面を見るたび、憧れと嫉妬で胸が締めつけられる。あたしもJKになりたい。制服で友達と街を闊歩したい。二十一歳の女は痛切に願うのだった。

 女は唇を噛んだ。現実世界で異変がおきた。ネットフリックスのアプリを終了させた。

 黒のミニスカートごしに、尻を触られていた。痴漢だ。女は車窓に映る男の顔を見た。白髪で、皺が刻まれている。六十代後半だろうか。背はさほど高くない。コーデュロイの洒落たジャケットを着ている。

 車輌が速度を落とした。新宿駅へ入ろうとしている。老人の右手はスカートの内側へ侵入した。

 来やがったな。

 里見ハナはほくそ笑んだ。老人が自分に狙いをつけたのは、職場近くの代々木駅のホームで気づいた。慎重に品定めしてからターゲットを選ぶのが痴漢の習性だ。勿論やつらは、捕まれば必ず「ほんの出来心でした」と弁解する。

 嘘っぱちだ。

 やつらは絶対、衝動的に行動しない。ターゲットを選定する時間も、快楽の大事な要素だからだ。若く性的に魅力的で、決して反抗しそうにない女をじっくり探す。なのでハナは自分が狙われてると悟ったとき、わざと目を伏せ、もじもじと気弱にふるまった。

 なにしろ痴漢狩りが、彼女の趣味みたいなものだった。ミニツインテやニーソックスなど、二十一歳にしてはやや幼い格好は、敵をおびき寄せる餌だった。童顔なので似合ってはいるが、年齢的にギリギリなのは自覚していた。でもおかげで月に二三回は痴漢を私人逮捕できる。

 ハナはアイフォンを後ろ手に回し、フラッシュを焚いて老人の犯行を撮影した。なにはさておき証拠固めだ。事件において物的証拠に優るものはない。

 ドアが開いた。ハナはホームに降りて振り向く。チェックのシャツをつかみ、老人を銀色の車体へ押しつける。アイフォンを老人の眼前に掲げ、撮ったばかりの写真を見せつけた。

 ハナは言った。「ちょっと事務室で話そうか」

 老人は無表情だった。薄笑いを浮かべる様にも見える。どうでもいい。性犯罪者の感情を慮る必要などない。泣き出したり、激昂することもある。意味はない。重要なのは、こいつらが卑劣な犯罪者であるという客観的事実だけだ。

 駅員が駆け寄ってきた。ハナを見て顔をしかめた。

 駅員が言った。「またあんたか」

「またとはなんだよ」

「先週捕まえたお武家さんは、偉い旗本だったよ。あとで俺が上から怒られた。ひどい目にあった」

「知るか。あたしは被害者なんだ。さっさと連れてけ」

「やれやれ、困ったもんだ」




 ハナと老人は駅員に先導され、人混みを掻き分けてコンコースを進んだ。「痴漢は犯罪です!」と書かれたポスターが目に入り、ハナは鼻で笑った。まったく警察の努力には頭が下がる。痴漢が犯罪であるという斬新な法解釈を、わざわざ一般市民に教えてくれるのだから。

 狭い事務室の四人掛けのテーブルで、ハナはどかりと腰を下ろした。向かいに老人が座った。やはりポーカーフェイスだった。ハナはすこし嫌な予感がした。

 事務室はキャビネットやパソコンがならぶ、雑然としたオフィスだった。オレンジ色のAEDのケースが壁に掛かっている。ほかに駅員はいない。

 五分ほどして、くたびれたコートを着た大柄な男が入ってきた。剣帯に刀を二本差しするだけでなく、手に別の大小を携えていた。無精髯を生やしたむさ苦しいなりだが、いちおう武士であるらしい。眼光鋭い男は、黒い手帳を駅員に見せた。徳川宗家の三つ葉葵の紋があしらわれている。駅員は驚き、求められるまま事務室から出ていった。

