うつくしき妥協の産物 ― 『アイアンマン』をみて

アイアンマン
Iron Man
出演者:ロバート・ダウニー・Jr グウィネス・パルトロウ ジェフ・ブリッジス
監督:ジョン・ファヴロー
(2008年/アメリカ/125分)
冒頭の場面。
…って、オレはいつも映画の導入部から話をはじめてるな。
まあ作り手が一番力をいれるところだし、
すぐれたファーストシーンは、あとにつづくすべての場面を予感させるような、
その映画の象徴になることがおおい。
アフガンで軍高官に対する新兵器のプレゼンテーションをおえた帰りの、
軍需企業CEOのトニー・スターク(ロバート・ダウニー・Jr)が、
ハンヴィー(軍用の四輪駆動車両)のなかでわかい兵士たちと会話をかわす。

M1114ハンヴィー。
自虐ネタ、下ネタ、自慢、(女兵士に対しての)お世辞やらが、
若社長の口から自社のミサイルよりすばやくとびだして、
戦地にある若者の緊張をやわらげる。
兵器のプレゼンをする姿はカリスマ的で、
アップルCEOのスティーブ・ジョブズさながらだ。
ついに大企業の社長がヒーローになる時代がきてしまった。
わかくて、大富豪で、天才発明家で、見た目がよくて女にもてる。
しかもスーパーヒーロー。
まあ男の夢ですな。
運動能力に若干の不安をいだいてしまうが、
その辺は自作の戦闘用スーツでうめあわせる。
隙がない。
普通、映画の主人公は弱点をかかえていたり、
逆境におかれることで観客の共感をかちとるのだが、
トニー・スタークにその手の可愛げはまったくない。
しかし、演ずるロバート・ダウニー・Jrは饒舌なタイプの役者なので、
あふれだすセリフの洪水で、
反発心をもたれるまえに観客をまるめこむ。
うまいとはおもうけれど、あやうい綱わたりだ。
「トニー死ぬな!がんばれ!」と素直に応援しづらいオレがそこにいる。
くだんのハンヴィーはアフガンのゲリラに襲撃されるが、
兵器屋をまもるために応戦した兵士たちはどうだろう、
心のなかで疑問を感じながら死んでいったのではないか。
企業経営者に知りあいがいないので偏見かもしれないが、
かれらはたったひとりで悪とたたかうために命をかけたりしないとおもう。
このあつかいづらいヒーローを世話するためにやとわれたのが、
社長秘書ペッパー・ポッツに扮するグウィネス・パルトロウ。
うつくしくかつ有能で、通常業務の補佐以外にも、
おそらくトニーの自宅に同居し、私生活の管理までまかされている。
トニーがつれこんだ女を翌朝においだすのもかの女のしごと。
女に「ゴミすてもわたしの役目ですから」と嫌味をいったりして。
嫉妬心をほのかにのぞかせるグウィネスに、ひさしぶりにドキリとした。
ところで「グウィネス」って名前は日本語になじまないので、
これからは「パルさん」とよぶことにします。
そんなパルさんの、上司のまえでは女の顔は一切みせない、
マジメな勤務態度に好感をおぼえた。
ところがとびいり参加したパーティ会場で、
青いドレスをきた秘書のすがたにトニーは色めきだち、
かの女を強引にダンスにさそう。
「こんなドレスをきて、汗どめもつけずに上司とおどるなんて…。
同僚に絶対誤解されます、困ります」とあわてるパルさんがかわいい。
トニーが正義にめざめるにしたがって、
パルさんの衣装と態度がすこしずつ大胆になる。
あくまですこしずつ。
髪はアップにしたり後ろでたばねて、
かっちりしたスーツで身をつつんでいたのが、
次第に体の曲線がみえる服になり、ラストではノースリーブ。
