美術館は無法地帯 ― 「ジョン・エヴァレット・ミレイ展」をみて

ジョン・エヴァレット・ミレイ展

会場:Bunkamura ザ・ミュージアム
(8月30日〜10月26日)


両親の
《両親の家のキリスト(「大工の仕事場」)》 1849-50年

会場にはいって数分後、《両親の家のキリスト》に心うたれた。

イエスたんギザカワユス(*´д`)

上の画像をクリックすれば拡大して見ていただけるのだけど、
やはりモニター越しではきびしいかな。
でもあやまって手に釘をさしてしまったイエスの表情が本当にかわいらしい。
やわらかな金髪、ほっそりとした首や顎の輪郭も可憐だ。
二十歳のミレーによる、このはじめての本格的宗教画は、
聖家族をなまなましく描きすぎたことで酷評されたそうだ。
マリアの表情がみにくい、とかなんとか。
しかし、美術史の知識がまるでないので無責任に想像するのだが、
当時の見物人がおこったのは、本作のイエスがかわいすぎるからではないか。
さすがにイエスさまに欲情するのはまずいだろう、と。
たしかに、心配そうなママにキスをする美少年の
口もとをみていたらだれでもドキドキしてしまうはず。


オフィーリア
《オフィーリア》 1851-52年

こちらはいわずとしれた代表作。
オレ、これ生でみたことあったっけな?
鬱蒼としげる草木にかこまれた緑だらけのキモチワルイ絵で、
正直つまらない作品だとおもっていた。
今回じっくりとみてみると、オフィーリアのはっとするようなうつくしさに気づいた。
モデルのエリザベス・シダルは、真冬に浴槽のなかで長時間ポーズをとらされて
ひどい風邪をひいてしまったらしい。
おかげで傑作ができたのだから、
われわれはモデルの努力に感謝しなくてはならない。
でもこの作品もどこか病んでいる。
オフィーリアの頬はほんのりと赤らみ、瞳には光がのこっていて、
とてもではないが死体にはみえない。
そもそも手つきがおかしい。
男に抱かれるのをまっているようだ。
この土左衛門はみるものを屍体性愛へと誘惑している。


連隊
《連隊の子ども》 1854-55年

右手に包帯をまいた少女が軍服を毛布がわりにしてねむっている。
この女の子もかわいいのだが、寝床が教会の石棺なので不吉きわまりない。
「萌えてよいのか?」という罪悪感がオレをまどわせる。
だらしなく垂れさがった両足と、ずり落ちそうで落ちない軍服が
微妙な物理的均衡をたもっていて、全体の構図に緊張感がある。
少女のやすらかな寝顔がかえって死を連想させるすばらしい作品だ。


二十代なかばでこれほどの技量を身につけたミレーは、
画壇からの非難を実力で賞賛へとかえてしまった。
ロイヤル・アカデミーの総裁になるなど、安定した地位を獲得する。
一方で作風は年をかさねるにつれおとなしくなってゆく。
藝術家の創造性のピークは大体四十代におとずれるものなのだが、
ミレーの場合はわかくして枯れてしまったようだ。
画面から張りつめた感覚が消えうせて、倒錯した趣味も表にでてこなくなる。


ハート
《ハートは切り札:ウォルター・アームストロングの娘たち、
エリザベス、ダイアナ、メアリーの肖像》 1872年

しかし四十三歳のときのこの作品はよかった。
わかい三人がカードあそびに興じているのだが、
性的な含意をもつタイトルがうまい。
左の娘は手札をながめていて、
真ん中は右の娘をみているのではなく、よそ見をしているようだ。
表情にしまりがなく、ゲームに集中できていない。
濃い色の瞳をもった右の娘は、なぜかこちらにつよい眼差しをなげかける。
鼻筋のとおったかしこそうな顔だちで、カードをにぎる手には力が感じられ、
よそ見をしつつもゲームへの関心はうしなっていない。
手札をかたむけすぎて相手にみえそうになってはいるが、
まだみられてはいないようだ。
おそらく手前がわにすきな男がやってきたのではないだろうか。
わたしのハートをあなたにだけ見せてあげるわ。
「ハートは切り札」というわけで、三人娘が本当にあらそっているのは、
素敵な結婚相手をみつける恋のゲームなのだ。
のんびりしているほかの二人に抜け駆けする、
右の娘のずるがしこさに萌えてしまう。
規則違反がもたらす罪悪感は、
藝術作品をよりなやましいものにかえる最高の調味料だ。

theme : 絵画・美術
genre : 学問・文化・芸術

サルまねの裸 ― 宮下規久朗「刺青とヌードの美術史」

彫刻

刺青とヌードの美術史 江戸から近代へ
(宮下規久朗 著/2008年/日本放送出版協会)