 大柄な男がテーブルに大小の刀を置いた。老人はかるく頷き、感謝の意を示した。

 痴漢に武器が提供された。

 頭蓋骨がひび割れそうな音量で、ハナの脳内で警報が鳴っていた。これは罠だ。

 あたしはハメられた。

 おだやかな微笑を浮かべ、はじめて老人が口を開いた。

「ワシらは御庭番だ。上様に直属する秘密警察だ……ああ、上様とは将軍である秀忠公のことだ」

 ハナは言った。「弁護士を呼ぶ」

「だから秘密警察と言うておろうに。権利を主張する相手をまちごうとる」

「うるせえ、クソジジイ」

 老人はジャケットからセブンスターの箱を出した。大柄な男がライターで火をつけた。大柄な男の両手に、剣術修行のせいか分厚いタコができている。普通タコは左手のみにできるから、両刀使いかもしれない。

 無遠慮に煙を吐き、老人が言った。

「先週の金曜、この駅で痴漢の冤罪事件がおきた。巻きこまれたのは幕府上層部にいるお方だ。大層ご立腹でな、濡れ衣を着せた女を探せとワシらに命令がくだった。そやつの残した連絡先は嘘だったのでな」

「あたしに関係ない」

「まあ聞け。くだらん仕事と思いながらも、ワシらは捜査をはじめた。すると興味ぶかい状況が浮かび上がった。調べがついただけでも、その女は二十以上の事件に関わっている。只者ではない。痴漢が有罪か無罪かはともかく」

「てめえが痴漢したのは事実だろうが!」

「そのとおりだ。試させてもらった。女、お前は腕がいい。それに……」

 そう老人が言いかけると、隣に立つ大柄な男がテーブルに身を乗り出し、ハナの顎をつかんだ。上下左右にうごかし、あらゆる角度から顔立ちを値踏みする。

 野太い声で大柄な男が言った。

「それに、顔も悪くない。薄化粧だが見れるツラだ。これなら高値で売れるだろう」

 ハナは両方の手のひらを下へ向けた。はげしい痒みが走っていた。男性アレルギーのせいで、あっという間に蕁麻疹がひろがった。さっきの車内みたいに「触らせてる」ときは問題ないが、同意なく「触られる」と発症する。

 ハナの苦しげな様子を見た老人が、大柄な男に言った。

「宮本、すこし外してくれ」

「お楽しみを独り占めするつもりか」

「売り物に傷はつけんよ」

「どうだか」

「御台所様から、この件は内密に進めろとお達しが出ている。大奥の内部情報を多くの耳に入れられないのでな」

「ふん」

 宮本と呼ばれた男は鼻息荒く事務室を出て、大きな音を立ててドアを閉めた。

 煙草の灰をタイル床に落としつつ、老人が言った。

「すまんな。あれは諸国を放浪している牢人だ。用心棒としては役立つが、無作法なのには閉口する」

「一体あたしになんの用だ」

「察しはついてるはずだ。工作員として雇いたい。断れる立場ではないのもわかるな」

「だれがてめえなんかのために」

 口調は攻撃的だが、ハナは内心怯えていた。徳川幕府は、尋問や刑罰の苛酷さで悪名高い。とはいえ御庭番だかなんだか知らないが、こんな胡散臭い連中に協力するのは御免だ。できるだけ会話を引き延ばし、逃げる隙を見つけたい。

「そう強情を張るな」老人が言った。「いまの生活に満足か? 痴漢を捕まえて鬱憤を晴らしても、結局虚しいだろう」

「痴漢はゴミクズだ」

「ははっ、勇ましいな」

「クズなのはてめえも含めてだ」

「女には女の生き方がある。お前はそこから逃げている」

「説教はやめろ。なにが工作員だ。わけわかんねえ」

「任務は潜入調査だ。女しか入れない場所でな」

「大奥か? さっきから言ってる」

 老人は薄気味悪い笑みを返した。吸い終わった煙草を床に捨て、あたらしい一本に自分で火をつけた。あきらかに勿体ぶっている。国家レベルの重要機密にアクセスできる身分を誇ってるらしい。