綺麗なブロンドもみせてくれるように。
たたかう男にひかれて女が奔放になるのか、
女のもうひとつの顔をみたいがために男がたたかうのか。
いずれにせよ、寸どめのロマンスがエンジンとなって、
物語がじわじわと高潮してゆく。
極端にはしらないもどかしさに、あか抜けたセンスを感じる。
映画をみるかぎり、
トニーは経営上の雑務は幹部のオバダイアと秘書にまかせきりで、
自分は地下室で大すきな機械いじりに没頭。
そして地下室には秘書しかはいれないので、
実質的に経営者としての窓口はパルさんだけということになる。
だから、会社がオバダイアに支配されていたこともしらず、
痛い目にあうのもあたりまえだ。
それに女あそびの後始末を女秘書にさせるなんて趣味がわるいよね。
あまったれのダメ男という気がする。
パルさんもパルさんで、重用されるのをいいことに、
ダメ社長に意見ひとついわず忠節をつくしたのは問題だ。
出世のためにわりきっていたのかもしれないけれど。
パルさんはわすれがたい『セブン』のヒットと、
共演者であるブラッド・ピットとの婚約およびその解消の話題で、
一躍セレブの仲間いりをはたした。
その後は大女優を意識したような発言と作品えらび、
さらには本人の中途半端な演技力が原因で、
生ぬるい職歴をつんでいるようにおもえる。
「アクション映画のおバカなヒロインなんてやってらんないわ」
とおもっていそうなパルさんの最新作は、典型的なアメコミ超大作。
子どもがうまれて職業観がかわったのだろうか。
でもかの女のぬきがたく地味なひととなりは、
アクション映画の脇役のほうが映えるような気がする。
そんな年相応の妥協のおかげで、
大人のロマンスと派手なアクションが一度にあじわえる傑作がうまれた。
男も女も、そして発明家もCEOも兵士もハリウッド女優も、
毎日妥協をくりかえしながら人生をいき、
恋をしたり人をころしたり世界をすくったりする。
そう、大人だから。
なんてすばらしいことだろう。
神の声を織ったタペストリー ― 『ウォンテッド』をみて

ウォンテッド
Wanted
出演者:ジェームズ・マカヴォイ アンジェリーナ・ジョリー モーガン・フリーマン
監督:ティムール・ベクマンベトフ
(2008年/アメリカ/110分)
[新宿プラザ劇場で鑑賞]
素顔という假面をかぶり、まったく別の人格としてふるまう。
そして「アクション!」のかけ声のあと、カメラのまえではじまる猿芝居。
そんなわけのわからない自分のはたらき如何で、
ウン千万、ウン億ドルの投資が水の泡ときえることもある。
役者という商売のことなんですけどね。
まともな神経ではつとまらない稼業だ。
見聞をもとにいわせてもらうなら、芝居のうまい役者に「善人」はいない。
毎日嘘をつきつづけることで生計をたてる職業なのだし。
で、オレがアンジェリーナ・ジョリーが苦手なのは、
多分かの女がいい人だからなのだろう。
いそがしい日程の合間をぬってユニセフの親善大使をつとめる、
黒柳徹子級の感心な芸能人でもある。
でも大根なんだよね。
顔だちが派手すぎて周囲との均衡をみだすことが多いし、
繊細な感情を表現することも不得手だ。
オレは性格がわるくても、演技のうまい役者がすきです。
かれらとつきあうのはスクリーンの前だけなのだし。
『ウォンテッド』でもアンジーさんは、いつもとおなじ巨大な目、
ぽってりした唇、自己主張がはげしすぎる肢体。
あたりまえだけど。
だけどこの作品のアンジーはよい!
だって全然しゃべらないんだもの!