この本をよんでいたら、おさないころのトラウマがよみがえった
小学生のころのある日、おれは所属していたサッカークラブの試合のためにバスにのっていた
なにげなく窓からJR稲毛駅前のヌード彫刻をながめていたら、ともだちに「エロい」とかなんとかからかわれた
そうとう憤慨したが、口べたなおれはなにもいいかえさずにその侮辱にたえたと記憶する
いまおもえばこう反論すべきだった
「彫刻は芸術作品であり、それが女性の裸体だったとしても、みることになんら倫理的問題はない
むしろ芸術を理解しないおまえの俗物根性のほうが非難されるべきだ」
しかし、芸術と倫理の相克についての議論をしなかったのは正解だったといえる
小学生のおれに芸術論を展開する能力がないというだけでなく、無教養な友人の発言にも一理あると当時からおもっていた
「ヌードは芸術である」…もしその前提がまちがっているとしたら?
ときに子どもの直感が本質をつくこともあるのだ

この難問にたいする宮下の主張はシンプルだ
もともと日本人にとって裸体をさらすことは日常の一部であって、「ヌード」を特別なものとしてながめる習慣じたいがなかった
浴場での男女混浴があたりまえのような社会では、異性のからだをじろじろとみて性的に興奮するという趣味は成立しない
職人たちは半裸で仕事に精をだし、母親は人目をはばからずに赤ん坊に乳をあたえた
外国人からは特異にみられるこの裸の文化は、高温多湿な風土の影響がかんがえられる
しかし支那人や朝鮮人は人前で肌をさらすことをきらうし、インドネシアですら裸体の習俗はないらしい
ようするにこの島国にいきづく独自の文化であり、罪の意識をかんじるいわれはない
女性のエロティックなすがたがえがかれるときも、西洋のヌードのように八頭身のプロポーションの表現が追求されることはなく、肌のきめこまかさなどの「面」のうつくしさを重視した
江戸時代の春画でも西洋人がだいすきな女性の第二次性徴(乳房や陰毛)には関心がなく、衣服を身にまとっていたほうがエロティックにうけとめられた

そして混乱の時代がやってくる
鎖国をといた日本に、建てまえで裸を忌避し、陰でありがたがるヌード十字軍が侵攻してきたのだ
西洋人たちはみな、裸体をかくそうとしない野蛮な習俗を軽蔑し非難した
しかしその一方でかれらはあらそって浴場にでかけ、しげしげと女性の裸をながめた
まったくすくいようのない連中だ
男女混浴があたりまえのときはなんでもなかったことが、性的な興奮とともにみられることではじめて、「裸をみられてはずかしい」という反応がうまれる
そして外国の目を過剰に意識する政府が、往来で裸体になることを禁じる条例をだすにいたる
「裸をみるのはわるいこと」という正義感にとりつかれたお上は美術の世界にも手をのばし、ヌードの絵画や彫刻をきびしく検閲した
芸術分野を管轄する美術家たちにとって重大な干渉というべきだが、かれらはじぶんたちの都合しかかんがえなかった
黒田清輝らが「智感情」などの作品で、日本人の顔に西洋人の八頭身の体をつぎはぎした裸体画をかき、当時の社会通念に挑戦したことは有名だ
ヌードとは古代ギリシャ以来の伝統をうけつぐ世界普遍の美意識であり、崇高な芸術作品なのだから下等なポルノといっしょにしないでくれ
しかし黒田の念頭にあったフランス限定の芸術観は世界普遍とはいいがたいし、西洋の人体のことこまかな八頭身のカノンや、ややこしい象徴体系までそのまま日本の美術に移植できるわけがなかった
「ゲージュツはありがたいもの」というフランスがえりの美術家のゆがんだ美意識がひろまり、日本中の駅前に珍妙な少女のヌード彫刻が設置されることになる
ネクラーソフ少年を困惑させることになるとはしらずに

刺青とヌードの美術史―江戸から近代へ (NHKブックス 1109)刺青とヌードの美術史―江戸から近代へ (NHKブックス 1109)
(2008/04)
宮下 規久朗

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theme : 絵画・美術
genre : 学問・文化・芸術

書いているひと

ケン

Author:ケン
男。ファミコン世代。
千葉市出身、新宿区在住。

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nekrasov.aoe■gmail.com

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