 冗談じゃねえと、ハナは内心で毒づいた。

 江戸城の大奥と言えば、将軍の子供を産んで育てるための機関だ。男に触られただけで蕁麻疹が出るあたしにとっちゃ、むしろ死んだ方がマシな職場だ。

 狭い事務室に毒ガスを充満させつつ、老人が言った。

「大奥では派閥抗争がおきている。御台所様は心を痛めておいでだ。お前の役目は、ある側室に近づいて弱みを握ることだ」

「だれだよ」

「お雪という女だ。美貌の誉れ高いが、近頃は上様の御寵愛をいいことに、政治にまで口出しをしよる……」

 老人は饒舌だった。フィクサー気取りで自惚れている。実はハナはお雪を個人的に知っており、話の内容に関心があった。しかし、逃走のチャンスはいましかない。

 ハナはテーブルを蹴り上げた。老人の二本の刀が床に転がる。ハナは両手をグレーのパーカーの袖に挿し入れる。左右四本づつ、棒手裏剣を仕込んであった。

 久留里流忍技【千鳥】。

 八本の手裏剣が同時に老人へ襲いかかった。南総で暗躍した忍びの集団「久留里衆」がつかう忍技を、ハナは一部伝授されていた。プロではないが、その真似事くらいはできる。

 老人は両腕で頭部を守った。手裏剣のほとんどがコーデュロイのジャケットを貫いた。ハナはその一本を引き抜き、老人の左目に深々と突き刺した。

 タイル床で七転八倒する老人に、ハナは唾を吐きかけた。

 くそったれ。尻を触られた報いにゃ不十分だが、ちょっとは気が晴れたぜ。

 ハナは五感を研ぎ澄まし、ドアの方を観察した。新宿駅のコンコースの雑踏が、以前より遠ざかった気がする。おそらく宮本と呼ばれた男が、抜刀してドアの外で待ち構えている。

 これは直感でしかない。でもいまは、おのれの直感しか頼れるものがない。

 壁にかかるオレンジ色のケースから、ハナはAEDを取り出した。マニュアルモードに切り替えて起動する。これで心電図解析をしないでも電気ショックをあたえられる。

 ドアの方からかすかな金属音が響いた。宮本がノブに手をかけたにちがいない。

 ハナは電極パッドをノブに貼りつけ、放電ボタンを押した。ウッという呻き声のあとドアが開き、宮本が内側によろけてきた。宮本は抜き身の刀を杖代わりにして堪えた。憤怒の形相でハナを見上げている。

 ハナは黒のニーソックスを履いた右脚を振り上げ、宮本の顔面を全力で蹴りつけた。

 宮本が仰向けに倒れたとき、すでにハナはコンコースの人の波を泳いでいた。スラロームをするスキー選手の様に速い。

 息を弾ませながら、ハナはつぶやいた。

 さっきのあたし、御坂美琴みたいでカッコよかったんじゃね? お江戸の電撃姫って名乗っちゃおうかな。




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『殲滅のシンデレラ』 最終章「ガラスの靴」


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 アヤはイオリを引き連れ、無人のゲームセンターを歩む。ビデオゲームやクレーンゲームなどの筐体が、にぎやかな光と音を放つ。

 地上では米兵が襲撃してきたらしい。ユウキがひとりで応戦するあいだ、イオリが支援要請しにシェルターまで降りてきた。

 ブツン!

 明かりが消え、ゲーム筐体の電源が落ちた。

 停電だ。

 ドタンバタンという騒音と、イオリらしき悲鳴が闇に響きわたる。

 じきに給電は復旧し、明かりが灯る。

 左のクレーンゲームの脇で、異変がおきていた。迷彩戦闘服を着た兵士がイオリを抱きかかえる。別の兵士が、FN・SCARアサルトライフルをこめかみへ向ける。目を見開いてイオリは震える。