立っているだけで十分存在感があるから、セリフなんていらないのです。
クールな立ちまわりに専念してくれたおかげで、安心感がある。
かの女の出演作ですきなのは『トゥームレイダー2』なのだけど、
職人ヤン・デ・ボン監督はあの作品でも、
アンジーから無理に感情表現をひきだそうとしなかった。
要するに適材適所ってこと。
超リアルなCGだとおもえば、
だれが何といおうとアンジーさんの肉体は一級品です。
しかし、脇役がしゃべらなければ物語はすすまない。
そこで登場するのが神の声をもつ男、モーガン・フリーマン。
ここぞという場面で長広舌をふるい、活劇に奥ゆきをあたえます。
演説する場はみっつ。
・主人公を暗殺者の組織に勧誘
・本作のウリである「まがる弾道」の解説と実演
・大団円で、部下を煽動
ホントうまいなあ。
荒唐無稽な筋書きも、モーガンの口からかたられると真実としてひびく。
まるで芳醇なワインを舌さきでころがすように、
ことばが不思議なリズムと色あいをもって流れだす。
じわじわと作品世界のなかに引きこまれる。
かれの存在で、B級映画がAとBの中間くらいに格上げされた。
アンジーの体とモーガンの声が、優雅なハーモニーをかなでる。
監督はティムール・ベクマンベトフ。
こちらの記憶力に挑戦するかのような名前だ。
上記のふたりへの演技指導でもすでにただ者でないことがわかるが、
作品全体でも演出の趣向がゆたかでおどろかされる。
本作の土台は1999年の『マトリックス』と『ファイト・クラブ』だろう。
抑制のきいた殺陣と映像美は『マトリックス』。
その一方で、突発的な暴力と巧妙な仕掛けは『ファイト・クラブ』。
まあ今世紀初頭の映画の教科書どおりにつくりました、
という見方もできるかな。
旧ソビエト・カザフスタンうまれの監督は、縦糸と横糸を丁寧に織りかさねて、
精緻なタペストリーをつくりあげた。
織物の中心となる主役についてかたっていなかった。
ジェームズ・マカヴォイは、はじめは気弱でうだつの上がらないサラリーマンで、
冒頭のおデブの女上司の鬱陶しい誕生会の場面から、
滑稽な演技で観客の心をがっちりとつかんでいた。
そこから、ネズミ爆弾で敵のアジトに突入する最後の大立ち回りまで、
ゆるみなく突っ走る熱演だったとおもう。
最近のアクション映画は大抵ラストシーンにちかづくにつれて失速し、
結局だれとたたかっていたのかすらわからなかったりする。
本作のジェームズ君は、精強な組織、極悪非道のボスを相手に、
最後までたたかいぬいたというだけでもエライ。
『ウォンテッド』は、本年度マイベストテン入選確定の傑作だ。
超大作ミートボールスパ ― 『ハンコック』をみて

ハンコック
Hancock
出演者:ウィル・スミス シャーリーズ・セロン ジェイソン・ベイトマン
監督:ピーター・バーグ
(2007年/アメリカ/92分)
[新宿ジョイシネマ3で鑑賞]
※注意!本エントリもさりげなくネタバレしています!
いきなりで申しわけありませんが、インタビューからの引用です。
君の言う通り、本当に毎日ものすごい量の映画の脚本が送られてくるんだ。
その中から、「これ!」という一本を選ぶのは大変なんだけど、
いつも探しているのはビッグなアイデアだね。
セリフを一つ言えば、どんな人でも観たくなる……そんな映画だよ。
例えば『ハンコック』なら、“アル中のスーパーヒーロー!”(笑)。
この一言を聞いただけで、人はこの映画を観てみたくなる。
わかるだろ?
『アイ・アム・レジェンド』は、“地球最後の男”。
すぐにでも人の興味を引き付ける。
だから作品を選ぶときは、必ずコンセプトを大切にしてるんだ。
『ハンコック』ウィル・スミス 単独インタビュー
2007年のハリウッドの稼ぎ頭であるウィル・スミス(「フォーブス」調べ)。
世界中の俳優の嫉妬を一身にあつめる境遇にあるわけだが、
脚本の山にうずもれて生活するのも楽ではないかもしれない。
どの話がオレの個性にあってるかな?
ヒットする可能性がたかい脚本はどれかな?
おもしろい作品になりそうなシナリオは?
わかるわけがない。
東京の低収入者であるわたくしも結構ながく映画をみてますが、
何度も予告編をみて、ヤフーのユーザーレビューを熟読しても、
劇場にゆくまで作品の出来なんてわかりません。
ましてや、ただの紙っぺらでその判断をつけるなんて!
「コンセプト」重視で脚本をえらぶスミス氏ですが、
すこしかんがえすぎなような気がします。
かれの友人であるトム・クルーズ氏が、
サイエントロジーとかいう新興宗教にはまっているのは有名ですが、
親しいスミス氏までとばっちりをうけて信仰をうたがわれたりしました。
いろいろとハタ迷惑な性格のクルーズ氏ではありますが、
この人の出演作をえらぶ感覚のするどさは神がかりです。
「トム・クルーズが殺し屋? え〜、大丈夫かな」と半信半疑で出かけたあと、
そのあまりのカッコよさに酔いしれながら映画館を後にしたり。
多分直感でえらんでいるのでしょうね。
本作のウィルは「アル中のスーパーヒーロー」に扮しているが、
残念だが到底ハマリ役にはみえなかった。
たしかに興味ぶかい「コンセプト」ではある。
超人的な能力の持ちぬしが、せせこましい人間社会に適応できるだろうか。
おそらくもの珍しさゆえに疎外され、結局いじけた性格になってしまうはず。
それでも広報の専門家をやとってメディア対策をおこなえば、
まっとうなスーパーヒーローに更正できるかも。
うーむ、すでにこの四行で理念だおれの気配が…。
それに自分がお酒がすきだからわかるのだけど、
四六時中ダラダラと酒をのんでくらしていたら、
ウィルみたいな引きしまった肉体は維持できません。
周囲から白眼視されるあまり性格が卑屈になったという設定も無理がある。
なぜって、この役者は愛嬌がありすぎて嫌われ者にみえないんだもの。
そういう意味では『ハンコック』の台本は、
ジェイミー・フォックスの手もとにとどいた方がよかったかな。
シャーリーズ・セロンの役は、さえないPRマンの奥さん。
アメリカ合衆国に足をふみいれたことはないが、町内に身長177cmで、
モデル体形の金髪美女の主婦がゴロゴロころがっていないことは断言できる。
シャーリーズ奥さまは、夕飯になんとかスパゲッティとかいう、
ミートボールがたっぷりはいったトマトソースのスパゲッティをふるまうのだが、
ママの自慢料理に旦那と子どもは大満足。
だけど、これがまたマズそうなんだ!
なんでもミートボールスパはかの国の定番メニューだそうで。
ボク、日本のお母さんに産んでもらってよかったよ。
とはいえ、南アフリカがうんだ名花シャーリーズと、
アメリカの大味な家庭料理という取りあわせはなかなかの珍味。
そして、かの女も超人だと判明したあとのドタバタが一番おもしろかった。
本当は怪力のくせに、「ジャムの瓶があけられないわ」とかいって
非力アピールする女心がかわいらしい。
本作は『Mr.&Mrs. スミス』を意識してたてられた企画だとおもうが、
紋切り型のアクション場面をほどほどにおさえてオシャレなコメディにしあげた、
ダグ・ライマン監督の職人藝までは見ならわなかったようだ。
どこかでみたようなCGと、いい加減な殺陣に上映時間をくわれて、
役者同士の掛けあいによる芝居のうま味が犠牲になった。
コンセプトや配役はわるくないのだが、
素材がミートボールのように皿の上にころがっている感じ。
まあ、これが平均的なアメリカ料理の味なのかもしれないけれど。