 正面の出入口付近に、兵士六名が展開している。ヘルメットに装着された暗視ゴーグルを外す。アヤに照準を定めなおす。

 アメリカ海軍特殊部隊SEALSの、チーム5だ。長崎の佐世保基地から派遣された。

 指揮官らしき四十歳くらいの白人が言う。

「勝負ありだ、ブラッディネイル」

 抑揚のない口調だ。ひたすら事務的に任務遂行しようとしている。

 つまり、知りすぎたアヤを問答無用で殺す。

 指揮官が続ける。「その靴を脱げ」

 シャドウがガラスの靴に宿るのを知っている。

 アヤは鼻を鳴らす。

 さすがは米軍というべきか。感心する。混沌とした状況で、よく部隊間で情報共有できるものだ。

 応じるしかない。

 正面の六名は、舞踏術をつかえば斃せる。しかし確実にイオリは撃たれる。逆にイオリの救援を優先すれば、ふたりともやられる。敵の戦術は、これしかないと言えるほど合理的だ。

 アヤは左右のガラスの靴を脱ぐ。

 降伏するつもりはない。それを受諾する気配はあちらにない。交渉の余地はない。

 アヤはガラスの靴をもちあげ、石目調の床へ叩きつける。ばらばらに砕け散る。

 敵の虚をついて左へ走る。イオリの隣に立つ兵士のSCARを、強引に両手でもちあげる。銃床で下顎骨を割る。イオリを羽交い絞めする兵士の脛骨を、黒ソックスを履いた足の裏で折る。

 アヤは優雅な動作でひるがえる。出入口にひろがる六名を、SCARの射界におさめる。

 呆然とする指揮官が、なぜかこちら側へむかって吹き飛ぶ。背後にユウキがいた。指揮官を後ろから蹴った。ユウキは別の兵士を突き倒し、左右のふくらはぎを自分の両脇ではさむ。

 演武術【ジャイアント・スイング】。

 風を切って人体をふりまわし、ハンマーがわりにする。米軍が誇る精鋭を薙ぎ倒してゆく。最後に窓ガラスにむけて放り投げる。哀れな兵士はガラスを突き破り、大通りの歩道へ転がる。

 ウィンクしながらユウキが言う。

「これでおあいこだな。道玄坂で助けてもらった借りは返したぜ」

「自分でどうにかできたけど」

「はいはい」

「ワイズはどうなったの」

「兵隊に連れてかれたわ。まあ、もういいだろ。あんなクズがどうなろうが」

「ありえない」

 アヤは靴下のまま、店の外へ飛びだす。




 久世橋通は戦場になっていた。

 阪神高速道路が炎上している。SEALSが乗ってきたブラックホークを、空自のF-2戦闘機が撃墜した。ほかにもコブラなどの軍用ヘリが飛び交い、火器管制レーダーで敵を追跡する。