ワインと欲望のカクテル ― 『コッポラの胡蝶の夢』をみて

コッポラの胡蝶の夢
Youth Without Youth
出演者:ティム・ロス アレクサンドラ・マリア・ララ ブルーノ・ガンツ
監督:フランシス・フォード・コッポラ
(二〇〇七年/アメリカ・ドイツ・イタリア・フランス・ルーマニア/百二十四分)
[渋谷シアターTSUTAYAで鑑賞]
円環をなしてはしる緑の山手線に二日酔いの体をねじこむ。
二週つづけて渋谷にゆかねばならないのか。
改札口からハチ公前広場にぬける。
ここのスクランブル交差点は世界で一番醜い土地だろう。
赤信号が芋でもあらうように人のながれを堰きとめ、
しばらくして拘留から解きはなたれた囚人たちは、
おのおのの欲望をみたすためにちらばってゆく。
渋谷には空白がない。
歩行者の目がとどく場所のすべてに広告がうめこまれ、
あらゆる企業が無駄な商品をうりつけてくる。
優秀なビジネスマンもさすがに空中は宣伝に活用できておらず、
九十度上をむいてあるけば看板をみないですむ。
人の足をふまないで目的地にたどりつく自信はないけれど。

109のとなりにAV女優・範田紗々の巨大広告があっておどろいた。
一応AV会社による性病予防運動の一環という名目でかけているらしい。
この町の堕落も底の方にゆきついたかもしれない。
別にAV女優がきらいなわけではないですよ。
むしろ大好物です。
でも子どもから「この女のひとだれ?」ときかれたら、
なんてこたえてあげればよいのですかね。
人があつまるから金があつまるのか、その逆なのかはしらないが、
渋谷は欲望の中心となっている町だ。
欲望とは、他人に接近したいとねがう衝動のこと。
まるでブラックホールのように人々はその重力にとらわれる。
町ゆく人は生きいそいでいるように見え、表情に余裕がない。
オレはビルケンシュトックのサンダルをふみしめながら道玄坂をのぼる。
ブンカムラの前から小道にはいり、ラブホテル街を突進する。
ええ、お一人さまで。
だって目あての映画館がここにあるんだもん。
最悪の立地条件だ。
ただでさえ女の人はひとりでは映画館にゆきづらいときくが、
これではますます足がとおのくはず。
恋人同士ならある意味便利かもしれないが。
いや、それはない。
よい映画をみて気分をたかめて、
記憶にあたらしい場面や役者の話をしながら食事をたのしみ、
そのあとでナニヤラするというのが正式な手順だろう。
映画の前にけばけばしいホテルの看板を目にしたら興ざめだ。
空白のない町では、まともな段どりをつけることは不可能なのか。
ソフィア・コッポラは、しったかぶりして東京が舞台の
映画をつくって恥をさらした人ですが、
本作はかの女のお父さんの十年ぶりの新作です。
それはともかく、パパ・コッポラの子ども二人が映画の道にすすんだことは、
オレにとっておおいなる謎だ。
親父はこの仕事で人生が破滅しかかったのに…。
とめろよ。
三回も破産した経済状況も悲惨だが、その精神においても、
首をつらないでよくぞここまで生きのびたという映画人生。
ところが一転、コッポラ父さん、
経営するワイナリーが成功して大富豪になってしまったとか。
おそらくその儲けをつぎこんで、うるさいスタジオ幹部の顔色を気にせずに、
やりたい放題につくったゲージュツ作品が本作。
だから作中で展開される神秘的な東洋学も胡散くさくおもえる。
いくら脱俗的なことをいっていても、
そういう映画をつくれたのは金もちになれたおかげじゃないの?
でも今どき藝術家の魂が自由にたわむれる作品など貴重なので、
その映像美を堪能してきましたよ。
エキストラの顔つきにまで緊張感がただよっていて、
主演のティム・ロスが医師役のブルーノ・ガンツと話しているあいだも、
うしろの看護婦がそれらしい仕草をしている。
「プロの看護婦だったらここではどんな反応をするかしら?」
普通は、やすい報酬で演技する役者はマジメに役づくりなどしない。
気がぬけていたり、逆に変に目立とうとしたり。
本作はコッポラ全盛期ほどの張りはないにせよ、
近ごろの映画ではめったにみれないような熱気が感じられる。
そして、ヒロインのアレクサンドラ・マリア・ララのうつくしさに圧倒された。
今風に小顔で痩身なのもよいのだが、笑顔に愛嬌があり、
機敏にうごくおおきな瞳にひきつけられてしまう。
かすれ気味の声、顔の左がわの黒子も素敵だ。
輪廻転生だかなんだかしらないが、
いろんな時代の人間の生まれかわりという超難解な役を上手に演じている。
この作品はあれだね、黒澤明の『生きものの記録』がやりたかったんだね。
年老いた工場経営者が、核戦争への恐怖をつのらせるあまり、
全財産を投じて家族総員でのブラジル移住を計画するという異常な物語。
一九五五年の作品だ。
第二次大戦〜冷戦と狂気の度合いをましてゆく一方の世界と並行して、
老人の生への執着心が常軌を逸してゆく筋書きはおなじ。
どちらも主人公のゆがんだ欲望と時代の暴力が、
見事にフィルムに焼きつけられている。
たしかに生命にしがみつこうとする老人の姿は不気味だ。
でも町とおなじで、キレイキレイだけでは藝術作品は成立しない。
なんにせよ、勝手気ままに映画をつくろうとすればするほど、
古典への傾倒があらわになってしまうのが
いかにもコッポラ調で、たまらない魅力がある。
なんですか、連想が強引すぎるとおっしゃるのですか?
この作品は「これからはゴダールをやる」という、コッポラの宣言である。
蓮實重彦
『コッポラの胡蝶の夢』公式サイト
でも、おもわず吹きださずにはいられないような、
いまだにゴダールへの夢をすてられない
元東大総長の老人のコジツケよりは何倍かマシですよ。
うつくしい映画はなんでもゴダールの影響かよ。
はっきりいいますが、コッポラが復活したのは単にワインが売れたからです。
wikipediaでの本作のページもハスミ信者の手によって歪曲されているようだ。
かつて自分はジャン=リュック・ゴダールになれたのに
ならなかったのだ、と発言したコッポラ。
息を呑むほど美しい画面と暴力的なまでの物語の
分断と再構築は二人の映画作家の共通点といえ、
コッポラにおいてその特徴が顕著に現れた作品が本作である。
いや、そんなこと全然ありませんから。
ゴダールの「分断と再構築」ってただのデタラメだし。
パパ・コッポラの古典趣味にもとづく編集の妙と一緒にしないでください。
ていうかこのページには、ゴダールのゴの字も書く必然性がありません。
時代おくれの狂信者どもの馴れ合いと我田引水は、
渋谷にたむろするギャルが裸足でにげだすほどの横暴さだ。
でも人間の肉体と同様に、ゴダール崇拝も
永遠の生を獲得することなどできないのです。
よい映画をみれたため、オレはすこし軽い気分で道玄坂をくだる。
うすっぺらい欲望が貼りつけられた町なみも、
コマネズミみたいな人の群れも受けいれられる気がする。
ビールののみすぎで頭は痛いままだけれども、
コッポラのワインに感謝しなくてはならないかな。
ラブホテルにつれてゆく同行者がいなかったことが唯一の心のこり。
悪をたずねて三千里 ― 『敵こそ、我が友』をみて

敵こそ、我が友 戦犯クラウス・バルビーの3つの人生
Mon Meilleur Ennemi
監督:ケヴィン・マクドナルド
(二〇〇七年/フランス/九十分)
[銀座テアトルシネマで鑑賞]
いい男だ。
ととのった知的な顔だちで、ハンサムといっていいだろう。