 日本の政府高官は一部が死傷し、のこりは雲隠れした。それでも国防・情報・治安維持関連の組織は連携し、おのおのの義務を果たしている。

 アヤは、回転翼による突風でなびく髪をおさえる。周囲をみまわすが、ワイズは見当たらない。夜間の探索は困難をきわめる。

 脳裏の閃きにしたがい、アヤは西へむかう。ちょうど念天堂の社屋がある方向だ。

 三叉路の真ん中に、迷彩戦闘服を着た約十名の集団を発見する。ふたりがアヤへSCARをむける。暗視装置をそなえる分、主導権は敵にある。

 アヤはかんがえる。

 SEALSの目的はなんだろう。どんな命令が出ているのか。

 彼らは人間だ。心をもたない機械ではない。無意味な任務は拒否することもある。

 自衛隊の防空警戒網をすり抜けて浸透するのは、米軍にとっても危険な作戦だ。実際ブラックホーク二機が撃墜された。

 彼らの目的は大統領救出じゃない。

 端から死ぬ気の人間を、助ける意味はない。

 アヤの胸が疼く。あの兵士たちが命を懸けた理由がわかった気がする。

 口封じだ。

 世界にアメリカを断罪させないために。

 SEALS隊員が、SCARをワイズへむけて構える。最高指揮官を永遠に沈黙させようとする。

 舞踏術【リエゾン・ド・ピルエット】。

 チャイコフスキー風の躍動的なリズムにのり、アヤは爪先立ちで連続回転する。

 ガラスの靴を割ったので、もう超人的な身体能力を発揮できない。しかし心は自由になった。敵を殲滅するまで止まらないロボットではない。

 これでいい。

 だって闘いは即興だから。

 SEALS隊員が発砲する。あたらない。いくら百戦錬磨の彼らでも、流麗なステップをふむダンサーと対峙した経験はない。

 アヤはハンマーフィストと踵で、敵八名の防護されてない部位を打つ。

 南区の三叉路は、兵士たちの眠るベッドとなった。

 虚ろな目のワイズが、アスファルトに膝をつく。

 爪を黒く塗った指を突きつけ、アヤが言う。

「おしまいよ。あなたの卑劣な計画は」




 二時間あまりが経過した。

 アメリカ海軍の原子力潜水艦アラバマから、トライデントミサイルが一分おきに発射され、零時ちょうどに京都市の四か所で爆発した。

 衝撃波で、ほぼすべての建造物が崩壊した。京都タワーも清水寺も金閣も京都御所も、なにもかもが。熱線は自動車さえ飴の様に溶かし、うつくしい山並みを焦土に変えた。鴨川の水が沸騰し、泳いでいたアユは煮魚となって浮かんだ。

 官民協働の避難活動により、人的被害は最小限にとどまった。だが全員は救えなかった。ペットなどの喪失も、ひとびとの心に傷をのこすだろう。




 アヤはエレベーターに乗る。

 死の灰などの放射能は恐ろしいが、シェルターに閉じ籠もっていられない。

 地上は一面、底なしの闇だった。

 ただ燃えのこる木造建築が、無残に破壊された古都のシルエットを浮かび上がらせる。

 まさに焼け野原だ。

 冷気がアヤの背筋を駆け上る。暴力のすさまじさに震える。

 瓦礫と化したゲームセンターの跡から、ユウキがあらわれる。ワイズの髪をつかんで引っぱる。

 ワイズの耳許でユウキが叫ぶ。

「どう責任とるつもりだ、あぁ!?」

 ワイズは返答しない。月明かりに照らされた表情は、少女たちより血色が悪い。死相というやつだ。ワイズは現実を受け容れられない。ひとりで背負うには重すぎる罪だから。

 もしトルーマンが、原爆投下直後の広島と長崎をおとづれたら、おなじ反応をしたろう。

 ユウキはワイズを突き倒す。横たわるワイズの腹部を蹴る。サンドバックより手応えがない。怒りはおさまらず、馬乗りになって顔面を打つ。ユウキは半狂乱となり、なにごとか叫びつづける。

 ユウキの肩に手をおき、アヤがやさしく言う。

「それくらいにして」

「うるせえ」

「ワイズを殺しちゃいけない」

「はぁ!?」

「東京へ連行して、裁判をうけさせる。この人の狂気と愚行を、公的記録にのこす必要があるの」

「知るかよ」

 アヤは両膝をつき、ユウキと目をあわせる。

「私はここに残って、避難と復興を手伝う。ユウキはワイズを護送して」

「なんであたしが」

「アメリカ政府はきっとまた妨碍してくる。あなた以外に頼める人はいない」

 ユウキは首を振りつつ立ち上がる。

 深呼吸する。

 ユウキは内心、アヤの冷静さに舌を巻いていた。この絶望的な光景を目の当たりにして、裁判の心配をするとは。癪なので口に出して言わないが、天性のリーダシップを感じた。

 一方アヤは、唾を飲みこむ。

 ユウキに対し、ひとつ言わねばならないことがある。でもアヤは、だれかに謝罪した経験がない。他人に負い目を感じたくないから、つねに完璧であろうとつとめてきた。

 上目遣いでアヤが言う。

「あの、私」

「なんだよ」

「四条駅でのこと、ユウキに謝らなきゃ」

「いまさらだな」

「本当にごめんなさい。友達に裏切られたと知って、あなたは深く傷ついたはず」

 この世の終わりみたいに思いつめた表情で、アヤは言葉をしぼりだした。

 ユウキは苦笑いする。

 このお嬢さまは、人に頭を下げるのが嫌でしょうがないらしい。どんだけプライドが高いのか。

 まったく、おかしなやつだ。

 ユウキはアヤを完全には許してない。化学兵器の攻撃に友人を巻きこむなど、まったく理解できない。とはいえユウキは物事にこだわらない性格なので、この件をしつこく追及する気もなかった。