ナチス・ドイツの親衛隊中尉で、
フランスでの抵抗運動に対する過酷な弾圧ぶりから
「リヨンの屠殺人」とよばれたクラウス・バルビーのことだ。
悪役に魅力がないと映画はつまらない。
『ラストキング・オブ・スコットランド』という劇映画をとっているマクドナルドは、
バルビーの端正な顔にひかれて記録映画に着手したのではないだろうか。
娘もでてきて、インタビューで父親の弁護をする。
「屠殺人」なんて表現は本当の屠殺人に失礼だ、とか。
それはともかく、娘も相当な器量よしなのでおどろいた。
バルビーは三つの顔をもっている。
ひとつは親衛隊時代の「リヨンの屠殺人」。
戦後はアメリカ陸軍情報部隊に協力した工作員。
一九五〇年以降は、名前をかえてにげこんだ
ボリビアの軍事政権に対する助言者。
まえの二つの顔をさぐるために、
ヨーロッパでのバルビーの足跡をしるものに話をきくのだが、
正直にいって映画としてはこの部分がよわい。
でてくるのは歴史家やジャーナリストばかりで、
書物からえた知識をかたっているだけだからつまらない。
ナチスの直接の記憶はうすれつつあり、
記録映画も成立しづらくなっているようだ。
ただ、アメリカが真におそれていたのは共産主義であって、
ナチスなんかは兄弟みたいなものとみなしていたことがわかる。
そして「ソ連とたたかう」というのはあくまで名目で、バルビーの情報や人脈は
ヨーロッパ内における活動家をとりしまるために利用された。
さらにマクドナルドは悪役の影をもとめてアンデスの国にとぶ。
時代がちかいせいか、実際に交流があった人間もおおく登場して迫力がある。
ナチス高官のおおくは南米にのがれたのだが、
バルビーはその残党を組織して「第四帝国」を建設することを夢みていた。
アメリカ政府は南米の共産主義勢力をおさえるため、
各地の野蛮な軍事政権を陰に日向に支援し、
ナチスの残党を教師として独裁政治の手練手管をつたえさせた。
ゲバラよりはヒトラーの方がマシということだ。
マクドナルドがこの映画をつくった意図は、ナチスの告発ではなく、
「テロとのたたかい」の大義名分のもとに拷問を正当化した
近年のアメリカ政府を批判することにあるようだ。
わたしたちの世界の道徳の境界線はあいまいで、
灰色の部分がおおきいことをしらなくてはならない。
なるほど、でも納得できないな。
そんなお利口さんの映画という感じはしない。
映画では、試写会に有名人をまねいてそのコメントを宣伝につかう。
本作でもタダで映画をみた連中があれこれかたっているが、
もっとも取るにたらないのは、漫画家・小林よしのりのものだ。
どこにも正義はない。
だれにも理由がある。
毒をもって毒を制すという現実は、理想を軽く吹き飛ばす。
甘いことは言ってられない世界で、
それでも道義を貫く術があるのかを我々は試されているのだろう。
映画『敵こそ、我が友 〜戦犯クラウス・バルビーの3つの人生〜』公式サイト
正義はないけど道義はある?
カッコつけているだけで意味はまったくない。
「正義」と「道義」をいれかえて文を書きなおしてもなにもかわらない。
たしかにこの映画は、「正義はない」的な物わかりのよい主張がある。
でもそれだけじゃない。
そんなことをいうためにだれがわざわざアンデス山脈にゆくだろう。
そこには魅力的な敵役をえがきたいという映画作家の情熱がある。
悪にひかれるのは危険な性向にはちがいないが、
逆にいえば内心に正義が存在することの証明だ。
ファシズムとたたかう、共産主義とたたかう、テロとたたかう、
そのこと自体になんの問題があるというのか。
「なんだかんだいってアメリカも悪なんだよね」としったかぶりし、
目のまえの不正を見のがす心のよわさが、
結局悪党どもにつけこまれる原因となるのだ。
いつの間にかわすれられたウサーマ・ビン=ラーディンも、
どこかの隠れ家でほくそえんでいるにちがいない。