 一度ケンカしたら、あとは水に流すだけ。

「考えあってしたことだろ」

「でも」

「お前のまっすぐなところ、嫌いじゃないぜ」

「ユウキ」

 アヤは目を潤ませ、笑顔をみせる。こんな可愛げのある表情ができたのかと、ユウキは驚く。




 背後で、だれかのすすり泣く声がした。

 アヤがふりむくと、黒のセーラー服を着たイオリが、両手で目をこすっている。イオリは感受性がするどく、甚大な被害に動揺している。息切れをおこし、ふらつく。いまにも失神しそうだ。

 アヤはイオリの細い肩を抱く。頬が触れるほど密着し、ささやく。

「イオリ、気を強くもって」

「ボクたちの努力はムダだった」

「そんなことない」

「ひどすぎるよ。カオリさんの最期の姿が思い浮かんでつらくて……」

 カオリとは、嵯峨野での戦闘で散った京娘セブンのリーダーのこと。イオリは彼女に思い入れがあるらしい。アヤの胸は嫉妬でちくりと痛む。

「やるべきことは、まだたくさんある。私に力を貸して。一緒にこの街を復興させましょう」

「なに言ってるの。見渡すかぎり焼け野原なのに」

「私にはあなたが必要なの」

「ボクにはできない」

 ますますイオリは声高く泣く。アヤのきわどい発言には無関心のまま。

 この美少年のセンサーは、男女のことがらについてはまるで機能しない。

 アヤは覚悟をきめる。ユウキがそばで聞き耳を立ててるが、恥づかしがってる場合じゃない。

 大きく息を吸い、アヤが言う。

「ちゃんと話を聞いて」

「なに」

「私の目をみて」

「みてるよ」

 イオリのつぶらな瞳が、満天の星の光をうけてきらめく。呼吸がとまるほどうつくしい。

「私はイオリのことが好き」

「ボクも好きだよ」

「愛してるの」

「えっ」

「私の恋人になって」

「どうしたの。ボクはこんなだし、とてもアヤちゃんに釣り合う人間じゃ」

 そう言ってイオリは、スカートの裾をつまんではにかむ。その仕草が可憐で、アヤは飛びつくのをこらえるのに苦労する。

「イオリ。これは私のはじめての告白なの。フッてもいいけど、真剣にうけとめて」

「そんな。アヤちゃんをフルなんて」

「じゃあ恋人になってくれる?」

「困るよ。ボクたちはまだ高二なのに」

 イオリは指先をもてあそび、身をよじる。

 埒があかない。

 アヤは、イオリのなめらかな頬を両手ではさむ。わづかに背伸びし、口づけする。

 苦しくなって息継ぎのため、ようやく唇を離す。

 イオリがもたれ掛かる。アヤはきつく抱きしめる。

 アヤはひとりごつ。

 おもわず衝動的に告白してしまった。いきなりキスまでした。私らしくない。

 いや、そうでもないかも。

 私はうつくしいものが好きだ。だから文学作品を愛好し、美術館へかよっている。

 顔がいいから男子を好きになって、なにが悪い。

 たしかに自分の過去の発言と矛盾している。恋愛はおたがいを高め合う関係であるべきと、数時間前に旅館でユウキに豪語したばかりだ。

 何年も昔におもえるけれど。

 まあ、イオリの善良さとか尊敬してるし、きっとつき合ってるうち、いい感じになるとおもう。

 闇のなかで薔薇色に頬を輝かせ、イオリが言う。

「あの、ボク」

「なあに」

「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」

 アヤは星空を見上げる。

 思い描いてた恋愛の形とちがうけど、こんなハッピーエンドがあってもいいんじゃないかな。

 ねえ、デレちゃん。




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苑田 謙

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